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足立河内守の沙汰

2022年06月15日 19:38

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/15(水) 19:22:14.33 ID:5g8e6ETv
「救民記」より足立河内守の沙汰

救民(朽網)の家臣、足立河内守という者は初めは馬医を業としていたが、猛武勇力があり、身長六尺余、眼中も常人と違った。
(別本によれば「眼のうちにニクミあり」とあるので重瞳か)
そこで若侍といえど剣術を教え、朽網鎮則公より、冬田一反を与えられていた。
鎮則公が筑後御陣から凱旋された時、河内守はお迎えに出たが、身分に過ぎた出立ちで、徒士の者十二人、若い女十二人、美色を揃えて鎮則公を甚だ豊美に饗応した。
鎮則公も不審に思い検分したところ、領地を甚だしく横領していたため、誅殺すべきと決まった。
そこで中須の館で馬の治療をせよ、と河内守を呼び出し、甲斐右馬助と岩屋勘解由左衛門に殺させた。
河内守の妻子は驚き、仇敵の国にはいられないと肥後国阿蘇山の麓に居住した。
ただ朽網没落の後は故郷を忘れがたかったのか帰って住居していた。
右馬助は剃髪して一朴と称して居住していたが、
「足立河内守の息子の源助も今は故郷に帰っているようだが、我を見れば心得違いにも親の仇と思うだろう。」
といっそ自分から源助の家を訪ね、いきさつを丁寧に話し
「上意と言いながら、そなたの父の首を討ったのは我であるので、快く我を殺して亡父に報いよ」
と言ったところ、
源助は「元来、我が父に罪があって主君により誅殺されたのに、どうしてそこもとに仇を報ずる理がありましょうや」と言った。
こうして一朴・源助両人は相親しみ、交際するようになった。

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/15(水) 19:23:16.94 ID:5g8e6ETv
源助は農民とはいえいまだ武を嗜んでいたが、本田民部少輔が肥後国に転封された時、その従士、三人が源助の家の近くを通った。
源助は田に行っていたため家には源助の妻しかいなかったが、従士たちは家に立ち入り、「食い物を出して食わせよ」と言ってきた。
源助の妻が「貧しい家ですので出せるものもありません」と答えたところ、従士は刀に手をかけて「早く出せ!」と怒った。
そこへ源助が帰ってきたので
従士たちが「その方は亭主か、見れば大弓が架けられているが物好きなことよ。見せてみよ」
と言うと、従士たちの傲慢不遜ぶりを見た源助は
「では見せて差し上げましょう」と大弓を手に取り、一雁股の矢をつがい、ひと引きした。
それを見た三人の従士たちは驚いて逃げ、坂を下ろうとした。
そこで坂の上の柳の大枝を三人の上に射落としたところ、三人は「御免御免」と言いながらかたまりになって逃げたと言う。



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「蛇断(へびきり)の太刀」

2022年06月04日 14:20

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 21:16:19.80 ID:IglZJe0y
救民記」から「蛇断(へびきり)の太刀」

弘治(1555-1558)の頃、朽網に竹王という人がいた。
六月ごろ、田の畦切りをしていたところ、誤ってマムシの頭を切り落としてしまった。
その首はどこに行ったか知れなかった。
翌年、竹王はそのあたりを通りかかったが、前年のことは忘れてしまっていた。
なぜかひどく眠気を催して耐えられなくなったため、草に臥して仮眠をとっていると、何かが枕の方でざわめいた気がしたので、目覚めてそちらをみた。
すると、去年切り落とした蛇の頭が、腰に差していた九寸五分の小脇差により貫かれていた。
小脇差は自ら鞘から抜け出したのであった。
竹王はこれをみて大いに喜び、思えば蛇の頭を切り落とした月日も全く同じだと不思議に思い、
蛇の首を貫いたままの状態で、朽網殿にその小脇差をご覧に入れた。
宗暦公(朽網鑑康)は奇瑞であるということで、蛇切と名づけ、つねにこれを佩刀した。
来国統(来国宗?)の銘があり、のちには竹下紀伊守に預け置かれたそうである。

大久保蔵人のこと

2022年06月03日 18:26

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/02(木) 23:19:58.24 ID:NuOKPlYc
豊後国の朽網(くたみ)の歴史を描いた「救民記」から大久保蔵人のこと

大久保蔵人は、朽網家に数代仕え、忠勤に励み戦功も多かった。
あの頭に角を生やした馬鬼を殺した時の長刀は、蔵人の死後に山原八幡宮に奉納したそうだ。
(馬鬼の話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」
参照)
ある年に大友宗麟公は耶蘇の会主の僧を朽網に派遣しようとした。
朽網鎮則は大久保蔵人に命じて梨原で耶蘇僧を追い返した。
このとき宗麟公からはとくに咎めはなかったそうだ。
蔵人は鎮則に従って筑前・筑後の戦でも数度軍功を現した。
朽網氏が(豊薩合戦で島津に降伏し、その後の豊臣による九州平定の際に大友義統から討伐され)没落した後、
大友義統公も朝鮮の陣では、忠臣たちが新参の者どもの讒言により罪を得、戦で敗北することが多かったため、毛利輝元へ預かりとなってしまった。
関東大坂動乱(関ヶ原の合戦)のとき、大友義統公は毛利方として速見郡立石で黒田軍と合戦に及んだ。
大久保蔵人も駆けつけて義統公に拝謁し、軍奉行を命じられ、黒田如水と戦ったが鉄砲に撃たれて死んだ。