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岐阜城主十代衆

2021年05月04日 17:08

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 01:10:47.30 ID:ME61kjQd
(岐阜城の戦いの時)

時に池田三郎左衛門尉輝政は当城の案内者なので、城山の後ろ水手口から攻め上った。
さてこの輝政は案内者たること理なり。この頃“岐阜城主十代衆”と言い伝える事がある。

その衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍、斎藤右兵衛大夫龍興、織田弾正忠
平信長、同三位中将信忠、同三七郎蔵人侍従信孝、池田勝三郎信輝(恒興)、同三郎左衛門
輝政、羽柴少将秀勝、中納言秀信なり。

輝政は右の十人衆の内なれば、よく案内を知る故についに攻め落とした。

――『美濃国諸旧記』



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 17:49:08.99 ID:xJbwI1WL
どうしても腕を組みながら高速で走り抜けるジャイアントな絵柄しか思い浮かばないのであった

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 00:24:03.94 ID:VLdNf4zT
厳密に言えば
信孝没落後、恒興は大垣城に入って嫡男の庄九郎元助が岐阜城に入ったわけだが
1年程の話だから誤解、もしくは忘れ去られてるんだろうな
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これより長政を恐れて

2021年03月26日 18:25

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/26(金) 16:59:53.91 ID:/LJeRXU6
浅井備前守長政が、玉淵川を限りとして、斎藤龍興(実際には義龍か)と合戦をした。
ある時、長政は五百ばかりの兵をよりすぐり、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に
柵を造り待ち構えた。

龍興勢一万ばかりがここに出ると、長政はこれを聞いて、百人ばかりを菩提の小道より敵の後ろに廻らせ、
自らは四百ばかりを以て敵の油断している所を夜討ちした。
そこに小道より迂回した兵も馳せ来て、思いもよらぬ所より鬨の声をあげると、龍興は内通の者が有ると
思い、慌てて岐阜へと引き返した。

その後、長政は大垣の周辺所々に火をかけさせると、龍興は「敵が勝ちに乗じて大垣を攻めるのだろう、
いざ助けよ!」と岐阜を出たが、長政は引き返す時に、足軽で物に慣れた者達三十人を樽井の土民の
家に隠した。

龍興勢が樽井に入ると、士卒も疲れていたために、兵糧を使って油断していた時、隠し置いた足軽共、
所々に火をかけて焼いた。そして長政勢は思いもよらぬ所へ押し寄せ、斎藤勢を散々に打ち破り、
やがて南宮山に上って敵を待った。

龍興は二度まで敗北し口惜しく思い、「四面を取り巻いて余さず討たん!」と押し寄せたが、
長政見て「敵は大軍なり、十死一生の戦とはこれなるべし。我が下知無き内は箭の一筋も
射るべからず。」と言って、敵が攻めかかってくるのを待って、山の上より一文字に
切って懸ると、龍興大いに敗軍して、これより長政を恐れて再び合戦すること無かった。

常山紀談



つまり土岐の御筋目なのです

2020年11月03日 18:30

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/03(火) 16:37:46.78 ID:0vCwYBzP
斎藤山城守(道三)は男子三人を設けた。長男は義龍と申した。
ある時、山城守が他行にて城を空けた所、義龍はその母に向かってこのようにうに言った
「山城守殿は美濃一国を従え信長を聟に取るほどの威勢がありますが、筋目のない侍であるように承ります。
武士は氏を威勢に仕るものであるのに、口惜しいことです。」

これを聞くと母は涙を抑え、
「幼き心にそのように口惜しく思われたか。然しながら、その方には並びなき系図があります。
密かにめのとにお尋ねなさるように。」
と言って、またさめざめと泣いた。

義龍は不思議に思い、めのとに密かに尋ねると、めのとは承って「声が高いです」と、
小声になって申した事には
「御父山城守殿は筋無き都の笠張りと承ります。或夜の夢のお告げにより、大殿様(土岐頼芸)に
奉公され、日々立身され、御家老まで上られ、終に大殿様を亡ぼし御台様を奪い取り、国を横領成されました。
古は大桑と申す所に御在城あったのですが、城内が狭いということで。この稲葉山に城を構えました。

若君はその時、御母君の腹中におられました。つまり土岐の御筋目なのです。
どうか他の人に漏らさないで下さい。御舎弟御両人は山城守殿のご子息です。」

そう悉く語ると、義龍は無念に思い、後見である日根野彌右衛門(弘就)と云う者を語らい、
「山城守殿は我が親の敵である。どうか打ち取り、我が無念を晴らしてほしい。」と、涙とともに
申した所、彌右衛門承り、

「この儀は私にお任せ下さい。先ず家中残らず、下々まで御情けをかけられ、『若君ほどの殿はあるまじ』と
一家中に思い入れさせ、その時に至れば、私に考えがあります。ですのでその時までは顔色にもその気持を
出してはなりません。」と、よくよく諌め、そのため義龍は家中に残らず御情けをかけられたので、今では
『この君の御事ならば御馬の先に立ち、御命に代わらんものを』よ思わぬものは居なかった。

ある時、山城守殿鷹野に出たが、彌右衛門は「時こそ至れ」と、若君を語らい御舎弟両人を、御振舞として
呼び出し、義龍、彌右衛門は手づから膳を据え、折を伺って兄弟の首を、水もたまらず打ち落とした。

それより大手を固めて門を閉め、矢倉矢倉に弓鉄砲を仕掛け、用心厳しく構えたため、山城守殿は鷹野より
俄に取って返して合戦に及んだものの、一家中一味の上は是非もなく討ち死にした。誠に、栄華盛ん也と雖も
主を殺せし天罰が無くなるわけではなく、幾程もなくして、あえなき死をしたのである。

その後日、日根野彌右衛門は備中守と成った。義龍は政道正しくあったので、信長公の下手に立つことは
無かった。しかし龍興の代に至り、おごり強く政道正しからざるによって、信長のために終に滅ぼされた。

堂洞軍記

いわゆる、斎藤義龍土岐頼芸のご落胤である、というお話のソースですね。



440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/04(水) 11:44:58.15 ID:jCrSrMeR
道三の専制君主制を打ち倒す名分が必要だっただけ
義龍が有能だったとしても結局は宿老制を敷いて傀儡止まり

必ず義龍の首を取って道三に手向ける

2020年08月20日 17:19

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 19:44:54.77 ID:9dfXvoM4
「麒麟がくる」打ち明け話

