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小早川隆景、吉川元長の上洛

2022年09月11日 16:51

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/10(土) 20:53:11.98 ID:Ggs1f0hu
天正十三年十一月十九日、小早川左衛門佐(隆景)、吉川治部少輔(元長)が堺に到着し、二十日に
御門跡(顕如)より刑部卿を御使として、馬一疋が遣わさた。これは秀吉より参った然るべき馬であった。
新門様(教如)よりも御馬一疋が遣わされた。

二十一日、小早川、吉川の両人は大阪に行かれ秀吉に御礼し、毛利右馬頭(輝元)より銀千枚、
小早川より五百枚、吉川は三百枚を進上した。
二十四日には御能があり、金剛又兵衛大夫が能三番をり、芸州衆をもてなしめた。

二十五日、両川は御暇を給わり帰国。二十五日、当門様(顕如)へ返礼の使者があった。
小早川より一腰と五千疋、吉川より一腰と虎豹の皮三枚、馬代銀二枚であった。
吉川よりは同苗字の又五郎という人が来て、小早川隆景が早くも今朝兵庫まで下ったと言った。
夕方には中村孫平治が御礼に参った。

宇野主水記

小早川隆景吉川元長の上洛について




358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/10(土) 22:08:17.57 ID:3lvuD7ir
宇野主水は顕如の秘書役(右筆)、その日記のうち現存するものがこれです。
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下間頼広の出奔と栄転

2017年09月04日 18:23

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/04(月) 16:28:42.46 ID:FQvaBL80
下間頼広の出奔と栄転


下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。

その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。

ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。

しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。

一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。


――『播磨新宮町史』など



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 00:41:44.16 ID:gmaXA5XC
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ

「教如上人御清水潤いの水」

2012年06月22日 21:01

教如   
19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 18:11:18.08 ID:VAIjFSU7
今の岐阜県揖斐川町春日六合には、
教如上人御清水潤いの水」と呼ばれる湧水が存在する。
この湧水は今から四百十二年前、教如上人が美濃で石田三成配下の兵に
追われていた時分に利用したことで知られている。
またこの際、狭い道を歩くため草鞋を脱いだ教如が石に足を突くとあら不思議、
何と石に足跡がくっきり残ったという。
そしてその石は御足跡石と呼ばれ下ヶ流遍光寺に現存している。

教如上人はこの一度の逃避行で
・辞世の句を記した鏡版
・「教如岩」と呼ばれる洞窟
・ゆかりの湧水
・足跡の残った岩
といったように、数々の「足跡」を現在に遺している。
逃げる東照大権現様にはさすがに及ばないものの、付近の民が
彼をそれだけ崇拝し縁を持ちたがった証拠といえるかもしれない。




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 18:45:56.88 ID:SnkS2fIP
東のカリスマ権現さま 西のカリスマ教如はん

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 20:17:51.21 ID:3mwhdrwn
「下のモン煽って一揆起こしたろけ?」て言いに行っただけで事蹟残っちゃうってなんだかなぁ

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/20(水) 20:53:25.09 ID:Wh2E6vYr
それを言えるだけの影響力がある人が実際に行くのは大変だろうからねえ

教如、虎口を脱す

2012年06月17日 21:06

教如   
923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:18:21.88 ID:MD1w7Emq
>>842の続き話。
関ヶ原合戦の直前江戸で家康に謁見し後の復権に大きく近づいた
教如上人であったが、その帰路に待ち構えていたのは人生最大級の受難であった。

家康に尾張まで送ってもらうまでは良かった教如一行だが、その先の美濃は
まだ完全に西軍の支配下にある。
散々慰留しようとした教如に逃げられた挙句内部情報を家康に
漏らされてしまった石田三成は、はっきり言ってキレていた。
(西軍が実は内通者の宝庫であり自身の手紙ですら東軍に流出しまくりだとは
夢にも思っていない)三成の怒り様は相当なものだったようで、
教如の帰還を知るや否や兵を送り、なんとまあ教如を殺しにかかったのだ。

墨俣の渡し場で石田勢と遭遇した教如一行はたまらず近くにあった光顕寺に
避難し、上人は本堂の須弥壇(しゅみだん)の下に潜り込んで隠れてかろうじて
追手の目を晦ました。
教如はこの時死をも覚悟したらしく、手近にあった鏡板(現存する)に辞世の句を書きつけている。

散らさじと森辺の里に埋めばや 影は昔のままの江の月


924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:19:11.58 ID:MD1w7Emq
ともあれ光顕寺ではかろうじて生き延びた教如上人だったが、まだまだ京への道は遠い。

