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加茂郡加治田の城主は

2021年05月02日 16:40

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/02(日) 15:34:35.17 ID:wBTwM86N
加茂郡加治田の城主は  斎藤新五郎長龍 同子斎宮龍幸

新五郎(斎藤利治)は龍興(道三の誤り)の子なり。信長に仕えて天正13年6月2
日、京都二条の城で、明智の家来・内藤内蔵助利一(斎藤利三)のために討死す。

その子・斎宮は岐阜中納言秀信(織田秀信)の小姓だったが、慶長5子年(1600)
8月23日、岐阜落去の際、信友・足立中務・武藤助十郎とともに、白昼に女の姿で
出立ち、長良川を越えて北山に落ちて行った。

その子孫は松平大和守道基(直基)に仕える。また池田三郎左衛門(輝政)の家にも
いるという。

――『美濃国諸旧記』



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それ以降、斎藤内蔵助の異見の如く

2020年11月06日 18:16

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 13:59:28.90 ID:ZA1G15La
私(蒲生氏郷)が儒道歌道茶湯ばかりに心がけていた頃、弓矢修行を仕っていた斎藤内蔵助(利三)と言う者が申すには、
「入らぬことに心を尽くすより、家職に心を入れよ」と云い、私は度々諌められたのだが、若輩故か、さほども
耳に留めず、そのまま打ち過ぎていった。

そんな所に、織田信長公が江州観音寺へ御出馬され、先手は伊賀衆、二番に美濃衆・近江衆の寄り合い勢であった。
その中に私も在り、敵に打ち向かっていた所、斎藤内蔵助はただ一騎来たりて、
「伊賀衆は今日先手を成すが、軍立、足軽の使いようが非常に乱雑に見える。あれでは城中より人数を押し出し
かかって来れば、敗軍するだろう。

その方、備えを西の山本、竹藪の内に隠し置き、先手が崩れたならば通し過ごし、敵陣の真ん中に横入りに
駆け入れば、必ず勝利を成すだろう。

また、崩れず恙無く引き取るようであれば、その時は伊賀衆に乗り向かい
『今朝よりの御働きのため、御草臥れに成られたことでしょう。私が入れ替わって跡を受け持ちます』と
断りを入れて殿を仕れば、これも高名となる。両方とも変わらない。」

そう申したので、その意に任せ、西の山本竹藪の中に人数を入れて待っていた所、案の定、伊賀衆は深入りし
観音寺の足軽に押し立てられ敗軍した故に、私は横入りにかかり、敵は逆に敗軍し、十四、五町追い討ちをし、
三十人ばかりの首を討ち取り、信長公の御目にかけた。そして『若輩が神妙の働きである』と、御感になり、
二字國俊の御腰の物を拝領仕った。

それ以降、斎藤内蔵助の異見の如く、武士に遊芸の誉れは要らぬと会得したのである。

蒲生飛騨守氏鄕書状之写

蒲生氏郷が、斎藤利三に武士としての有り様を教えられたというお話



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 16:11:28.16 ID:bqJKElpR
なんで斎藤利三蒲生氏郷に対してこんなに偉そうなの
方や当時は稲葉一鉄の家臣、こなた信長の娘を娶り自ら烏帽子親を務めたほどの御曹司
弓の師匠であっても戦場では身分違いで気安く指示するような立場ではなくね?
あるいは軍監として付けられてたとか? でも陪臣を軍監として他の家の軍勢に付けたりするの?

あと斎藤利三蒲生氏郷も結局のちのち茶の湯はやってるじゃんというツッコミも

686 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/06(金) 23:15:19.49 ID:Q61bka++
>>684
この場合の弓矢って弓術じゃなくて戦のことじゃない?
アドバイス自体も「こうやるとどう転んでも手柄になるよ」って感じだから
受け入れ易いと思うし

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 22:42:13.47 ID:8aJnR1j9
近江の国人の蒲生と美濃の国人の稲葉と斎藤の三者は身分違いつえるほど身分は違わないから特に違和感はないな

