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”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



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斎藤道三の滅亡

2020年01月26日 16:28

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 11:54:36.87 ID:Khkap7O0
織田家との和睦が成り、その後尾濃両国太平と成って国民が安堵の思いを成す所に、斎藤父子の合戦が
たちまち始まり、終に当家滅亡の時至ること、天罰のいたる所である。故に国中兵乱起こり国民は薄氷を踏む
思いを成した。

斎藤道三は当腹の子・孫四郎を寵愛し、右京亮と名乗らせ嫡子義龍をいかにもして害し、右京亮に国を
立てようと企んだ。これは偏に、義龍が先の太守の胤であった故にこれを謀ったのである。
義龍はこれを聞いて大いに怒り。

「我斎藤の家名を継ぐと雖も実は先太守頼芸の胤であり、忝なくも源頼光の嫡孫である。一方彼は松波庄五郎
といって商家の下賤である。先の太守が次郎と呼ばれていた時、長井長弘の取り持ちによって鷺山に入り込み、
父頼芸に進めて伯父頼武を追い落とし太守とした。その功に依って寵愛に誇り、あまつさえ後には長弘を討ち
太守頼芸を追い失い奉った事、無動の至極と言うべし。そしてあまつさえ私を害しようと計ること、無念の
至りである。ならば此の方より取り詰めて今に思い知らせん。」

そう、密かに関の城主・永井隼人佐と相談し、家臣の日根野備中守弘就、同彌次右衛門両人に申し付け。
弘治元年の秋、二人の弟を鷺山より稲葉山城家の下屋敷に呼び寄せ、斎藤右京亮、同玄蕃允二人を忽ちに
討ち捨てた。

稲葉山の家中より此の事が鷺山に告げられると、道三は大いに怒り、国中の武士に下知して、「稲葉山城を
攻め落とし左京大夫義龍の頸を見せよ」と息巻いて下知した。しかしながら元来入道の悪逆無道によって
義龍に懐いた国勢共は悉く稲葉山に馳せ加わり、鷺山の手には十分の一も行かなかった。鷺山は老臣、
林駿河守通村・入道道慶、川島掃部助、神山内記、道家助六郎を発して長良の中の渡りに打ち出た。
稲葉山勢も大軍を川の東に押し寄せ、川を隔てて相戦った。

敵も味方も同じ家中であり、双方一族演者であった。義龍の旗大将・林主馬は鷺山の大将である林駿河入道の
甥であり、別して晴れがましい軍であった。然れども義龍勢は大軍であり、新手を入れ替え入れ替え、透きも
無く攻めれば、道三は叶わずして鷺山を去り、山県郡北野という所に古城が有り、鷲見美作守と言う者の居た
明城であったが、これに道三は引き籠もっら、林駿河入道は鷺山に在って日々戦った。

同二年四月、山城入道(道三)は手勢を率いて北野城より城田村へ出張し岐阜の体を窺った。この時に
時節良しと思ったのか、同月十八日に中の渡へ発向した。義龍も出馬し川を隔てて散々に戦い、終に道三
打ち負けて、同二十日の暮方に、主従わずかになるまで討ち取られ、城内を目指して引き上げている所を、
義龍勢長良川を押し渡り追い詰め、小牧源太、長居忠左衛門、、林主水の三人にて道三を取り込み、突き伏せて
首を討ち落とした。証拠のためとして、長居忠左衛門は道三入動の鼻を削ぎ取った。
斎藤義龍はこの頸を実検した後に長良川の端に捨てたが、これを小牧源太が拾い、土中に埋めた。
現在、斎藤塚として川の端にある旧跡である。この小牧源太は尾州小牧の者にて幼少の時より山城守の側近く
仕われたが、非道の扱いを受けたこと数度に及び、怨みを含んでいたため、人も多き中に優れて道三を
討った。然れども多年の恩を思ったのか、このように懇ろにその頸を取り納めた。

斎藤義龍は帰陣してそれぞれに恩賞を施し、それより斎藤氏を捨て、一色左京大夫義龍と名乗った。
一色を名乗った故は、道三が実父では無いことを世間へ知らしめる故であった。また土岐氏に一色を名乗る
故事が有るとも、幼少の時に厚見郡一色に居られた故とも、また母の三芳の御方は一色左京大夫の娘で、
母方であるとも云われている。
先ずその心は、一色が母方であるという祖父は丹州宮津の城主で(一色義有ヵ)、武勇人に勝れ世に隠れ無き
勇将であれば、その武威を子孫に伝えんとする心なのであろう。

土岐累代記

斎藤道三の滅亡について。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 16:44:08.08 ID:nZTiVtXX
信長にも道三にも老臣に林がいるんだね
どちらも通の字を通字にしてるし、何か関係があるのかな?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 17:01:05.07 ID:nZTiVtXX
駿河守通政と佐渡守秀貞は従兄弟か
元は稲葉姓

土岐頼芸追放後の斎藤道三

2020年01月25日 16:54

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/25(土) 12:51:57.67 ID:id9IS+DC
かくして斎藤山城守秀龍(道三)は、太守土岐頼芸を追い出し国を横領し、ほしいままに一国を悪逆し、
また前太守頼芸の舎弟である、土岐七郎頼光と、八郎頼香を始めより騙して両人共に聟となし、一族として
置いた。頼香は西脇に住して西脇与三左衛門光口と云った。

山城守は、土岐の氏族が終始よく従うことはないと思った。七郎頼光はその心武く、智勇の士であったので
容易く討てないと考え、毒害にて殺した。また八郎頼香は羽栗郡の無動寺村・光徳寺にて切腹させた。

この頼香には女子が一人あり、江州に住んで六角左京大夫義賢・入道承禎の妻に成ったという。

さて、山城守は長男新九郎を斎藤美濃守と名乗らせ大いに奢って国民を貪った。また日蓮宗常在寺は、
前々に一命を助かりし高恩の寺であったため、日運上人の世に、寺院を新しく修造して、数ヶ所の荘園を
寺領として寄付し、子を二人まで出家させ、日運上人の弟子とした。すなわち常在寺五世日饒上人、六世
日覚上人がこれである。

