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ここを落ちて存命をなし、明智の家名を立てられなされ

2020年05月17日 16:39

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:19:59.93 ID:Noq7djiy
しかるところ、当国の守護職・斎藤右京大夫義龍は実父・頼芸の仇故に養父・道三と父子の義を断
ち合戦を初め、弘治2年辰(1556)の4月、方県郡城田寺村でついに道三を討ち取り、一国を
押領し“一色左京大夫”と改めて稲葉山の城に存在した。

まことに道三の多年の不義は、諸人皆がこれを憎んだ故に、その日の合戦には多くが子息の義龍の
手に加わり、道三のもとへ馳せ参る者は少なかったのである。しかるに、明智兵庫助光安入道宗宿
は兼々道三に尊敬されて常に厚情を尽くされた。元来、宗宿の妹は道三の本室である。もっとも早
世したといえども、一度縁者の因を結んだ仲であった。しかし、宗宿はもとより大丈夫(立派な男
子)の勇士なので、道三の威を慕ったわけではない。縁辺の義父・駿河守光継入道宗善が在世の時
に道三が妹を乞い、太守・頼芸に申して縁結したものである。

道三は元来大志あった故に明智の家を一方の盾ともなす心であったので、常々礼儀を厚くして懇情
を尽くした。あるいは尾州の織田を他国の垣根となして、我が娘を信長に嫁がせた。皆大志の下心
である。弘治2年の春に至り、子息・義龍は義兵を起こし合戦に及んだところ、国中の諸士は皆実
義を糺してことごとく義龍の手に至り、道三方は微勢となってたちまち武威衰え、戦う前に道三が
打ち負けること必然と見えたのだった。この時に宗宿が思うには、

「某は今度の合戦こそどちらにも加わり難い。道三はすこぶる逆臣だから誅するのは利の当然であ
るが、彼が日頃私を重んじ厚情を尽くしたことは言葉に述べ難い。その下心の程は『身の上難儀の
事あらば頼みにしたい』との斟酌であろう。彼はまさに今大事の期に及んだ。某は恩情に心を引か
れて傾くわけではないが、彼が衰えたる時節を見て無体に攻め討つのは大丈夫のすることではない。

また義龍は実父の仇を討つと称して義兵を挙げたのに、某が道三に与力して戦えば土岐・明智の先
祖代々に対して大不孝と言えよう。故に両儀決せず、いずれも加わり難い。だが某は進退窮まった
といえども甥の光秀は当家の真嫡なれば、これ一人は義龍のもとへ参らそう」

と光秀のみを稲葉山へ遣した。さて弘治2年、鷺山の合戦終わり道三すでに討たれて後は道三一味
の面々ことごとく討死し、残る輩は皆義龍に降参して国中はようやく平均した。すると宗宿は決し
て出仕せず、つらつら思うことには「義龍は義兵の名ありといえども、(道三は)現在の養父にし
て胎内からの恩は甚だ深い。また先の太守頼芸には本室の実子が数多いる。長男の一色小次郎頼秀
は尾州にいる。二男の左京亮頼師もまた当国にいる。しかれば、これらをもって義兵を発したなら
ば実に忠義孝心であろう。

ところが今すでに義龍の代となり、私がまたこれに伏せば世上の人は憎んで『宗宿こそ懇情あった
道三をも助けず、また合戦の折には義龍にも組せず、命を惜しんで運を両端に計り勝負を眺め、ど
こへも出馬せず戦は収まり、義龍の代になったのを見てたちまち身を寄せた』などと嘲り笑われる
のも口惜しき次第である。殊に某は道三の尊敬を受けた身なれば、諸人の心は道三を心贔屓してい
る様に思って、義龍を始め私の心中を疑い思うのは必定である。

所詮長らえて諸人の口外に残るのも残念なり。ただ速やかに当城に立て籠もり、華々しく討手の勢
を引き受け討死し武名を残してこそ本意であろう。そうでなくても某が『道三と一腹ではないか』
と諸人の疑い思う折であるから、城に籠って出仕すまじと言えばすぐに討手が来るのは必定である。
某が潔く死ねば義ある道三のためにも道が立つ。主家の恨みは心にあれど現在の妹の婿の名があり、
厚情はなお甚だしい。

某50歳の上に満ちて惜しからぬ命を1つ捨てようとして死に迷い、恥ずかしき名を取れば清和天
皇より21代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一家を私だけで悪名を付け末代まで恥辱を残す
ことは無念の儀である。早く義龍方へ手切れの使いを送り、一門を催して当城に立て籠もり、討手
が来たら思いのままに戦って屍を大手の城門に晒し、本丸に墳墓を残すべし」と思惟を決し、討死
と覚悟を極めたのであった。時に弘治2年9月に至り、一門を催して明智の城に籠った。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:23:55.83 ID:Noq7djiy
大将の宗宿53歳、同次左衛門光久50歳、その弟・十平次光廉は尾州にいてこれを知らず。従う
一族には溝尾庄左衛門・三宅式部之助・藤田藤次郎・肥田玄蕃・池田織部・可児才右衛門・森勘解
由などを始め、その勢わずかに870余人であったが義心金石と固まり、心を一致して籠城した。

さて右の子細が稲葉山に聞こえると斎藤義龍は甚だ驚き「早く誅さねば東美濃の過半がこれに従う
だろう」と即時に討手を差し向ける。その時、揖斐周防守光親は義龍を諫めて曰く、「明智宗宿は
古今の義士なり。名を重んじ叶わないと知って籠城するのは大丈夫の振る舞いです。ただ速やかに
利害の使者を送り、ひらに帰伏の旨を申し宥めてしかるべきです」と、言った。

しかしながら義龍は血気の破将故にこれを用いず、ただ攻め討ちと決した。ここに至って揖斐も是
非なく討手に向かう。その人々は長井隼人正道利・井上忠左衛門道勝・国枝大和守正則・二階堂出
雲守行俊・大沢次郎左衛門為泰・遠山主殿助友行・船木大学頭義久・山田次郎兵衛・岩田茂太夫な
どを先手としてその勢3千7百騎。9月19日に稲葉山を出陣し、明智を目指して押し寄せた。

宗宿は少しも多れずここを先途と防ぎ戦った。元来、城の要害堅固にしてどこも破れる浅間も無く、
攻め兼ねて見合わせた故、その日はすでに暮れていった。よってその翌日、再び鬨を発して攻め寄
せたが、宗宿は前夜から酒宴をなし夜もすがら謡い舞い、死出の盃をなして、翌日城外に打って出
て思う程に一戦し早々に城に入ると、その日の申の刻、本丸の真ん中で火を掛けことごとく自害し
て果てた。康永元午年(1342)に明智開基してより年数215年にしてこの日ついに断絶した。

しかるに嫡子・光秀はここまでも城中にいたが、宗宿がこれに申したことには、「我々は自害せん
と存ずる。御身はきっと殉死の志であろうが、某らは不慮の事でこのようになり、家を断絶します。
御身は祖父の遺言もあり、また志も小さくないので、なにとぞここを落ちて存命をなし、明智の家
名を立てられなされ。ならびに我々の子供らをも召し連れて、末々まで取り立て給わるよう頼み申
すなり」と、申し置いて死んだのであった。

