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勝ちを千里の外に決す

2019年05月16日 16:44

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:47:31.40 ID:JyrqVqki
その後、信長公は24歳で是非義元(今川義元)を討たんと心掛け給えども、ここに妨げる男あり。
戸部新左衛門(政直)といって笠寺の辺りを知行する者なり。

能書才学が形式通りの侍で、主君を無二と思って義元に属し、尾張を義元の国にせんと二六時中謀る
ことによって、些細であっても尾張のことを駿河へ書き送った。

これにより信長は心安き寵愛の右筆に、かの新左衛門の消息(手紙)を多く集めて1年余り習わせな
さると、新左衛門の手跡と違わず。この時に右筆は義元に逆心の書状を思うままに書きしたためて、
「織田上総守殿へ。戸部新左衛門」と上書をし、頼もしき侍を商人として出立させ駿府へと遣された。

義元は運の末であったのか、これを事実であると御思いになり、かの新左衛門を御呼びになると「駿
府まで参るに及ばず」と、三河吉田で速やかに首を御刎ねになった。

その4年(永禄3年の誤り)にあたって庚申、しかも七庚申のある歳5月。信長27の御年で人数は
700ばかり。義元公は人数2万余りを引率して出給う(桶狭間の戦い)。

時に駿河勢が所々へ乱妨(乱取り)に散った隙をうかがい、味方の真似をして駿河勢に入り混じった。
義元は三河国の僧と路次の傍らの松原で酒盛をしていらっしゃるところへ、信長は切って掛かりつい
に義元の首を取り給う。この一戦の手柄によって日本においてその名を得給う。

これでさえも件の戸部新左衛門が存命であれば中々難儀であったろうが、信長公は智謀深く、陳平と
張良が項王の使者を謀ったのと異ならず。

信長公の消息の手立ては24歳の御時なり。評言すれば、『籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外
に決す(戦略の巧妙なこと。漢の高祖が張良の軍事的才能を評した言葉)』。

そのため、尾張の諸侍で義元を大敵と称し信長を軽んじた者どもは、翌日から清洲へ参候して信長を
主君と仰ぎ申したのである。

――『甲陽軍鑑』



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:54:39.69 ID:i428Al7X
ゆらり
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戸部の蛙

2018年05月05日 18:01

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 14:26:37.41 ID:f58LFITG
戸部新左衛門「なぜか人を斬りまくったとか、蛙だけは斬れなかったとか変な伝説が残ってしまった」
花房すけべえ「泳いでこないでいいです、ちゃんと米あげますから」


714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 18:08:17.69 ID:SD8FkVKO
>>703
の戸部新左衛門と蛙の話
https://i.imgur.com/fPPL0Pq.jpg
fPPL0Pq.jpg

戸部の蛙
愛知県名古屋市産の土製手捻りの蛙。
二、三〇種あって二匹組み合わせ物や、蛙の相撲などが優れている。
その昔、市外に戸部城のあったころ、凶暴な城主(注:戸部新左衛門政直)がいて、
隣接の山崎から入ってくる旅人などが、その行列を横切ると差別なく切り捨てたので、
それを揶揄して「山崎越えたら飛べ飛べ(戸部)」と、この辺一帯に多く棲息していた蛙にかけて洒落たのが由来という。
斎藤良輔「日本人形玩具辞典」より
https://i.imgur.com/HozJxBh.jpg
HozJxBh.jpg

このくだらない駄洒落も元ネタがあったのだ



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 11:38:59.92 ID:JYFcNoJe
>>714
作者の友達が戸部新左衛門の子孫で祖先の話を聞いてキャラにしたとか
良い話なのか悪い話なのか・・・