山城守は剃髪して、山城入道道三と号した。他に男3人、女子一人が同腹にて出生した。
斎藤勘九郎、後に孫四郎と改めた。次が斎藤喜平次、後に玄蕃と改めた。その次は斎藤新五郎と号し、
梶田の領主として近郷を領した。

またそれより、尾州織田家との合戦が始まって、折々合戦止まず、天文十五年、織田備前守(信秀)は
大軍を率いて濃州へ攻め入り稲葉山城を攻めた。秀龍入道は兵を出して瑞龍の西南に陣を張り防戦した。
織田軍は中々入り立てる事ができず、要害堅固の名城であるので攻めあぐんで、城下の四方、民家を
悉く放火した。瑞龍寺も兵火のために寺院一宇も残らず焼失した(後に再興したという)。
織田も兵を大半討たれ、尾州に引き退いた。

そのようであったのに再び、同十七年九月、備前守は大軍にて濃州に乱入し、稲葉山城下にて大いに戦った。
織田家はまた大いに敗軍し、兵数千が討ち死にした。一族である織田因幡守、同与三郎も討たれた。

斎藤道三はこの戦勝に乗じて、同年十一月、大軍を差し向け大垣城を攻めた。城には尾州勢の織田播磨守が
入れ置かれていた。そのうちに両方和睦有って、道三の娘を備後守長男・三郎信長に遣わした。

こうして道三は斎藤左京亮義龍に稲葉山城を譲り、その身は鷺山城を普請してこれに移ったというが、
実は義龍は先の太守頼芸の胤であり、道三は心中に、彼を害して次男である孫四郎に国を譲ろうと考えていた。

(土岐累代記)

土岐頼芸追放後の斎藤道三



土岐頼芸の美濃没落と後半生について。

2020年01月24日 16:42

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/24(金) 02:22:41.06 ID:bm+Lmzcj
土岐左京大夫頼芸は、織田信秀の情けにより。天文年中、大桑に入城した。彼は山城守(斎藤道三)のやり方を
深く憤り、どうにかして彼を滅ぼそうと、父子共に密々に計略を廻らせていたが、その陰謀が山城守に聞こえ、
秀龍大いに怒って即座に大軍を率い、天文二十二年、大桑に押し寄せた。

大桑城では思いもかけない事態であったので防ぐことも出来なかった。その日は揖斐光親がたまたま参り合わせ、
これを見て一番に駆け出て防ぎ戦ったが、お目にかかりに参るためだけに率いていた人数でしかなく、
続く味方はなく、その上深手を負い叶わず在所へと引き退いた。

山城守は勝ちに乗じて城に火をかけ焼立てた。このため、頼芸父子の近習である山本数馬、不破小次郎、以下
七騎は、一旦越前へと落ちて頂き、その上で再び一戦を遂げるべきでありますと申し上げたことで、父子とも
城の後方、青波という所に出て、そこから山伝いに山本数馬の在所である大野郡岐禮という里に落ちられた。

山城守は逃さぬと追手を掛け、河村図書国勝、林駿河守通村を両大将としてこれを追わせた。
しかしこの時、林駿河守が心変わりをしたのか、佐原という場所からどこともなく落ちて行った。
また河村図書も、三代相伝の主君に弓を引く事は冥罪恐れ有りと思い、頼芸方の山本数馬へ密かに矢文を
射掛けて内通をした。山本数馬もこれを心得、やがて七騎の侍とともに後ろの山に登って喪服を着し、
「太守御父子は生害された!」
と披露して葬礼を執り行い、柴を積んで火を放ち、火葬の体に見せた。
また河村は川を隔てて戦うふりをして乱れ矢を射掛け、合図の勝鬨をあげて井ノ口に引き取り、稲葉山城に
入り、かくと告げた。

これにより頼芸主従七騎は越前の方へ落ちられ、朝倉義景を頼ったが、しっかりと取り合ってもらえず
甚だ疎略に扱われたため、ここにも永く有ることは出来ず、遥かに上総国に落ち行き、萬喜という所に、
幽なる体にて居られた。武運の突きた故だろうか、眼病を患って程なく盲者となり、入道して
名を宗藝と号した。

天正十年、稲葉伊予守良通入道一鉄が、この頃は大野郡清水に居住していたが、この頼芸の事を聞いて
いたわしいと思い、昔の好を忘れず、君臣の義黙し難しと、同国厚見郡江崎の里に忍び居たる、頼芸の
六男・一色蔵人頼昌を御使として遣わした。

天正十年二月十八日に江崎を出発し、その日に清水に参り、十九日に太田に泊まり木曽路を経て、
三月二日に上総国萬喜に到着した。彼は変わり果てた父の有様を見て涙を止めることが出来ず、
かれこれと日を過ごし、四月七日に岐禮の里に着いた。そこに、新たに小さな館を設え、下女二、三人を
置き、大変丁重に扱う様子が見えた。これに頼芸も有りし昔、この里を落ちたこと、また一鉄の志浅からぬ
事を感じ、御落涙をなされた。

それより直ぐに、一色頼昌は七郎右衛門を以て先立って清水の一鉄のもとに、かくと申し使わした。
一鉄法師も翌日参られ、懇ろに申され、山本数馬に委細を申し付けて帰られた。数馬は後に、山本次郎左衛門と
名を改め、頼芸に始終付き従い奉公をした。また稲葉一鉄公より合力として二百石、数馬に十人扶持を給い、
頼芸は心安く暮らしたが、程なく病に伏し、老病の故であろうか、同年十二月四日、八十一歳にして
卒せられた。庵室の号を用いて、東春院殿左京兆文官宗藝大居士と号した。

(土岐累代記)

土岐頼芸の後半生について。



斎藤道三下剋上のこと

2020年01月23日 17:22

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 12:01:44.81 ID:AGp9/dHI
土岐左京大夫頼芸は、山城守(斎藤道三)が佞臣であることを知り給わず、朝夕膝下を離さず寵愛した。
そのような中、山城守は多年国家を奪うという志深き故に、諸将を懐け、国中の諸士に心を睦み従え置き、
太守を疎むように仕向けた。このため葦出の城中においては君臣の間も心々になって、太守を疎む有様に
成っていた。

