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信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず

2019年05月22日 13:20

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:40:38.18 ID:D7yWtb0Y
(前略。元亀元年(1570)12月の事)

馬場美濃(信春)が申すには、

「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり“犬山哲斎”と申しております。

この人の物語りによれば、信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、舅の斎藤山城守(道
三)の弓矢形儀を仕っております。『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』と、犬山
哲斎は沙汰致しました」

と申し上げた。信玄公が仰せられたことには、

「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕
致した。斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、斎藤の弓
矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。

しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、父の弾正の代には小家中であった
故、侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、自然と信長衆の大方のことは斎藤山城の
ように致すものであろう。それはあえて真似るわけでなくとも、浄土寺へ行けば自然と『念仏申したい』と
の心になるのと同じことである」

と仰せになられた。

――『甲陽軍鑑』



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岩崎角弥が事

2019年04月06日 14:11

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/06(土) 01:14:22.25 ID:1F6JfVq7
岩崎角弥が事

美濃国の住人に、岩崎角弥という若き侍が有った。主君は斉藤山城入道(道三)であり、多年膝下を去らず
宮仕していたのだが、傍輩のそねみがあり、道三に彼の身の上について讒言された所、道三もこれを
まことと思い、直ちに出仕をやめさせた。これに角弥は迷惑し

「それがしが主君に対してどのような誤りがあったのか承りたい。」

と人を介して訴えたが、とかくの返事もなく

「もはや主君との縁も尽きた」と思い、本国を出奔して京都に至り、所縁を尋ねて、摂政殿(誰かは不明)に
奉公することと成った。この者は器量、骨柄、心様、他に超えて優れた人物であったので、摂政殿も
重用し召し使うこと、又並び無かった。

こうして年を経て、二年御所に有ったのだが、道三はこの事を聞き、やがて使者を以て、摂政殿下に
岩崎角弥を返還するよう申し上げた。摂政殿はこれを聞くと

「呼び返すほどおしき者を、どうして追い出したのか。そのような事叶うまじき。」と返事をし、
道三にそう伝えたが、道三からは重ねて「是非とも申し受けたい」と申し越した。
摂政殿は「千度百度そのようなことを言ってきても、この者を返すなど、致すまじき。」
と、はっきりと拒絶した。

この返答に道三は大いに立腹し、「その義であれば討手を上らすべし」と、山本伝左衛門、須田忠兵衛という
大剛の者二人を京に上らせた。そうして彼らは岩崎角弥の動静を伺ったが、なかなか見当たることは無かった。
しかしある時、節会の折、摂政殿が禁中へのお渡りに際し角弥もそのお供をした。この時山本、須田の二人は
角弥を発見し、角弥も二人を見つけ、互いに「あっ」と思ったが、摂政殿下の輿は前を長柄、力者、前駆、
随身などが厳しく警護し、また後ろは五位、六位の者たちが固めていたので、これに行き合った人は何れも
畏まり彼らを通した。

山本、須田の二人は力なく、その日は虚しく帰り、それより毎日角弥を伺った。これについて角弥も察し
「彼らは必ず私の討手として上ってきたのだろう。この事は殿下に御報告しておかねば。」と、
ある時ご機嫌を見計らい、この事を申し上げると、殿下は聞こし召して、すぐに奉行所へ
「かかる曲者が京都にある。急ぎ穿鑿して、洛中より追放すべし。」と仰せ付けになると。
奉行所の猶村長高、貞親といった者たちは承り、洛中に触れをし『この者たちを少しでも
匿った者には罪罰が仰せ付けられる。』と聞かせたため、山本、須田の二人は是非もなく本国へ帰り、
道三にかくかくと説明すると、道三にもどうにも出来す、そのまま有耶無耶と成った。

(室町殿物語)



829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/06(土) 07:51:31.57 ID:vRR+okPq
一生一緒にいてくれやって言っておけば…

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/07(日) 23:23:09.67 ID:tN6cKz2F
摂政どののちょっといい話でした

妖刀”あざ丸”

