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ドン・トマス滝野嘉兵衛の数奇な運命

2017年12月25日 16:28

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 10:05:27.94 ID:fy+bl4gg
ルシオ・デ・ソウザ「大航海時代の日本人奴隷」に書かれてた
支倉遣欧使節団のドン・トマス滝野嘉兵衛の数奇な運命

彼は山城国出身であるにも関わらずなぜか支倉使節に同行。
ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王との謁見の際には帯刀が許されていたが
スペイン史料には彼が「殉教者の息子」とあることから二十六聖人の縁者の可能性があり、特別視されていたと思われる。
1615年、支倉常長自身が(スペインの歓心を買うため?)フェリペ3世の宮廷で洗礼式を行いキリシタンとなった時には
ドン・トマスは剃髪し、フランシスコ修道会の修道士となった。
その後、ドン・トマスは支倉常長の帰国には同行せず、俗人に戻りディエゴ・ハラミーリョというスペイン人に仕えていたが、
奴隷のような待遇を受け、(日本人の奴隷化はスペイン王により禁じられていたにも関わらず)焼印まで押されてしまった。
そのため1622年、ドン・トマスは国王に対しインディアス枢機会議を通じて
「ドン・トマスは日本の大使とともに宮廷を訪問し、キリスト教に改宗した日本に武士であります。
陛下の父君にあたる当時の国王陛下(フェリペ3世)手ずから聖水を、陛下の姉君(仏妃アンヌ・ドートリッシュ)には聖油を授けられました。
ディエゴ・ハラミーリョなる者が、彼は奴隷ではないにも関わらず彼に仕えていることから焼印を押しました。
この不正行為に対し、厳正なる裁きを下していただくよう陛下にお願い致します。
どうか彼に自由を与え、日本への帰国許可を与えてください」
という嘆願が送られ、ドン・トマスに帰国許可がくだされた。
翌1623年のヌエバ・エスパーニャへ渡航する乗組員名簿には「ドン・トマス・フェリペ・ハポン」の名前が確認でき、
さらに彼はヌエバ・エスパーニャからフィリピンへの渡航許可を求めている。
ただ、1624年には江戸幕府はマニラとの通交を断っており、彼が日本までたどり着いた可能性は低い。


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1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

2017年04月07日 09:11

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 20:25:55.13 ID:7i7Ye65s
1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

『神の恩寵によりイスパニヤ、ナポリ、シシリヤ、エルサレム、東西インド、太平洋中の諸島及び大陸の王、
アウストリャの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミラン公爵、ハプスブルク、フランデル及び
チロル伯爵を兼ねたるドン・フェリペ(フェリペ3世)

支倉六右衛門、サン・フランシスコ洗足派のフラル、ルイス、ソテロとともに当宮廷に来たりしにより、
喜んでこれを引見し、貴国において、我等の主、イエス・キリストの神聖なる真の教えを善とし、これを
奉ぜんとする賀すべき考えであることを聞きて、特に喜び、また国王(政宗)がその国を平和に治め、
その幸福を増進せんと欲するがゆえに、双方にとって好き結果があることを認め、彼らに対して善き待遇を
与え、イスパニヤ滞在中、並びにローマの庁への旅行中、必要なるものを支給し、帰国の際、乗船を
与えることを命じた。

朕はこの旅行の結果として、キリスト教が弘布され、貴国の住民の霊魂が救われるに至るべきことを信じて、
大いに悦んでいる。

朕が宣教師、その他キリスト教徒を厚遇されることを切望する事は、親しく大使(支倉常長)に語り、
日本全国の君に書簡を以って伝えた、

神が奥州の王を護り、その正しき意図に大いなる成功を与え給わんことを祈る。

 1616年7月12日(元和2年5月29日) マドリッドに於いて。
                            朕国王(親署)』
(異国叢書)

スペイン国王来日記念に


支倉常長、スペイン国王宛書簡

2017年04月01日 13:23

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/01(土) 10:12:09.50 ID:+GLeDb+v
支倉常長、スペイン国王宛書簡

『昨年私の主君である奥州の王に宛てた、陛下の答書を与えられることを願いましたが、艦隊の出港までに
これに接することが出来なかった故に、随員は同艦隊にて帰国の途につきましたが、私はこれに乗り込むこと
出来ませんでした。