秀龍(道三)「時分は良し」と、密かに大軍を集め、天文十一年、稲葉山城を打ち立て葦出城に攻め寄せた。
葦出城では思いもよらぬ事に慌てふためき、散々に成って落ちていった。太守頼芸も、防ぎ戦うことにも
及ばず落ちて行き、寄手は城に火をかけた。悲しいかな、先祖頼康より八代の在城が、一炬の灰燼と成った
のである。

頼芸嫡男の太郎法師丸は村山より一番に駆け付け、父と一手に成って山城守方の大軍を穫り破り切り抜けられた。
村山、國島といった人々もここを専らと戦った。揖斐五郎光親も手勢を率いて三輪より駆け付け、村山と
一所になって大勢を追い散らし武功を顕し、太守に見まえた。太守は法師丸も揖斐五郎にも、不義の無いことを
知って後悔され、すぐに両人に対する勘気を免した。
鷲巣六郎光敦は道程遠き故にその日の暮れ方に馳せつけ、残る大勢を追い散らし頼芸御父子が尾張へ
落ちるための殿をした。

かくして太守頼芸は、尾張古渡の城に入り、織田備後守(信秀)を頼んだ。信秀は彼らを熱田の一向寺に
入れ置き、それより濃州の国侍である不破河内守(光治)、稲葉伊予守(良通)、安藤伊賀守(守就)、
氏家常陸介(直元)と示し合わせ、多勢を以て濃州に打ち入ろうとした。この事を山城守聞いて、叶わずと
思ったのか、和談を乞い、揖斐五郎光親の三輪城へ頼芸父子を移し入れ、揖斐五郎、同弟與三左衛門は、
清水島両下屋敷へと退いた。その後、織田信秀の計らいにて、頼芸と秀龍の間を和睦させ給うにより、暫く
国穏やかであった。されども太郎法師丸は尾州に留め置かれ、織田信秀が烏帽子親となって元服させ、
土岐小次郎頼秀と名乗らせた。後に宮内少輔頼栄と改めた。その後、信秀の計らいで、頼芸父子を
大桑城を修復して移らせ給った。

(土岐累代記)

斎藤道三下剋上のこと


かくして、斎藤左京大夫は日を追って権勢つのり

2020年01月22日 17:13

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/22(水) 14:11:40.49 ID:9a4ADqU9
かくして、美濃土岐家において斎藤左京大夫秀龍(斎藤道三)は日を追って権勢つのり、左京大夫を改め
山城守を称したが、これは生国を思う故の名であると言われる。普段は葦出城に詰めて土岐頼芸の膝下に居た。
然るに山城守大いに驕り、好色にふけり、太守(頼芸)の妾に三芳ノ御方という美女がおられたのだが、
山城守は一途にこの御方に心をかけ、ある時近くに人もなかった時に、太守に向かってかの御方を乞うた。
その様子は、否と言えば忽ちに刺し殺す体に見えたため、太守も
「それほど思うのならば召し連れて参れ」
と言ったため、山城守も大いに悦び、稲葉山の城に連れて帰った。この人は既に懐妊しており、出産の後
男子ならば斎藤の家を継がせる旨を、くれぐれも仰せ付けたため、山城守の長子として、斎藤新九郎義龍と
名乗らせた。

太守には七人の子があった。長男は土岐猪法師丸であり、後に太郎法師丸と改めた。
次男は次郎といい、三男は三郎と申し、四男は四郎、五男は五郎、六男は六郎という。
この六郎は三芳ノ方の子で、斎藤新九郎と同腹の兄である。彼は三芳ノ方が山城守の館に入った後は、
殊の外頼芸より憎まれたため、頼芸のめのとである林駿河守通村が、彼を自分のニ男、当時三歳であった
林七郎右衛門通兼の後見として、自分の下屋敷の有る厚見郡江崎という所に匿った。
駿河守の在所は、同郡西ノ庄という所であった。

この六郎は、後に一色蔵人頼昌と称し、後に通兼を召し連れて岐禮に参り、父頼芸の老後を介抱して、
後に稲葉一鉄の情にて清水に住した。
七男は斎藤義龍であり、これ頼芸の種である。後に一色左京大夫義龍と名乗り、稲葉山の城に威を奮った。

ところで、頼芸の長男である太郎法師丸はその器量、伯父左京大夫頼継に似ており、国中無双の美童であった。
山城守は太守の寵にほこり数度無礼の働きのみならず、秀龍はこの太郎法師丸の男色を愛で、度々艷書を
送ったため、太郎法師は大いに怒り「主従の礼を失うこと奇怪なり。」と、ある時太郎法師丸をはじめ
氏族の面々、旗下の小童数名が、葦出城下にて的場の前を馬乗りして山城守が出てきたため、これに
太郎法師丸は怒って古里孫太郎、原弥二郎、蜂屋彦五郎以下若輩の面々、的矢をつがい、城内殿中まで
追い込んだ。(筆者注:的場の前を乗馬で通る事が無礼であると思われる)

太郎法師丸はこのような山城守の不義を戒めようと、或夜秀龍出仕の帰りを待ち受け、めのとの村山越後守の
末子市之丞という若輩者と語らい、殿中の廊下の暗い場所に待ち受け、一太刀斬りつけた。
しかし山城守は剣術の達者であり、抜きあい、受け流して這う這うに逃れて稲葉山に帰った。

こうして山城守はつくづくと考えた。「この太郎法師丸様をこのまま差し置いてはよき事は無い。
どうにかして彼を失わなければ」そう企み、それより折りに触れ太郎法師丸の大人しからざる様子を
頼芸に讒言した。ある時、登城して太守に申し上げたのは
「太郎御曹司は伯父揖斐五郎(光親)殿と御心を合わせ謀反の心が見えます。御曹司はまだ御幼少ですから
何の御心も有りませんが、伯父の揖斐五郎殿が御曹司を進めて御代を奪い取ろうと考えているのです。」
と様々に讒言すると、太守は元来愚将であるので、これを誠と思った。しかしながら流石に父子兄弟の
事であるので、そのままにして時が過ぎた。