2018年10月06日 19:06

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 18:49:49.54 ID:q4XVtgoD
天文13年(1544)、斎藤道三織田信秀方の大垣城を攻めた際のこと、
道三は近江国よりも加勢を請い、霜月(11月)の始めより大垣城へ押し寄せ、二重三重に
取り巻いて、持楯掻楯を突き寄せ突き寄せ攻めた。敵味方の鬨の声、鉄砲の音は山河を動かす
ばかりであった。

道三方の陰山掃部助という者、軍勢を分けて牛屋の寺院を焼き払おうとして向かったが、
床机に腰を掛けて諸卒を下知していた時、寺内より流矢が来て陰山の左目に二寸ばかり
射込んだ。彼はすぐにその矢を抜いたが、直後また流矢が来て今度は右目へ刺さった。
このため起きようとも起きられず、動くことも出来ず、ただ呆然としてそこに有った。

俄に両眼が射潰されるなど只事ではないが、その理由としてこのようなことが言われた。
かつて平家の侍大将であった悪七兵衛景清が差していた”あざ丸”という太刀を、去る
9月22日の大合戦(斎藤道三が稲葉山城に押し寄せた織田信秀を撃退した加納口の戦い)の
折、織田方で討ち死にした千秋紀伊守が最後に差しており、これを陰山が求めて差したのだが、
幾程もなく盲目と成ったことこそ不思議である。

その後この刀は、丹羽長秀の所有と成ったが、長秀もこれを所持して目を以ての外に患い、
さてはこの刀を所持した者は必ず目の祟に合うのではないかと沙汰され、熱田大神宮に進ぜようという
事となり、宝殿へ納めると、即座に眼病は平癒したという。

(甫庵信長記)

参考
「あざ丸」
怪刀痣丸・怖い話



273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:20:01.23 ID:FUVuOp6w
>>272
景清の刀が戦国時代まで残って使われてこんな騒ぎまで起こすとかロマンだ…。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:22:53.02 ID:wcyDn2+q
景清「頼朝を討とうとしたら果たせなかった。
源氏の世を見るくらいなら我が両眼をくりぬいて清水寺に奉納してやる!」
をネタにした「景清」という落語を思い出した

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:52:21.68 ID:aW8FcG6c
>>273
残っているのはさておき、実戦で使うとは…。
当時でも価値は文化財的なもんじゃないの?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:56:27.77 ID:bWFQtJT4
源平討魔伝か

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 21:39:33.79 ID:Ymc/oMUE
>>272
千秋も眼をやられて討ち死にしてなかったかな

昔、この逸話「あざ丸」がスレにあがったときは寺を攻めるんじゃなくて、敵城を攻めるときに寺に陣を敷いてたことになってるね

ガラケーなんで前の逸話を貼り辛いので貼らんけど

居ながら尿を流すは、家の面目

2017年11月28日 15:49

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 13:26:17.99 ID:q/sq0uZp
斎藤道三が3人の息子を前に往昔の軍の手立てなどを語っていた所、嫡男の龍興が、
物語の半ばに立ち上がって用を足しに行った。
道三は不快に思い、龍興が帰ってくるとこのように言った

「武士にとって戦場の物語は、これ皆武義の教えである。志ある者達ならば好んで聞くべきなのだ。
志が有れば、物語の面白さに聞き惚れて、居ながらにして小用を致したとしても無礼とは言わない。
むしろ語り伝えに、『龍興は軍物語に聞き惚れて居ながら尿を流した』と言われるは、家の面目と
言うべきであろう。
お前はやがて家を失い、他の紋に馬をつなぐだろう。」

そう涙を流して諌めたという。

(士談)



342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:05:25.94 ID:+NX5BKfl
>>341
義龍「」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:38.50 ID:q/sq0uZp
>>342
原文ママなのですが、おそらく義龍の間違いでしょうね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:35:25.79 ID:fMrCqu7j
竹中半兵衛「私が、小便をかけた斎藤飛騨守を美濃城乗っ取りの際に討ち取ったように
男子に小便、というのはあまりな屈辱。
先先代のお言葉とは思われません」

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:08:56.81 ID:VQeFYYED
竹中半兵衛でしょ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:12:24.89 ID:q/sq0uZp
>>346
有名なのがそれこそ龍興の家来だった竹中半兵衛が息子重門を叱ったやつで、
竹中半兵衛と座り小便・いい話
何故か伊達政宗にも同じような逸話がある
政宗、息子忠宗を叱る

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/29(水) 10:47:42.90 ID:mFIHIWzA
>>341
その話何パターンあんだよ?
武家の数だけあんのか?

