FC2ブログ

あの壺は素晴らしいものなのだ

2016年03月12日 14:16

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/12(土) 12:39:50.67 ID:Hphtd2wu
戸田三郎(勝隆、秀吉家臣)と戸田半左衛門(勝成、丹羽長秀家臣)が、
それぞれの主人の使いで岐阜城下で一緒になった。
用事を果たした二人が、帰り道に美濃の大百姓の家で茶を馳走になった時に
その家にあった古びた壺に目をとめた。
「これは素晴らしい逸品だ。持ち主は壺の価値がさほどわかっていない
ようなので、持ち金があれば買い取っていくのだが」と
半左衛門は残念がった。
そして、二人はそこで別れて帰途についた。
三郎も茶を親しむ者ではあるが、その壺の価値は判らなかった。
風流にかけては優れている弟が言うことなので、あの壺は素晴らしいもの
なのだろうと思い、近くにあった知人の家で金を借りると、引き返して
壺を安く買い取ることに成功した。
その壺を持ち帰ったところ、羽柴殿はそれを見て「素晴らしいものを
持っておるな。さすがは三郎じゃ」と大いに褒められたので、大いに
面目を施したということである。(近江東西記)

「兄貴!あれはいいものだぁぁ」なマクベ戸田兄弟な話。




スポンサーサイト



戸田勝成「恐らく左近は、」

2015年01月07日 18:52

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 22:38:53.29 ID:Co/gnY+p
備前宰相殿(宇喜多秀家)等は、惟新公の夜襲すべしという意見に賛成なさったが
治部殿とその寵臣・嶋左近(島清興)はこれに反対した。
特に左近の、主人の威を借りての人無げな無礼な物言いには、中務殿(島津豊久)も
大いに怒られたが、惟新公はこれを目で押しとどめてもはや何もおっしゃらず、不快の
念を隠そうとはしなかった。
宇喜多家中の明石掃部(明石全登)が、皆をなだめて軍議は早々に打ち切られた。
陣を立ち去る時、武蔵殿(戸田勝成/重政)が惟新公に「残念なことよ」と声をかけられ、
因幡殿(平塚為広)も同調して、惟新公は心慰められる想いをなされた。
中務殿はまだ憤懣冷めやらず、「嶋左近ごときに何が分かろうか」とおっしゃられると、
武蔵殿は「治部殿は戦の駆け引きに疎く、左近はしょせん大和でわずかばかりの
侍働きをして虚名を馳せただけで、その後は治部殿に仕えていたため、大戦(おおいくさ)
の経験がない。先の戦い(杭瀬川の戦い?)程度の小競り合いならともかく、此度の
ような戦で、あの二人が全軍の指揮を執るのでは、なかなか内府殿のような古強者には
勝てまい」と嘆かれた。
因幡殿が「治部は、左近に我が軍の采配を任せるのでしょうか」と問うと、武蔵殿は
「恐らく左近は、治部殿の家中をまとめるだけで精いっぱいであろう。端武者のごとく
前に出て、早々に怪我をすることになるのではないか。軍配を執ることはあるまい」
と答えられた。
武蔵殿は小身ながら知恵者と呼ばれた人であり、その言葉通り、嶋左近は治部殿の
先鋒を務めて侍大将としては活躍したものの、銃で撃たれて陣内に担ぎ込まれ、
西軍の大敗を見ることなく亡くなったということである。(兵忠記 「慶長合戦のこと」)



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 23:56:54.18 ID:Nenzv4jh
戸田さんは色んなところで褒められてるな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい

信州高遠城一番乗りの事

2011年11月13日 22:03

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 00:00:11.73 ID:HjUSMkFc
天正10年(1582)3月、信州高遠城の戦いにおいて一番に城門に駆け入ったのは、戸田半右衛門という侍だった。

ところが母衣も指物も背負ったままの半右衛門、門構えに引っ掛かって尻餅をついてしまい、その間に
織田信忠の小姓・山口小弁と佐々清蔵が半右衛門を乗り越えて門に入り、一番乗りの功を奪ってしまった。

戦後、小弁と清蔵は信長みずからの手により賞を与えられたが、まず信長は小弁に国久の太刀を取らせ、
「汝は若い身で、壮士に先立って門を奪い、功を表した。天晴れなり!」
と褒め称え、続いて清蔵に長光の脇差を与え、「汝の武功、まさに成政の甥ならではよ。」と褒めた。

人々は、表では二人の若者の武勇を称え、裏では
「伏見の庶民上がりの小弁には太刀を取らせ、個人の功を褒める。織田家中の名門出身の清蔵には、
脇差を与えつつ、一族でも名高き叔父を引き合いにして褒める。信長様の人使いの巧みさよ。」と噂した。