これによって(光秀は)死を止まり城を落ちて西美濃に至り、叔父の山岸光信のもとにしばらく身
を寄せ、すなわちここに妻子ならびに従弟どもを預け、それより6ヶ年の間諸国を遍歴して武術の
鍛錬をなし、それより永禄5年(1562)に越前の太守・朝倉左衛門尉義景に仕官して、その後
同11年の秋より足利新公方義昭公の推挙をもって織田信長に仕え、後に60万石余の大名となる。

――『美濃国諸旧記



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下郡半国も過半は御敵となったのである

2020年05月11日 17:37

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 02:53:00.32 ID:2m/XX9y0
(長良川の戦い後)

戦が終わり首実検をすると(斎藤義龍は)信長の御陣所である大良口へ人数を出した。信長は大良
から30町ほど駆け出て、および河原で戦い合う足軽合戦があって、

山口取手介 討死
土方喜三郎 討死
森三左衛門(可成) 千石又一に渡し合い、馬上で切り合って三左衛門は脛の口を切られ引き退く。

しかし、山城(斎藤道三)も合戦に切り負け討死の由なので、信長は大良の御本陣まで引き入った
のだった。ここで大河を隔てていたので、雑人・牛馬をことごとく退かせなさり、殿は信長がなさ
るとの由で全ての人数に川を越させなさり、上総介殿(信長)の乗られる御舟1艘を残して各々は
川を打ち越えた。

すると馬武者少々が川端まで駆けて来た。その時に信長は鉄砲を撃ちなさり、敵はそこから近くに
は寄らず、信長はそこを去って御舟に乗られて御越しになった。

そのようなところで、尾張国半国の主・織田伊勢守(信安)は濃州の義龍と申し合わせて、御敵の
色を立てる。信長の館・清州の近所、下の郷という村を放火したとの由が追々注進された。信長は
御無念に思し召し、ただちに岩倉口へ御遣わしになって岩倉近辺の知行所を焼き払い、その日の御
人数は御引き取りになった。

このようであったため、下郡半国も過半は御敵となったのである。

――『信長公記 首巻』



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 15:47:24.33 ID:YxnV2kQk
土岐のご落胤なんてのは取って付けた名分であって実際は国人領主に担ぎ上げられた義龍が道三を討っただけ
伊達も武田も似たようなものでしょう

“はんか(范可)”

2020年05月10日 16:45

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 10:08:14.32 ID:Bhm2267u
山城(斎藤道三)には子息に一男・新九郎(斎藤義龍)、二男・孫四郎、三男・喜平次の兄弟3人がい
た。父子4人ともに稲葉山に居城していた。

およそ人の惣領たる者は、決まって心が緩々として穏当なものである。道三は智恵の鏡も曇り「新九郎
は耄者(愚か者)」とばかり心得て弟2人を「利口の者かな」と崇敬し、三男の喜平次を一色右兵衛大
輔になしながら位官を進められた。そのようであるために弟どもは勝ちに乗じて奢り蔑む如く応対した。

新九郎は体裁を無念に存じ、10月13日より作病を構えて奥へ引き入り養生したのである。霜月22
日、山城道三は山下の私宅へ下られた。ここで伯父の長井隼人正(道利)を使いにして、弟2人の方へ
申し遣したことには「現在、急病で時を期すことになった。対面して一言申したきことがあるので来て
ほしい」と申し送った。

長井隼人正は巧みを廻して意見申すと、同心して2人の弟どもは新九郎の所へ来たのである。長井隼人
正が次の間に刀を置くと、これを見て兄弟の者も同じように次の間に刀を置き奥の間へ入った。良き盃
をと振る舞いを出し、日根野備中(弘就)は名誉の物切のふと刀“作手棒兼常”を抜き持ち、上座にいた
孫四郎を切り伏せた。また右兵衛大輔(喜平次)を切り殺し、年来の愁眉を開いたのであった。

すなわち山下にいた山城道三方へ右の趣が申し遣され、仰天致して肝を消すこと限りなし。ここで法螺
を立てて人数を寄せ、四方の町末より火を掛けことごとく放火して井口を裸城になし、長良川の川を越
えて山県という山中へ引き退き、明くる年4月18日、鶴山へ取り上って国中を見下ろし居陣した。

信長も道三の婿なので、手合わせをして木曽川・飛騨川を舟で渡り、大河を打ち越えて大良の戸島東蔵
坊の構に至って御在陣された。すると銭亀がいてここもかしこも銭を敷いたようであった(戸島東蔵坊
構に至て御在陣。銭亀爰もかしこも銭を布たる如く也)。

4月20日辰刻、戍亥へ向かって新九郎義龍は人数を出した。道三も鶴山を降り下り、長良川の端まで
人数を出された。一番合戦に竹腰道塵(道鎮)6百ばかりが真ん丸になって中の渡りを打ち越え、山城
道三の旗本へ切り掛かった。散々に入り乱れ相戦ってついに竹腰道塵は合戦に切り負け、山城道三は竹
腰を討ち取って床木に腰を掛け、母衣を揺すり満足した。

そんなところで二番槍に新九郎義龍の多くの人数がどっと川を越え、互いに人数を立てて備えた。義龍
の備の中から武者一騎、長屋甚右衛門という者が進み掛かる。また山城の人数の内より柴田角内という
者がただ一騎進み出て長屋に渡し合い、真ん中で相戦って勝負を決し、柴田角内は晴れがましき高名を
なした。

双方より掛かり合って入り乱れ火花を散らし、相戦ってしのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思い
の働きあり。長井忠左衛門(井上道勝)は道三に渡し合い、太刀を押し上げむずと抱き付き、山城を生
け捕りに仕らんというところへ荒武者の小真木源太(小牧道家)が走り来たり、山城の脛を薙ぎ伏せて
首を取った。忠左衛門は後の証拠のためにと山城の鼻を削いで退いた。

合戦に打ち勝って首実検のところへ道三の首を持って来た。この時(義龍は)「身から出た罪である」
と得道したのであった。これより後に新九郎は“はんか(范可)”と名乗った。故事があって、昔唐のは
んかという者は親の首を切った。それは父の首を切って孝となったのだという。(それに比べて)今の
新九郎義龍は不孝重罪恥辱となったのである。

――『信長公記 首巻』



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 12:39:32.94 ID:HKYSxrCU
織田としてはそうせざるを得ないわなw

しかるにその頃、斎藤道三という者あり

2020年05月08日 16:57

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:19:48.45 ID:f/1PIr3N
しかるにその頃、斎藤道三という者あり。その由緒を尋ねるに、元来その先祖は禁裏北面の武士である。
藤原氏にして大織冠鎌足公六代の孫・河内守村雄の子(中略)その子・左近将監基宗。その基宗の子が
道三である。松波は代々上北面の侍だったが、基宗の代に至り故あって山城国乙訓郡西の岡に居住した。

道三は永正元甲子年(1504)5月出生。童名“峯丸”という。生まれ付き美々しく諸人に優れ、幼
少の頃より智慮賢く、成人の後はしかるべき者ともなるだろうと寵愛甚だしかった。父の基宗は峯丸が
生まれ付き只ならぬのを察して、「凡下になし置くのも残念だ」と、峯丸11歳の春に出家させ、京都
妙覚寺の日善上人の弟子となし“法蓮房”と号す。元来利発の者なので日善上人に随身して、学は顕密
の奥旨を極め、弁舌は富楼那にも劣らず、内外を良く悟りすこぶる名僧の端ともなった。