長谷川甚兵衛は非常な勇士であり

2017年04月11日 19:22

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 18:19:32.73 ID:gmptssHW
長谷川甚兵衛、初名は宗二郎と言った、非常な勇士であり、斎藤道三に仕え、後の父子対決の時は
義龍に属した。

斎藤義龍が父に反逆した時、美濃の諸侍は慌てて悉く屋敷を立ち退き、その振る舞い非常に見苦しい
ものであったが、甚兵衛一人屋敷を立ち退かなかった。
そこで義龍は様々に説得し、甚兵衛は遂に義龍に従った。

美濃において度々の国取合に、功を顕すこと、一々挙げて言うことも出来ないほどであった。
ある時甚兵衛は、美濃における小競り合いの時に、敵が引くであろう小路に、在々より石臼などといった物を
提出させこれを置いたが、人々はこんなものに意味があるのかと思った。
ところが、敵は急に引き立ち、この石臼などに躓き倒れて、多く討たれたという。
これは在所の者が今も語り伝えている。
時に応じての才覚とはこういうものだと思われる。

(士談)


治部大輔義龍は悪逆不孝で

2017年03月29日 19:12

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』


後に剃髪して道三入道

2017年03月28日 12:44

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 05:09:45.11 ID:aQunLHnl
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。

その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、

浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。

ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。

一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。

多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、

諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。

さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。

しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。

また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。

この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。

――『織田軍記(総見記)』


斎藤山城守は、山崎の油商の子であった

2015年12月07日 14:23

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/07(月) 12:44:29.40 ID:asqd5g/2
斎藤山城守(道三)は、山崎の油商の子であった。この父が、妻を連れて美濃に移住し、そこで
山城守を産んだ。そして土岐(美濃国主)に取り行って仕えていたが、土岐氏は末に至り、国も乱れる中、
どのようにしたのか、遂に美濃の国主となった。その時の落書に

 ときはれと のりたちもせず四の袴 三のはやぶれてひとのにぞなる

と云ったそうだ、彼は信長の舅であった。

(老人雑話)

斎藤道三二代説、老人雑話にとっくに出ていたんですね。




天文十六年、稲葉山城の戦い

2015年06月22日 18:10

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 04:31:43.64 ID:MTMHuJgH
初めて書き込むから色々至らないかもしれないけど

天文十六年(1547年)九月三日、織田信秀は尾張の国中の兵を指揮して美濃の国へ侵攻した。
村々に火を放って、九月二十二日に斎藤道三の居城、稲葉山城の城下の村々に寄せ焼き払った、そして町の入口に詰め寄った。

その時既に暮方、申の刻(午後四時程)になって軍勢を撤退させる事となり、兵を引き上げようとしたところ、
斎藤道三の軍勢が南へ向かって切りかかってきた。

応戦したが、多くの兵が崩れたってしまったので支えることが出来ず、
信秀の弟織田信康、織田因幡守、織田主水正、青山与右衛門、千秋季光、毛利敦元、長老寺沢又八の弟、毛利藤九郎、岩越喜三郎を始めとして、歴々五千人程が討死した

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 04:33:03.92 ID:MTMHuJgH
↑出典書いてませんでした、信長公記です




961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 04:52:59.70 ID:wOzHKolz
千秋て熱田の宮司だっけか
で痣丸だかなんとかいう業物の刀もって勇んでたら、逆に眼を突かれて死んじまったとか

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 10:20:32.13 ID:9azGNfky
千秋季光→戦死(稲葉山城攻め)
季直(季光の嫡子)→地味に戦死
季忠(季光の弟)→戦死(桶狭間)
季信(季忠の嫡子)信長へ戦への参加を希望するも、さすがに信長も
「お前もういいから神職に徹しろ」と言って止める
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-903.html

熱田の千秋家って森家並みに壮絶だな

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 11:23:10.01 ID:AfqW6Ix5
>>968
たしか季忠って佐々政次とともに無謀な突撃を敢行して玉砕するんだよな