利家夜話
利家が語っていた話。斎藤道三の息子(義龍)がライ病で、その上、道三に不孝であるので家督相続は許さないと話しているのを聞いた人がいた。
父子の仲は悪く、合戦になって信長に注進する人がいたが、早くも道三が合戦に負け、城に火がかかっているのを信長が見て、「さてもさても、注進が遅かったことは無念である」と涙を流して帰国した。
「必ず義龍の首を取って道三に手向ける」と信長が話したと利家は語った。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 20:09:57.68 ID:9dfXvoM4
書き損ねましたが、原文では「彼の癩者の首」です
NHKでは放送できません



斎藤義龍の死

2020年05月28日 17:47

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/28(木) 03:50:13.34 ID:z9c7xj6W
さて義龍(斎藤義龍)は一戦に道三を討ち取り悦喜少なからず。諸将へも様々な恩賞感状などを出し、
日根野備中守(弘就)、長井隼人正(道利)をして万事を計らわせ、ついに当国の守護となった。妻
室は江州小谷城主・浅井下野守久政の娘で近江の方というのを嫁する。もっとも義龍は生質勇猛絶倫
にして、身の丈7尺ほどの古今の剛将である。

嫡子の右兵衛大夫龍興は天文18年酉(1549)の2月誕生。すなわち家督として稲葉山に在城し
た。義龍は元来先の屋形・土岐頼芸の胤子であるといえども、道三の子としてかの家で成長し、親子
の恩恵もある仲なので、義を思って氏を一色とも改名した。

しかし子として親を誅した天罰は逃れられないのか、わずか6ヶ年を保った後に難病を受けて大いに
苦しみ、永禄4辛酉年(1561)6月11日、35歳を一期としてついに空しく相なりける。さり
ながら義龍は常に禅法に帰依し信心を明らめたのか、臨終に及んで辞世の偈を残した。その詩に曰く、

「三十余年 守譜人天 刹那一句 仏想不伝」

また永禄元年に自ら伝焼寺(伝燈寺)の別伝和尚に帰依して、国中の寺院の式を定めた。

令嗣の龍興は書工に仰せ付けて義龍の絵像を書し、快利和尚(快川紹喜)の筆を借りて辞世の偈をそ
の上に書いたのである。

――『美濃国諸旧記


義龍は器量世に優れた勇将なれば、国中に靡かぬ草木もなく井口の大将と仰がれたが、永禄4辛酉年
5月11日、病に臥して逝去し給う。常に禅法に帰依し心源を明らめ、辞世の偈に、

「三十余年 守護人天 刹那一句 仏祖不伝」

行年35。法名を雲峯玄龍居士と号す。

快川和尚(快川紹喜)の筆を借りて辞世の偈を寿像の上に書き記す。(義龍は)永禄元年より伝燈寺
の和尚に帰依して、国中の寺院の法式を定めた(永禄別伝の乱。この事件で義龍と快川は対立した)。
これひとえに、かの僧の所意によってであると国中の僧は大いに擾乱した。

――『濃陽諸士伝記


しかるに義龍は病に臥せて程なく、永禄4辛酉年5月11日、稲葉山城で逝去し給う。行年30有余
歳なり。すなわち常在寺に葬る。雲峰玄龍大居士と号す。日頃禅宗に帰依なされた故、辞世の偈あり。

「三十余歳 守護人天 刹那一句 仏祖不得」

長子の喜太郎龍興は家督を継いで右兵衛太夫、美濃守に歴任した故に、斎藤の一族どもは心を合わせ
られたため、国中は義龍の時よりも静かであった。斎藤の跡を継いだとして“斎藤右兵衛太夫龍興”と
名乗りける。

――『土岐累代記



さるほどに、斉藤新九郎義竜妻女は、一条殿御むすめ

2020年05月25日 18:21

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/25(月) 03:38:02.73 ID:YfHz75EY
「さるほどに、斉藤新九郎義竜妻女は、一条殿御むすめ、そく御ぞうしとて、これあり。

ある時、やがて、憑き候て、奇異のわづらひあり。

百座の護摩、千座の護摩、万座の護摩をたかせ、さまぐ祈祷候へども、つひに平癒なく父子三人病死。

天道おそろしき事なり」

太田牛一「大かうさまぐんきのうち」より。

 永禄4年5月11日、斎藤義龍が正妻の一条氏と御曹司もろとも同日に病死したと牛一は記す。Wikipediaでは義龍の正妻は浅井氏から迎えた近江の方(近江局)とされていていますが。
 既載だろうと思いましたが、未だ乗っていないようなので。

 ……当主と正室と嫡男が同日に死ぬって、余程の悪疫にでも罹ったか、仕物でもされたのか。



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 17:43:19.15 ID:lbGMsvkA
>>89
寄生虫の病だよ
義龍は田螺が好物でよく酒の肴にしていたそうな
夕餉に出されて妻子も食べたんじゃないかな

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 18:44:19.77 ID:aBkkhMvp
>>91

なるほど、田螺ですか。かの魯山人も田螺が好きで、生のそれに当たって亡くなったそう(鯉など異説あり)ですが……。

加熱が不充分だったのか、半生や生の方が美味しいと思って意図的に加熱を省いたのか。

斎藤龍興「まことに不幸な巡り合わせであった」

ここを落ちて存命をなし、明智の家名を立てられなされ

2020年05月17日 16:39

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:19:59.93 ID:Noq7djiy
しかるところ、当国の守護職・斎藤右京大夫義龍は実父・頼芸の仇故に養父・道三と父子の義を断
ち合戦を初め、弘治2年辰(1556)の4月、方県郡城田寺村でついに道三を討ち取り、一国を
押領し“一色左京大夫”と改めて稲葉山の城に存在した。

まことに道三の多年の不義は、諸人皆がこれを憎んだ故に、その日の合戦には多くが子息の義龍の
手に加わり、道三のもとへ馳せ参る者は少なかったのである。しかるに、明智兵庫助光安入道宗宿
は兼々道三に尊敬されて常に厚情を尽くされた。元来、宗宿の妹は道三の本室である。もっとも早
世したといえども、一度縁者の因を結んだ仲であった。しかし、宗宿はもとより大丈夫(立派な男
子)の勇士なので、道三の威を慕ったわけではない。縁辺の義父・駿河守光継入道宗善が在世の時
に道三が妹を乞い、太守・頼芸に申して縁結したものである。

道三は元来大志あった故に明智の家を一方の盾ともなす心であったので、常々礼儀を厚くして懇情
を尽くした。あるいは尾州の織田を他国の垣根となして、我が娘を信長に嫁がせた。皆大志の下心
である。弘治2年の春に至り、子息・義龍は義兵を起こし合戦に及んだところ、国中の諸士は皆実
義を糺してことごとく義龍の手に至り、道三方は微勢となってたちまち武威衰え、戦う前に道三が
打ち負けること必然と見えたのだった。この時に宗宿が思うには、