将来を期待された二人だったが、本能寺の変において信忠に従い二条城にいる所を、明智光秀の兵に囲まれた。
城外にひしめく明智勢を見据えて、清蔵は小弁に呼びかけた。

「武士が何の備えも無く死ぬのは、屍をさらすに重ねての恥となろう。何とかして具足を調達できぬか。」
「よし!ならば、あやつらの具足を奪ってやろう。」

並んで討って出た二人は即座に押し寄せる敵兵を斬り伏せ、その具足を剥いで着込むと再び敵中に駆け入り、
主君と運命を共にした。二人はともに16歳、華と散った若者たちを、多くの人が惜しんだ。(常山紀談より)


さて、大功を逃した半右衛門だが、彼自身は意外にも涼しい顔をしており、その不運を慰める人々に
「わし程度の武功では、母衣だの指物だのが引っ掛かるなど考えもせん。敵に攻めかかる時は、余計な事は
考えぬものだよ。格別優れた武辺者は別だがね。」と言っていた。

その後も無我夢中で戦場の真っ先を駆け続けた半右衛門は、のちに戸田武蔵守勝成と名乗った。
大武辺者として知られるようになった勝成は、『謀才俊雄の英士』とまで呼ばれ、関が原の戦いでは家康をして
「戸田武蔵を討った者には、特に感状を出す」と賞金をかけられ、その死は東軍諸将をも悲しませた。


関連
共に16歳、織田信忠小姓。二人の少年のこと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6772.html


517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 00:45:38.68 ID:FQTJOFlE
高遠城って聞いただけで悪い話では?って思ったのは内緒

利家夜話より、秀吉公の次の天下

2010年10月18日 00:01

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 11:57:05 ID:dOgAmx+B
いい話スレなのに評価の低い話が出ている前田さんの評価のいい話投下してみる。
まとめの方で既出(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3872.html)なのだがもう少し詳しい話です。

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 12:25:04 ID:dOgAmx+B
[利家夜話]より

ある時蒲生氏郷は、前田利長細川忠興・上田主水正・戸田武蔵守らを招き
雁鍋を振る舞った。
鍋を囲み談笑していたが話が進むうちに「秀吉公の次の天下は誰のものか?」という話題になった。

即座に氏郷が「それならその男の親父殿だろうよ」と利長を指さした。
「皆は合点が行かぬようだが、今上で加賀大納言殿の他にどれほどの人物がいようか。北陸三州を治め、
京までの道筋を阻むものはない。
西国の毛利輝元が上洛を試みようとも、備前に宇喜多秀家が控えているし、関東の徳川家康が
上洛しようとすれば、この飛騨が会津におる。即座に食らいついて、箱根を超えさせぬ」
と言った。
次に主水正が、息子利長がそこにいるにもかかわらず
「では、利家様が亡くなられた時には誰が天下を取るか」と問うと、氏郷は間をいれず
「その時は、この氏郷が取り申そう」と答えた。




752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 12:31:25 ID:sxb9exRZ
レオンさん、家康さんと政宗さんどうするつもりだったんだろ・・・

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 12:56:36 ID:dYWb7bSP
>息子利長がそこにいるにもかかわらず
わかってはいるものの思わず噴いてしまったw

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 13:58:15 ID:O4v0a1PA
>>751
上洛すれば天下が取れるかのような物言いにひっかかるな
蒲生にとっての「天下=畿内を制圧」くらいの認識だったのかな。

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 14:04:54 ID:X+mL+MdS
>>752
「家康や政宗ごとき物の数ではない」といったところじゃないの?

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 14:25:59 ID:W9J6r3vl
同じ地理条件で、家康の関ケ原への転進を見過ごした上杉の立場は

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 16:15:37 ID:ICqXT9yD
>>754
同じく左遷された黒田さんは「九州を平らげて威勢を増してから上洛しよう」と動き始めた
ラスボスに警戒された者同士でも、視野の広さと情報収集能力に差があるなー
前線指揮官と参謀の差なのか、蒲生は機内にこだわりがあったのか

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 19:20:02 ID:JPyH3Dws
三成は秀吉の死ぬ直前に九州の転封の話があったけど
都でなにかあったとき間に合わない、と断ったよね

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 20:51:13 ID:VoorcZUI
>>760

「九州の惣主にしてやる」だっけか。
断った三成が関ヶ原の合戦直前に軍資金が足りず
「あの話を受けていれば」
と嘆息するという話につながる。

このあたりが本当だとすると、死の直前の秀吉の構想は日本各地に
それぞれをまとめる総括者を決めて、
その上に秀頼がいるという統治形態だったのかと思う。
765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/17(日) 21:03:48 ID:wjZU/OJl
>>754
このころの「天下」の概念は室町以来の、「畿内近国」をさしたものだと考えたほうがいい。