見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



本能寺の変後、顛末

2020年07月19日 17:50

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/19(日) 13:25:42.92 ID:my2u+8BH
徳川家康は堺において本能寺の変の事を聞くと、大和路へ懸かり、高田の城に寄って、城主に刀、並びに
金二千両を下し、その日に出立して、六月四日、三河国大浜に船にて下着され、明智を討つための軍勢を
催し、先ず鳴海まで出陣した。

この頃、羽柴秀吉は美作国高倉(実際には備中国高松)に於いて、森輝元(原文ママ。毛利輝元)と対陣
していた所、信長が没したと告げられ、先ず隠密に森と一和し、摂州表に打ち出て、山崎宝寺上の高山へ
人数を上げた所、明智がかの表に押し出し、六月十三日に合戦した。
明智は敗北し、坂本城に引き上げようと考えていたのか、山科まで逃げ来た所を、百姓等に打ち殺された。
歳六十七であった。

この時、安土に置かれていた明智左馬介はこの事を聞くと、坂本に駆けつけ、明智光秀の男児である十五郎と
一所に火を懸け切腹した。

斎藤内蔵助(利三)は虜となり、京都へ引かれ大路を引き回され六条河原にて斬首された。首は獄門に掛けられた。
この内蔵助は信長勘当の者であったのを、近年明智が隠して抱え置いていたのだという。

家康公は鳴海に居陣していた所、秀吉よりこの様体が委細注進されたため、則ち帰馬され、六月二十八日、
甲州に出馬された。

当代記



どうして信長の命を受けられようか

2020年01月01日 17:32

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/01(水) 05:18:10.53 ID:f2m7axWc
長宗我部元親は、織田信長が上洛する以前より、明智光秀を通じて音信を成し、また斉藤内蔵助(利三)は
元親の小舅であり、故に斎藤、明智は専ら信長に対し、元親との和睦を進め、また元親は加久見因幡守を
使いとして太刀、馬、黄金十枚、鷹を献上した。信長はこれを悦び、元親の嫡男彌三郎に「信」の字を
賜った(これは明智がかねてより信長の申し述べていた故であった)。またこの献上の謝礼として太刀、馬を
元親に贈り、且つ四国は元親の切り取り次第とする朱印状も賜った。

ところが信長の上洛後、讒言をする者があり、「元親の勇名、彼は四国を平らげた後、必ず天下の患となります。」
と説いた。信長はこれに同意し、使いを遣わして元親にこのように伝えた
「阿波半国(南郡)、土佐は元親の領分とする。讃岐、伊予の二州は信長に献ずべし。」
これを聞いた元親は大いに怒った
「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命を受けられようか。」と、返報すらしなかった。
これに対し、明智はまた使いとして、斎藤利三の兄である石谷兵部(頼辰)を遣わし、「和議を破るべきではない」
と述べたが、元親の怒りは堅く、明智よりの信長への使いも絶えた。

信長の子である三七信孝が四国を領するために出発し、三好笑岩がその先鋒とされた。信孝は陣を泉州岸和田に
敷き、五月下旬に、三好笑岩が先に阿波に至り勝端を攻め落とし、一宮蛮山に城を築いた。

六月二日、織田信長明智光秀のために弑せられた(四国の違変によって、斎藤利三がその身に災いが及ぶ事を
思い、明智に謀反を決意させたのだと言う)

(長曾我部譜)

いわゆる本能寺四国説ですね



721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 00:24:37.47 ID:8UXIolu7
>>713
長宗我部の国は俺のもの
俺の国も俺のもの

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 03:02:16.34 ID:GqVm1U9D
>>721
まあ、本能寺陰謀論はあくまで陰謀論だからどうでもいいとして、
この頃の信長は北条に対しても非常に高圧的な態度だったのがちょっと不思議。

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 06:26:47.36 ID:OtrX6ndU
北条が甲州征伐で役に立たなかったから?