「某は今度の合戦こそどちらにも加わり難い。道三はすこぶる逆臣だから誅するのは利の当然であ
るが、彼が日頃私を重んじ厚情を尽くしたことは言葉に述べ難い。その下心の程は『身の上難儀の
事あらば頼みにしたい』との斟酌であろう。彼はまさに今大事の期に及んだ。某は恩情に心を引か
れて傾くわけではないが、彼が衰えたる時節を見て無体に攻め討つのは大丈夫のすることではない。

また義龍は実父の仇を討つと称して義兵を挙げたのに、某が道三に与力して戦えば土岐・明智の先
祖代々に対して大不孝と言えよう。故に両儀決せず、いずれも加わり難い。だが某は進退窮まった
といえども甥の光秀は当家の真嫡なれば、これ一人は義龍のもとへ参らそう」

と光秀のみを稲葉山へ遣した。さて弘治2年、鷺山の合戦終わり道三すでに討たれて後は道三一味
の面々ことごとく討死し、残る輩は皆義龍に降参して国中はようやく平均した。すると宗宿は決し
て出仕せず、つらつら思うことには「義龍は義兵の名ありといえども、(道三は)現在の養父にし
て胎内からの恩は甚だ深い。また先の太守頼芸には本室の実子が数多いる。長男の一色小次郎頼秀
は尾州にいる。二男の左京亮頼師もまた当国にいる。しかれば、これらをもって義兵を発したなら
ば実に忠義孝心であろう。

ところが今すでに義龍の代となり、私がまたこれに伏せば世上の人は憎んで『宗宿こそ懇情あった
道三をも助けず、また合戦の折には義龍にも組せず、命を惜しんで運を両端に計り勝負を眺め、ど
こへも出馬せず戦は収まり、義龍の代になったのを見てたちまち身を寄せた』などと嘲り笑われる
のも口惜しき次第である。殊に某は道三の尊敬を受けた身なれば、諸人の心は道三を心贔屓してい
る様に思って、義龍を始め私の心中を疑い思うのは必定である。

所詮長らえて諸人の口外に残るのも残念なり。ただ速やかに当城に立て籠もり、華々しく討手の勢
を引き受け討死し武名を残してこそ本意であろう。そうでなくても某が『道三と一腹ではないか』
と諸人の疑い思う折であるから、城に籠って出仕すまじと言えばすぐに討手が来るのは必定である。
某が潔く死ねば義ある道三のためにも道が立つ。主家の恨みは心にあれど現在の妹の婿の名があり、
厚情はなお甚だしい。

某50歳の上に満ちて惜しからぬ命を1つ捨てようとして死に迷い、恥ずかしき名を取れば清和天
皇より21代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一家を私だけで悪名を付け末代まで恥辱を残す
ことは無念の儀である。早く義龍方へ手切れの使いを送り、一門を催して当城に立て籠もり、討手
が来たら思いのままに戦って屍を大手の城門に晒し、本丸に墳墓を残すべし」と思惟を決し、討死
と覚悟を極めたのであった。時に弘治2年9月に至り、一門を催して明智の城に籠った。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:23:55.83 ID:Noq7djiy
大将の宗宿53歳、同次左衛門光久50歳、その弟・十平次光廉は尾州にいてこれを知らず。従う
一族には溝尾庄左衛門・三宅式部之助・藤田藤次郎・肥田玄蕃・池田織部・可児才右衛門・森勘解
由などを始め、その勢わずかに870余人であったが義心金石と固まり、心を一致して籠城した。

さて右の子細が稲葉山に聞こえると斎藤義龍は甚だ驚き「早く誅さねば東美濃の過半がこれに従う
だろう」と即時に討手を差し向ける。その時、揖斐周防守光親は義龍を諫めて曰く、「明智宗宿は
古今の義士なり。名を重んじ叶わないと知って籠城するのは大丈夫の振る舞いです。ただ速やかに
利害の使者を送り、ひらに帰伏の旨を申し宥めてしかるべきです」と、言った。

しかしながら義龍は血気の破将故にこれを用いず、ただ攻め討ちと決した。ここに至って揖斐も是
非なく討手に向かう。その人々は長井隼人正道利・井上忠左衛門道勝・国枝大和守正則・二階堂出
雲守行俊・大沢次郎左衛門為泰・遠山主殿助友行・船木大学頭義久・山田次郎兵衛・岩田茂太夫な
どを先手としてその勢3千7百騎。9月19日に稲葉山を出陣し、明智を目指して押し寄せた。

宗宿は少しも多れずここを先途と防ぎ戦った。元来、城の要害堅固にしてどこも破れる浅間も無く、
攻め兼ねて見合わせた故、その日はすでに暮れていった。よってその翌日、再び鬨を発して攻め寄
せたが、宗宿は前夜から酒宴をなし夜もすがら謡い舞い、死出の盃をなして、翌日城外に打って出
て思う程に一戦し早々に城に入ると、その日の申の刻、本丸の真ん中で火を掛けことごとく自害し
て果てた。康永元午年(1342)に明智開基してより年数215年にしてこの日ついに断絶した。

しかるに嫡子・光秀はここまでも城中にいたが、宗宿がこれに申したことには、「我々は自害せん
と存ずる。御身はきっと殉死の志であろうが、某らは不慮の事でこのようになり、家を断絶します。
御身は祖父の遺言もあり、また志も小さくないので、なにとぞここを落ちて存命をなし、明智の家
名を立てられなされ。ならびに我々の子供らをも召し連れて、末々まで取り立て給わるよう頼み申
すなり」と、申し置いて死んだのであった。

これによって(光秀は)死を止まり城を落ちて西美濃に至り、叔父の山岸光信のもとにしばらく身
を寄せ、すなわちここに妻子ならびに従弟どもを預け、それより6ヶ年の間諸国を遍歴して武術の
鍛錬をなし、それより永禄5年(1562)に越前の太守・朝倉左衛門尉義景に仕官して、その後
同11年の秋より足利新公方義昭公の推挙をもって織田信長に仕え、後に60万石余の大名となる。

――『美濃国諸旧記



【雑談】斎藤義龍の僭称などについて

2020年05月12日 18:53

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 15:47:24.33 ID:YxnV2kQk
土岐のご落胤なんてのは取って付けた名分であって実際は国人領主に担ぎ上げられた義龍が道三を討っただけ
伊達も武田も似たようなものでしょう

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 20:51:19.81 ID:2sf7MF5G
統制するならされるほうから支持されてるほうがいいというのはまあ自然なことよね

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 21:03:15.14 ID:LbbxIGpC
当時から義龍って土岐氏の落胤なんて名乗ってたの?
後世の俗説じゃ?