(中略)

さてまた、法蓮房は常々南陽房を引き回すほどの者なのでもっぱら無双の名僧であったが、ある時いか
なる心が付いたのか三衣を脱いで還俗し、西の岡に帰って住居し、奈良屋又兵衛という者の娘を娶って
妻となし、かの家名を改めて“山崎屋庄五郎”と名乗り灯油を商いした。後に父の氏を用いて“松波庄
五郎”と号す。元来この者は心中に大志もあったのか、出家の間にも和漢の軍書に眼を晒して合戦の指
揮、進退駆け引きの奥義を学び、また良く音曲に達し、あるいは弓砲の術に妙を得ていた。

大永(1521~)の頃より毎年美濃国に来て油を売っていたのだが、かの厚見郡今泉の常在寺の住職
である日運上人は幼少の頃の朋友で、その知辺があることで数日常在寺に来たり、様々な物語りなどし
て当国の容体を窺った。

元来聡明英智にして武勇剛計を志し、身は賤しき商民なれども心は剛にして思い内にありといえど、時
を得ずして本国を離れ斯くの如く身を落として濃州に来たり、立身出世を心がけて川手・稲葉・鷺山な
どの城下に至り、日々灯油を売り歩いて行ったのだが、弁舌をもって諸人を欺いていた。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:23:16.30 ID:f/1PIr3N
ある時、人に向かって申し「私めは油を測るのに上戸(漏斗)を使わずに、1文の銭の穴から通すこと
ができる!もし穴から外へ少しでもかかったならば、油を無料で進ぜよう!」と言えば、皆人はこれは
稀有の油売りだと城下の者どもは他の人の油はあえて求めず、ただ庄五郎の油のみを買った故に、しば
らくの内に数多の利分を得て大いに金銀を蓄え、なおも油を商いした。そのため稲葉山の城主・長井藤
左衛門長張(長弘)の家臣・矢野五左衛門という者は、この由を聞いて庄五郎を呼び自ら油を求めた。

すると庄五郎は畏まって銭1文を取り出し、件の油を四角の柄杓で汲み出し流れること糸筋の如く、細
く滴って銭の穴を通せば五左衛門大いに感じ、申して曰く「まことにこれ不思議の手の内なり。よくも
まあ手練したものだ。しかしながら惜しいことだ。これほどに業を良く得ていても賤しき芸である故に、
熟したところでわずかの町人の業である。哀れ、かほどの手練を私が嗜む武術において得る程であれば、
あっぱれ後代にその名を知られる武士ともなるだろうに、残念なことよ」と申した。

庄五郎はこれを聞いて、実に矢野の一言はその理に至極せりと我が家に帰り、そのまま油道具を売り払
い右の商売を止めて心中で思うには、「私はいささか軍書に心を寄せているといえど未だ熟していない。
いずれの芸を嗜むにしても、その極意の至るところは、1文の銭の穴から油が通る時に外にかからない
如く、皆手の内の極まるところにある。弓矢鉄砲で良く的当するのもこの理に等しい。それならば長槍
を手練しよう」と欲した。

庄五郎は自ら工夫して我が家の後ろに行き、藪のある所で銭1文を竹の先に釣り置き、3間半の長槍を
拵えて穂先は細い釘で作り、一心不乱に毎日毎日銭の穴目掛けて下から突いていたのだが、中々初めの
頃は掌定まらず突き通すことができなかった。しかし『極志も業も一心にあり』と兵書に言われる如く、
一心二業一眼二早速一心眼に入り早速心に入って業は定まり、後には終いにこれを突き通す程になった
ので、百度千度突くとも1つも外すこと無く、その術はほとんど一必定に止まったのである。

すなわち庄五郎はこれを旨として名師とさえ聞けばたちまち随身してこれを励み、切磋琢磨の功を積ん
で武術兵術一つとして欠けることなく、実に希代の名士となったのである。世に3間半の長槍が流布し
て用いたがこれより始まったのである。いかにもその徳はあまねく多かった。

また庄五郎は砲術に妙を得ていた。細やかにして、提針をも外さなかった。天正(1573~)の頃、
明智光秀が砲術に妙を得ているといってその名を知られたのは、初めこの道三を師としてこれを手練し
た故である。

――『美濃国諸旧記

麒麟がくるにも利政が銭を槍で突くシーンありましたね




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:30:29.79 ID:UkSAmB4F
雑兵物語だと長槍は叩くものだけど、三間半の槍で道三は突いてるのね

それにしても長槍の兵を組ませたのは信長って俗説あったと思うけど、あれはどっから生まれたんだろうか

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 12:45:36.26 ID:wR/yUS7S
商売の達人であり鎗の達人であり砲術の達人でもあるのに内政・人望0の男

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/05/08(金) 15:42:06.18 ID:ASHIDqPN
というかそれは国盗り物語以来の有名なお話じゃん
槍で銭突くの

永井カ事 斎藤カ事

2020年05月03日 15:38

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 14:51:56.49 ID:vyOfXi5D
永井カ事

永井(長井)と申すは初めは永江(長江)とも名乗った。美濃居益(今須)の城主なり。これも初めは
公方に奉仕し、京都に参勤した。嘉吉の頃、備中守高景と申す人は土岐殿の外戚で同国の豊島(富島)
を知行した。

斎藤と仲が悪くなって度々合戦があり、備中守高景と同子息・四郎左衛門景秀は討死したのであった。
その跡を永井藤左衛門が知行して斎藤に従った。石丸丹波守(利光)父子は明応5年(1496)、斎
藤持是院(斎藤妙椿。妙純の誤り)に滅ぼされた。

斎藤カ事

美濃斎藤は元は越前の住人、利仁将軍の末葉なり。代々美濃国革手(川手)の城主である。土岐は屋形、
斎藤は守護代なり。しかしながら、前代の時には“土岐斎藤”といって国人も一双のように思ったので
ある。元弘の昔にも、土岐頼員は斎藤利行の婿であった。その後、高氏(足利尊氏)の御代となっても
斎藤はなおも美濃に繁昌したのである。

その初めの祖を越前守経永と号す。その子・利明、その子・越前守利永、その次・利藤。帯刀左衛門尉
は成人の子が無く、利明の二男・三位僧都妙椿(斎藤妙椿)が世を継ぎ給う。その人は武道・和歌の達
者で持是院大年公清法印とも申す。明応5年12月7日に逝去なされた。姪を養子として斎藤駿河守基
秀(妙純)と号す。また利国とも名乗った。この人に子無くして利藤の子・利綱にしばらく家督を譲り、
この人の時に斎藤家は断絶した。

しかるに、斎藤家の家僕は永井藤左衛門や同豊後守などであった。豊後守は山城国西の岡より牢人して
斎藤家に来たり、藤左衛門の与力となって度々合戦に労功を積み“永井豊後守”と号してかの家の家僕
となる。斎藤の家督断絶の時、かの家領を両人で知行した。

その頃、公方・義尹(足利義稙)と細川高国より斎藤を召されたのだが、上らなかったので公方より勢
を向けられ、永正17年(1520年)に近江勢が向かった時、革手の城はあまりに要害悪しきとして
稲葉山を取り立てこれを城となした。