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:04:35.65 ID:Wcs3LzPY
>>723
むしろ甲斐制圧したからじゃないかしら。
信長って、武田や上杉、毛利に対しても最初は低姿勢だったけど本願寺降したり勢力拡大や地盤固めしていくに連れ高圧的になってくし。

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:08:11.91 ID:Wcs3LzPY
>>724書いてて何となくジョジョの奇妙な冒険3部のDIO思い出した。

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 08:38:24.09 ID:i89aLd10
低姿勢にしてた武田上杉毛利に裏切られて
下手すれば滅亡に追い込まれかけたんだからキレてもしゃあない

727 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:52:34.82 ID:xZSYssKi
>>726
盟友焼き味噌ダヌキを攻めた武田はともかく、上杉は自分からちょっかい出してませんかね?
毛利も安芸門徒の総本山たる本願寺に頼まれたら嫌とは言えないし。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 09:50:29.58 ID:Uvjf7L6k
>>724
信長だけじゃなくてあの時代のほとんどの武士のメンタルだと思うぞ

信長四国征伐の事情

2018年10月08日 18:37

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 17:44:01.59 ID:N7Ecm7CH
元親(長宗我部元親)は天正4年(1576)よりおよそ7年の間に四国を切り従え、天正10年には元親が
ことごとく押領した。(原注:長曽我部記・土佐軍記)信長公はこれを御聞きになって元親に対し、

「土佐・阿波両国は与えよう。伊予・讃岐は献上せよ」と仰せ遣わされた。元親は「これは思いも寄らぬ仰せ
かな。それがしが四国を押領したのは、まったくもって信長から恩賜されたわけではない。すべてそれがしが

数年武力をもって切り取った国々である。何の子細があって信長に進上することだろうか。仮に討手を差し
下されようとも、どうして容易に避け渡すことであろう」と返答した。これに信長公は、

「元親は猛勇に誇り、不礼の返答をしたことは捨て置けぬ。それならば武力をもって討ち滅ぼすべし」と仰せ
になって三男・三七信孝に四国を拝領なされ、「手柄次第に切り取るべし」と丹羽五郎左衛門長秀・

織田七兵衛信澄(津田信澄)・蜂屋伯耆守頼隆を差し添えなさった。この輩は「近日中に四国へと押し渡って
長宗我部の領国をことごとく切り取り、元親のこの頃勝ち誇る矛先を挫く」と大軍を引き連れ摂津住吉の浦に

参着した。折しも梅雨の晴れ間もないので大坂の城で人馬を休め、雨が晴れて順風の時節を待って過ごした。

古写本の長曽我部記、ならびに土佐軍記を捜索するに元親は四国押領の後は織田殿へ5,6度も使者を出して
ますます昵懇との旨を記し、織田殿がとかく争論したとは見えない。まして信孝の四国拝領のことも聞こえず。

今その事情を按ずるに、元親は明智光秀の被官・斎藤利三の妹婿である。それゆえに元親がその初め織田殿へ
通じた時も光秀の計らいであっただろう。とすれば光秀の救援となるのは元親の右に出る者はいない。

織田殿は近頃光秀を快しとされなかったために、その助けとなるであろう元親をまず除きなさらんとの内意で
元親へは御指図もなく信孝らをただちに討手に遣わされたのか、または三好笑岩(康長)は秀吉の甥・秀次を

養子としたわけだが、いま四国で元親に従わないのは三好一族ばかりであった。その三好が元親に攻められて
危うきこと旦夕に迫るゆえに、笑岩から秀吉の備中の陣へそのことを申し送って愁訴し、秀吉から織田殿へ

四国征伐を勧めてにわかにこの事が起こったのか、この二つの内どれかだろう。元親の側ではその事を知らず、
その内に織田殿も横死され、信孝らも大坂まで出軍したのみでこの事は止んだために、四国の側ではこの事に
ついてまったく取り沙汰さなかったものであろう。

――『改正三河後風土記』


斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候

2018年09月21日 10:01

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 05:57:48.32 ID:fX5WZda+
(山崎の戦いの時)

斎藤内蔵助利三は最初から今日は総敗軍と覚悟していたため、味方の敗走を見ても少しも屈せず、なんとしても
神戸三七殿(織田信孝)と一戦して今日の恥辱をそそぐべしと心掛けており、その子・伊豆守(利宗)と手勢を

整えてまったく動揺せず、静かに人数を進め山崎総構の東方の川を隔てて陣を立てた。その川は大河ではないが
近日降り続いた長雨によって水嵩は増え渦を巻いて流れた。ここに三七信孝の陣中より野掛彦之丞という者が