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 00:11:04.46 ID:T9xNSwQi
>>164
江戸後期に初めて出てきた話のはず

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 00:43:26.56 ID:9F50NLoj
ですよね、てことは当時の義龍は名分であってもあくまで親父が暴君だから押込するねとかそういう形にのはずよね

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 00:44:36.95 ID:uX5b18U6
>>162
親戚の長井と稲葉が仕切ってくれればよかったんだけどね
なぜか一色家になってしまったから…

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 15:49:14.23 ID:W1z6qpsm
家格でいえば明らかに斎藤より一色のがよっぽど上なんだから長尾氏が上杉氏名乗りだしたのと同じようなもんでしょ
義龍別に統治に問題があったわけでもなく、なんなら織田や朝倉の侵攻普通にあしらってるし、当主として申し分ないでしょ

強いて言うなら家臣の派閥やらを仲裁できるだけの実力を後継がつける前に若死にして、後ろ盾ができなかった点くらいじゃないの

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 16:09:56.09 ID:/wY1hd3a
長尾はまがりなりにも上杉から譲り受けてるんだから義竜の例とは違うんじゃないの?

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 16:29:29.16 ID:W1z6qpsm
確か義輝あたりから許可もらって母方の縁戚にいた一色氏を名乗りだしたって形で筋はしっかりしてると思う

景虎だって長尾のままでもよかったんだし、じゃあなんで上杉名乗ったのって言ったらその方が政治的に有利に立ち回れるからじゃないの?

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 19:51:42.57 ID:RVYNhZbO
家督を譲られて長尾のままというわけにはいかないと思うけどなあ
自ら変えたのか、譲られて変えたのか
それだけの違いだけど、イメージとしてはかなり変わってくるんじゃないのかな

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 20:44:57.66 ID:+R0+wK5D
まぁあくまで家格が上の立場の氏名乗る例ってだけだし
一色氏を名乗ることはそんなおかしなことじゃないってだけ

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 07:25:04.60 ID:Ph9xcLPX
>>176
相伴衆だね

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 21:26:14.98 ID:9hpyC+1u
長尾から上杉に改姓してもやっぱり当時は周りから「とは言っても本質は長尾だ」と思われてたんかな。伊勢→北条とかも。
変な話、現代だと仮に小室さんが皇室に婿入りして「予は貴族である。崇めよ」みたいな顔して来たら周りは「うーん…」って感じだろうし

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 21:55:47.92 ID:iX0iDQCr
少なくとも関東管領を自負する上杉謙信は北条氏をずっと伊勢氏って呼んでるよね

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 22:12:03.52 ID:mgHvyp7h
戦国期は。実際には「家格の壁」ってかなり大きいよね。

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 22:16:29.12 ID:tRfNmdIx
北条や佐竹なんかは書状の上では謙信を山内殿と呼んでるね

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/16(土) 01:10:15.58 ID:P7v4WyZN
>>182
長尾の話だと関東の守護になっても越後の武士はフーンとしか思えないでしょ
むしろお前だけ関東いけやボケと思ったかもしれないな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/16(土) 07:30:29.34 ID:RAULnjBL
上杉憲政「北条ではない、伊勢じゃ!」

下郡半国も過半は御敵となったのである

2020年05月11日 17:37

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 02:53:00.32 ID:2m/XX9y0
(長良川の戦い後)

戦が終わり首実検をすると(斎藤義龍は)信長の御陣所である大良口へ人数を出した。信長は大良
から30町ほど駆け出て、および河原で戦い合う足軽合戦があって、

山口取手介 討死
土方喜三郎 討死
森三左衛門(可成) 千石又一に渡し合い、馬上で切り合って三左衛門は脛の口を切られ引き退く。

しかし、山城(斎藤道三)も合戦に切り負け討死の由なので、信長は大良の御本陣まで引き入った
のだった。ここで大河を隔てていたので、雑人・牛馬をことごとく退かせなさり、殿は信長がなさ
るとの由で全ての人数に川を越させなさり、上総介殿(信長)の乗られる御舟1艘を残して各々は
川を打ち越えた。

すると馬武者少々が川端まで駆けて来た。その時に信長は鉄砲を撃ちなさり、敵はそこから近くに
は寄らず、信長はそこを去って御舟に乗られて御越しになった。

そのようなところで、尾張国半国の主・織田伊勢守(信安)は濃州の義龍と申し合わせて、御敵の
色を立てる。信長の館・清州の近所、下の郷という村を放火したとの由が追々注進された。信長は
御無念に思し召し、ただちに岩倉口へ御遣わしになって岩倉近辺の知行所を焼き払い、その日の御
人数は御引き取りになった。

このようであったため、下郡半国も過半は御敵となったのである。

――『信長公記 首巻』



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 15:47:24.33 ID:YxnV2kQk
土岐のご落胤なんてのは取って付けた名分であって実際は国人領主に担ぎ上げられた義龍が道三を討っただけ
伊達も武田も似たようなものでしょう

“はんか(范可)”

2020年05月10日 16:45

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 10:08:14.32 ID:Bhm2267u
山城(斎藤道三)には子息に一男・新九郎(斎藤義龍)、二男・孫四郎、三男・喜平次の兄弟3人がい
た。父子4人ともに稲葉山に居城していた。

およそ人の惣領たる者は、決まって心が緩々として穏当なものである。道三は智恵の鏡も曇り「新九郎
は耄者(愚か者)」とばかり心得て弟2人を「利口の者かな」と崇敬し、三男の喜平次を一色右兵衛大
輔になしながら位官を進められた。そのようであるために弟どもは勝ちに乗じて奢り蔑む如く応対した。

新九郎は体裁を無念に存じ、10月13日より作病を構えて奥へ引き入り養生したのである。霜月22
日、山城道三は山下の私宅へ下られた。ここで伯父の長井隼人正(道利)を使いにして、弟2人の方へ
申し遣したことには「現在、急病で時を期すことになった。対面して一言申したきことがあるので来て
ほしい」と申し送った。

長井隼人正は巧みを廻して意見申すと、同心して2人の弟どもは新九郎の所へ来たのである。長井隼人
正が次の間に刀を置くと、これを見て兄弟の者も同じように次の間に刀を置き奥の間へ入った。良き盃
をと振る舞いを出し、日根野備中(弘就)は名誉の物切のふと刀“作手棒兼常”を抜き持ち、上座にいた
孫四郎を切り伏せた。また右兵衛大輔(喜平次)を切り殺し、年来の愁眉を開いたのであった。