その後、藤左衛門と豊後守は不和になって豊後守は病死し、その子・山城守利政の代になってやがて藤
左衛門を討ち取り、斎藤を名乗って自ら美濃半国を知行し、入道して“道三”と号す。

――『江濃記

老人雑話にもありますが、江濃記も父子二代の下克上を記述してますね。



斎藤山城先祖の事

2020年05月02日 17:55

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 15:21:10.72 ID:2s/eWQiV
斎藤山城先祖の事

斎藤右京太夫龍興の由来を詳しく尋ねるに、三代以前斎藤山城守と申すはその昔、都において賤しき
笠張りであった人として生まれ、「ああ、むなしく朽ち果てるのも口惜しい。いかなる侍でもなって
小知をも汚したきものよ」と心中に深く思ったので、まず清水へ七月七夜籠ったのである。

満する夜の夢に「みのふまへてかさをはれ」という夢を見て、我ながらも不思議に存じ博士にこれを
尋ねれば、「なるほどこれは有り難き御告げなり。急ぎ美濃路へ御越しになって、良き大名を御頼み
なされ」と申したので、それならばと博士の申すに任せて美濃国を志して罷り下った。

するとその頃美濃国の大将を土岐美濃守時益と申して、大桑の城郭を構えていらっしゃった。笠張り
は便りを求めてこの君に仕え、中間奉公を勤めた。夢の告げは頼もしく、昼夜奉公は油断無く相勤め、
土岐の御気に入ること限りなし。

ある時、鷹野に御出になろうと催された。するとどうしたことか御鷹がそれて、かの中間の部屋梁9
尺長さ2間の長屋の中に3間柄の槍をかけてあったのだが、身の方2間は屋内に石突は外へ出ていた。
その槍の柄にかの鷹が止まった。土岐殿はじかに御居へなられ、「この小さき長屋の内に3間柄の槍
を嗜むとは只者にあらず」と感じ思し召し、御知行百石を下し置かれた。

それより立身して“斎藤山城守”と申し、御家老まで経上ったことこそ不思議なことである。それよ
り下々に情けをかけ、段々首尾を纏い時至り、土岐殿を打ち滅ぼし奉り国を押領し、「大桑は城内が
狭い」と井の口稲葉山に城を構え美濃国を切り従え、あまつさえ信長公を婿に取ったのも、かの夢の
告げであったのだろうか。(後略)

――『堂洞軍記




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 15:51:05.46 ID:UQtgzfg2
身延前で傘を張れ

法華宗に入信しろ、てことかと思った

山城守殿は我が親の仇である

2020年04月29日 17:37

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 16:07:23.86 ID:SWnYE4NJ
(前略)

それより山城守(斎藤道三)は男子3人を設けた。長男は義龍とぞ申しける。

ある時、山城守が外出なされた後で、義龍は母儀に向かって申されたことには「山城守殿は美濃一国を
従え信長を婿に取るほどの威勢おありといえども、筋無き侍のように承ります。武士は氏を威勢に仕え
るものであるのに口惜きことに存じます」と宣えば、

母君は涙を押さえて、「幼き心にはそのように口惜しく思われましょう。さりながら、その方には並び
無き系図がおありですから密かに乳母に御尋ねなされ」と、またさめざめと泣き給う。義龍は不思議に
思い乳母に密かに御尋ねになれば、乳母は承り「音高し!」と小声になって申したことには、

「御父山城殿は筋無き都の笠張と承ります。ある夜の夢の告げにより大殿様に奉公なされて、日々立身
なされました。御家老まで経上がりついに大殿様を滅ぼし御台様を奪い取り、国を押領なされたのです。
古は大桑という所に御在城なされましたが、城内は狭いとこの稲葉山に城を構え、若君の御事はその時、
御母君の腹内におられたので土岐の御筋目でいらっしゃいます。ああ、賢人には漏らしなさるな。御舎
弟御両人は山城守殿の御子息なのです」

と、ことごとく語れば、義龍はいよいよ無念に思い、後見の日根野弥次右衛門(弘就)という者を語ら
い「山城守殿は我が親の仇である!何とぞ討ち取り、我が無念を晴らしてくれよ!」と涙とともに申さ
れれば、弥右衛門は承り「この事は某に御任せください。まず御家中残らず下々まで御情けをかけられ
て、“若君ほどの殿はあるまい”と一家中に思い入れさせ、その節に至り某が存じ寄りますので、それ
までは御色にも出しなさるな!」と、よくよく諫め申して時至るのを待っていた。

されば義龍の才智は世に優れなされたので、弥右衛門の申す通り一家中へ残らず御情けをかけなさると、
「今はこの君の御事ならば御馬の先に立ち御命に替わらんものを」と、思わぬ者も無かった。

ある時、山城守殿は御鷹野に出なされば、弥右衛門は「時こそ至れ!」と若君を語らい御舎弟御両人に
御振る舞いを催し、義龍・弥右衛門両人は手ずから膳を据え折を窺い、兄弟の御首を水もたまらず打ち
落とし、さて大手を固めて門を閉ざし櫓櫓に弓鉄砲を仕掛け用心を厳しく構えれば、山城殿が鷹野より
にわかに取って返し合戦に及ぶといえども、一家中一味の上は是非無く討死なされた。まことに栄華盛
んであるといえども、主を殺した天罪は逃れるはずもなければ、程も無くしてあえなき死をし給いけり。

その後、日根野弥右衛門は備中守にぞなりにける。義龍は政道正しくあられたので信長公の下手に立つ
ことはなかったが、龍興の代に至り奢り強く政道正からざるによって、信長のためについに滅ぼされ給
いける。

――『堂洞軍記



41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 17:02:10.29 ID:ffOyh58L
>>40
信長と濃姫が結婚した頃って、まだそこまで信長の評価は高くなかったんじゃね?
後世に残る伝説はいろいろあっても、まだ何も実績を上げてない時期だよね

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 23:59:28.76 ID:I8j5ty7S
>>41
どこから濃姫が出てきたんだ?w

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/30(木) 00:44:49.91 ID:X0uIBxlF
>>43
「信長を婿に取るほどの威勢おありといえども~」の行の所からの推測ではないかな。
隣国の有力領主と血縁を結んで従えた(by斎藤家視点)程の威勢だが、て程の意味かと。

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/30(木) 14:54:57.50 ID:8jN8DtWe
斎藤道三の下克上に対して土岐を奉じた朝倉織田連合が美濃に押し寄せてたから信長を婿に取るのは戦略上有効な手ですよ
うつけだろうが魔王だろうが関係ねえ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 11:41:15.11 ID:mAEQIMQn
>>41
うつけと名高い信長を婿にするほど斎藤に威勢がある
ととれなくもないし
尾張を主導している信秀の息子を婿にできた
と義竜が思ったのかもしれない

どんなつもりで後世の作者が書いたのかは知らんが

”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



斎藤道三の滅亡

2020年01月26日 16:28

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 11:54:36.87 ID:Khkap7O0
織田家との和睦が成り、その後尾濃両国太平と成って国民が安堵の思いを成す所に、斎藤父子の合戦が
たちまち始まり、終に当家滅亡の時至ること、天罰のいたる所である。故に国中兵乱起こり国民は薄氷を踏む
思いを成した。

