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佐橋甚五郎の事

2022年12月11日 14:09

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/11(日) 00:15:06.60 ID:KFaUSJuD
改正三河後風土記」から森鴎外の短編にもなった「佐橋甚五郎の事」
その頃(「いい話」で紹介した踊りが流行った頃)、松平信康君の近くで召し使っていたものに佐橋甚五郎というものがいた。
いかなる恨みによるものか同役の近臣を討ち果たし、岡崎を逐電して三河の山里に逃れた。
武田勝頼が遠州小山の援兵として十七歳の甘利二郎三郎(甘利信康の息子の甘利信恒だとすると「三郎次郎」)に三百騎を率いさせて遣わした。
甚五郎はこれを聞き「甘利を討ち果たせば帰参もかなうだろう」と思い、つてを頼って甘利に仕えた。
甚五郎は怜悧で笛も上手であったため、甘利は寵愛し、笛を聴きながら甚五郎の膝枕で眠った。
甚五郎は好機だと思い甘利の首を取って浜松に帰参した。
こうして所領を得て御家人になったものの
信康からは「以前同役を討って逐電したものだ」と憎まれ、
神君(家康)も「甘利の寵愛を受けながら寝込みを襲うとは不仁極まりない」とお褒めの言葉もなかった。
こうして甚五郎は心中穏やかではなかったため、再び逐電。
朝鮮に渡り、慶長の末に朝鮮の使節に混じって帰国した。
しかし神君に甚五郎だと見咎められ、一族との文通も禁じられたため朝鮮に帰されたそうだ。

なお「三河後風土記」巻十六「佐橋甚五郎無道之事」では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
佐橋甚五郎処分
この話と同様、水野勝成の部下として戦功を立てたが阿部正勝に討たれている
(「三河後風土記」では阿部正勝が真向かいから言葉をかけて放し討ちにしたため、甚五郎も刀を抜き打ち合ったが、
両手を落とされたあとに首を切られた、とまとめの話とは微妙に展開が異なる)



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比叡山焼き討ちについて

2020年11月22日 15:35

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 15:15:05.29 ID:AyJDst3j
9月朔日より3日に至り、信長は志村・小川・金ヶ森三城を攻落し、猛威に乗じて12日には大軍を勢揃いして
比叡山にぞ向かいける。これは延暦寺の衆徒が朝倉・浅井に一味して信長を討ち滅ぼさんと謀り、朝倉・浅井の
方へ軍糧まで運んだが故に、信長の憤りは大方ならず、急に攻め立てたられたのである。

山門の大衆は昔より猛威を張って、王命をも武威をも物の数とせざる習いであったため、法衣の上に甲冑を着し、
念珠を離すまじき手には太刀・長刀を引っさげて、坂下に下り立ち散々に切り立てれば、織田勢はこれに追い崩
され坂より下に追い落された。されども寄手は大勢なので新手を入れ替えて、踏み越え踏み越え攻め戦う。

その間に信長は忍の兵を山上に紛れ入らせ、堂社仏閣僧坊ことごとくに火を放たせた。折しも魔風吹き散り峰々
谷々院々坊々を黒煙が覆い火炎一円に蔓延れば、山法師どもは心は弥猛にはやれども、後ろからは猛火に責めら
れ、前からは敵に囲まれて逃げ出る道はなし。寄手の大軍は時を得て切り伏せ薙ぎ伏せ、たまたま逃れた者は縲
絏の恥を受け、法師児童おしなべて助かる者は稀だったのである。

今年今日はいかなる日であろうか。元亀2年(1571)9月12日、その昔、桓武天皇が伝教大師と御心を合
わせて草創し給いし王城鎮護の零場、根本中堂、文珠楼、日吉山王二十一社、およそ山上の三塔院々、経蔵、仏
宇、神社、一宇も残らず焦土となる。浅ましかりける事どもなり。

この時、金剛相模という悪僧は強弓の手練れであったが、如意ヶ嶽から2度まで信長を狙い射た。されども当た
らず。信長は山門を焼滅し、山麓に新城を構造して明智十兵衛光秀に守らせ、信長は岐阜へ帰陣せられける。

――『改正三河後風土記(武徳編年集成・織田真記)』


この時、信長公は東坂本の大鳥居をまっすぐに攻め上らせ給うと、山門の中衆、金剛相模という法師は無双の大
力強弓で、如意嵩から狙いすまして大きな矢をひょうと放つ。その矢は信長公の召されたる御馬の太腹に当たり、
馬はただ一矢に倒れてそのまま死に入った。

信長公はそれから大鳥居の石の上に腰掛けて居直り給い、諸方の焼けるのを御覧になっているところを、相模は
また二の矢を放った。その矢は信長公の腰掛けなさる石に当たり、たちまち砕けた。それより近習の軍兵どもは
鶴瓶打ちに鉄砲を揃え如意嵩へ撃ちかければ、相模はそれよりその場を落ち失せて行方知れずになったのである。

流石の精兵強弓なれども信長公の御運強く、2つの矢を射損じた。その矢の根は1尺2寸。後には京都大仏伝の
宝蔵に伝わり、籠め置かれた。信長公の腰掛石も坂本の大鳥居に近頃まで残った。

――『織田軍記(総見記)』