すなわち山下にいた山城道三方へ右の趣が申し遣され、仰天致して肝を消すこと限りなし。ここで法螺
を立てて人数を寄せ、四方の町末より火を掛けことごとく放火して井口を裸城になし、長良川の川を越
えて山県という山中へ引き退き、明くる年4月18日、鶴山へ取り上って国中を見下ろし居陣した。

信長も道三の婿なので、手合わせをして木曽川・飛騨川を舟で渡り、大河を打ち越えて大良の戸島東蔵
坊の構に至って御在陣された。すると銭亀がいてここもかしこも銭を敷いたようであった(戸島東蔵坊
構に至て御在陣。銭亀爰もかしこも銭を布たる如く也)。

4月20日辰刻、戍亥へ向かって新九郎義龍は人数を出した。道三も鶴山を降り下り、長良川の端まで
人数を出された。一番合戦に竹腰道塵(道鎮)6百ばかりが真ん丸になって中の渡りを打ち越え、山城
道三の旗本へ切り掛かった。散々に入り乱れ相戦ってついに竹腰道塵は合戦に切り負け、山城道三は竹
腰を討ち取って床木に腰を掛け、母衣を揺すり満足した。

そんなところで二番槍に新九郎義龍の多くの人数がどっと川を越え、互いに人数を立てて備えた。義龍
の備の中から武者一騎、長屋甚右衛門という者が進み掛かる。また山城の人数の内より柴田角内という
者がただ一騎進み出て長屋に渡し合い、真ん中で相戦って勝負を決し、柴田角内は晴れがましき高名を
なした。

双方より掛かり合って入り乱れ火花を散らし、相戦ってしのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思い
の働きあり。長井忠左衛門(井上道勝)は道三に渡し合い、太刀を押し上げむずと抱き付き、山城を生
け捕りに仕らんというところへ荒武者の小真木源太(小牧道家)が走り来たり、山城の脛を薙ぎ伏せて
首を取った。忠左衛門は後の証拠のためにと山城の鼻を削いで退いた。

合戦に打ち勝って首実検のところへ道三の首を持って来た。この時(義龍は)「身から出た罪である」
と得道したのであった。これより後に新九郎は“はんか(范可)”と名乗った。故事があって、昔唐のは
んかという者は親の首を切った。それは父の首を切って孝となったのだという。(それに比べて)今の
新九郎義龍は不孝重罪恥辱となったのである。

――『信長公記 首巻』



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 12:39:32.94 ID:HKYSxrCU
織田としてはそうせざるを得ないわなw

山城守殿は我が親の仇である

2020年04月29日 17:37

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 16:07:23.86 ID:SWnYE4NJ
(前略)

それより山城守(斎藤道三)は男子3人を設けた。長男は義龍とぞ申しける。

ある時、山城守が外出なされた後で、義龍は母儀に向かって申されたことには「山城守殿は美濃一国を
従え信長を婿に取るほどの威勢おありといえども、筋無き侍のように承ります。武士は氏を威勢に仕え
るものであるのに口惜きことに存じます」と宣えば、

母君は涙を押さえて、「幼き心にはそのように口惜しく思われましょう。さりながら、その方には並び
無き系図がおありですから密かに乳母に御尋ねなされ」と、またさめざめと泣き給う。義龍は不思議に
思い乳母に密かに御尋ねになれば、乳母は承り「音高し!」と小声になって申したことには、

「御父山城殿は筋無き都の笠張と承ります。ある夜の夢の告げにより大殿様に奉公なされて、日々立身
なされました。御家老まで経上がりついに大殿様を滅ぼし御台様を奪い取り、国を押領なされたのです。
古は大桑という所に御在城なされましたが、城内は狭いとこの稲葉山に城を構え、若君の御事はその時、
御母君の腹内におられたので土岐の御筋目でいらっしゃいます。ああ、賢人には漏らしなさるな。御舎
弟御両人は山城守殿の御子息なのです」

と、ことごとく語れば、義龍はいよいよ無念に思い、後見の日根野弥次右衛門(弘就)という者を語ら
い「山城守殿は我が親の仇である!何とぞ討ち取り、我が無念を晴らしてくれよ!」と涙とともに申さ
れれば、弥右衛門は承り「この事は某に御任せください。まず御家中残らず下々まで御情けをかけられ
て、“若君ほどの殿はあるまい”と一家中に思い入れさせ、その節に至り某が存じ寄りますので、それ
までは御色にも出しなさるな!」と、よくよく諫め申して時至るのを待っていた。

されば義龍の才智は世に優れなされたので、弥右衛門の申す通り一家中へ残らず御情けをかけなさると、
「今はこの君の御事ならば御馬の先に立ち御命に替わらんものを」と、思わぬ者も無かった。

ある時、山城守殿は御鷹野に出なされば、弥右衛門は「時こそ至れ!」と若君を語らい御舎弟御両人に
御振る舞いを催し、義龍・弥右衛門両人は手ずから膳を据え折を窺い、兄弟の御首を水もたまらず打ち
落とし、さて大手を固めて門を閉ざし櫓櫓に弓鉄砲を仕掛け用心を厳しく構えれば、山城殿が鷹野より
にわかに取って返し合戦に及ぶといえども、一家中一味の上は是非無く討死なされた。まことに栄華盛
んであるといえども、主を殺した天罪は逃れるはずもなければ、程も無くしてあえなき死をし給いけり。

その後、日根野弥右衛門は備中守にぞなりにける。義龍は政道正しくあられたので信長公の下手に立つ
ことはなかったが、龍興の代に至り奢り強く政道正からざるによって、信長のためについに滅ぼされ給
いける。

――『堂洞軍記



41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 17:02:10.29 ID:ffOyh58L
>>40
信長と濃姫が結婚した頃って、まだそこまで信長の評価は高くなかったんじゃね?
後世に残る伝説はいろいろあっても、まだ何も実績を上げてない時期だよね

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 23:59:28.76 ID:I8j5ty7S
>>41
どこから濃姫が出てきたんだ?w

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/30(木) 00:44:49.91 ID:X0uIBxlF
>>43
「信長を婿に取るほどの威勢おありといえども~」の行の所からの推測ではないかな。
隣国の有力領主と血縁を結んで従えた(by斎藤家視点)程の威勢だが、て程の意味かと。

