106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 22:27:47.54 ID:VzM8DUrR
義龍の子・龍興の代に至り、ついに信長のために当国を奪われる。この時に光親(揖斐光親)は
稲葉山で織田勢と戦い討死したと沙汰するも、その説は詳らかではない。しかればこれより揖斐
も織田家に降参し、相続いて揖斐に在住した。
さて揖斐落城のことを尋ねるに、その頃の池田郡本郷城主に国枝大和守正則という者あり。これ
は安藤一族の国枝大和守藤原守房の末孫である。数代本郷村の城主で、また本郷の内に良徳寺と
いう禅寺がある。当時は稲葉良通(一鉄)の父・臨仁定門が隠居していたので、正則と良通は折
節参詣した。
また揖斐光就も時々参詣したのだが、光就、良通、正則が良徳寺に参詣して碁会を催したところ、
光就と正則は碁の勝負のことで互いに口論に及んだ。良通はこれを仲裁して双方を宥め、ようや
く怒りを晴らしてその日の参詣は終わった。しかし光就の利はもっとも正しきものであった。良
通は正則の舅故に非を曲げて、無礼に扱った振る舞いであった。これによって、光就は甚だ憤り、
これより遺恨を差し挟む。
その後、天正6年寅(1578)8月18日のことであるが、正則は大野谷汲の観音へ参詣のた
め、わずかな主従で本郷を出て株瀬川を越え、道行の慰みに四方の景色を遊覧して赴いた。光就
はこの由を聞き大いに喜び、日頃の憤りを散ずべき時至れりと郎等を下知し、正則の来る道筋で
ある名礼の崎の広野に伏勢を隠し置いて、揖斐城の裏手へ出て待ち受けた。
そうとも知らずその日の巳の刻に至り、正則はわずかの士卒を引き連れやって来たのを、光就は
すは掛かれと呼ばわって大声を揚げ、「過ぎし頃の碁会の遺恨、良通の不道の扱い!その憤りを
晴らさんがため、早くよりここで待っていた!逃すまじ!」と呼ばわった。
正則大いに驚き、覚えのある事なれば、心を決して少しも恐れずに郎等を下知して切って掛かる。
揖斐勢も槍刀を打ち振り血戦したが、国枝勢もここを先途と戦った。折しも木陰より揖斐の伏勢
50余人がドッと叫んで突いて掛かれば、国枝も仰天してここまでなりと心を定め、太刀を持ち
自害しようと思った。そこへ揖斐の郎等・大西太郎兵衛が切り掛かり、ついに首を取ったりける。
正則すでに討たれければ、残る郎等は七転八倒の働きをしてことごとく討死した。(中略。国枝
方と揖斐方の戦死者を列挙)しかし光就は大いに喜び、兵士を下知して早々に城中へ引き入った。
本郷勢の13の輩の死骸を取り集め、名礼・結城村辺りの土中に埋めて13ヶ所に葬った。その
形は今も残って、谷汲道の傍らにある“十三塚”というのがこれである。
――『美濃国諸旧記』
続き
揖斐氏顛末
109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 03:18:02.59 ID:PNJemRL3
>>106
だから賭け麻雀はだめなんだ
110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 11:05:40.10 ID:ahKb3dTD
>>109
アハッ
義龍の子・龍興の代に至り、ついに信長のために当国を奪われる。この時に光親(揖斐光親)は
稲葉山で織田勢と戦い討死したと沙汰するも、その説は詳らかではない。しかればこれより揖斐
も織田家に降参し、相続いて揖斐に在住した。
さて揖斐落城のことを尋ねるに、その頃の池田郡本郷城主に国枝大和守正則という者あり。これ
は安藤一族の国枝大和守藤原守房の末孫である。数代本郷村の城主で、また本郷の内に良徳寺と
いう禅寺がある。当時は稲葉良通(一鉄)の父・臨仁定門が隠居していたので、正則と良通は折
節参詣した。
また揖斐光就も時々参詣したのだが、光就、良通、正則が良徳寺に参詣して碁会を催したところ、
光就と正則は碁の勝負のことで互いに口論に及んだ。良通はこれを仲裁して双方を宥め、ようや
く怒りを晴らしてその日の参詣は終わった。しかし光就の利はもっとも正しきものであった。良
通は正則の舅故に非を曲げて、無礼に扱った振る舞いであった。これによって、光就は甚だ憤り、
これより遺恨を差し挟む。
その後、天正6年寅(1578)8月18日のことであるが、正則は大野谷汲の観音へ参詣のた
め、わずかな主従で本郷を出て株瀬川を越え、道行の慰みに四方の景色を遊覧して赴いた。光就
はこの由を聞き大いに喜び、日頃の憤りを散ずべき時至れりと郎等を下知し、正則の来る道筋で
ある名礼の崎の広野に伏勢を隠し置いて、揖斐城の裏手へ出て待ち受けた。
そうとも知らずその日の巳の刻に至り、正則はわずかの士卒を引き連れやって来たのを、光就は
すは掛かれと呼ばわって大声を揚げ、「過ぎし頃の碁会の遺恨、良通の不道の扱い!その憤りを
晴らさんがため、早くよりここで待っていた!逃すまじ!」と呼ばわった。
正則大いに驚き、覚えのある事なれば、心を決して少しも恐れずに郎等を下知して切って掛かる。
揖斐勢も槍刀を打ち振り血戦したが、国枝勢もここを先途と戦った。折しも木陰より揖斐の伏勢
50余人がドッと叫んで突いて掛かれば、国枝も仰天してここまでなりと心を定め、太刀を持ち
自害しようと思った。そこへ揖斐の郎等・大西太郎兵衛が切り掛かり、ついに首を取ったりける。
正則すでに討たれければ、残る郎等は七転八倒の働きをしてことごとく討死した。(中略。国枝
方と揖斐方の戦死者を列挙)しかし光就は大いに喜び、兵士を下知して早々に城中へ引き入った。
本郷勢の13の輩の死骸を取り集め、名礼・結城村辺りの土中に埋めて13ヶ所に葬った。その
形は今も残って、谷汲道の傍らにある“十三塚”というのがこれである。
――『美濃国諸旧記』
続き
揖斐氏顛末
109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 03:18:02.59 ID:PNJemRL3
>>106
だから賭け麻雀はだめなんだ
110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 11:05:40.10 ID:ahKb3dTD
>>109
アハッ
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