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居ながら尿を流すは、家の面目

2017年11月28日 15:49

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 13:26:17.99 ID:q/sq0uZp
斎藤道三が3人の息子を前に往昔の軍の手立てなどを語っていた所、嫡男の龍興が、
物語の半ばに立ち上がって用を足しに行った。
道三は不快に思い、龍興が帰ってくるとこのように言った

「武士にとって戦場の物語は、これ皆武義の教えである。志ある者達ならば好んで聞くべきなのだ。
志が有れば、物語の面白さに聞き惚れて、居ながらにして小用を致したとしても無礼とは言わない。
むしろ語り伝えに、『龍興は軍物語に聞き惚れて居ながら尿を流した』と言われるは、家の面目と
言うべきであろう。
お前はやがて家を失い、他の紋に馬をつなぐだろう。」

そう涙を流して諌めたという。

(士談)



342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:05:25.94 ID:+NX5BKfl
>>341
義龍「」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:38.50 ID:q/sq0uZp
>>342
原文ママなのですが、おそらく義龍の間違いでしょうね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:35:25.79 ID:fMrCqu7j
竹中半兵衛「私が、小便をかけた斎藤飛騨守を美濃城乗っ取りの際に討ち取ったように
男子に小便、というのはあまりな屈辱。
先先代のお言葉とは思われません」

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:08:56.81 ID:VQeFYYED
竹中半兵衛でしょ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:12:24.89 ID:q/sq0uZp
>>346
有名なのがそれこそ龍興の家来だった竹中半兵衛が息子重門を叱ったやつで、
竹中半兵衛と座り小便・いい話
何故か伊達政宗にも同じような逸話がある
政宗、息子忠宗を叱る

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/29(水) 10:47:42.90 ID:mFIHIWzA
>>341
その話何パターンあんだよ?
武家の数だけあんのか?
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「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」

2017年07月05日 18:30

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 17:38:50.37 ID:YxoXjZLJ
竹中半兵衛斎藤龍興に奉公して稲葉山にあった時、半兵衛と同じように使われた者があり、
ある時、半兵衛には巣鷹の仔が与えられ、このもう一人にはコノリ(ハイタカの小型の雄)が与えられた。
ところが、龍興は一旦半兵衛に与えた巣鷹の仔を取り返して相手に与え、コノリの方を再度
半兵衛に与えた、

この事に半兵衛は強く憤り、稲葉山から出奔すべく計画を立てた。
彼は同士の侍18人と語らい、番つづらにそれぞれ具足を入れさせ、当番として場内に入ると
切って廻り、そのまま出奔した。

この時、稲葉山城内の一人が半兵衛に切りかかったが、半兵衛も刀を抜いて切り込み、向こうの刀を
柄で受け止めた。そこで刀に打たれたために半兵衛の刀が抜けたが、この抜けた刃が相手を
仕留めた。
彼も幼少より剣術を習っていたが、実戦を行ったのはこの時が初めてであったという。半兵衛19才の
時の事だそうだ。

彼が若輩の頃、人々から『鼻たらし』と嘲られていたが、この時自ら手鼻をかんで

「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」

と言ったという。

半兵衛は一生の間、常に数珠をつまぐり、「美濃の国には誰もない。誰もない。」とばかり
言っていたそうだ。

この半兵衛、元は美濃赤坂の商人、あかねやの子であり、龍興の元から出奔する頃までは父も存命し、
至って裕福な者であったという。

(士談)



929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 22:18:54.21 ID:QCAwnrGS
美濃では商人の出でなければ身の立てようがないんか

長谷川甚兵衛は非常な勇士であり

2017年04月11日 19:22

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 18:19:32.73 ID:gmptssHW
長谷川甚兵衛、初名は宗二郎と言った、非常な勇士であり、斎藤道三に仕え、後の父子対決の時は
義龍に属した。

