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遺物は武具と書籍のみ

2017年05月22日 17:59

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 05:54:36.32 ID:Pj7Ed7SX
直江兼続の最愛の一子・平八景明が、本多正信の媒酌で近江国膳所城主・戸田氏鉄
<今の戸田伯爵家>の娘と江戸で婚儀を挙げる時、

戸田家より朱塗の膳椀に金蒔絵の道具が着いたので、直江家の役人たちが、「これに
相応する道具を準備するべきでしょうか?」と、兼続に尋ねたところ、

兼続は、「それはもってのほかである。もし、対等の膳椀でなければ婚礼させられぬと
あらば早速破約する。武士の魂である刀や槍に錆がなければ、何の恥ずべきところが
あろうか。朱塗の膳椀が何だというのか」と、言ったという。(『我郷の先哲』)

兼続はこの如く倹約であったが、社会に有益な事業には多額の私財を投じて惜しまな
かった。慶長11年には文選60巻を刊行して文化に貢献し、その他にも論語などをも
出版したとのことである。

また元和4年には禅林寺<後の法泉寺>を建立して、学僧・九山を招き開祖となしたが、
これは寺子屋式に子弟を教育し、また藩学の興隆を図ったのである。

この如くして、上杉家の大元老の遺物は武具と書籍のみであったといわれている。

――『直江兼続伝』



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:00:16.06 ID:rKmpoToj
こういうの見ても直江兼続に対するバショクや趙括的なイメージが拭いきれないんだよね

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:12:03.24 ID:qz+Ugzga
大河や漫画やらでそんなイメージはないなw
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今の戸田殿の先祖の事である。

2015年11月29日 17:09

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 23:08:32.19 ID:d+tbKNRi
 小田原の陣で山中の城を落とそうとしていた時、中村家の臣渡辺勘兵衛と申す者、
城へ一番乗りをしようと決めていたが、東照宮のご家臣戸田左門が一番乗りをしてしまった。

 終わった後に、左門は勘兵衛と話しかけた。

「賭けとなってしまったことは残念に思います。
もっとも貴殿の働きは殿下の軍奉行、黄母衣衆に見届けられていましたよ。」

という趣旨の会話を東照宮の御座の隣でしていたので、家康の耳に入ってしまい左門は御前へ召出されてしまった。

「只今お前が申したことを逐一聞き届けた。もっともではあるが、聟の氏直の持ち城を、我等が手勢で攻め落とたところで、
たいして手柄にもなることはない。お前が骨を折った事は、我等にさえ聞き届けたら済むことで、今後山中の城攻めの事では、
とにかく力を入れるべきではない。」

との旨を仰られた。

程なくして、国替えの時に、戸田左門に五千石の加増が有ったという。今の戸田殿の先祖の事である。
(本阿弥行状記)



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 00:35:47.05 ID:rjToysbX
だれか解説してくれ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 08:00:19.40 ID:U5u6YrIq
婿攻めに力を入れる非道な家康という汚名を着せるんじゃねーよ

水野勝成「ちょっと待ってくれ戸田殿」

2015年11月01日 13:14

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 20:04:57.97 ID:4yIZAUwm
寛永16年、島原の乱で幕府軍が一揆を攻めあぐねる中、幕府より松平伊豆守信綱が派遣された。
将軍徳川家光は、信綱を派遣するに当たりこう仰せ下した

「(水野)日向守勝成は名にし負う古兵である。彼ら父子が参陣するまでは、ただ遠巻きにせよ。
合戦をして兵を討たせてはならない。」

信綱は現地に到着すると、軍を留めて勝成の到着を待った。勝成はわざと日数をかけ、2月22日に
到着した。

同24日、幕府軍の諸将は信綱の陣に集まり軍評定を開いた。ここで戸田氏鉄進み出て、
「我らは将軍家から、相構えて兵を討たすな、謀を巡らせて城を攻め落とせとの仰せを承った。
である以上、このまま遠攻めにして城中の兵糧の尽きるのを待つべきだと考えます。」
これを聞いて信綱は勝成の方に向き、尋ねた「日向守殿のお考えを承りたい」

勝成
「今は天下一統の世となって、一揆の奴原に力を合わせようという者は一人もいない。
何の恐れることがあるだろうか?ただ面をも出させず、干し殺してやるに若くべからず。
大御所も昔高天神の城を、そのように攻められたものだ。
殊にこの原城は古よりの名高き城であると、この勝成が若いころ、鎮西に流浪した時に承っている。
あたら武士の命を、土民百姓たちのために失うというのは謀ではない!」

戸田氏鉄我が意を得たりとばかりに
「尤もです!敵の兵糧が尽きるのを待つべきです!」

ところが勝成、これを聞くやいなや
「ちょっと待ってくれ戸田殿、私が言っているのは、今日まで遠攻めして味方を討たせないようにしたのが
良い謀だ、ということだ。」

「は?」

「城の奴原は一揆が勃興してから、100日も立て籠もっている。ならば今はもう兵糧も矢弾も尽き果てて
いるだろう。であれば、この後一体何を待つというのか?

我らはただ平攻めに攻め破って、奴らを捨ててしまえ!」

こうして幕府軍は総攻めを行うことに決定したのである。

(藩翰譜)