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/30(木) 14:54:57.50 ID:8jN8DtWe
斎藤道三の下克上に対して土岐を奉じた朝倉織田連合が美濃に押し寄せてたから信長を婿に取るのは戦略上有効な手ですよ
うつけだろうが魔王だろうが関係ねえ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 11:41:15.11 ID:mAEQIMQn
>>41
うつけと名高い信長を婿にするほど斎藤に威勢がある
ととれなくもないし
尾張を主導している信秀の息子を婿にできた
と義竜が思ったのかもしれない

どんなつもりで後世の作者が書いたのかは知らんが

”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



斎藤道三の滅亡

2020年01月26日 16:28

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 11:54:36.87 ID:Khkap7O0
織田家との和睦が成り、その後尾濃両国太平と成って国民が安堵の思いを成す所に、斎藤父子の合戦が
たちまち始まり、終に当家滅亡の時至ること、天罰のいたる所である。故に国中兵乱起こり国民は薄氷を踏む
思いを成した。

斎藤道三は当腹の子・孫四郎を寵愛し、右京亮と名乗らせ嫡子義龍をいかにもして害し、右京亮に国を
立てようと企んだ。これは偏に、義龍が先の太守の胤であった故にこれを謀ったのである。
義龍はこれを聞いて大いに怒り。

「我斎藤の家名を継ぐと雖も実は先太守頼芸の胤であり、忝なくも源頼光の嫡孫である。一方彼は松波庄五郎
といって商家の下賤である。先の太守が次郎と呼ばれていた時、長井長弘の取り持ちによって鷺山に入り込み、
父頼芸に進めて伯父頼武を追い落とし太守とした。その功に依って寵愛に誇り、あまつさえ後には長弘を討ち
太守頼芸を追い失い奉った事、無動の至極と言うべし。そしてあまつさえ私を害しようと計ること、無念の
至りである。ならば此の方より取り詰めて今に思い知らせん。」

そう、密かに関の城主・永井隼人佐と相談し、家臣の日根野備中守弘就、同彌次右衛門両人に申し付け。
弘治元年の秋、二人の弟を鷺山より稲葉山城家の下屋敷に呼び寄せ、斎藤右京亮、同玄蕃允二人を忽ちに
討ち捨てた。

稲葉山の家中より此の事が鷺山に告げられると、道三は大いに怒り、国中の武士に下知して、「稲葉山城を
攻め落とし左京大夫義龍の頸を見せよ」と息巻いて下知した。しかしながら元来入道の悪逆無道によって
義龍に懐いた国勢共は悉く稲葉山に馳せ加わり、鷺山の手には十分の一も行かなかった。鷺山は老臣、
林駿河守通村・入道道慶、川島掃部助、神山内記、道家助六郎を発して長良の中の渡りに打ち出た。
稲葉山勢も大軍を川の東に押し寄せ、川を隔てて相戦った。

敵も味方も同じ家中であり、双方一族演者であった。義龍の旗大将・林主馬は鷺山の大将である林駿河入道の
甥であり、別して晴れがましい軍であった。然れども義龍勢は大軍であり、新手を入れ替え入れ替え、透きも
無く攻めれば、道三は叶わずして鷺山を去り、山県郡北野という所に古城が有り、鷲見美作守と言う者の居た
明城であったが、これに道三は引き籠もっら、林駿河入道は鷺山に在って日々戦った。

同二年四月、山城入道(道三)は手勢を率いて北野城より城田村へ出張し岐阜の体を窺った。この時に
時節良しと思ったのか、同月十八日に中の渡へ発向した。義龍も出馬し川を隔てて散々に戦い、終に道三
打ち負けて、同二十日の暮方に、主従わずかになるまで討ち取られ、城内を目指して引き上げている所を、
義龍勢長良川を押し渡り追い詰め、小牧源太、長居忠左衛門、、林主水の三人にて道三を取り込み、突き伏せて
首を討ち落とした。証拠のためとして、長居忠左衛門は道三入動の鼻を削ぎ取った。
斎藤義龍はこの頸を実検した後に長良川の端に捨てたが、これを小牧源太が拾い、土中に埋めた。
現在、斎藤塚として川の端にある旧跡である。この小牧源太は尾州小牧の者にて幼少の時より山城守の側近く
仕われたが、非道の扱いを受けたこと数度に及び、怨みを含んでいたため、人も多き中に優れて道三を
討った。然れども多年の恩を思ったのか、このように懇ろにその頸を取り納めた。

斎藤義龍は帰陣してそれぞれに恩賞を施し、それより斎藤氏を捨て、一色左京大夫義龍と名乗った。
一色を名乗った故は、道三が実父では無いことを世間へ知らしめる故であった。また土岐氏に一色を名乗る
故事が有るとも、幼少の時に厚見郡一色に居られた故とも、また母の三芳の御方は一色左京大夫の娘で、
母方であるとも云われている。
先ずその心は、一色が母方であるという祖父は丹州宮津の城主で(一色義有ヵ)、武勇人に勝れ世に隠れ無き
勇将であれば、その武威を子孫に伝えんとする心なのであろう。

土岐累代記

斎藤道三の滅亡について。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 16:44:08.08 ID:nZTiVtXX
信長にも道三にも老臣に林がいるんだね
どちらも通の字を通字にしてるし、何か関係があるのかな?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 17:01:05.07 ID:nZTiVtXX
駿河守通政と佐渡守秀貞は従兄弟か
元は稲葉姓

信長は京の町衆の面前で

2019年12月23日 18:36

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 07:50:34.05 ID:njmClHvo
織田信長が若かりし頃の事、尾張統一を果たした1559年、彼は80人の側近を連れて室町将軍・足利義輝との謁見のため上洛する事になった。
その情報を得た隣国の斎藤義龍は好機到来と信長を暗殺するための刺客を選抜して信長一行の後を追わせた。
背後より刺客が迫り来ているとは知らず、京を目指す信長一行であったがこの時美濃からの刺客とは別に、尾張から信長一行を追う者があった。
男色でも知られる那古野弥五郎の配下で丹羽兵蔵と言う侍である。
丹羽と美濃の刺客らは偶然にも琵琶湖を渡る舟の上で鉢合わせ、互いに身の上話をする事になったが、相手の美濃衆を怪しいと感じた丹羽は、三河者を装い巧みに情報を聞き出すと、何と彼らは信長への刺客であると判明。
丹羽は素知らぬフリで京における彼ら刺客連中の宿舎を見定めると、そこに目印(柱を削ったとか)を付け信長一行が逗留する宿舎へ急行。
赤母衣衆の金森長近と蜂屋頼隆に報告。金森と蜂屋が信長にこれを報告した所、信長は美濃の出である金森長近に対し顔見知りも居るだろうから、
彼ら美濃衆に対し信長の元へ「挨拶」に来る様、伝達する旨を命じた。
金森は丹羽に案内され、刺客らの宿舎に向かうと彼らに面会し、暗殺計画が既にバレている事を告げると今なら穏便に済ますから信長の元へ「挨拶」に来る様伝え、刺客らの宿舎を後にした。
刺客らは翌日、今日の町を見物中の、信長と対面。信長は彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で