斎藤道三は当腹の子・孫四郎を寵愛し、右京亮と名乗らせ嫡子義龍をいかにもして害し、右京亮に国を
立てようと企んだ。これは偏に、義龍が先の太守の胤であった故にこれを謀ったのである。
義龍はこれを聞いて大いに怒り。

「我斎藤の家名を継ぐと雖も実は先太守頼芸の胤であり、忝なくも源頼光の嫡孫である。一方彼は松波庄五郎
といって商家の下賤である。先の太守が次郎と呼ばれていた時、長井長弘の取り持ちによって鷺山に入り込み、
父頼芸に進めて伯父頼武を追い落とし太守とした。その功に依って寵愛に誇り、あまつさえ後には長弘を討ち
太守頼芸を追い失い奉った事、無動の至極と言うべし。そしてあまつさえ私を害しようと計ること、無念の
至りである。ならば此の方より取り詰めて今に思い知らせん。」

そう、密かに関の城主・永井隼人佐と相談し、家臣の日根野備中守弘就、同彌次右衛門両人に申し付け。
弘治元年の秋、二人の弟を鷺山より稲葉山城家の下屋敷に呼び寄せ、斎藤右京亮、同玄蕃允二人を忽ちに
討ち捨てた。

稲葉山の家中より此の事が鷺山に告げられると、道三は大いに怒り、国中の武士に下知して、「稲葉山城を
攻め落とし左京大夫義龍の頸を見せよ」と息巻いて下知した。しかしながら元来入道の悪逆無道によって
義龍に懐いた国勢共は悉く稲葉山に馳せ加わり、鷺山の手には十分の一も行かなかった。鷺山は老臣、
林駿河守通村・入道道慶、川島掃部助、神山内記、道家助六郎を発して長良の中の渡りに打ち出た。
稲葉山勢も大軍を川の東に押し寄せ、川を隔てて相戦った。

敵も味方も同じ家中であり、双方一族演者であった。義龍の旗大将・林主馬は鷺山の大将である林駿河入道の
甥であり、別して晴れがましい軍であった。然れども義龍勢は大軍であり、新手を入れ替え入れ替え、透きも
無く攻めれば、道三は叶わずして鷺山を去り、山県郡北野という所に古城が有り、鷲見美作守と言う者の居た
明城であったが、これに道三は引き籠もっら、林駿河入道は鷺山に在って日々戦った。

同二年四月、山城入道(道三)は手勢を率いて北野城より城田村へ出張し岐阜の体を窺った。この時に
時節良しと思ったのか、同月十八日に中の渡へ発向した。義龍も出馬し川を隔てて散々に戦い、終に道三
打ち負けて、同二十日の暮方に、主従わずかになるまで討ち取られ、城内を目指して引き上げている所を、
義龍勢長良川を押し渡り追い詰め、小牧源太、長居忠左衛門、、林主水の三人にて道三を取り込み、突き伏せて
首を討ち落とした。証拠のためとして、長居忠左衛門は道三入動の鼻を削ぎ取った。
斎藤義龍はこの頸を実検した後に長良川の端に捨てたが、これを小牧源太が拾い、土中に埋めた。
現在、斎藤塚として川の端にある旧跡である。この小牧源太は尾州小牧の者にて幼少の時より山城守の側近く
仕われたが、非道の扱いを受けたこと数度に及び、怨みを含んでいたため、人も多き中に優れて道三を
討った。然れども多年の恩を思ったのか、このように懇ろにその頸を取り納めた。

斎藤義龍は帰陣してそれぞれに恩賞を施し、それより斎藤氏を捨て、一色左京大夫義龍と名乗った。
一色を名乗った故は、道三が実父では無いことを世間へ知らしめる故であった。また土岐氏に一色を名乗る
故事が有るとも、幼少の時に厚見郡一色に居られた故とも、また母の三芳の御方は一色左京大夫の娘で、
母方であるとも云われている。
先ずその心は、一色が母方であるという祖父は丹州宮津の城主で(一色義有ヵ)、武勇人に勝れ世に隠れ無き
勇将であれば、その武威を子孫に伝えんとする心なのであろう。

土岐累代記

斎藤道三の滅亡について。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 16:44:08.08 ID:nZTiVtXX
信長にも道三にも老臣に林がいるんだね
どちらも通の字を通字にしてるし、何か関係があるのかな?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 17:01:05.07 ID:nZTiVtXX
駿河守通政と佐渡守秀貞は従兄弟か
元は稲葉姓

土岐頼芸追放後の斎藤道三

2020年01月25日 16:54

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/25(土) 12:51:57.67 ID:id9IS+DC
かくして斎藤山城守秀龍(道三)は、太守土岐頼芸を追い出し国を横領し、ほしいままに一国を悪逆し、
また前太守頼芸の舎弟である、土岐七郎頼光と、八郎頼香を始めより騙して両人共に聟となし、一族として
置いた。頼香は西脇に住して西脇与三左衛門光口と云った。

山城守は、土岐の氏族が終始よく従うことはないと思った。七郎頼光はその心武く、智勇の士であったので
容易く討てないと考え、毒害にて殺した。また八郎頼香は羽栗郡の無動寺村・光徳寺にて切腹させた。

この頼香には女子が一人あり、江州に住んで六角左京大夫義賢・入道承禎の妻に成ったという。

さて、山城守は長男新九郎を斎藤美濃守と名乗らせ大いに奢って国民を貪った。また日蓮宗常在寺は、
前々に一命を助かりし高恩の寺であったため、日運上人の世に、寺院を新しく修造して、数ヶ所の荘園を
寺領として寄付し、子を二人まで出家させ、日運上人の弟子とした。すなわち常在寺五世日饒上人、六世
日覚上人がこれである。

山城守は剃髪して、山城入道道三と号した。他に男3人、女子一人が同腹にて出生した。
斎藤勘九郎、後に孫四郎と改めた。次が斎藤喜平次、後に玄蕃と改めた。その次は斎藤新五郎と号し、
梶田の領主として近郷を領した。

またそれより、尾州織田家との合戦が始まって、折々合戦止まず、天文十五年、織田備前守(信秀)は
大軍を率いて濃州へ攻め入り稲葉山城を攻めた。秀龍入道は兵を出して瑞龍の西南に陣を張り防戦した。
織田軍は中々入り立てる事ができず、要害堅固の名城であるので攻めあぐんで、城下の四方、民家を
悉く放火した。瑞龍寺も兵火のために寺院一宇も残らず焼失した(後に再興したという)。
織田も兵を大半討たれ、尾州に引き退いた。

そのようであったのに再び、同十七年九月、備前守は大軍にて濃州に乱入し、稲葉山城下にて大いに戦った。
織田家はまた大いに敗軍し、兵数千が討ち死にした。一族である織田因幡守、同与三郎も討たれた。

斎藤道三はこの戦勝に乗じて、同年十一月、大軍を差し向け大垣城を攻めた。城には尾州勢の織田播磨守が
入れ置かれていた。そのうちに両方和睦有って、道三の娘を備後守長男・三郎信長に遣わした。

こうして道三は斎藤左京亮義龍に稲葉山城を譲り、その身は鷺山城を普請してこれに移ったというが、
実は義龍は先の太守頼芸の胤であり、道三は心中に、彼を害して次男である孫四郎に国を譲ろうと考えていた。

(土岐累代記)