あなたの身より出た罪です

2015年01月08日 18:46

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 23:01:55.13 ID:0XHGkLLF
美濃の斎藤道三には3人の家督候補の子があった。長男は新九郎(義龍)といい、これは先腹であった。
二男は孫四郎、三男は喜平次といい、これは当腹であった。
そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

父道三は三男を愛し、彼を一色氏の跡目とし、一色右兵衛大夫として将軍の御供衆と成した。
その上で、家督には孫四郎を据えようと内室とした私語したのを、6歳になる弟が聞いて、
意味もわからず兄の新九郎に語ってしまった。

新九郎はこれを聞くと仮病を構えて引き篭もり平臥し、万事を伺って観察すると、はたして父道三が
末子を家督に立てる準備が見えたため、道三が鷹狩のため稲葉山城より出かけたのを見計らって、
新九郎は重臣である長井隼人佐と密談し、謀をはじめた。

新九郎は弟達に書状を出した。『私は既に、存命不定の重病に及んでいる。二人の弟に遺言を申し渡したいので
ここに来てほしい。』

そして隼人佐が二人を謀って新九郎のもとに連れてくると、盃を出し末期の名残と酒を進めた。
その時、日根野備中、同弥吉の二人が屏風の影より跳ね出た。日根野備中は孫四郎を一太刀で斬り臥せ、
隼人佐と弥吉は一色兵衛太夫を斬り倒した。

この事を父道三は聞くと大いに驚きはせ帰り、貝を吹いて人数を集め、四方の町の末より放火して
稲葉山城を裸城にして、川を打ち越え山方という山中に引き籠もった。ここに父子の合戦が始まったのである。

しかし国中の人質は新九郎方にあったため、皆新九郎方に馳せ集まり、そのためその後は度々合戦があったものの
次第次第に道三方の人数は少なくなり、弘治2年(1556)、稲葉山から三里離れた場所に高山が在ったが、
道三はこの山に登り陣取ると、婿の上総介信長に美濃国を譲ると申し送った。
これを受け取った信長も、合戦のため大良まで出陣したという。

道三入道もこれが最後と思ったのであろう、その夜、多年にわたり肌身離さず持っていた本尊を、
お守りより取り出し、幼い末子に贈った。それに添えた書状に

『美濃国については織田上総介の存分に任せる。譲り状は信長にもう渡してある。
そのため織田勢は、明日は必ず下口まで出陣してくるであろう。

その方の身の上は、かねてから約束していたように、京の妙覚寺に上り出家するように。
一子出家すれば九族天生すると言われる。この山城入道は、明日一戦に及び遂に討ち死にするであろう。
法華妙体であり、五体満足ではないが、成仏するのに何の疑いがあるだろうか。

卯月十九日        道三入道』

道三は弘治二年四月十八日、鶴山に登って陣取って居たところ、新九郎がこれに向かって陣を出したため、
道三も山を下りこれに馳せ向かった。

この合戦は始め入り乱れ、火花を散らして戦っていたが、やがて道三方が崩れた。
新九郎方の長井十左衛門は大力であり、道三入道と渡り合って太刀打ちをしたが、なんとしてでも
生け捕りにしようとし躊躇していた所に、小牧源太と言う者が後から来て道三の脛を薙ぎ払い
そのまま首を取った。長井十左衛門は躊躇したため人に高名させられて何とも口惜しく思い、
後の証拠として道三の首から鼻を削いで取ったという。

新九郎方は勝利し首実検をしていた所に、父道三の首が持ち込まれた。
新九郎は首に向かって

「あなたの身より出た罪です。私を恨まないように。」

そう語りかけたという。

(江濃記)



199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 22:28:56.20 ID:6dv8G/Ex
>>197
>そして惣領の新九郎は、父に似ず心ばえ悠々として、温和な人物であった。

しかし次の行から鬼になるあたりがやはり親父の子なのだなあ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:24:38.15 ID:VvZLYwRU
蝮は経済政策が苦手で、家臣の総意で隠居を余儀なくされ再起を図った結果、息子に勝てなかったと学者だか小説家だかが書いてたなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 23:39:50.22 ID:6zDYv1ng
>>199
廃嫡されたら従ってきた家臣は冷飯食いだからな
主君を脅してでも強行するさ

