伊賀者、甲賀者由来

2014年08月03日 19:05

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/03(日) 15:00:02.63 ID:AfNl1bl9
伊賀の侍である拓殖三之丞清広は、天正9年(1581)三河の徳川家康の下に参り、
「配下の伊賀者共々、織田家を叛き御当家に属したい。願わくば御書を賜らん。」
と申し上げた。しかし家康は

「当家は織田家と親交が深い。そのため御書を与えるのは難しい。今までのよう織田に属して、
本領を守るべきであろう。しかしどうしても我々に従おうというのなら、我が領国に移住するように。」
と答えた。

その後、伊賀の者達は皆織田家の命に従わなかったため、織田右府(信長)は大いに怒り、尽く誅伐
したため、みな山林に逃げ隠れ時節を伺った。

このような時に、本能寺の変が起こった。

伊賀越えをして三河へと帰ろうとする家康の元に拓殖清広は、一族の傳兵衛甚八郎宗吉、山中覚兵衛、
米地半助、その他甲賀の美濃部管三郎茂濃、和田八郎定教、武藤大炊茂秀らを引き連れ参上した。
彼らは皆人質を出して伊賀の道を案内し、鹿伏兎越の険難を経て伊勢までお供をした。

この時、伊勢までお供した輩は、後々召し出されて直参と成り、鹿伏兎越までお供して、途中で帰国した
二百人ほどの者達は、服部半蔵正成に属させ、伊賀同心として諸隊に配置された。
またこの年の六月に尾張において召し出された者達は、専ら陣中の間諜を勤め、後に後閣(大奥)の
番衛を勤めた。今も後閣に附属する伊賀者の先祖はこれである。
また甲賀者も武島、美濃部、伴などという者達は直参と成り、それ以下は諸隊に配置されて、与力同心と
なった者もあった。
(徳川実紀)

徳川の、伊賀者、甲賀者の由来についての逸話である。




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