それから幾程もなく、揖斐五郎が在所より参勤して葦出へ登城し、頼芸公に申し上げた
「先日、鷲巣六郎が同道してここから瑞龍寺へ参詣に行った折り、戸羽の新道にて山城守と行き合いました。
山城守は乗馬のまま礼儀もなさず、横合いに本道を駆け通りました。なんという奇異の曲者かと、六郎光敦が
諸鐙を打って追いかけましたが、山田ヵ館の辺りにて見失い、是非無く帰りました。
それだけではありません、法師丸に対しても常々無視をして甚だ無礼の仕儀、これも偏に御寵愛にほこり
自分が凡下であることを忘れ、御長男をはじめ我々に対してまで無礼を成すこと、無念であります。
願わくば法師丸、そして我々に山城守の身柄を渡してください。彼の頸を刎ね、今後の旗本の見せしめと
致します。」

そう、たって望んだが、頼芸はもとより山城守に騙され太郎法師丸についても揖斐五郎についても悪しく
思っていたため何も答えず、「さては山城守の申す所は尤もである。どうにかして法師丸も五郎も
失うべき。」と思し召されたため、その様子はただならぬ御不興に見え、五郎殿は甚だ面目無く三輪へと
帰った。

(土岐累代記)

大河も始まったということで、斎藤道三土岐頼芸に取り入った様子について



752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 00:03:59.06 ID:wsaLouGR
何と言うか、これでもかと言うくらいの蝮っぷり

信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず

2019年05月22日 13:20

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:40:38.18 ID:D7yWtb0Y
(前略。元亀元年(1570)12月の事)

馬場美濃(信春)が申すには、

「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり“犬山哲斎”と申しております。

この人の物語りによれば、信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、舅の斎藤山城守(道
三)の弓矢形儀を仕っております。『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』と、犬山
哲斎は沙汰致しました」

と申し上げた。信玄公が仰せられたことには、

「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕
致した。斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、斎藤の弓
矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。

しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、父の弾正の代には小家中であった
故、侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、自然と信長衆の大方のことは斎藤山城の
ように致すものであろう。それはあえて真似るわけでなくとも、浄土寺へ行けば自然と『念仏申したい』と
の心になるのと同じことである」

と仰せになられた。

――『甲陽軍鑑』



岩崎角弥が事

2019年04月06日 14:11

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/06(土) 01:14:22.25 ID:1F6JfVq7
岩崎角弥が事

美濃国の住人に、岩崎角弥という若き侍が有った。主君は斉藤山城入道(道三)であり、多年膝下を去らず
宮仕していたのだが、傍輩のそねみがあり、道三に彼の身の上について讒言された所、道三もこれを
まことと思い、直ちに出仕をやめさせた。これに角弥は迷惑し

「それがしが主君に対してどのような誤りがあったのか承りたい。」

と人を介して訴えたが、とかくの返事もなく

「もはや主君との縁も尽きた」と思い、本国を出奔して京都に至り、所縁を尋ねて、摂政殿(誰かは不明)に
奉公することと成った。この者は器量、骨柄、心様、他に超えて優れた人物であったので、摂政殿も
重用し召し使うこと、又並び無かった。

こうして年を経て、二年御所に有ったのだが、道三はこの事を聞き、やがて使者を以て、摂政殿下に
岩崎角弥を返還するよう申し上げた。摂政殿はこれを聞くと

「呼び返すほどおしき者を、どうして追い出したのか。そのような事叶うまじき。」と返事をし、
道三にそう伝えたが、道三からは重ねて「是非とも申し受けたい」と申し越した。
摂政殿は「千度百度そのようなことを言ってきても、この者を返すなど、致すまじき。」
と、はっきりと拒絶した。

この返答に道三は大いに立腹し、「その義であれば討手を上らすべし」と、山本伝左衛門、須田忠兵衛という
大剛の者二人を京に上らせた。そうして彼らは岩崎角弥の動静を伺ったが、なかなか見当たることは無かった。
しかしある時、節会の折、摂政殿が禁中へのお渡りに際し角弥もそのお供をした。この時山本、須田の二人は
角弥を発見し、角弥も二人を見つけ、互いに「あっ」と思ったが、摂政殿下の輿は前を長柄、力者、前駆、
随身などが厳しく警護し、また後ろは五位、六位の者たちが固めていたので、これに行き合った人は何れも
畏まり彼らを通した。

山本、須田の二人は力なく、その日は虚しく帰り、それより毎日角弥を伺った。これについて角弥も察し
「彼らは必ず私の討手として上ってきたのだろう。この事は殿下に御報告しておかねば。」と、
ある時ご機嫌を見計らい、この事を申し上げると、殿下は聞こし召して、すぐに奉行所へ
「かかる曲者が京都にある。急ぎ穿鑿して、洛中より追放すべし。」と仰せ付けになると。
奉行所の猶村長高、貞親といった者たちは承り、洛中に触れをし『この者たちを少しでも
匿った者には罪罰が仰せ付けられる。』と聞かせたため、山本、須田の二人は是非もなく本国へ帰り、
道三にかくかくと説明すると、道三にもどうにも出来す、そのまま有耶無耶と成った。

(室町殿物語)



829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/06(土) 07:51:31.57 ID:vRR+okPq
一生一緒にいてくれやって言っておけば…

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/07(日) 23:23:09.67 ID:tN6cKz2F
摂政どののちょっといい話でした

妖刀”あざ丸”

2018年10月06日 19:06

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 18:49:49.54 ID:q4XVtgoD
天文13年(1544)、斎藤道三織田信秀方の大垣城を攻めた際のこと、
道三は近江国よりも加勢を請い、霜月(11月)の始めより大垣城へ押し寄せ、二重三重に
取り巻いて、持楯掻楯を突き寄せ突き寄せ攻めた。敵味方の鬨の声、鉄砲の音は山河を動かす
ばかりであった。