202 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/09(金) 03:00:18.78 ID:GN5xfV0A
武田信玄の親父追い出しがうまくいかずに内戦になったバージョン

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 03:37:36.82 ID:GN5xfV0A
武田晴信と武田信虎は骨肉の争いを繰り返すも、信虎が敗死
死の間際に娘婿の今川義元に「甲斐を譲り渡す」と遺言書を送ったのであった
義元は援軍を連れて進軍中だったが、義父の死を知ると兵を返す
父信虎を討った晴信は、生来の病弱が祟りその後5年ほどで急死した
家督は晴信の義信が継ぐが、義元の甲斐侵攻を受けて国を失った

てなことにもなったかもしれない

勝女のこと

2014年07月14日 18:58

勝女   
303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:25:25.51 ID:YrWW/aMd
明良洪範より勝女のこと

勝女は京生まれで織田信行に仕え、生まれつき聡明で容貌も美しく寵愛されていた。
ある酒宴の際、信行は重臣津田八弥に
「お前もそろそろ妻をめとれ、わしが媒酌してやろう」
とその場で勝女の婚姻を決め、良日を選んで祝言をあげてやると約した。
この津田八弥というのは農民の生まれだが美男と才能のため信行にとりたてられ、織田一族の
「津田」を姓として与えられた者である。
しかし信長から信行につけられた老臣で佐久間七郎左衛門というのがあり、
八弥より待遇が悪いため大いに嫉妬し、両者のいさかいが絶えなかった。
とうとう七郎左衛門は八弥の屋敷に火を放ち、出てきた八弥を刺殺してしまった。
目付役が吟味すると、八弥の厩のそばに七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃が信長から下賜された正宗が落ちてあり、
また、火をつけた盗賊をとらえた所、七郎左衛門に命じられたと白状した。
信行が玄蕃に七郎左衛門をつれてくるよう命じた所、七郎左衛門は美濃に出奔し、斎藤道三に匿われてしまった。

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:27:43.10 ID:YrWW/aMd
勝女は、婚儀はまだとはいえ夫と約した八弥の仇を討とうと信行に暇を乞うた。
信行は「相手は勇士、お前は女だからここは尼にでもなって八弥の菩提を弔え」
とすすめたものの、結局八弥を刺したと思われる正宗を与え、暇を出した。
勝女は岐阜近在に住みつくと、鷹狩をしていた道三の嫡子龍興の目にとまり、そのまま道三夫人の侍女となった。
器量よしで歌道にもすぐれていたため寵愛されていたところ、翌年三月、競射の参加者の名簿に
佐久間七郎左衛門の名を認めたため、夫人に願って競射を拝見する許可を得た。
参加者25名中15番目の佐久間七郎左衛門が名乗った瞬間、勝女はおどりいでて短刀で七郎左衛門の脇腹を突き、
「津田八弥が妻勝なり。夫のために仇を報ずる!」と大音声で叫んだため、大騒動となった。
七郎左衛門は即死。道三、龍興も驚き経緯を尋ねると勝女は動ぜずありのままを答えたため、
道三の怒りは減じたものの
「お主の志には感動したが、織田信行から七郎左衛門を戻せと言われても今まで断ってきた。
わしを頼ってきたため隠してきたのだ。しかし女のためにむざむざ殺されたことが世間に知られれば
わしにとっては恥辱極まりない。かわいそうだが明日死刑に処す。それまで牢に入っておれ」
道三夫人は勝女を牢に入れるにしのびず、道三に懇願し、勝女を一晩あずかる許可を得た。
夫人「わたしはあなたの行為に感動しました。このまま逃げなさい」
勝女はそれでは夫人にとって申し訳ない、罰を受けましょう、と言ったものの、結局夫人に説得され、
夫人から路銀をもらい、未明に城外に逃亡した。

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:30:38.58 ID:YrWW/aMd
勝女は三河は岡崎に来て宿屋の主人にわけを話すと、主人は大須賀五郎左衛門康高に事の次第を話し、
康高はすぐに家康に報告し、貞烈に感動した家康は「男女に限らず万人の鑑である」と城に引き取った。