その後、去る5月到着の報知船によって、日本よりの報告および書簡を得ましたが、これに寄れば国王(政宗)は
キリスト教を保護し、その領内の会堂及びキリシタンを支持したるのみならず、諸人に対し恐れること無く
信仰を継続すべきことを諭し、その領内に逃れ来たりし者は皆、これを保護しました。
日本国中においてこれ程の事を成し得た王は、我が君及び、皇帝(徳川家康)が戦を行いたる国君(豊臣秀頼)の
他、一人もありません、

皇帝は偽神の助けにより、戦争に勝利を得ようと欲してキリスト教への迫害を成しましたが、その目的を
達すること能わざりき。よって我が君並びにかの君国はいよいよキリスト教を喜び、これを保護するに至りました。

我が君、並びに日本のキリシタン全体は、本使節が使命を全うして、宣教師、及び司教を伴い帰る日を
待ちて、その善き計画を実行せんとしています。これ故に、私は昨年乗船すること無く、既に決定している
通り、宣教師を派遣することを陛下が命じ、また司教については法王の定めたことを実行されることを
請願するのは、神の摂理による物であると信じます。

また日本の皇帝が、マニラその他の地方に放逐した宣教師等が、服装を変じて密かに、前に居た地に
帰っているという話が伝えられましたが、奥州は日本の極端ですから、特にその地に向けて派遣された者の他は
その地に到着することは出来ないでしょう。

陛下の希望は正統なるキリスト教の隆盛に他ならず、そして彼の国においては先に述べたように希望と意向とを
有するが故に、これを述べることは、我が君なる王ならびに彼の国その他キリシタンのため、私が為した
請願が入れられた事で、最も有効なる動機となるでしょう。
また私に対しては、速やかにこの旅行を終え、彼の地に帰りて陛下より受けた恩寵を語るという栄光を
得せしめられる事を信じます。

もし新イスパニア(メキシコ)と日本との通商が許されないのであれば、イスパニヤとの直接の通商の許可が
あらんことを請う。
またフィリピン諸島の長官には、我が君なる王と特別の親交通信を命ぜられることを請う。

我が君が、陛下のためいかなる事をも辞さない事は、前に陳述しましたが、再びこれを陳じます。
神が陛下を護り、多年の間栄せしめ給わることを祈る。

1617年4月24日
           セビーリャに於いて

 陛下の僕 ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ
       とん、ひりへえ、ふらいせすこ(日本語)
         支倉六右衛門長経(常長) (花押)』

(異国叢書)

秀頼のことを書いていますが、この日付だと2年前にすでに豊臣家は滅びていますね。
支倉はそのことを知らされていたのかどうなのか…。


政宗の、ちょっとうれしい(い)話♪

2013年06月20日 19:56

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 20:09:14.50 ID:QIISUzCw
朝日新聞より。

文部科学省は19日、歴史的に貴重な文書や絵画を対象としたユネスコの「世界記憶遺産」に、
いずれも国宝で、400年前に仙台藩主の伊達政宗がスペインなどに派遣した使節に関する「慶長遣欧使節関係資料」と、
平安時代の貴族・藤原道長の日記「御堂関白記」が登録されることになったと発表した。
国内からは、2011年の「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」に次ぐ登録となる。

政宗の、ちょっとうれしい(い)話♪





支倉遣欧使節団・スペインに残った武士についての、その後

2013年01月27日 18:56

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/26(土) 20:34:27.39 ID:J0oJwCr2
伊達政宗の派遣した、支倉常長の支倉遣欧使節団には、支倉と共に帰国せず、そのままヨーロッパに留まった者もあった。
その一人で、支倉とともにフェリペ3世の宮廷で受洗した武士、ドン・トーマス・フェリーペについて、1622年の記録が、
スペインに残っている

『私、ドン・トーマス・フェリーペは、日本の(支倉)使節と共にこの宮廷に来た日本の武士であり、キリスト教徒に成りました。
陛下(フェリペ4世)の、今は上の御元におられる御父陛下(フェリペ3世)は、その姉妹、極めてキリスト教的フランス王妃
と共に我が洗礼の代父母になって下されました。

サフラ在住のディエゴ・ハラミーリョは、私トーマスが彼に仕えていた時、私が奴隷身分でないにもかかわらず。
(奴隷の印である)焼印を私に押しました。これは、私トーマスが給与の支払を求めたためなのです。

この侮辱に大して正義が行われるよう、陛下に嘆願申し上げます。
また、日本への帰国の自由と許可をくださるよう、陛下にお願い申し上げます。
何故ならば神の恵みによって、私は自由人にしてキリスト教徒だからなのです。

以上の請願をお聞き届けいただけるのなら、喜びと感謝に絶えません』
(1622年 ドン・トーマス・フェリーペよりの請願書 A.I.G.,Indif.1452.))

