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この人が亡くなったと告げられた時

2020年11月19日 16:06

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 12:52:45.20 ID:o0knkD4x
里村紹巴法橋は、自身について大げさに語ることの多い人で、悪しく言われることもあったが、さすが古人であり、
殊勝の心持ちを持たれていた。ある時、丸(松永貞徳)に語られた事には

「私はこの齢になっても、裸むしろを人にまかせず、貧しかった頃のことを忘れていない。故に
称名院殿(三条西公条)御忌日に御墓に参らぬことは無い。御恩を忘れぬ故である。」

私を初め今頃の者で、身が栄え年老いて、このように師の恩を重んじる事が有るだろうか。
この人が亡くなったと告げられた時、細川幽斎公はこれを聞かれて、深く惜しまれた。この時
「紹巴の歌学などそれほどのものでは無いと、世の中も申しているのに、どうしてそのように惜しまれるのですか」
と申し上げると、幽斎公は

「いや、これで称名院殿の事を言う人が、世に居なくなってしまった。」

と仰せになった。これは金言ではないだろうか。

戴恩記



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 17:23:32.21 ID:5WarbLfs
パワー系歌人
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里村紹巴法橋は、奈良の住人であった

2020年11月18日 18:15

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/18(水) 12:26:44.98 ID:xNkLK5+R
里村紹巴法橋は、奈良の住人であったが、ある時
「人は三十歳のうちに名を発せられなければ、立身はならぬものである、
つくづくと世の有様を見るに、連歌師はやすき道と見えて、職人町人も
貴人の御座に連なっている。
もしそれが出来なけれな、百万遍の長老の挙状を取って関東に下り、
大岩寺にて談義を説き習い、世を渡るべし。」

と、ただ連歌と仏門の両道に定め上洛し、昌叱(紹巴の娘婿)の父である里村昌休を頼み、
連歌稽古をしたが、度々退屈して、弊をうちかたげ関東に下ると言っていた。
しかし小川の連歌師共と様々に交流している間に、徐々に人に知られるようになり、
称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聴き、三好(長慶)殿の仰せにて、宗養(戦国期連歌界の第一人者)と
両吟を仕り、辛労の功つもって冥があったのか、その内に宗養も失せ、紹巴は天下の上手と呼ばれた。

彼は、古今は近衛殿より御相伝があった。称名院殿は、「彼は乞食の容である」として、
おゆるし無かった。称名院殿は惣別人を選んで道を伝えられた、

戴恩記

里村紹巴について



一つとして謗る所のない仁君であった

2020年11月17日 17:41

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/17(火) 16:35:15.06 ID:1LxEqmhq
細川藤孝公は、御家は細川殿にて尊くおわしけれども、凡下の者を卑しめること無く、
諸芸に達せられていたが、他を謗るということはなく、
禅法に心を尽くし、神道を極められ、空言をかまえた奇特・不思議を実とせず、物祝いをされず、
さりとて物を破ること無く、一つとして謗る所のない仁君であった。

戴恩記

松永貞徳から見た細川幽斎について



パワータイプだった細川幽斎

2020年11月16日 16:39

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/16(月) 12:04:11.15 ID:8B5u/Kgt
細川幽斎は御老後も力強かった。織田常真公(信雄)の所で御能があり、幽斎が訪問した所、
門番が彼を遮った。それでも通ろうとした所、門番は幽斎に向かって竹の枝を振り上げた。

しかし幽斎は、竹の枝とともにこの門番の手を握り、ひしいだ所、骨が砕け、門番はその後
湯治をすることになったという。

また和漢の歌詠があって、相国寺より月夜に、丸(松永貞徳)もお供して帰る道すがらに、牛車のある
小路をお通りになったが、

「若き時は車牛の引き置いてあるものに向かって、角を持って後ろに押しやって、力の程を試してみたものだ。
私は何度も押しやったものだよ。」
と物語された。

戴恩記

パワータイプだった細川幽斎



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 17:23:32.21 ID:5WarbLfs
パワー系歌人

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 19:22:14.67 ID:B4oguUv3
牛を投げる男

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 20:32:30.41 ID:4WBtVYgr
牛は投げる物

細川藤孝の干支

2020年11月15日 15:21

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/15(日) 12:30:38.84 ID:5UJIyJ5x
ある時、織田信長公が細川藤孝に「その方の干支は何年か?」とお尋ねになった。

「上様と同年であります。」
「さればうまの年か。」
「いかにも、うまの年ではありますが、出来れば変わりたいものです。」

そう申したため信長公は、「どうして変わりたいなどというのか。」と仰られると、藤孝は

「上様は金覆輪に鞍を置き、一方私は小荷駄馬であり、つねに背中に重荷が絶えません。」

そう申した所、万座の笑壺に入り、大笑いと成ったという。

戴恩記



「上総介か、入洛めでたし。」

2020年11月13日 18:34

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/13(金) 17:03:57.49 ID:btSWIwXi
九条玖山公(稙通)はまた、勇猛ある御人であった。
当時、鬼神のように世に恐れられた織田信長公には、何れの公家門跡も媚びへつらっていたのだが、
玖山公は立ちながら差し向かい

「上総介か、入洛めでたし。」

と宣って帰られた。これに信長公は機嫌悪しく
「九条殿は、我に礼を言わせに来られた。」
と、ご立腹なされた。

この事について、『例え一命を失っても公家の行跡を見た。御家に恥を残すまじき。』
と、褒め称える人々が有る一方で
『先ず時に従わない、不用の御事である』と、そしる者も有った。
また『智者は惑わず、勇者は怖れず』とあるが、この玖山公の行為こそその事であると、褒める輩もあったとか。

戴恩記



織田信長の、上京焼き討ち

2010年07月12日 00:00

824 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 18:44:32 ID:BAN3iI6/
上洛した織田信長が、茶器の名物を強制的に買い上げる「名物狩り」をしたことは有名である。
特に裕福な商人の住む新在家に住む上京では、豪商の池上如慶や江村氏、大文字屋、祐乗坊。
法王寺、佐野氏などが、天下の名物というべき茶器を強制的に提出させられた。
この事や、二条城建築の莫大な負担を課せられたことなどで、当然ながら上京の者達の
信長への感情は大いに悪化した。

これを知る信長は、足利義昭との対立のさい上京を義昭に協力する者として焼き討ちをすると宣言。
驚いた上京の町衆は、ルイス・フロイスの記録によれば銀1300枚を贈り許しを乞うたが、まるで聞き入れられず、
信長は京の周辺に住む『土民、百姓』に上京への攻撃を命じた。
元亀4年(1573)4月、焼き討ちを受けた上京は、このような有様であったという


『(略奪者たちは)剥ぎ取り、土蔵を打ち壊し、或いは討ち殺し、踏み殺し、或いは方々に放火したので、
上京は一軒も残らず焼失した。

焔は天に輝き、煙の上るその下からは、大小様々な泣き声、叫び声、わめき声が響き、
それは地獄と変わらない情景であった。』
戴恩記


信長が上京の破壊を停止させ、復興を命じたのは、それから3ヶ月後の7月であった。
応仁の乱や天文法華の乱の時ですら短期間で復興した上京も、
この時の被害からの復興はなかなか進まず、立ち直るのに数年を要したという。
ここからも、いかに甚大な被害を受けたのかがよくわかるであろう。

織田信長の、上京焼き討ちに関する記録である。




826 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 19:22:28 ID:QLJuCNhM
>>824

こんなんだから死んだときに「外道遂に滅ぶ、天にも心あり」なんてお公家様に書かれるんだヨ