七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃は勝女が岡崎にいると知るや信長に勝女を尾張へ戻すよう願った。
信長は池田紀伊守恒興を使者として勝女を乞うたが、
家康は「勝は夫のために仇を討った貞婦です。おそらくこれは玄蕃の願いでしょう。
仇討は古今稀であり、しかもわたしを頼ってきたものをそちらに渡す理由がありましょうか。
信長殿は玄蕃の願いを叶えなければ玄蕃が謀反するとおそれているですか?
もしこの言葉が無礼と思われるのなら戦で決着つけましょう。
その場合こちらは信玄と同盟して尾張に攻め入りましょう」
と答えたため信長もあきらめた。
玄蕃は怒りを増し、金銀で勇士たちを雇い、岡崎に潜入させて勝女を殺そうとした。
勝女は物詣のため城外に出たが、警護していた大原左近右衛門惟宗、今村伝十郎が
曲者二人を見とがめ、生け捕り拷問。曲者二人は玄蕃に頼まれたと白状した。
即刻二人の賊は処刑。梟首の上、制札に書かれた文面は
「この者共、佐久間玄蕃に頼まれた由を白状すれども、盗賊ら己が難儀を逃れんために
いうことならん。よってここに梟首するものなり」

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:32:46.06 ID:YrWW/aMd
信長は大いに怒り「わが領内に関することと知りながらこちらに通達もなしによくも罰したことよ。
しかも玄蕃の名前まで書くのは無礼であろう!」と使者を出したが
岡崎で老臣たちが使者に答えるには
「われわれも相談したのですが、貴国の老臣佐久間ともあろうものが
まさか一婦人に刺客をさしむけ殺害をはかるなどとは思われず、
おそらくこれは盗賊が自分の罪を免れようと嘘を言ったのだろうと判断したのです。
制札にもそう書いてますよね?」
これを使者より伝え聞いた信長はよけいに憤怒し、和平を破って戦闘におよぼうとしている、
という風説が岡崎までに届いたため、城の警護を固くすることになった。
勝女はこれを聞き
「わたくしめ一人のせいで、この国が戦になってしまうことは本意ではありません」
と今までの恩を感謝する書をしたため自殺。
この書を見たものはみな落涙し、家康も絶世の烈婦であると讃え、次第を信長に伝え、
大樹寺に葬り厚く弔った。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:36:45.81 ID:YrWW/aMd
と書いたものの、佐久間玄蕃って誰だろう
時代から考えて盛政のはずはないし




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 06:55:05.76 ID:jOloNtFC
最後自殺すんだろなーと思ってたら自殺した
この辺のメンタリティーは500年前から変わらずか

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 07:01:42.67 ID:UdEexSsb
道三がいるのに、家康と信長が同盟関係にある時点でわけがわからんよね

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 07:52:44.37 ID:UGyojH9t
義龍「…」

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 08:03:16.18 ID:4unFyKeC
単に道三と義龍混同しただけだとすると
桶狭間のあと家康が岡崎城を取り戻して
義龍が死ぬ前の1560年か1561年ごろか
清洲同盟はまだだがとりあえず小康状態ってことで和平、と言ってるのだろうか
でも信行生きてるってことは尾張を出た後数年岐阜に?
どこまでほんとかわからないから考察するだけ無駄な気もするが

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 13:38:18.59 ID:yk0AUsYP
一言、でっちあげ、でいいんじゃないここまでくると

美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた

2012年12月25日 19:30

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 23:49:29.11 ID:UoAYNgIu
美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた。主君は斎藤道三で多年膝元にて宮仕した。
ところが傍輩の嫉妬によって讒言され、道三はこれを信じて角弥の出仕を止めてしまった。
角弥は迷惑して「それがしの誤りは何でありましょう。承りたい」と人を介して尋ねるが、
道三の返事はなかった。角弥は「もはや主君との縁は尽きたのだ」と悟り別の縁を求めた。