「この信長を殺しにわざわざ美濃より参った事、祝着至極である。だが、そなたらごときがワシに歯向かうのは蟷螂の斧が如しである。それでもやるかね!?」

と、啖呵を切った為刺客の者達は信長に対して詫びを入れると、はうはうの体で美濃へと逃げ帰ったと言う。

(信長公記)(名将言行録)

余談であるが、丹羽兵蔵が暗殺計画の情報を引き出したのは、刺客一行のなかの最年少の童であったと伝わるが、その方法が如何様な物だったのかは伝わっていない。



434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:05:55.81 ID:1nldD7ts
>>432
原哲夫に採用されそうだな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:39:56.69 ID:z+pALg4m
信長公記の若き信長暗殺計画といえばまとめの2907
信長暗殺計画~比良の奥地に大蛇を見た!~

池の水、全部抜く
みたいな話があったっけ

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 12:37:50.41 ID:DNuEgi6u
>>434
調べ直したら、30名くらいの徒党組んだ刺客集団を率いる6名の武士(小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門)に出会した丹羽兵蔵が、ただ事では無いと感じ、三河の人間を名乗って接近するも斎藤義龍の大事な用事とだけ答えて、後は喋らない。
そこで丹羽は賢い子どもを手懐けて、言葉巧みに彼らの目的を聞き出させた後に刺客連中の宿所を突き止め、金森長近と蜂屋に報告。
信長は金森長近を遣わし、金森は旧知の美濃衆に対し信長は君ら美濃衆の上洛知ってるから自分を挨拶に遣わせた。明日返礼の挨拶に来いと伝達。
ビビった美濃衆は指定された京小川表の管領屋敷で信長と対面して、>>432の通りの啖呵を切られてその迫力に黙り込み退散。
その後、信長一行は近江から念のためルートを変えて八風峠を越えて尾張に帰還。と言う流れの様だ。

居ながら尿を流すは、家の面目

2017年11月28日 15:49

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 13:26:17.99 ID:q/sq0uZp
斎藤道三が3人の息子を前に往昔の軍の手立てなどを語っていた所、嫡男の龍興が、
物語の半ばに立ち上がって用を足しに行った。
道三は不快に思い、龍興が帰ってくるとこのように言った

「武士にとって戦場の物語は、これ皆武義の教えである。志ある者達ならば好んで聞くべきなのだ。
志が有れば、物語の面白さに聞き惚れて、居ながらにして小用を致したとしても無礼とは言わない。
むしろ語り伝えに、『龍興は軍物語に聞き惚れて居ながら尿を流した』と言われるは、家の面目と
言うべきであろう。
お前はやがて家を失い、他の紋に馬をつなぐだろう。」

そう涙を流して諌めたという。

(士談)



342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:05:25.94 ID:+NX5BKfl
>>341
義龍「」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:38.50 ID:q/sq0uZp
>>342
原文ママなのですが、おそらく義龍の間違いでしょうね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:35:25.79 ID:fMrCqu7j
竹中半兵衛「私が、小便をかけた斎藤飛騨守を美濃城乗っ取りの際に討ち取ったように
男子に小便、というのはあまりな屈辱。
先先代のお言葉とは思われません」

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:08:56.81 ID:VQeFYYED
竹中半兵衛でしょ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:12:24.89 ID:q/sq0uZp
>>346
有名なのがそれこそ龍興の家来だった竹中半兵衛が息子重門を叱ったやつで、
竹中半兵衛と座り小便・いい話
何故か伊達政宗にも同じような逸話がある
政宗、息子忠宗を叱る

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/29(水) 10:47:42.90 ID:mFIHIWzA
>>341
その話何パターンあんだよ?
武家の数だけあんのか?

治部大輔義龍は悪逆不孝で

2017年03月29日 19:12

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』


あなたの身より出た罪です

2015年01月08日 18:46

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 23:01:55.13 ID:0XHGkLLF
美濃の斎藤道三には3人の家督候補の子があった。長男は新九郎(義龍)といい、これは先腹であった。
二男は孫四郎、三男は喜平次といい、これは当腹であった。
そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

父道三は三男を愛し、彼を一色氏の跡目とし、一色右兵衛大夫として将軍の御供衆と成した。
その上で、家督には孫四郎を据えようと内室とした私語したのを、6歳になる弟が聞いて、
意味もわからず兄の新九郎に語ってしまった。

新九郎はこれを聞くと仮病を構えて引き篭もり平臥し、万事を伺って観察すると、はたして父道三が
末子を家督に立てる準備が見えたため、道三が鷹狩のため稲葉山城より出かけたのを見計らって、
新九郎は重臣である長井隼人佐と密談し、謀をはじめた。

新九郎は弟達に書状を出した。『私は既に、存命不定の重病に及んでいる。二人の弟に遺言を申し渡したいので
ここに来てほしい。』

そして隼人佐が二人を謀って新九郎のもとに連れてくると、盃を出し末期の名残と酒を進めた。
その時、日根野備中、同弥吉の二人が屏風の影より跳ね出た。日根野備中は孫四郎を一太刀で斬り臥せ、
隼人佐と弥吉は一色兵衛太夫を斬り倒した。

この事を父道三は聞くと大いに驚きはせ帰り、貝を吹いて人数を集め、四方の町の末より放火して
稲葉山城を裸城にして、川を打ち越え山方という山中に引き籠もった。ここに父子の合戦が始まったのである。

しかし国中の人質は新九郎方にあったため、皆新九郎方に馳せ集まり、そのためその後は度々合戦があったものの
次第次第に道三方の人数は少なくなり、弘治2年(1556)、稲葉山から三里離れた場所に高山が在ったが、
道三はこの山に登り陣取ると、婿の上総介信長に美濃国を譲ると申し送った。
これを受け取った信長も、合戦のため大良まで出陣したという。