ここで近郷の村・寺に教如の苦境が伝わると、無事に教如を帰すための
特別同盟が組織される事になった。
「土手組」(どろてぐみ)と呼ばれるこの集団は屈強な門徒八十二人からなる
精鋭部隊を組織して教如の護衛に付けると共に、道中の二十ヶ寺を拠点に提供した。

新たに彼らの助けを得て出発した教如一行は、西圓寺に入った。
ところがここでもすぐに石田方に所在が知れてしまい、またもや
寺に籠って戦いを繰り広げる事となってしまった。

「上人が危ない」
この情報を聞きつけた近郊の揖斐春日谷の住民たちは
急ぎ屈強な男衆二十七人を選り抜き西圓寺に向かわせたのだが、
こいつらの経歴がまた一段とすごい。

某右衛門「俺は石山本願寺に十年いたから、顕如様を見てるんだぜ」
某蔵「ふーん、俺は長い事長島に居たからよく知らねえなあ」
某右衛門「そういや長島じゃ大変な目にあったそうじゃないか」
某蔵「おうよ。信長が和議の約定を破った時はさすがにもうだめかと思ったぜ。
   ま、無我夢中で暴れてみたらいつの間にか織田家一門衆を大量に討ち取った上に
   脱出もできたんだけどな。いやあ人間、必死になりゃ何とかなるもんよ、がっはっは!」

…彼らは過去の一向一揆を肌で知っている猛者たちであり、身には襤褸(ぼろ)を纏って顔には鍋墨を塗り、
人とも鬼とも付かぬ異様の形相で得物を引っ提げて西圓寺に向かったという。
この時代至る所にいたであろうモンスターの一種である。

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:22:10.03 ID:MD1w7Emq
モンスター農民VS西軍の激戦が西圓寺で行われるなか、寺内では一計が案じられた。
西圓寺の住職の容貌が教如と似ている事を利用し、住職が「身代わり教如」となったのだ。
身代わり教如が東へ走る隙に、本物の教如は門徒に背負われ北へと逃げて行った。

身代わり教如は追手に追いつかれ死んでしまったが、本物の教如はひたすら逃げ回った。
身代わりの首を見て偽物である事に気づいた三成は激怒し、尚も百余り人の兵に追跡させる。
街道筋をくまなく押えられた教如は進退に窮まり、国見岳中腹の岩窟に身を隠した。
現在は教如岩とも呼ばれているこの岩窟で教如は数日間隠れ、村人たちの捧げる粗食で
かろうじて命をつないでいた。

まさしく踏んだり蹴ったりの教如であったが、九月十五日には三成が関ヶ原で敗北。
虎口を脱する事ができた教如は村で休養を取った後、国見峠から長浜を経由して京に帰還する。

一連の戦いで土手組の勇士八十二人のうち十九名は命を落としたが、彼らが命を懸けて
守り通したした上人は、後に再び法主として返り咲くことができた。
彼らには供養塔が、そして上人の身代わりとなった西圓寺住職には太鼓塔が建てられ、
現在でも祀られ続けているという。




926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:36:24.62 ID:/y6VeIcN
誰か歌の意の解説お願いします

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 17:45:08.17 ID:/WaaTE0C
石山長島生き残りの一向門徒ってムチャクチャ強そうw
宗教信者ってより歴戦の傭兵みたいなものだったろうし

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 18:22:59.26 ID:ki6yvYI/
北斗の拳に出てくる南斗の中途半端な拳使う大男とかのイメージ

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 19:03:53.68 ID:LF71Jdc7
そう考えると
かのヒャッハー富田さんが700の兵で3万の一向宗を蹴散らしたのって相当やばい事だよな
正規兵と互角に戦ってるような連中を・・・

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 20:48:44.58 ID:7QCKMaGX
和睦破りの攻撃(恐らく後の信長の和睦破りはこの報復)とはいえ氏家ト全殺して、柴田勝家もやりかけた
一揆勢のベテランだからなぁ……。

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 20:54:52.41 ID:MD1w7Emq
>>926
正しいという保証はありませんが…
川の上から照らす昔と変わらぬ月の光を、
方々に掻き消えてしまわないように森の辺りに埋めてしまいたい…
というのが直接的な解釈。
実はこの和歌が記された光顕寺周辺は森部と呼ばれている事から、
「森辺」と「森部」が掛っていると考えられます。
従って自分は、江の月の光が教如自身でありその自分がこの森部で散る(死ぬ)ことの
ないよう、須弥壇の下といわず地中までも潜り込みたい、という
切羽詰まった状況の描写の意味を込めているのかなと捉えています。


932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 21:34:48.31 ID:/y6VeIcN
>>931
ありがとうございます

散らさないように森に埋めたのに、なんで影(江に浮かぶ月?)があるのかわかりませんw
仏教的な寓意が込められた歌なのですかね?