土岐頼芸追放後の斎藤道三



土岐頼芸の美濃没落と後半生について。

2020年01月24日 16:42

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/24(金) 02:22:41.06 ID:bm+Lmzcj
土岐左京大夫頼芸は、織田信秀の情けにより。天文年中、大桑に入城した。彼は山城守(斎藤道三)のやり方を
深く憤り、どうにかして彼を滅ぼそうと、父子共に密々に計略を廻らせていたが、その陰謀が山城守に聞こえ、
秀龍大いに怒って即座に大軍を率い、天文二十二年、大桑に押し寄せた。

大桑城では思いもかけない事態であったので防ぐことも出来なかった。その日は揖斐光親がたまたま参り合わせ、
これを見て一番に駆け出て防ぎ戦ったが、お目にかかりに参るためだけに率いていた人数でしかなく、
続く味方はなく、その上深手を負い叶わず在所へと引き退いた。

山城守は勝ちに乗じて城に火をかけ焼立てた。このため、頼芸父子の近習である山本数馬、不破小次郎、以下
七騎は、一旦越前へと落ちて頂き、その上で再び一戦を遂げるべきでありますと申し上げたことで、父子とも
城の後方、青波という所に出て、そこから山伝いに山本数馬の在所である大野郡岐禮という里に落ちられた。

山城守は逃さぬと追手を掛け、河村図書国勝、林駿河守通村を両大将としてこれを追わせた。
しかしこの時、林駿河守が心変わりをしたのか、佐原という場所からどこともなく落ちて行った。
また河村図書も、三代相伝の主君に弓を引く事は冥罪恐れ有りと思い、頼芸方の山本数馬へ密かに矢文を
射掛けて内通をした。山本数馬もこれを心得、やがて七騎の侍とともに後ろの山に登って喪服を着し、
「太守御父子は生害された!」
と披露して葬礼を執り行い、柴を積んで火を放ち、火葬の体に見せた。
また河村は川を隔てて戦うふりをして乱れ矢を射掛け、合図の勝鬨をあげて井ノ口に引き取り、稲葉山城に
入り、かくと告げた。

これにより頼芸主従七騎は越前の方へ落ちられ、朝倉義景を頼ったが、しっかりと取り合ってもらえず
甚だ疎略に扱われたため、ここにも永く有ることは出来ず、遥かに上総国に落ち行き、萬喜という所に、
幽なる体にて居られた。武運の突きた故だろうか、眼病を患って程なく盲者となり、入道して
名を宗藝と号した。

天正十年、稲葉伊予守良通入道一鉄が、この頃は大野郡清水に居住していたが、この頼芸の事を聞いて
いたわしいと思い、昔の好を忘れず、君臣の義黙し難しと、同国厚見郡江崎の里に忍び居たる、頼芸の
六男・一色蔵人頼昌を御使として遣わした。

天正十年二月十八日に江崎を出発し、その日に清水に参り、十九日に太田に泊まり木曽路を経て、
三月二日に上総国萬喜に到着した。彼は変わり果てた父の有様を見て涙を止めることが出来ず、
かれこれと日を過ごし、四月七日に岐禮の里に着いた。そこに、新たに小さな館を設え、下女二、三人を
置き、大変丁重に扱う様子が見えた。これに頼芸も有りし昔、この里を落ちたこと、また一鉄の志浅からぬ
事を感じ、御落涙をなされた。

それより直ぐに、一色頼昌は七郎右衛門を以て先立って清水の一鉄のもとに、かくと申し使わした。
一鉄法師も翌日参られ、懇ろに申され、山本数馬に委細を申し付けて帰られた。数馬は後に、山本次郎左衛門と
名を改め、頼芸に始終付き従い奉公をした。また稲葉一鉄公より合力として二百石、数馬に十人扶持を給い、
頼芸は心安く暮らしたが、程なく病に伏し、老病の故であろうか、同年十二月四日、八十一歳にして
卒せられた。庵室の号を用いて、東春院殿左京兆文官宗藝大居士と号した。

(土岐累代記)

土岐頼芸の後半生について。



斎藤道三下剋上のこと

2020年01月23日 17:22

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 12:01:44.81 ID:AGp9/dHI
土岐左京大夫頼芸は、山城守(斎藤道三)が佞臣であることを知り給わず、朝夕膝下を離さず寵愛した。
そのような中、山城守は多年国家を奪うという志深き故に、諸将を懐け、国中の諸士に心を睦み従え置き、
太守を疎むように仕向けた。このため葦出の城中においては君臣の間も心々になって、太守を疎む有様に
成っていた。

秀龍(道三)「時分は良し」と、密かに大軍を集め、天文十一年、稲葉山城を打ち立て葦出城に攻め寄せた。
葦出城では思いもよらぬ事に慌てふためき、散々に成って落ちていった。太守頼芸も、防ぎ戦うことにも
及ばず落ちて行き、寄手は城に火をかけた。悲しいかな、先祖頼康より八代の在城が、一炬の灰燼と成った
のである。

頼芸嫡男の太郎法師丸は村山より一番に駆け付け、父と一手に成って山城守方の大軍を穫り破り切り抜けられた。
村山、國島といった人々もここを専らと戦った。揖斐五郎光親も手勢を率いて三輪より駆け付け、村山と
一所になって大勢を追い散らし武功を顕し、太守に見まえた。太守は法師丸も揖斐五郎にも、不義の無いことを
知って後悔され、すぐに両人に対する勘気を免した。
鷲巣六郎光敦は道程遠き故にその日の暮れ方に馳せつけ、残る大勢を追い散らし頼芸御父子が尾張へ
落ちるための殿をした。

かくして太守頼芸は、尾張古渡の城に入り、織田備後守(信秀)を頼んだ。信秀は彼らを熱田の一向寺に
入れ置き、それより濃州の国侍である不破河内守(光治)、稲葉伊予守(良通)、安藤伊賀守(守就)、
氏家常陸介(直元)と示し合わせ、多勢を以て濃州に打ち入ろうとした。この事を山城守聞いて、叶わずと
思ったのか、和談を乞い、揖斐五郎光親の三輪城へ頼芸父子を移し入れ、揖斐五郎、同弟與三左衛門は、
清水島両下屋敷へと退いた。その後、織田信秀の計らいにて、頼芸と秀龍の間を和睦させ給うにより、暫く
国穏やかであった。されども太郎法師丸は尾州に留め置かれ、織田信秀が烏帽子親となって元服させ、
土岐小次郎頼秀と名乗らせた。後に宮内少輔頼栄と改めた。その後、信秀の計らいで、頼芸父子を
大桑城を修復して移らせ給った。

(土岐累代記)

斎藤道三下剋上のこと


かくして、斎藤左京大夫は日を追って権勢つのり

2020年01月22日 17:13

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/22(水) 14:11:40.49 ID:9a4ADqU9
かくして、美濃土岐家において斎藤左京大夫秀龍(斎藤道三)は日を追って権勢つのり、左京大夫を改め
山城守を称したが、これは生国を思う故の名であると言われる。普段は葦出城に詰めて土岐頼芸の膝下に居た。
然るに山城守大いに驕り、好色にふけり、太守(頼芸)の妾に三芳ノ御方という美女がおられたのだが、
山城守は一途にこの御方に心をかけ、ある時近くに人もなかった時に、太守に向かってかの御方を乞うた。
その様子は、否と言えば忽ちに刺し殺す体に見えたため、太守も
「それほど思うのならば召し連れて参れ」
と言ったため、山城守も大いに悦び、稲葉山の城に連れて帰った。この人は既に懐妊しており、出産の後
男子ならば斎藤の家を継がせる旨を、くれぐれも仰せ付けたため、山城守の長子として、斎藤新九郎義龍と
名乗らせた。