名乗りただ一騎馬を乗り入れ先に進んだ。内蔵助の子・伊豆守16歳、これも斎藤勢よりただ一騎川へ乗り込み、
川中で1,2度打ち合うと見えたが、双方押し並んでむずと組み合い水中へと落ちた。

これを見て斎藤の家士が一同に伊豆守を救おうと川へ乗り込むのを、内蔵助は大声を揚げて「武士の子16歳!
敵1人討てずして生きても甲斐なし! ただ捨て置け!」とこれを制した。その間に伊豆守は野掛の首を取って

下の瀬より岸に上った。これを切っ掛けとして敵味方は鉄砲矢戦となり討ちつ討たれつ喚き叫んで攻め戦った。
中でも内蔵助は大声を揚げて、「私は利仁将軍(藤原利仁)の後胤、斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候!

恐れながら、三七殿にとって御親の仇随一の者である! 御自身で私を御討ち取り下さるべし!」と言いながら、
信孝の本陣へ父子手勢は必死になって切り入った。その時、中川瀬兵衛清秀の2千5百騎が横合より打って

掛かり、斎藤勢を引き包んで討ち取らんとした。これによって信孝は斎藤勢を散々に討ちなされ、過半が討死
したので内蔵助・伊豆守父子も叶わずして一方を切り抜け跡をくらまし落ち行った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」

2018年09月21日 09:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 06:03:05.42 ID:fX5WZda+
山崎の戦いの時、神戸信孝(織田信孝)は斎藤利三勢に攻められるも中川清秀が横合より斎藤勢を
攻めたため、利三は敗れて落ちていった。合戦が済んで後、信孝は瀬兵衛清秀の手を取って戴き、

「今日、親の仇を討ち取ったのも、まったくそこもとの武功ゆえ!」と、感涙を流して感謝された。
その時、秀吉は駕籠に乗ってその様子を見て「瀬兵衛瀬兵衛、今日は骨折り骨折り」と言いながら

通り過ぎた。清秀はこれを聞き「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」と申したという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


この儀、別の仔細に非ず

2018年09月17日 17:10

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 12:34:03.11 ID:c3AbbcRr
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った

「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」

これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。

そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」

そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。

光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」

そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。

(甫庵信長記)

光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。


光秀天罰逃れ難く

2018年09月16日 17:28

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 17:35:28.33 ID:gJvnQJNT
(山崎の戦いの時)

光秀の先手・斎藤内蔵助(利三)は狐川の向こう岸より使者を立てて、光秀を諫めた。

「今日の合戦は御延期然るべし。筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に
拠って一戦されれば、安土に左馬助(明智秀満)がおりますので後詰の便りもあります。

そうでなければ、すぐにこれから安土に籠城されて然るべし。以前から申すように山崎の地
は味方にとってよろしからず。大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地です。

合戦の雌雄は只今にて候。時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなります。」

このように申し送ると光秀はこれを聞いて、

「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん! 汝そこまで恐れる
のならばそこを引き取って当手に来るべし! 先手は他人に申し付けん!」

と罵ったため、使者は大いに恐れて立ち返りその旨を申した。内蔵助はこれを聞いて、

「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり」

と言って嘆息した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』



147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 23:41:16.22 ID:w7XezzrT
>>146
斉藤さんって謀反にノリノリだった説と諌めた説があるけど
これは諌めた説を下敷きにしてるのかな

光秀利三最期

2018年05月07日 18:52

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 22:15:38.38 ID:aEBf9EVt
山崎の合戦の後、明智光秀の残党は正林寺城に籠もった。
羽柴秀吉や織田信孝などの兵は、ここに明智光秀がいると見て、柵を付けてこれを攻めた。

その時、城より蟹江才蔵が向かい出て伝えた
明智光秀はここには罷り在らず!我らの命を助けられるのであらば、城より一人ずつ出て
何者か確認されて良い!」

攻め手は答えた
「ならば斉藤内蔵助(利三)を生け捕り我らに出せば、汝らの一命は助けよう!」

すると城方は内蔵助を生け捕って攻め手へと引き渡した。
この時より蟹江才蔵は三七殿(信孝)に付くことになった。

ここでも明智を発見することが出来なかったため、近辺を残らず捜索したが、ついに見つからなかった。
翌日、村井清蔵と申すものが、大江という在所より、金柑(ハゲ頭)なる首一つを持って
代官所に現れた。この清蔵によると