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 21:55:40.59 ID:wvINmDXU
揖斐から小谷をショートカットする国見峠を通った時に
確かに教如ゆかりのようなものがあったなあ
ちょっと道から外れてたから通り過ぎたけど

森辺は前田利家が織田家への帰参が叶う活躍をした森部の戦いの地だな

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 22:03:41.33 ID:CijZPTMV
坊さんが埋まるていうから信西かと思ったわ

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 22:39:13.89 ID:MD1w7Emq
>>932
古語では「影」は「光」を意味します。
そのため「月の影」はそのまま月光を意味すると考えて差し支えないかと。

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:10:29.19 ID:h1Qqt6Oo
つか何でそんな無理して帰ろうとしてるんすか…ちょっと待ってりゃ良いものを。
本気で一揆やる気だったのか?うーん怖い怖い。


942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:16:57.25 ID:MtlzuaqH
ちょっと待ってる間に西軍が勝っちゃったらもっとヤバいからじゃないか。

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 00:19:30.68 ID:W9oqS2v7
1日で終わるとは誰も思ってなかったんだろ。

本願寺、東西分裂顛末

2012年06月14日 21:07

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 18:53:40.69 ID:yAAWdolZ
慶長5年、7月。
石田三成が挙兵し畿内を順調に制圧していたころ、一路東海道を下る一向宗僧侶の一団があった。
彼らの目的は、前年の凶作により困窮した関東の門徒たちの見舞いである。
とはいうものの、勿論これは表向きの話。
その真の目的は、上方での変事の情報をいち早く江戸の家康に伝えることだった。
一団を率いているのは、かつての本願寺12代目法主、教如上人その人である。

石田三成は彼を何とか畿内から出すまいと様々な手管を使ったが、
教如は追手を振り切り畿内を脱出。同月中には江戸にて家康に謁見した。

もちろん親切心からこんな行動に出たのではない。
教如には、ある思惑があった。
それは、今回の大乱に乗じた自身の復権だ。
教如は先代法主顕如の長男であり、本来ならば今も法主の地位に就いている筈の男である。
しかし彼は秀吉の勘気を被り、わずか一年で弟の准如にその地位を譲らされたのだ。
それから七年の間鬱屈とした日々を過ごしていた教如であったが、この度石田三成が挙兵
するに及んで、次の天下人候補筆頭である家康に接近せんがため危険を冒して江戸まで
下向してきたのである。

教如は家康に西軍の情報を伝えると、こんな提案をした
「上様のご命令さえあれば、西国の全門徒達に決起を呼びかけ、西軍を撹乱してみせましょう」
そう、教如は天正年間以来久しく絶えていた全国規模の一向一揆を再び画策していたのだ。
さすがに本願寺きっての武闘派は言う事が違う。法主の座を退いたとはいえ未だ彼の影響力は
大きく、もし本当に一揆が蜂起すれば西軍の作戦行動に多大な支障をきたす事は明白だった。

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 18:58:49.37 ID:yAAWdolZ
だが、かつて三河一向一揆に散々苦しめられた経験のある家康の反応は芳しくなかった。
そもそも教如がもたらした情報は既に別筋から手に入れていた物であったし、この件で
本願寺に借りを作ってしまうのも面白くない。
結局の所、家康は礼として名馬を贈り尾張までの道中の安全を保障したものの、
教如の提案は受け入れなかった。


家康に恩を売ることこそ失敗した教如だったが、心証は大分よくなったようであり
家康は関ヶ原の戦いに勝利した後、教如を法主に再任させようとしていたようだ。
…が、一向宗門徒でもある家康の謀友・本多正信がこの人事に異を唱えた。
彼の献策により、教如は新たに設立された「東本願寺」の法主に任命された。
既存の本願寺は後に西本願寺と称される事となり、現在に至っても
統合は行われていない。
顕如時代の全盛期とは比にならないとはいえ、この時期にあっても本願寺は
依然として全国の門徒に強い影響力を持っていた。
その力を削ぐ為の、徳川氏らしい巧妙な政治的手法といえよう。

こうして本願寺は西本願寺(准如系)と東本願寺(教如系)に二分され力を失い、
徳川幕府の支配体制下に組み込まれていったのである。

…石山本願寺から顕如が退去してから20年、まだまだ血気盛んだった
教如上人(及び門徒達)と、佐渡さんの老獪な智恵の光る逸話である。






844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 19:34:05.11 ID:Rt9IXDL3
今の政治家なら後先考えず喜んで受け入れるだろうな
国内最大門徒数を誇る一向衆を票田に出来るのだから(笑)