道三方の陰山掃部助という者、軍勢を分けて牛屋の寺院を焼き払おうとして向かったが、
床机に腰を掛けて諸卒を下知していた時、寺内より流矢が来て陰山の左目に二寸ばかり
射込んだ。彼はすぐにその矢を抜いたが、直後また流矢が来て今度は右目へ刺さった。
このため起きようとも起きられず、動くことも出来ず、ただ呆然としてそこに有った。

俄に両眼が射潰されるなど只事ではないが、その理由としてこのようなことが言われた。
かつて平家の侍大将であった悪七兵衛景清が差していた”あざ丸”という太刀を、去る
9月22日の大合戦(斎藤道三が稲葉山城に押し寄せた織田信秀を撃退した加納口の戦い)の
折、織田方で討ち死にした千秋紀伊守が最後に差しており、これを陰山が求めて差したのだが、
幾程もなく盲目と成ったことこそ不思議である。

その後この刀は、丹羽長秀の所有と成ったが、長秀もこれを所持して目を以ての外に患い、
さてはこの刀を所持した者は必ず目の祟に合うのではないかと沙汰され、熱田大神宮に進ぜようという
事となり、宝殿へ納めると、即座に眼病は平癒したという。

(甫庵信長記)

参考
「あざ丸」
怪刀痣丸・怖い話



273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:20:01.23 ID:FUVuOp6w
>>272
景清の刀が戦国時代まで残って使われてこんな騒ぎまで起こすとかロマンだ…。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:22:53.02 ID:wcyDn2+q
景清「頼朝を討とうとしたら果たせなかった。
源氏の世を見るくらいなら我が両眼をくりぬいて清水寺に奉納してやる!」
をネタにした「景清」という落語を思い出した

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:52:21.68 ID:aW8FcG6c
>>273
残っているのはさておき、実戦で使うとは…。
当時でも価値は文化財的なもんじゃないの?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:56:27.77 ID:bWFQtJT4
源平討魔伝か

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 21:39:33.79 ID:Ymc/oMUE
>>272
千秋も眼をやられて討ち死にしてなかったかな

昔、この逸話「あざ丸」がスレにあがったときは寺を攻めるんじゃなくて、敵城を攻めるときに寺に陣を敷いてたことになってるね

ガラケーなんで前の逸話を貼り辛いので貼らんけど

居ながら尿を流すは、家の面目

2017年11月28日 15:49

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 13:26:17.99 ID:q/sq0uZp
斎藤道三が3人の息子を前に往昔の軍の手立てなどを語っていた所、嫡男の龍興が、
物語の半ばに立ち上がって用を足しに行った。
道三は不快に思い、龍興が帰ってくるとこのように言った

「武士にとって戦場の物語は、これ皆武義の教えである。志ある者達ならば好んで聞くべきなのだ。
志が有れば、物語の面白さに聞き惚れて、居ながらにして小用を致したとしても無礼とは言わない。
むしろ語り伝えに、『龍興は軍物語に聞き惚れて居ながら尿を流した』と言われるは、家の面目と
言うべきであろう。
お前はやがて家を失い、他の紋に馬をつなぐだろう。」

そう涙を流して諌めたという。

(士談)



342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:05:25.94 ID:+NX5BKfl
>>341
義龍「」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:38.50 ID:q/sq0uZp
>>342
原文ママなのですが、おそらく義龍の間違いでしょうね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:35:25.79 ID:fMrCqu7j
竹中半兵衛「私が、小便をかけた斎藤飛騨守を美濃城乗っ取りの際に討ち取ったように
男子に小便、というのはあまりな屈辱。
先先代のお言葉とは思われません」

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:08:56.81 ID:VQeFYYED
竹中半兵衛でしょ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:12:24.89 ID:q/sq0uZp
>>346
有名なのがそれこそ龍興の家来だった竹中半兵衛が息子重門を叱ったやつで、
竹中半兵衛と座り小便・いい話
何故か伊達政宗にも同じような逸話がある
政宗、息子忠宗を叱る

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/29(水) 10:47:42.90 ID:mFIHIWzA
>>341
その話何パターンあんだよ?
武家の数だけあんのか?

長谷川甚兵衛は非常な勇士であり

2017年04月11日 19:22

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 18:19:32.73 ID:gmptssHW
長谷川甚兵衛、初名は宗二郎と言った、非常な勇士であり、斎藤道三に仕え、後の父子対決の時は
義龍に属した。

斎藤義龍が父に反逆した時、美濃の諸侍は慌てて悉く屋敷を立ち退き、その振る舞い非常に見苦しい
ものであったが、甚兵衛一人屋敷を立ち退かなかった。
そこで義龍は様々に説得し、甚兵衛は遂に義龍に従った。

美濃において度々の国取合に、功を顕すこと、一々挙げて言うことも出来ないほどであった。
ある時甚兵衛は、美濃における小競り合いの時に、敵が引くであろう小路に、在々より石臼などといった物を
提出させこれを置いたが、人々はこんなものに意味があるのかと思った。
ところが、敵は急に引き立ち、この石臼などに躓き倒れて、多く討たれたという。
これは在所の者が今も語り伝えている。
時に応じての才覚とはこういうものだと思われる。

(士談)


治部大輔義龍は悪逆不孝で

2017年03月29日 19:12

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』


後に剃髪して道三入道

2017年03月28日 12:44

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 05:09:45.11 ID:aQunLHnl
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。

その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、

浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。

ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。

一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。

多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、

諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。

さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。

しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。

また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。

この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。

――『織田軍記(総見記)』


斎藤山城守は、山崎の油商の子であった

2015年12月07日 14:23

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/07(月) 12:44:29.40 ID:asqd5g/2
斎藤山城守(道三)は、山崎の油商の子であった。この父が、妻を連れて美濃に移住し、そこで
山城守を産んだ。そして土岐(美濃国主)に取り行って仕えていたが、土岐氏は末に至り、国も乱れる中、
どのようにしたのか、遂に美濃の国主となった。その時の落書に

 ときはれと のりたちもせず四の袴 三のはやぶれてひとのにぞなる

と云ったそうだ、彼は信長の舅であった。

(老人雑話)