「この者、昨夜大江に参り『我を坂本へ連れて行け、金銀は思うままに取らせん』と言いました。
しかし百姓共は、『どうせ盗人の謀りである、ただ打ち殺せ!』と、これを撲殺したのです。」

丹羽五郎左(長秀)がこれを見て、すぐに光秀の首と解った。彼はこの首に噛みつき、歯を
きしませて
「汝を生かして、なぶり殺しにしようと思っていたのに!」
そう叫んだ。

その後、光秀の死骸を取り寄せ、首を継いで車に載せ、洛中を曳き廻し三条河原にて
逆さ磔にかけた。
斉藤内蔵助も車に乗せて洛中を曳き廻し、三条河原に生きながら逆さ磔にして3日晒し、
その後火炙りにした。

(祖父物語)



本能寺の変、当日のドキュメント

2018年04月21日 19:18

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 22:39:13.18 ID:z47y627O
明智光秀が本能寺を取り囲んだ時、信長の人数は上下百人程度でしかなく、明智勢は
三千余騎にてこれを即時に踏み破った。

そして信長の死骸を捜索したが見つからず、光秀は動揺し「もしや逃げ延びたのではないか?
如何すべきか!?」と案じている所に、明智の臣下である斉藤内蔵助(利三)という者が申し上げた

「御心やすく思し召して下さい。信長公が兵と手を合わせた後、奥に入っていったのを私が
目撃しました。」

これを聞くと明智も安心し、二条の織田信忠への攻撃へ急いだ。
信長公の死骸には、その上に森乱丸(蘭丸)が、死骸が燃えるよう畳5,6畳を重ねたと
言い伝わる。

本能寺門外の小川の端石の上に、首が十三置かれていた。
森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋の庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭であり、
鷹の御羽を継ぐ名人と呼ばれた人物であった。
その他の首は見知らぬものであった。

二条落去して5日過ぎ、明智は参内をして洛中を乗り廻し、町中の地子(固定資産税)の免除を
発表した。

(祖父物語)

本能寺の変、当日のドキュメント



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 17:47:41.68 ID:Onnh1i4N
村井貞勝や毛利新助は晒されてないのか

かのような乱の中で優しい武士であった

2016年02月24日 15:45

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 23:46:42.98 ID:6NNrWvJY
 齋藤内蔵助は明智日向守殿が謀反の時に申したことは
「この思し召しを、私は十が九で勝手な御振る舞いと思いません。
そうであるのであえて御諫言を申し上げません。」
と、血判を速やかにしたという。
 そのうえ安土の城を受け取った後に、もはや落城に及ぼうとしましたとき、
敵の方へ信長公が御所持されていた道具を渡した後に城に火をかけた。
道具は世々の宝なので焼失すると残念だと、かのような乱の中で優しい武士であった。

 これにつけても松永弾正が平蜘蛛の釜を落城のときに割りましたことは、
甚だ賤しき志である。
(本阿弥行状記)




371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 01:09:02.03 ID:aWt95gpS
光悦はこのエピソードを秀満じゃなく利三がやったことにしてるのか

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 06:55:25.67 ID:Yzm0g8SB
>>371
筆者は光悦じゃないってば

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 12:13:58.97 ID:Y9/NH5SF
本阿弥シリーズが始まったときは自分も光悦が筆者かと思っていたっけ

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 12:54:48.08 ID:MZQzaca8
じゃあ本物の筆者は誰なんです?