太守には七人の子があった。長男は土岐猪法師丸であり、後に太郎法師丸と改めた。
次男は次郎といい、三男は三郎と申し、四男は四郎、五男は五郎、六男は六郎という。
この六郎は三芳ノ方の子で、斎藤新九郎と同腹の兄である。彼は三芳ノ方が山城守の館に入った後は、
殊の外頼芸より憎まれたため、頼芸のめのとである林駿河守通村が、彼を自分のニ男、当時三歳であった
林七郎右衛門通兼の後見として、自分の下屋敷の有る厚見郡江崎という所に匿った。
駿河守の在所は、同郡西ノ庄という所であった。

この六郎は、後に一色蔵人頼昌と称し、後に通兼を召し連れて岐禮に参り、父頼芸の老後を介抱して、
後に稲葉一鉄の情にて清水に住した。
七男は斎藤義龍であり、これ頼芸の種である。後に一色左京大夫義龍と名乗り、稲葉山の城に威を奮った。

ところで、頼芸の長男である太郎法師丸はその器量、伯父左京大夫頼継に似ており、国中無双の美童であった。
山城守は太守の寵にほこり数度無礼の働きのみならず、秀龍はこの太郎法師丸の男色を愛で、度々艷書を
送ったため、太郎法師は大いに怒り「主従の礼を失うこと奇怪なり。」と、ある時太郎法師丸をはじめ
氏族の面々、旗下の小童数名が、葦出城下にて的場の前を馬乗りして山城守が出てきたため、これに
太郎法師丸は怒って古里孫太郎、原弥二郎、蜂屋彦五郎以下若輩の面々、的矢をつがい、城内殿中まで
追い込んだ。(筆者注:的場の前を乗馬で通る事が無礼であると思われる)

太郎法師丸はこのような山城守の不義を戒めようと、或夜秀龍出仕の帰りを待ち受け、めのとの村山越後守の
末子市之丞という若輩者と語らい、殿中の廊下の暗い場所に待ち受け、一太刀斬りつけた。
しかし山城守は剣術の達者であり、抜きあい、受け流して這う這うに逃れて稲葉山に帰った。

こうして山城守はつくづくと考えた。「この太郎法師丸様をこのまま差し置いてはよき事は無い。
どうにかして彼を失わなければ」そう企み、それより折りに触れ太郎法師丸の大人しからざる様子を
頼芸に讒言した。ある時、登城して太守に申し上げたのは
「太郎御曹司は伯父揖斐五郎(光親)殿と御心を合わせ謀反の心が見えます。御曹司はまだ御幼少ですから
何の御心も有りませんが、伯父の揖斐五郎殿が御曹司を進めて御代を奪い取ろうと考えているのです。」
と様々に讒言すると、太守は元来愚将であるので、これを誠と思った。しかしながら流石に父子兄弟の
事であるので、そのままにして時が過ぎた。

それから幾程もなく、揖斐五郎が在所より参勤して葦出へ登城し、頼芸公に申し上げた
「先日、鷲巣六郎が同道してここから瑞龍寺へ参詣に行った折り、戸羽の新道にて山城守と行き合いました。
山城守は乗馬のまま礼儀もなさず、横合いに本道を駆け通りました。なんという奇異の曲者かと、六郎光敦が
諸鐙を打って追いかけましたが、山田ヵ館の辺りにて見失い、是非無く帰りました。
それだけではありません、法師丸に対しても常々無視をして甚だ無礼の仕儀、これも偏に御寵愛にほこり
自分が凡下であることを忘れ、御長男をはじめ我々に対してまで無礼を成すこと、無念であります。
願わくば法師丸、そして我々に山城守の身柄を渡してください。彼の頸を刎ね、今後の旗本の見せしめと
致します。」

そう、たって望んだが、頼芸はもとより山城守に騙され太郎法師丸についても揖斐五郎についても悪しく
思っていたため何も答えず、「さては山城守の申す所は尤もである。どうにかして法師丸も五郎も
失うべき。」と思し召されたため、その様子はただならぬ御不興に見え、五郎殿は甚だ面目無く三輪へと
帰った。

(土岐累代記)

大河も始まったということで、斎藤道三土岐頼芸に取り入った様子について



752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 00:03:59.06 ID:wsaLouGR
何と言うか、これでもかと言うくらいの蝮っぷり

信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず

2019年05月22日 13:20

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:40:38.18 ID:D7yWtb0Y
(前略。元亀元年(1570)12月の事)

馬場美濃(信春)が申すには、

「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり“犬山哲斎”と申しております。

この人の物語りによれば、信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、舅の斎藤山城守(道
三)の弓矢形儀を仕っております。『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』と、犬山
哲斎は沙汰致しました」

と申し上げた。信玄公が仰せられたことには、

「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕
致した。斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、斎藤の弓
矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。

しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、父の弾正の代には小家中であった
故、侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、自然と信長衆の大方のことは斎藤山城の
ように致すものであろう。それはあえて真似るわけでなくとも、浄土寺へ行けば自然と『念仏申したい』と
の心になるのと同じことである」

と仰せになられた。

――『甲陽軍鑑』



岩崎角弥が事

2019年04月06日 14:11

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/06(土) 01:14:22.25 ID:1F6JfVq7
岩崎角弥が事

美濃国の住人に、岩崎角弥という若き侍が有った。主君は斉藤山城入道(道三)であり、多年膝下を去らず
宮仕していたのだが、傍輩のそねみがあり、道三に彼の身の上について讒言された所、道三もこれを
まことと思い、直ちに出仕をやめさせた。これに角弥は迷惑し

「それがしが主君に対してどのような誤りがあったのか承りたい。」

と人を介して訴えたが、とかくの返事もなく

「もはや主君との縁も尽きた」と思い、本国を出奔して京都に至り、所縁を尋ねて、摂政殿(誰かは不明)に
奉公することと成った。この者は器量、骨柄、心様、他に超えて優れた人物であったので、摂政殿も
重用し召し使うこと、又並び無かった。

こうして年を経て、二年御所に有ったのだが、道三はこの事を聞き、やがて使者を以て、摂政殿下に
岩崎角弥を返還するよう申し上げた。摂政殿はこれを聞くと

「呼び返すほどおしき者を、どうして追い出したのか。そのような事叶うまじき。」と返事をし、
道三にそう伝えたが、道三からは重ねて「是非とも申し受けたい」と申し越した。
摂政殿は「千度百度そのようなことを言ってきても、この者を返すなど、致すまじき。」
と、はっきりと拒絶した。

この返答に道三は大いに立腹し、「その義であれば討手を上らすべし」と、山本伝左衛門、須田忠兵衛という
大剛の者二人を京に上らせた。そうして彼らは岩崎角弥の動静を伺ったが、なかなか見当たることは無かった。
しかしある時、節会の折、摂政殿が禁中へのお渡りに際し角弥もそのお供をした。この時山本、須田の二人は
角弥を発見し、角弥も二人を見つけ、互いに「あっ」と思ったが、摂政殿下の輿は前を長柄、力者、前駆、
随身などが厳しく警護し、また後ろは五位、六位の者たちが固めていたので、これに行き合った人は何れも
畏まり彼らを通した。