斎藤道三二代説、老人雑話にとっくに出ていたんですね。




天文十六年、稲葉山城の戦い

2015年06月22日 18:10

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 04:31:43.64 ID:MTMHuJgH
初めて書き込むから色々至らないかもしれないけど

天文十六年(1547年)九月三日、織田信秀は尾張の国中の兵を指揮して美濃の国へ侵攻した。
村々に火を放って、九月二十二日に斎藤道三の居城、稲葉山城の城下の村々に寄せ焼き払った、そして町の入口に詰め寄った。

その時既に暮方、申の刻(午後四時程)になって軍勢を撤退させる事となり、兵を引き上げようとしたところ、
斎藤道三の軍勢が南へ向かって切りかかってきた。

応戦したが、多くの兵が崩れたってしまったので支えることが出来ず、
信秀の弟織田信康、織田因幡守、織田主水正、青山与右衛門、千秋季光、毛利敦元、長老寺沢又八の弟、毛利藤九郎、岩越喜三郎を始めとして、歴々五千人程が討死した

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 04:33:03.92 ID:MTMHuJgH
↑出典書いてませんでした、信長公記です




961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 04:52:59.70 ID:wOzHKolz
千秋て熱田の宮司だっけか
で痣丸だかなんとかいう業物の刀もって勇んでたら、逆に眼を突かれて死んじまったとか

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 10:20:32.13 ID:9azGNfky
千秋季光→戦死(稲葉山城攻め)
季直(季光の嫡子)→地味に戦死
季忠(季光の弟)→戦死(桶狭間)
季信(季忠の嫡子)信長へ戦への参加を希望するも、さすがに信長も
「お前もういいから神職に徹しろ」と言って止める
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-903.html

熱田の千秋家って森家並みに壮絶だな

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 11:23:10.01 ID:AfqW6Ix5
>>968
たしか季忠って佐々政次とともに無謀な突撃を敢行して玉砕するんだよな

あなたの身より出た罪です

2015年01月08日 18:46

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 23:01:55.13 ID:0XHGkLLF
美濃の斎藤道三には3人の家督候補の子があった。長男は新九郎(義龍)といい、これは先腹であった。
二男は孫四郎、三男は喜平次といい、これは当腹であった。
そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

父道三は三男を愛し、彼を一色氏の跡目とし、一色右兵衛大夫として将軍の御供衆と成した。
その上で、家督には孫四郎を据えようと内室とした私語したのを、6歳になる弟が聞いて、
意味もわからず兄の新九郎に語ってしまった。

新九郎はこれを聞くと仮病を構えて引き篭もり平臥し、万事を伺って観察すると、はたして父道三が
末子を家督に立てる準備が見えたため、道三が鷹狩のため稲葉山城より出かけたのを見計らって、
新九郎は重臣である長井隼人佐と密談し、謀をはじめた。

新九郎は弟達に書状を出した。『私は既に、存命不定の重病に及んでいる。二人の弟に遺言を申し渡したいので
ここに来てほしい。』

そして隼人佐が二人を謀って新九郎のもとに連れてくると、盃を出し末期の名残と酒を進めた。
その時、日根野備中、同弥吉の二人が屏風の影より跳ね出た。日根野備中は孫四郎を一太刀で斬り臥せ、
隼人佐と弥吉は一色兵衛太夫を斬り倒した。

この事を父道三は聞くと大いに驚きはせ帰り、貝を吹いて人数を集め、四方の町の末より放火して
稲葉山城を裸城にして、川を打ち越え山方という山中に引き籠もった。ここに父子の合戦が始まったのである。

しかし国中の人質は新九郎方にあったため、皆新九郎方に馳せ集まり、そのためその後は度々合戦があったものの
次第次第に道三方の人数は少なくなり、弘治2年(1556)、稲葉山から三里離れた場所に高山が在ったが、
道三はこの山に登り陣取ると、婿の上総介信長に美濃国を譲ると申し送った。
これを受け取った信長も、合戦のため大良まで出陣したという。

道三入道もこれが最後と思ったのであろう、その夜、多年にわたり肌身離さず持っていた本尊を、
お守りより取り出し、幼い末子に贈った。それに添えた書状に

『美濃国については織田上総介の存分に任せる。譲り状は信長にもう渡してある。
そのため織田勢は、明日は必ず下口まで出陣してくるであろう。

その方の身の上は、かねてから約束していたように、京の妙覚寺に上り出家するように。
一子出家すれば九族天生すると言われる。この山城入道は、明日一戦に及び遂に討ち死にするであろう。
法華妙体であり、五体満足ではないが、成仏するのに何の疑いがあるだろうか。

卯月十九日        道三入道』

道三は弘治二年四月十八日、鶴山に登って陣取って居たところ、新九郎がこれに向かって陣を出したため、
道三も山を下りこれに馳せ向かった。

この合戦は始め入り乱れ、火花を散らして戦っていたが、やがて道三方が崩れた。
新九郎方の長井十左衛門は大力であり、道三入道と渡り合って太刀打ちをしたが、なんとしてでも
生け捕りにしようとし躊躇していた所に、小牧源太と言う者が後から来て道三の脛を薙ぎ払い
そのまま首を取った。長井十左衛門は躊躇したため人に高名させられて何とも口惜しく思い、
後の証拠として道三の首から鼻を削いで取ったという。

新九郎方は勝利し首実検をしていた所に、父道三の首が持ち込まれた。
新九郎は首に向かって

「あなたの身より出た罪です。私を恨まないように。」

そう語りかけたという。

(江濃記)



199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 22:28:56.20 ID:6dv8G/Ex
>>197
>そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

しかし次の行から鬼になるあたりがやはり親父の子なのだなあ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:24:38.15 ID:VvZLYwRU
蝮は経済政策が苦手で、家臣の総意で隠居を余儀なくされ再起を図った結果、息子に勝てなかったと学者だか小説家だかが書いてたなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:39:50.22 ID:6zDYv1ng
>>199
廃嫡されたら従ってきた家臣は冷飯食いだからな
主君を脅してでも強行するさ