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:04:35.10 ID:Yzm0g8SB
>>374
本阿弥光甫。光悦の孫。

明智光秀とその周辺の、最期

2015年02月03日 18:52

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 12:11:00.66 ID:9SXo73QX
山崎の合戦で敗軍したのを見た明智光秀は、青龍寺の城へと馳せた入った。そして硬く包囲されていたにも
かかわらず、親しき従者5,6人を具して城を紛れ出て、坂本城に向かって落ちていった。

通常人の通る道は自ずから警戒されていると、道を変え伏見の北の方、大亀谷にかかり、山中にて
具足を脱いで、勧修寺を過ぎ小栗栖を通っていた所、野伏どもの声が聞こえてきた。
「この夜更けに馬の音がするのは、きっと落ち武者だろう。さあ具足を剥ぎ取ろうではないか!」
「そうしよう!」
そのように語っていた。

その日は水無月(6月)13日、月は高く登っていたが、たいへん曇っていて非常に暗い夜であった。
里の中道の、細くなっているとこをを進んでいた所、垣越しに付いてきた鑓が、光秀の脇に刺さった。
しかし光秀は素知らぬ体でそのまま通り、三町(約300メートル)ばかり進んで、里の外れで馬より転び落ちた。

従っていた者達「これはどうなされました!?」と問うと、
「先に里の中の野伏の声がしたあたりで、突き出された鑓にあたったのだ。
そこに居たままでは、野伏共が一層つきまとうと思ったので、さらぬ体でここまで進んだ。
しかし今はもう、先には進む事ができなくなったようだ。
我が首を切って、顔を深くうずめ隠すように。」

そう言って息絶えた。
従者たちは騒ぎたてたがどうすることも出来ず、言い残した通りに首を切って光秀が乗っていた
馬の鞍覆いに包み、道から一町ほど離れた、藪の茂っている溝に隠し、死骸も人に見られてはならないと、
道から少し脇に取り隠して、それから従っていた者達は、思い思いに落ちていった。

その頃青龍寺城では、光秀が城を出た後、城兵たちは城から逃げ出し、城を取り巻く軍勢に討たれ、
あるいは生け捕りにされるものも多かった。
生け捕った城兵に尋問すると、「光秀はまだ日が暮れぬ内に城を出た。それを知らなかったため
このような事になった。」と、みな同音に語った。
そこではじめて秀吉方は、光秀が青龍寺城を落ちたことを知り、「坂本に向かったに違いない」と、
軍兵を江西はと急がせた。

明智弥平次(秀満)は安土城にあったが、羽柴秀吉が西国より上り、山崎に合戦に向かったとの報を聞いて、
「この城を守ることは意味が無い、光秀様と合流しなければ。」と13日に安土を出て山崎へと向かったが、
丁度その頃、堀久太郎(秀政)の軍が安土へと向かっており、大津の打出浜にて弥平次の軍と行合、
交戦となった。弥平次の兵は多く討たれたものの、80余騎を率いて終に坂本城へと入った。

14日、羽柴秀吉は三井寺に至った。そこでは明智方の落人の首が方々より持ち込まれた。
その中に小栗栖の住人が、明智光秀の首を持ってきた。
「いかにしてこの首を取ったのか?」と問うと、「今朝、里人が外に出て、落人は居ないかと
見廻りをした所、藪の下でこの首を見つけました。立派な布に包まれ、いかにも常の人の物ではないと思われ、
あれこれと見ている内に、光秀を見知ったものがきて、これはその首だと言ったため、急ぎこちらに
持ち寄ったのです。」と答えた。

この首を見た秀吉は大いに喜び
「信長公を討った報いが早くも来たか!」と、杖でその首を打った。

弥平次は坂本の城に入ったが、従っていた者達も皆、自分の思うところへと様々に落ちていき、城を守ることも
出来ぬ有り様であった。そのため、光秀の子である”自然”と言う者を連れて天守に登り、敵が四方より
近づくと、自然を刺し殺し、天守に火をかけ、腹を斬って死んだ。

斉藤内蔵助(利三)は光秀の二無きものであったが。戦場を逃れ江西の堅田の井貝という者を頼り、
身を隠そうとしたものの、その井貝によって捕らわれ秀吉に差し出された。
そのころ、明智光秀はその遺骸も探しだされ、首とともに今日の粟田口に磔となって晒されていたが、
内蔵助もその傍らで同じように晒された。
(豐鑑)

豊鑑より、明智光秀とその周辺の、最期の模様である。




長宗我部元親が織田信長公に通じられた事に関して

2013年02月26日 19:50

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 12:47:46.52 ID:k4fnI85x
長宗我部元親織田信長公に通じられた事に関してだが、
明智日向守(光秀)家来、斎藤内蔵助(利三)は元親の小舅であった。ここから元親は明智の取り成しを以って、
元親の嫡子。弥三郎の実名の契約を信長公といたし、その偏諱を頂いて、信親と名乗った。
このような友好関係から、四国のことは元親手柄切り取り次第との御朱印を、信長公より下されたのである。