山本、須田の二人は力なく、その日は虚しく帰り、それより毎日角弥を伺った。これについて角弥も察し
「彼らは必ず私の討手として上ってきたのだろう。この事は殿下に御報告しておかねば。」と、
ある時ご機嫌を見計らい、この事を申し上げると、殿下は聞こし召して、すぐに奉行所へ
「かかる曲者が京都にある。急ぎ穿鑿して、洛中より追放すべし。」と仰せ付けになると。
奉行所の猶村長高、貞親といった者たちは承り、洛中に触れをし『この者たちを少しでも
匿った者には罪罰が仰せ付けられる。』と聞かせたため、山本、須田の二人は是非もなく本国へ帰り、
道三にかくかくと説明すると、道三にもどうにも出来す、そのまま有耶無耶と成った。

(室町殿物語)



829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/06(土) 07:51:31.57 ID:vRR+okPq
一生一緒にいてくれやって言っておけば…

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/07(日) 23:23:09.67 ID:tN6cKz2F
摂政どののちょっといい話でした

妖刀”あざ丸”

2018年10月06日 19:06

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 18:49:49.54 ID:q4XVtgoD
天文13年(1544)、斎藤道三織田信秀方の大垣城を攻めた際のこと、
道三は近江国よりも加勢を請い、霜月(11月)の始めより大垣城へ押し寄せ、二重三重に
取り巻いて、持楯掻楯を突き寄せ突き寄せ攻めた。敵味方の鬨の声、鉄砲の音は山河を動かす
ばかりであった。

道三方の陰山掃部助という者、軍勢を分けて牛屋の寺院を焼き払おうとして向かったが、
床机に腰を掛けて諸卒を下知していた時、寺内より流矢が来て陰山の左目に二寸ばかり
射込んだ。彼はすぐにその矢を抜いたが、直後また流矢が来て今度は右目へ刺さった。
このため起きようとも起きられず、動くことも出来ず、ただ呆然としてそこに有った。

俄に両眼が射潰されるなど只事ではないが、その理由としてこのようなことが言われた。
かつて平家の侍大将であった悪七兵衛景清が差していた”あざ丸”という太刀を、去る
9月22日の大合戦(斎藤道三が稲葉山城に押し寄せた織田信秀を撃退した加納口の戦い)の
折、織田方で討ち死にした千秋紀伊守が最後に差しており、これを陰山が求めて差したのだが、
幾程もなく盲目と成ったことこそ不思議である。

その後この刀は、丹羽長秀の所有と成ったが、長秀もこれを所持して目を以ての外に患い、
さてはこの刀を所持した者は必ず目の祟に合うのではないかと沙汰され、熱田大神宮に進ぜようという
事となり、宝殿へ納めると、即座に眼病は平癒したという。

(甫庵信長記)

参考
「あざ丸」
怪刀痣丸・怖い話



273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:20:01.23 ID:FUVuOp6w
>>272
景清の刀が戦国時代まで残って使われてこんな騒ぎまで起こすとかロマンだ…。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:22:53.02 ID:wcyDn2+q
景清「頼朝を討とうとしたら果たせなかった。
源氏の世を見るくらいなら我が両眼をくりぬいて清水寺に奉納してやる!」
をネタにした「景清」という落語を思い出した

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:52:21.68 ID:aW8FcG6c
>>273
残っているのはさておき、実戦で使うとは…。
当時でも価値は文化財的なもんじゃないの?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:56:27.77 ID:bWFQtJT4
源平討魔伝か

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 21:39:33.79 ID:Ymc/oMUE
>>272
千秋も眼をやられて討ち死にしてなかったかな

昔、この逸話「あざ丸」がスレにあがったときは寺を攻めるんじゃなくて、敵城を攻めるときに寺に陣を敷いてたことになってるね

ガラケーなんで前の逸話を貼り辛いので貼らんけど

居ながら尿を流すは、家の面目

2017年11月28日 15:49

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 13:26:17.99 ID:q/sq0uZp
斎藤道三が3人の息子を前に往昔の軍の手立てなどを語っていた所、嫡男の龍興が、
物語の半ばに立ち上がって用を足しに行った。
道三は不快に思い、龍興が帰ってくるとこのように言った

「武士にとって戦場の物語は、これ皆武義の教えである。志ある者達ならば好んで聞くべきなのだ。
志が有れば、物語の面白さに聞き惚れて、居ながらにして小用を致したとしても無礼とは言わない。
むしろ語り伝えに、『龍興は軍物語に聞き惚れて居ながら尿を流した』と言われるは、家の面目と
言うべきであろう。
お前はやがて家を失い、他の紋に馬をつなぐだろう。」

そう涙を流して諌めたという。

(士談)



342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:05:25.94 ID:+NX5BKfl
>>341
義龍「」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:38.50 ID:q/sq0uZp
>>342
原文ママなのですが、おそらく義龍の間違いでしょうね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:35:25.79 ID:fMrCqu7j
竹中半兵衛「私が、小便をかけた斎藤飛騨守を美濃城乗っ取りの際に討ち取ったように
男子に小便、というのはあまりな屈辱。
先先代のお言葉とは思われません」

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:08:56.81 ID:VQeFYYED
竹中半兵衛でしょ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:12:24.89 ID:q/sq0uZp
>>346
有名なのがそれこそ龍興の家来だった竹中半兵衛が息子重門を叱ったやつで、
竹中半兵衛と座り小便・いい話
何故か伊達政宗にも同じような逸話がある
政宗、息子忠宗を叱る

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/29(水) 10:47:42.90 ID:mFIHIWzA
>>341
その話何パターンあんだよ?
武家の数だけあんのか?

長谷川甚兵衛は非常な勇士であり

2017年04月11日 19:22

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 18:19:32.73 ID:gmptssHW
長谷川甚兵衛、初名は宗二郎と言った、非常な勇士であり、斎藤道三に仕え、後の父子対決の時は
義龍に属した。

斎藤義龍が父に反逆した時、美濃の諸侍は慌てて悉く屋敷を立ち退き、その振る舞い非常に見苦しい
ものであったが、甚兵衛一人屋敷を立ち退かなかった。
そこで義龍は様々に説得し、甚兵衛は遂に義龍に従った。

美濃において度々の国取合に、功を顕すこと、一々挙げて言うことも出来ないほどであった。
ある時甚兵衛は、美濃における小競り合いの時に、敵が引くであろう小路に、在々より石臼などといった物を
提出させこれを置いたが、人々はこんなものに意味があるのかと思った。
ところが、敵は急に引き立ち、この石臼などに躓き倒れて、多く討たれたという。
これは在所の者が今も語り伝えている。
時に応じての才覚とはこういうものだと思われる。

(士談)


治部大輔義龍は悪逆不孝で

2017年03月29日 19:12

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』


後に剃髪して道三入道

2017年03月28日 12:44

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 05:09:45.11 ID:aQunLHnl
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。

その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、

浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。

ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。

一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。

多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、

諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。

さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。

しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。

また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。

この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。

――『織田軍記(総見記)』