202 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/09(金) 03:00:18.78 ID:GN5xfV0A
武田信玄の親父追い出しがうまくいかずに内戦になったバージョン

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 03:37:36.82 ID:GN5xfV0A
武田晴信と武田信虎は骨肉の争いを繰り返すも、信虎が敗死
死の間際に娘婿の今川義元に「甲斐を譲り渡す」と遺言書を送ったのであった
義元は援軍を連れて進軍中だったが、義父の死を知ると兵を返す
父信虎を討った晴信は、生来の病弱が祟りその後5年ほどで急死した
家督は晴信の義信が継ぐが、義元の甲斐侵攻を受けて国を失った

てなことにもなったかもしれない

勝女のこと

2014年07月14日 18:58

勝女   
303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:25:25.51 ID:YrWW/aMd
明良洪範より勝女のこと

勝女は京生まれで織田信行に仕え、生まれつき聡明で容貌も美しく寵愛されていた。
ある酒宴の際、信行は重臣津田八弥に
「お前もそろそろ妻をめとれ、わしが媒酌してやろう」
とその場で勝女の婚姻を決め、良日を選んで祝言をあげてやると約した。
この津田八弥というのは農民の生まれだが美男と才能のため信行にとりたてられ、織田一族の
「津田」を姓として与えられた者である。
しかし信長から信行につけられた老臣で佐久間七郎左衛門というのがあり、
八弥より待遇が悪いため大いに嫉妬し、両者のいさかいが絶えなかった。
とうとう七郎左衛門は八弥の屋敷に火を放ち、出てきた八弥を刺殺してしまった。
目付役が吟味すると、八弥の厩のそばに七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃が信長から下賜された正宗が落ちてあり、
また、火をつけた盗賊をとらえた所、七郎左衛門に命じられたと白状した。
信行が玄蕃に七郎左衛門をつれてくるよう命じた所、七郎左衛門は美濃に出奔し、斎藤道三に匿われてしまった。

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:27:43.10 ID:YrWW/aMd
勝女は、婚儀はまだとはいえ夫と約した八弥の仇を討とうと信行に暇を乞うた。
信行は「相手は勇士、お前は女だからここは尼にでもなって八弥の菩提を弔え」
とすすめたものの、結局八弥を刺したと思われる正宗を与え、暇を出した。
勝女は岐阜近在に住みつくと、鷹狩をしていた道三の嫡子龍興の目にとまり、そのまま道三夫人の侍女となった。
器量よしで歌道にもすぐれていたため寵愛されていたところ、翌年三月、競射の参加者の名簿に
佐久間七郎左衛門の名を認めたため、夫人に願って競射を拝見する許可を得た。
参加者25名中15番目の佐久間七郎左衛門が名乗った瞬間、勝女はおどりいでて短刀で七郎左衛門の脇腹を突き、
「津田八弥が妻勝なり。夫のために仇を報ずる!」と大音声で叫んだため、大騒動となった。
七郎左衛門は即死。道三、龍興も驚き経緯を尋ねると勝女は動ぜずありのままを答えたため、
道三の怒りは減じたものの
「お主の志には感動したが、織田信行から七郎左衛門を戻せと言われても今まで断ってきた。
わしを頼ってきたため隠してきたのだ。しかし女のためにむざむざ殺されたことが世間に知られれば
わしにとっては恥辱極まりない。かわいそうだが明日死刑に処す。それまで牢に入っておれ」
道三夫人は勝女を牢に入れるにしのびず、道三に懇願し、勝女を一晩あずかる許可を得た。
夫人「わたしはあなたの行為に感動しました。このまま逃げなさい」
勝女はそれでは夫人にとって申し訳ない、罰を受けましょう、と言ったものの、結局夫人に説得され、
夫人から路銀をもらい、未明に城外に逃亡した。

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:30:38.58 ID:YrWW/aMd
勝女は三河は岡崎に来て宿屋の主人にわけを話すと、主人は大須賀五郎左衛門康高に事の次第を話し、
康高はすぐに家康に報告し、貞烈に感動した家康は「男女に限らず万人の鑑である」と城に引き取った。

七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃は勝女が岡崎にいると知るや信長に勝女を尾張へ戻すよう願った。
信長は池田紀伊守恒興を使者として勝女を乞うたが、
家康は「勝は夫のために仇を討った貞婦です。おそらくこれは玄蕃の願いでしょう。
仇討は古今稀であり、しかもわたしを頼ってきたものをそちらに渡す理由がありましょうか。
信長殿は玄蕃の願いを叶えなければ玄蕃が謀反するとおそれているですか?
もしこの言葉が無礼と思われるのなら戦で決着つけましょう。
その場合こちらは信玄と同盟して尾張に攻め入りましょう」
と答えたため信長もあきらめた。
玄蕃は怒りを増し、金銀で勇士たちを雇い、岡崎に潜入させて勝女を殺そうとした。
勝女は物詣のため城外に出たが、警護していた大原左近右衛門惟宗、今村伝十郎が
曲者二人を見とがめ、生け捕り拷問。曲者二人は玄蕃に頼まれたと白状した。
即刻二人の賊は処刑。梟首の上、制札に書かれた文面は
「この者共、佐久間玄蕃に頼まれた由を白状すれども、盗賊ら己が難儀を逃れんために
いうことならん。よってここに梟首するものなり」

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:32:46.06 ID:YrWW/aMd
信長は大いに怒り「わが領内に関することと知りながらこちらに通達もなしによくも罰したことよ。
しかも玄蕃の名前まで書くのは無礼であろう!」と使者を出したが
岡崎で老臣たちが使者に答えるには
「われわれも相談したのですが、貴国の老臣佐久間ともあろうものが
まさか一婦人に刺客をさしむけ殺害をはかるなどとは思われず、
おそらくこれは盗賊が自分の罪を免れようと嘘を言ったのだろうと判断したのです。
制札にもそう書いてますよね?」
これを使者より伝え聞いた信長はよけいに憤怒し、和平を破って戦闘におよぼうとしている、
という風説が岡崎までに届いたため、城の警護を固くすることになった。
勝女はこれを聞き
「わたくしめ一人のせいで、この国が戦になってしまうことは本意ではありません」
と今までの恩を感謝する書をしたため自殺。
この書を見たものはみな落涙し、家康も絶世の烈婦であると讃え、次第を信長に伝え、
大樹寺に葬り厚く弔った。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:36:45.81 ID:YrWW/aMd
と書いたものの、佐久間玄蕃って誰だろう
時代から考えて盛政のはずはないし