ところがその後ある人が、元親のことを信長公にこう申し入れた
「元親という人物は、四国に並びなき弓取りです。今のように切り取り次第を許していては、後々天下の災いにも
なるでしょう。阿波・讃岐まで手に入れその上淡路にまで手を出すことは、あってはならないと考えます。」

信長もこれを尤もだと考え、その後、先の朱印の内容を一方的に変更し、『切り取っていいのは伊予・讃岐まで。
それに阿波南郡半国を付けて与える』と伝えてきた。

元親はこれに大いに怒り
「四国のことは、私が自分の実力で切り取ったもので、これは信長卿のご恩義ではない!
この要請は私が思いもしなかったことで、驚き入っている。」
と、これを完全に拒絶した。

その後、織田方より重ねて、斎藤内蔵助の兄・石谷兵部少輔(頼辰)が使者に使わされたが、元親はこれにも
拒絶することを言い切った。

これによって織田と長宗我部は断交し、信長は息子である三七殿(信孝)を四国征伐の大将として
泉州岸和田まで出陣させた。

この時、斎藤内蔵助は四国のことを強く気遣かい、明智に謀反を急がせた。よって6月2日、
信長卿は御切腹された。
このため四国は無事にすんだのである。
(土佐物語)

土佐物語より、本能寺の原因についての言及である。




746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 17:03:22.16 ID:Zr0bAbLG
急がせたってことはそれ以前から叛意を持ってたってことだから原因なんかね?

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 21:48:58.74 ID:hTVtKC/m
>>745
結果的には滅んじゃったけどな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:08:59.67 ID:c5vsZAoX
>>753
長宗我部に限った話じゃないけど、そうやって家を大きくしても
結局たったの十数年後に滅びましたというオチが付いちゃうと悲しいねい。

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:28:46.68 ID:Ad6RZUrn
俺も滅亡しようかな・・・

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:38:53.97 ID:2US/it7g
まだ興ってもないじゃないですか!

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 04:52:51.84 ID:mznTk9Ao
>>754
いまの日本企業の平均寿命が30年くらいだったか

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 05:03:00.63 ID:zOS/PnjH
街のラーメン屋の平均寿命も知りたい

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 05:52:59.08 ID:1zHo4Y8F
>>760
今の勤務地の近くにここ2年で4回テナント変わった建物があって内3回はラーメン屋だった

駅前で周りの店は昔からあるのにその建物だけ次々に変わる


スレチすまん

斎藤利宗、波乱?の人生

2012年06月29日 21:01

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 23:49:42.09 ID:4s59c1jM
斎藤利宗、波乱?の人生

斎藤利宗という、ちょっとマイナーな武将の紹介。

といっても、お父さんは有名です・・・

あの「斎藤利三」です。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 23:56:32.88 ID:4s59c1jM
彼は光秀の謀反に加担し、山崎の戦いで高山右近と戦うも、敗れて畿内に潜伏した。
そののち光秀に加担したとして捕えられ、細川忠興に預けられることとなった。

だが、その後、同族の斎藤兵部入道以密に訴えられ、北野天満宮で神意を問うことになった。
その方法とは・・・熱く熱した鉄を持ち、その火傷具合で非があるかないかを見極めるというものである。

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 23:58:36.04 ID:4s59c1jM
この結果は利宗の勝利に終わり、今度は稲葉一鉄に預けられることとなった。
その後の彼は小牧の戦いに従軍して活躍し、朝鮮の役では加藤清正に属して活躍。
役後そのまま清正に仕え、5000石で召し抱えられたのであった。

順調にいけば加藤家の重臣になったのだが・・・

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:04:25.51 ID:Z2hCvOqw
しかし、清正の死後、加藤家は分裂してしまう。

そう、「馬方・牛方騒動」である

利宗はこれに直接かかわっていなかったものの、勢力を伸ばした加藤右馬允正方と対立し、ついに
加藤家を飛び出してしまったのであった。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:08:14.13 ID:Z2hCvOqw
しかし、利宗は幸運だった。
妹が於福=春日局であったからである。