道三入道もこれが最後と思ったのであろう、その夜、多年にわたり肌身離さず持っていた本尊を、
お守りより取り出し、幼い末子に贈った。それに添えた書状に

『美濃国については織田上総介の存分に任せる。譲り状は信長にもう渡してある。
そのため織田勢は、明日は必ず下口まで出陣してくるであろう。

その方の身の上は、かねてから約束していたように、京の妙覚寺に上り出家するように。
一子出家すれば九族天生すると言われる。この山城入道は、明日一戦に及び遂に討ち死にするであろう。
法華妙体であり、五体満足ではないが、成仏するのに何の疑いがあるだろうか。

卯月十九日        道三入道』

道三は弘治二年四月十八日、鶴山に登って陣取って居たところ、新九郎がこれに向かって陣を出したため、
道三も山を下りこれに馳せ向かった。

この合戦は始め入り乱れ、火花を散らして戦っていたが、やがて道三方が崩れた。
新九郎方の長井十左衛門は大力であり、道三入道と渡り合って太刀打ちをしたが、なんとしてでも
生け捕りにしようとし躊躇していた所に、小牧源太と言う者が後から来て道三の脛を薙ぎ払い
そのまま首を取った。長井十左衛門は躊躇したため人に高名させられて何とも口惜しく思い、
後の証拠として道三の首から鼻を削いで取ったという。

新九郎方は勝利し首実検をしていた所に、父道三の首が持ち込まれた。
新九郎は首に向かって

「あなたの身より出た罪です。私を恨まないように。」

そう語りかけたという。

(江濃記)



199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 22:28:56.20 ID:6dv8G/Ex
>>197
>そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

しかし次の行から鬼になるあたりがやはり親父の子なのだなあ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:24:38.15 ID:VvZLYwRU
蝮は経済政策が苦手で、家臣の総意で隠居を余儀なくされ再起を図った結果、息子に勝てなかったと学者だか小説家だかが書いてたなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:39:50.22 ID:6zDYv1ng
>>199
廃嫡されたら従ってきた家臣は冷飯食いだからな
主君を脅してでも強行するさ

202 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/09(金) 03:00:18.78 ID:GN5xfV0A
武田信玄の親父追い出しがうまくいかずに内戦になったバージョン

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 03:37:36.82 ID:GN5xfV0A
武田晴信と武田信虎は骨肉の争いを繰り返すも、信虎が敗死
死の間際に娘婿の今川義元に「甲斐を譲り渡す」と遺言書を送ったのであった
義元は援軍を連れて進軍中だったが、義父の死を知ると兵を返す
父信虎を討った晴信は、生来の病弱が祟りその後5年ほどで急死した
家督は晴信の義信が継ぐが、義元の甲斐侵攻を受けて国を失った

てなことにもなったかもしれない

斎藤家内訌

2011年08月07日 23:00

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:36:49.44 ID:MLR7INB2
斎藤家内訌


天文24年(1555年)当時、美濃の大名である斎藤家の家督は「蝮」の異名をとった道三から嫡男である義龍に既に譲渡されていた。
しかし、道三は前妻の子である義龍より後妻の子である孫四郎、喜平次兄弟を愛しており、
特に喜平次には官を進めて「一色右兵衛太輔」と名乗らせるなど優遇していた。
道三がこんな調子であったので孫四郎、喜平次兄弟はすっかり奢り高ぶり、義龍を侮るようになってしまったのである。
そうした情勢の中で同年10月13日、義龍は病を患ったと称して引き篭もってしまい、床に伏せる毎日を送った。

しかし11月22日、道三が稲葉山城から山下の別邸に移ったという知らせを聞くとここで義龍は動く。
義龍は叔父の長井道利と語らって、道利に孫四郎、喜平次兄弟へ使者を出させた。
「義龍は重病を患っており、後は時を待つのみ。ついては今後のことについて相談があるので入来されたし。」
使者がこう伝えると孫四郎、喜平次兄弟は義龍に対面するべく稲葉山城へと参上した。

長井道利は孫四郎、喜平次兄弟が同じ部屋に来ると次室に入ったが、ここで道利は刀を外し、また奥の間へと入った。
それを見た孫四郎、喜平次兄弟も同じように次室で刀を外し、奥の間で道利と対面するように座る。
その後、道利は孫四郎、喜平次兄弟に酒を振る舞い、二人がすっかりと酔ったところで一人の男が部屋に飛び込んできた。

部屋に上がりこんで来た男は義龍に側近として重用されていた日根野弘就であった。
弘就は上がりこむや否や刀を抜き放つと上座にいる孫四郎を斬り伏せ、返す刀で喜平次も斬殺した。
孫四郎、喜平次兄弟は叔父の長井道利を巻き込んだ義龍の謀略にまんまと嵌められたのである。
そして義龍はこの事件の一報をあえて父道三へと届けさせたが、この知らせにはさしもの道三も仰天し、また深く落胆したという。



超有名なエピソードだけどまだ投下されてなかったみたいなので。




343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:58:43.97 ID:5bOHQTY1
一応、名目上は見舞いに来てるのに酒宴してるってのも失礼な話だなw

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 22:06:21.71 ID:ZVv93d8k
いくら一族とは言えもう少し警戒しないとな宇喜多直家に対する忠家のように

織田信長と義竜の茶器・いい話

2008年10月16日 10:24

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/16(水) 01:38:03 ID:jrnwjRYY
信長が上洛した頃の事

京には、今は亡き斉藤義龍の妻が隠棲していた。その女が、美濃斉藤家に伝わる茶道具の名品を、
義龍の形見として持っていると言う事を知った信長、早速その名品を自分に献上させる様に命令した。

だが、彼女はそれを拒否。信長の使者を追い返した。これを聞いた信長は、女を殺してでも奪って来いと
怒った。その時、稲葉、安藤、氏家の、西美濃三人衆をはじめとする、今は信長に仕える旧斉藤家の家臣たちが、皆
信長への面会を求めてきた。何事かと召し出すと、彼らは、「義龍公の奥方から茶道具を取り上げるとの事、
どうか、考え直していただきたい」

さもなくば、

「我ら一同、この場で腹掻っ切ります」


これには信長も、彼らの要求を呑むしかなかった。
美濃系の武将の家に、長く伝わったお話。




498 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/07/16(水) 05:51:30 ID:6d2eLwz4
オチが家康系だな
信長系のオチだと本当に腹切らせたとかなりそう
秀吉系のオチなら後で美濃衆の縁者を処刑したってなるのは確実

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/16(水) 11:10:33 ID:wbYBbw2U
>>498 100点

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/16(水) 17:44:50 ID:Jh04Gc8R
>>497
それは言継卿記に出てくる壷事件の事なんだろうな。
美濃国人の佐藤が岐阜に滞在していた言継卿に語った話として出てくる。