その後、角弥は摂政殿に奉公することになった。彼は器量・骨柄・心様ともに人よりも
優れていたので、摂政殿は角弥を最も重用した。かくして角弥は二年の間御所にあった。
道三はそのことを聞きつけ、摂政殿に使者を送り「角弥を賜りたい」と申し上げた。しかし、
摂政殿は「呼び返す程欲しき者をどうして追い出したのだろう。叶えられないことだ」と断った。
道三は諦めずに千度百度頼んだが、摂政殿は「この者だけは出すことはない」と断固拒否した。

大いに立腹した道三は「それならば討手を上らせる」と決意し、山本伝左衛門と須田忠兵衛
という二人の大剛の者を京都に派遣した。二人は中々角弥を見つけられなかったが、
ある御節会の時、禁中に渡る摂政殿に角弥も供奉していた。この時、二人は角弥を見つけ、
角弥も見合わせてお互いに「あっ」と思ったが、摂政殿の警固は厳重で両人は手を出せず、
その日は空しく諦めた。それからの二人は角弥を討つ機会を毎日窺った。

一方の角弥は「あれは討手に違いない。殿下にこのことを申し上げたほうが善いのではないか」
と思い、ある時摂政殿の様子を窺ってその旨を申し上げた。摂政殿は直ちに奉行所へ
「かかる者が京都にいる。厳重に捜査して洛中より追い払え」と命じ、長高と貞親が洛中に
「この者を一時でも抱えた輩は処罰する」と触れを出した。この状況に両人は是非もなく帰国し
道三に報告すると、道三もどうしようもなく、そのまま角弥殺害を諦めてしまった。

――『室町殿物語』




894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/25(火) 20:57:29.83 ID:vJy29klx
>>888
斉藤家は京都に刺客送ると失敗するフラグでも立ってるのか?

斎藤家内訌

2011年08月07日 23:00

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:36:49.44 ID:MLR7INB2
斎藤家内訌


天文24年(1555年)当時、美濃の大名である斎藤家の家督は「蝮」の異名をとった道三から嫡男である義龍に既に譲渡されていた。
しかし、道三は前妻の子である義龍より後妻の子である孫四郎、喜平次兄弟を愛しており、
特に喜平次には官を進めて「一色右兵衛太輔」と名乗らせるなど優遇していた。
道三がこんな調子であったので孫四郎、喜平次兄弟はすっかり奢り高ぶり、義龍を侮るようになってしまったのである。
そうした情勢の中で同年10月13日、義龍は病を患ったと称して引き篭もってしまい、床に伏せる毎日を送った。

しかし11月22日、道三が稲葉山城から山下の別邸に移ったという知らせを聞くとここで義龍は動く。
義龍は叔父の長井道利と語らって、道利に孫四郎、喜平次兄弟へ使者を出させた。
「義龍は重病を患っており、後は時を待つのみ。ついては今後のことについて相談があるので入来されたし。」
使者がこう伝えると孫四郎、喜平次兄弟は義龍に対面するべく稲葉山城へと参上した。

長井道利は孫四郎、喜平次兄弟が同じ部屋に来ると次室に入ったが、ここで道利は刀を外し、また奥の間へと入った。
それを見た孫四郎、喜平次兄弟も同じように次室で刀を外し、奥の間で道利と対面するように座る。
その後、道利は孫四郎、喜平次兄弟に酒を振る舞い、二人がすっかりと酔ったところで一人の男が部屋に飛び込んできた。

部屋に上がりこんで来た男は義龍に側近として重用されていた日根野弘就であった。
弘就は上がりこむや否や刀を抜き放つと上座にいる孫四郎を斬り伏せ、返す刀で喜平次も斬殺した。
孫四郎、喜平次兄弟は叔父の長井道利を巻き込んだ義龍の謀略にまんまと嵌められたのである。
そして義龍はこの事件の一報をあえて父道三へと届けさせたが、この知らせにはさしもの道三も仰天し、また深く落胆したという。



超有名なエピソードだけどまだ投下されてなかったみたいなので。




343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 19:58:43.97 ID:5bOHQTY1
一応、名目上は見舞いに来てるのに酒宴してるってのも失礼な話だなw

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 22:06:21.71 ID:ZVv93d8k
いくら一族とは言えもう少し警戒しないとな宇喜多直家に対する忠家のように