そのつてを頼ったかは定かではないが、5000石で家光に召しだされ、幕府につかえることになった。

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:13:15.00 ID:Z2hCvOqw
その後、前半の流転人生がウソだったかのように安定した生活を送ることとなった。

元主家である加藤家の改易の際には、土井利勝、ダブル酒井忠勝、同忠世に混じって密議に加わっている。
その密議ののち、甥の稲葉正勝が城受取に加えられている。

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:17:52.54 ID:Z2hCvOqw
越後の堀家が改易になった際には、城受取の役を務めている。

そして正保4年5月4日、81歳でこの世を去ったのであった。
なお、名乗りは伊豆守だったが、のち佐渡守に改めている。

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:21:04.88 ID:Z2hCvOqw
そんな彼だが、最後に小ネタを一つ。

出版された『寛政重修諸家譜』では、宗利(としむね、とルビがある)と誤表記されてしまっている。
原本はどうなんだろう・・・?

細切れで読みづらくてすみませんorz




196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 03:04:12.71 ID:p3bJYqM8
火起請て勝ち負けによらず下手すりゃ手が使い物にならなくなったらしいがその辺は大丈夫だったんだな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 09:18:04.07 ID:M2bMXRSn
そんな危険なものに挑んだのかノブと作左…

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 09:38:07.07 ID:7uclrbgO
あれって、なにかトリックがあった気がしたけど

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 10:57:43.12 ID:HGN8hn2A
清正さんとかだと平然とやりそうだ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 11:26:05.59 ID:JDqW3Uy+
地味加藤さんならうっかりで火起請みたいなことやっちゃってたな

海北友松・斎藤利三の墓

2012年02月04日 21:55

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 10:52:36.89 ID:itxgZTSB
「雲龍図」「花卉図」等を描いた海北友松は豊臣~徳川時代の絵師として
知られるが、元は近江浅井氏に仕えた武家の出である。親友であった斎藤
利三が主君・明智光秀とともに本能寺の変を起こして敗れ、謀反人として
本能寺跡に晒されたことを知ると、その夜に遺骸を持ち去り手厚く葬った。

梟首台の衛兵を槍を振るって襲ったとも、東陽坊長盛という仲間の僧侶が
読経で気を逸らしたとも言われる(両方かも知れない)。奪われた方には
たまったものではないが、羽柴勢が制圧した洛中でやらかすには襲う方も
命懸けである。更に福(後の春日局)ら利三の遺児を匿ったとも伝わる。

長盛が住職を務めた京都の真正極楽寺には長盛と友松夫婦、利三の墓が
仲良く並んでいる。

教科書では長谷川等伯や狩野永徳と同じ文化人としてしか紹介されないが、
画業に専念する前の恐らく最後の武勇伝である。




739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:00:18.62 ID:GDxTLFHm
こういうのってお咎め無しというか逆に褒められることも多いよな、勝者の余裕ってとこだろうか
あとホントかどうか知らんけど親父さんが秀吉に尊敬されてたってのも理由の一つかね?

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 14:00:52.01 ID:Kny0XdF+
まあ絵師と坊主に襲われる方のが失態だしな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 17:39:46.53 ID:WNZu97OL
絵師と坊主に負けました首さらわれましたじゃカッコ付かないもんな
おそらく天狗のせいにされたんだろう

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 17:56:12.44 ID:HN975UnA
大猿じゃ、怪しげな大猿が攫っていったのじゃ!

(゚Д。)
~~~~~~


753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/05(日) 00:56:28.89 ID:51k4F3fk
>>739秀吉が海北友松の仕業と知っていたかどうか分からないけど、この後の
賤ヶ岳の戦いでは敵だった佐久間盛政を突き出した農民を処刑した話もある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1012.html

戦国時代は同じようなことをしても結果オーライもあれば、裏目に出る場合も
あって生き抜くのは本当に大変だったと思う。天下人3人に逆らっても本人や
子孫が生き長らえた人もいれば、忠勤に励んだのに冷遇や取り潰しに遭ってる
家もあるし。