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 06:55:05.76 ID:jOloNtFC
最後自殺すんだろなーと思ってたら自殺した
この辺のメンタリティーは500年前から変わらずか

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 07:01:42.67 ID:UdEexSsb
道三がいるのに、家康と信長が同盟関係にある時点でわけがわからんよね

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 07:52:44.37 ID:UGyojH9t
義龍「…」

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 08:03:16.18 ID:4unFyKeC
単に道三と義龍混同しただけだとすると
桶狭間のあと家康が岡崎城を取り戻して
義龍が死ぬ前の1560年か1561年ごろか
清洲同盟はまだだがとりあえず小康状態ってことで和平、と言ってるのだろうか
でも信行生きてるってことは尾張を出た後数年岐阜に?
どこまでほんとかわからないから考察するだけ無駄な気もするが

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 13:38:18.59 ID:yk0AUsYP
一言、でっちあげ、でいいんじゃないここまでくると

美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた

2012年12月25日 19:30

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 23:49:29.11 ID:UoAYNgIu
美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた。主君は斎藤道三で多年膝元にて宮仕した。
ところが傍輩の嫉妬によって讒言され、道三はこれを信じて角弥の出仕を止めてしまった。
角弥は迷惑して「それがしの誤りは何でありましょう。承りたい」と人を介して尋ねるが、
道三の返事はなかった。角弥は「もはや主君との縁は尽きたのだ」と悟り別の縁を求めた。

その後、角弥は摂政殿に奉公することになった。彼は器量・骨柄・心様ともに人よりも
優れていたので、摂政殿は角弥を最も重用した。かくして角弥は二年の間御所にあった。
道三はそのことを聞きつけ、摂政殿に使者を送り「角弥を賜りたい」と申し上げた。しかし、
摂政殿は「呼び返す程欲しき者をどうして追い出したのだろう。叶えられないことだ」と断った。
道三は諦めずに千度百度頼んだが、摂政殿は「この者だけは出すことはない」と断固拒否した。

大いに立腹した道三は「それならば討手を上らせる」と決意し、山本伝左衛門と須田忠兵衛
という二人の大剛の者を京都に派遣した。二人は中々角弥を見つけられなかったが、
ある御節会の時、禁中に渡る摂政殿に角弥も供奉していた。この時、二人は角弥を見つけ、
角弥も見合わせてお互いに「あっ」と思ったが、摂政殿の警固は厳重で両人は手を出せず、
その日は空しく諦めた。それからの二人は角弥を討つ機会を毎日窺った。

一方の角弥は「あれは討手に違いない。殿下にこのことを申し上げたほうが善いのではないか」
と思い、ある時摂政殿の様子を窺ってその旨を申し上げた。摂政殿は直ちに奉行所へ
「かかる者が京都にいる。厳重に捜査して洛中より追い払え」と命じ、長高と貞親が洛中に
「この者を一時でも抱えた輩は処罰する」と触れを出した。この状況に両人は是非もなく帰国し
道三に報告すると、道三もどうしようもなく、そのまま角弥殺害を諦めてしまった。

――『室町殿物語』




894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/25(火) 20:57:29.83 ID:vJy29klx
>>888
斉藤家は京都に刺客送ると失敗するフラグでも立ってるのか?

斎藤家内訌

2011年08月07日 23:00

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:36:49.44 ID:MLR7INB2
斎藤家内訌


天文24年(1555年)当時、美濃の大名である斎藤家の家督は「蝮」の異名をとった道三から嫡男である義龍に既に譲渡されていた。
しかし、道三は前妻の子である義龍より後妻の子である孫四郎、喜平次兄弟を愛しており、
特に喜平次には官を進めて「一色右兵衛太輔」と名乗らせるなど優遇していた。
道三がこんな調子であったので孫四郎、喜平次兄弟はすっかり奢り高ぶり、義龍を侮るようになってしまったのである。
そうした情勢の中で同年10月13日、義龍は病を患ったと称して引き篭もってしまい、床に伏せる毎日を送った。

しかし11月22日、道三が稲葉山城から山下の別邸に移ったという知らせを聞くとここで義龍は動く。
義龍は叔父の長井道利と語らって、道利に孫四郎、喜平次兄弟へ使者を出させた。
「義龍は重病を患っており、後は時を待つのみ。ついては今後のことについて相談があるので入来されたし。」
使者がこう伝えると孫四郎、喜平次兄弟は義龍に対面するべく稲葉山城へと参上した。

長井道利は孫四郎、喜平次兄弟が同じ部屋に来ると次室に入ったが、ここで道利は刀を外し、また奥の間へと入った。
それを見た孫四郎、喜平次兄弟も同じように次室で刀を外し、奥の間で道利と対面するように座る。
その後、道利は孫四郎、喜平次兄弟に酒を振る舞い、二人がすっかりと酔ったところで一人の男が部屋に飛び込んできた。

部屋に上がりこんで来た男は義龍に側近として重用されていた日根野弘就であった。
弘就は上がりこむや否や刀を抜き放つと上座にいる孫四郎を斬り伏せ、返す刀で喜平次も斬殺した。
孫四郎、喜平次兄弟は叔父の長井道利を巻き込んだ義龍の謀略にまんまと嵌められたのである。
そして義龍はこの事件の一報をあえて父道三へと届けさせたが、この知らせにはさしもの道三も仰天し、また深く落胆したという。



超有名なエピソードだけどまだ投下されてなかったみたいなので。




343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:58:43.97 ID:5bOHQTY1
一応、名目上は見舞いに来てるのに酒宴してるってのも失礼な話だなw

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 22:06:21.71 ID:ZVv93d8k
いくら一族とは言えもう少し警戒しないとな宇喜多直家に対する忠家のように