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 19:48:28.00 ID:34y5LReT
さすがサドの神
自身が一向宗でも容赦しないぜ

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 19:52:11.25 ID:9XcvV/+Y
「殿と喧嘩するぐらいなら、真宗やめて教義の似た浄土宗に変えるねー」というほど殿様大好き三河武士だぜ。
サドさんも本音じゃあ……。

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 19:56:36.44 ID:RwD1SLQO
三河一向一揆が泥沼化しなかったのは他の例を見ると本当に特別

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 19:57:48.97 ID:32WPZJIG
過激派の教如の脅しに屈したともとれるけどね

鷺森合戦

2011年09月22日 22:04

顕如   
62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 14:01:05.83 ID:Iv38V+0w
織田信長を苦しませ続けた本願寺との戦い、所謂石山合戦の最終局面において、法主顕如
朝廷の仲介による講和を受け入れた。にもかかわらずその息子、教如はこれに従わず
石山本願寺に残り猶も抗戦を続けた。

これを恨みに思った織田信長は本願寺の殲滅を決意。天正10年(1582)6月2日、突如として
顕如らが大阪から退去した紀伊の国鷺森に大軍を向かわせた!世にいう鷺森合戦の勃発である。

織田の大軍に完全に包囲され、顕如は慨嘆した

「このように信長の軍勢に取り巻かれたが、信長の怒りは無理も無い事で、これは当然の報復である。
ああ、本願寺の真の敵は信長ではなく、(講和の後も抵抗を続けた)教如だったのだ!」

そして自害を覚悟した。その時である!

何と言う事であろう、織田軍が一斉に退却して行くではないか!?
おかげで顕如たちは命を永らえた。だが、一体何が起こったのか!?

天正10年6月2日。そう、本能寺の変の起こった当日である。
この変の勃発を伝えられた織田軍は、急ぎ帰っていったのだ。
阿弥陀如来がお守りしてくれたのだろうか?本願寺はこうして、危うい所で滅亡から逃れたのである。


…と、この鷺森合戦ですが、実はこれ寛永15年(1636)に西本願寺より刊行された「本願寺表裏問答」という本で
捏造されたつくり話なのです。
実際の信長は、鷺森に退去した顕如一行の身の安全を保証し、才賀で当地の有力者である
鈴木孫一と土橋若太夫の紛争が起こると、わざわざ家臣を派遣して顕如達の警護をさせたほどでした。

この本の刊行当時、西本願寺と、教如によって始められた東本願寺との対立が激化し、西本願寺はこの話を
作ることで、「本願寺を滅亡の瀬戸際に追いやった教如に正当性はない!」と批判したのです。
実にくだらない話ですが、この鷺森合戦は後に陰徳太平記や明智軍記というような軍記物にも取り入れられ
あたかも実際にあった出来事のように語られてしまい、後々まで石山合戦のイメージ形成に
大きな影響を与えました。

そんな、つくり話が事実のように扱われてしまったお話。




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 14:13:24.91 ID:PhWsnRKn
宗教って本当にくだらない…

石山合戦の講和と傭兵たち

2011年09月07日 22:24

教如   
776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 18:05:20.62 ID:J8aLuBdL
天正8年(1580)、長らく織田信長と戦っていた石山本願寺であったが、朝廷からの勅命による和議を受け入れ、
本願寺顕如は大阪からの退去に同意した。

ところがこれに断固として反対する集団があった。石山本願寺に籠っていた、雑賀、淡路からの傭兵たちである。

「我々は山越(傭兵に支払われる給与)で今まで妻子を養ってきた!そうであるのに急にここを退去せよというのは
我々にとって迷惑である!」

彼らがそういうのも最もであろう。ここを追い出されれば、自分たちはたちまち困窮してしまうのだ。
そこで彼らは石山本願寺の新門跡の教如を立て

「先ず(講和派の)本門跡(顕如)と北の方を城から出し、自分たちはこのまま大阪城(石山本願寺)に籠ろう!」
と主張した。

これに教如も同調し、石山本願寺は抗戦派が占拠する形となった。
そのため顕如とその北の方、そして下間、平井、矢木といった重臣たちは勅使にお礼を申し上げた上で
雑賀からの迎えの船にのり、4月9日に大阪を退出した。

まるで後の大阪の陣の最後を彷彿とさせるような、石山合戦再末期の、石山本願寺の様相である。
(信長公記)




780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 23:10:19.17 ID:RhUBYnRm
>>776
ちょうどセンゴクでやってるところだな