これに、スペイン宮廷のインディアス枢機会議は、1622年9月26日の会議において、彼に帰国許可を与え、
翌1623年6月7日、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)艦隊によって、「ドン・トーマス・フェリーペ、日本人」を、
彼が来た地に向けて送り返した、と記録されている。
(A.I.G.,Contrat.5539,vol.Ⅱ,f.368r.)

スペインに残った武士についての、その後の記録である。




支倉使節団、マドリードの宿泊先

2013年01月20日 19:02

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 13:57:12.00 ID:VMIu7Y9O
伊達政宗によって派遣された、支倉常長をリーダーとした慶長遣欧使節団。
さて、この遣欧使節団がヨーロッパでどのように受け入れられたか、スペインの
記録を見てみよう

『マドリードの同村のフランシスコ会修道院とその院長は申し立てます。
日本使節が当宮廷に来た際、彼らのマドリード到着のわずか数日前に、インディアス枢機会議議長が
院長を呼びに人をよこしました。この日本使節を修道院に宿泊させるべし、とは陛下(フェリペ3世)の
賢明なる命令であると、議長は言われました。

その頃、宿坊と僧坊は大変窮屈な状態では有りましたが、陛下の御ためになることであるので、
使節と彼に従う30人の日本人を受け入れ、使節に心から、喜んで仕えました。

修道院は8ヶ月以上に渡り、階下と病室と、そして他の僧坊を彼らの宿泊に使用させました。
それらの部屋はすべて、本来、老齢で病の修道士をいたわり、養生させる所でした。
この間、多くの者がこの修道院を去りましたが、そのかなりを死亡者が占めます。
居室が不足していたため、老病の者たちを養生させるのに極めて不便だったためです。

この修道院のいたるところにあの蛮人(日本人)が居るので、我が国の者達が絶えず見物に来て、
その数は無数であり、彼らによって破損された箇所の修理もできない有様で、たいへん大きな混乱と
無秩序の原因となり、この修道院ではそれが常態にすらなりました。

ですが陛下の御ためになることであるので、彼らが宮廷を退くまで我々は、忍耐して全てを
耐え忍んできました。しかし彼らは、宿泊していたこれらの僧坊を荒らし、破損したままに
して行きました。それゆえ、それらを修理し、以前のように戻すためには、修道院の管理者は
非常に多くの金子を費やさねばならない程などです。』
(ヴィーリャ・イ・コルテ修道院による覚書)

さて、ここにある「宿泊していたこれらの僧坊を荒らし、破損したままにして行きました」とは
どういう事か?これも記録が残っている

『日本人が使節を奉ずるために宮廷に上がった日のことを証言する。
彼ら(日本人)は、宿泊所に当てられたフランシスコ会同修道院の僧坊に鍵を残していった。
そのため、留守中に一室が開けられ、刀や他のものが盗まれた。
盗まれたものの中には、寝台に敷いていた麻の敷き布三枚があった。
それは陛下が下賜されたものであったが、敷き布の持ち主に、代金が払われていなかったからである。
以上は真実であるので、私はここに、本日1615年4月、署名する。』
(フライ・イグナシオ・デ・ヘスースによる証言)

と、使節団が宮廷に上がっている間に略奪を受けた模様なのであるw
これによって修道院は大いに荒らされたのだ。

以上、支倉使節団を受け入れたスペインはマドリードの宿泊先での記録である。





233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 15:34:01.90 ID:B7czfvlc
>>224
スペインの民度が低過ぎってことしかわからない

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 15:53:55.86 ID:qC4l2zOU
>>224
これ使節団のせいじゃないよね
指定した宿泊先に泥棒が入るってフェリペ3世の威光が行き届いてないんじゃ

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 16:09:10.57 ID:++PBvWax
>>224
これはひどい
野次馬が建物をぶっ壊すわ接待した側が逆恨みするわ

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 17:52:33.11 ID:bH2vIChk
しかも謁見したフェリペ3世に跪いて手に接吻しようとしたら手引っ込められたとか…
後にクリスチャンに改宗したらやっと受け入れてもらえたり

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 19:54:49.40 ID:Up3jsjfM
んで、やっと日本に帰って来たら禁教令で厄介者扱いで。

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 22:40:50.22 ID:qC4l2zOU
しかも家臣がキリシタンだったせいで息子が処刑
可哀想なくらいツイてない