斎藤義龍が父に反逆した時、美濃の諸侍は慌てて悉く屋敷を立ち退き、その振る舞い非常に見苦しい
ものであったが、甚兵衛一人屋敷を立ち退かなかった。
そこで義龍は様々に説得し、甚兵衛は遂に義龍に従った。

美濃において度々の国取合に、功を顕すこと、一々挙げて言うことも出来ないほどであった。
ある時甚兵衛は、美濃における小競り合いの時に、敵が引くであろう小路に、在々より石臼などといった物を
提出させこれを置いたが、人々はこんなものに意味があるのかと思った。
ところが、敵は急に引き立ち、この石臼などに躓き倒れて、多く討たれたという。
これは在所の者が今も語り伝えている。
時に応じての才覚とはこういうものだと思われる。

(士談)


治部大輔義龍は悪逆不孝で

2017年03月29日 19:12

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』


西美濃三人衆の寝返り

2016年02月21日 18:53

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 17:59:48.90 ID:BiwxmhRL
斎藤龍興の家臣である、西美濃三人衆と呼ばれた氏家常陸介(直元)、稲葉伊予守(良通)、
伊賀伊賀守(安藤守就)がある時会合し、伊賀守は言った

「今の斎藤龍興の所業を見るに、日を追いつきを経るに従って、諌めを行い国家の為よろしき人と言うほどの
人物には、皆出仕を停止させ、阿諛追従する者ほど威名盛んである。不順、これより甚だしい物はない。
このようにして滅んでいった国々は、指を折っても数えきれない。

一方、織田信長は仁義の道を行われ、武勇智謀、最も優れている。この人を頼んで武功に励み、
奮功した家臣たちを撫育しようではないか!」


しかし氏家は
「承った話は、何れも至当であり、これに異議を唱えるものではない。しかしながら一度も
諫言に及ばずしてこのような事をするのは、ただ自分の身を立てようとするだけで、義に非ず。
先ず諫書を上げて、もし用いられなかった時は、そのようにしようではないか。」

こうして彼らは諫書を作り、龍興に差し上げた

一、君たる道を真の儒者に能く問われて、行いを然るべくされますように。
一、近習に侍っている執権たちは、国家の為には鴆毒です。急ぎ薬言の臣を用いられますように。
一、幽悪を察し、微善を試み、お心持ち至誠に、賞罰を行われますように。


このように諌めたが、阿諛する家臣たちは、却って之を取り消させるように讒言したので、
翌年になって三人衆は信長に使者を出し、味方に参る由を申し上げると、信長も「願う所の幸い、
天の与えるところである。」と、村井民部丞、島田所助の二人を派遣し能く語らしめた。

永禄七年八月朔日、信長は三河に攻め込む旨を触れ、小牧山に勢揃いした所で、三河には一言も触れず
「美濃国において然るべきこと有るぞ!進めや!」と宣言し、出陣し、瑞龍寺山へと駆け上がった。

この突然の軍勢の出現に、稲葉山城の者たち慌て騒いで「こは何者ぞ、敵か味方か?」と怪しむほどであった。
信長は片端より火をかけ、即座に裸城にした。このような所に三人衆もはせ参り、臣従を許したお礼を申し上げ
「この城攻めも苦労すると思っていましたが、このように何の問題もなく押し詰められた事、誠に御名誉です」
と申し上げた。

その日は強風が吹き雨も降りだしたので、翌日諸方の手分けをして、鹿垣を二重三重に結い廻し、
「一人も漏らすな」と下知した。
城内は、兵糧の支度もなく逃げ入ったものだから、早くも以ての外に弱り、「命を助けて頂ければ
城を明け渡します。」と様々に詫び言を申してきた。
信長は家臣を呼び集め、どうすべきかを尋ねた所、
「先ず龍興の一命を助けられ、この城を請取あって、国々太平の功を励ますことこそ宜しいかと思います。」
と、人々一致したため、信長も之に同意し稲葉山城を受け取り、龍興を退去させた。

こうして信長の武威は、飛竜が天に上がるがごとくであった。

(甫庵信長記)
まあ実際に稲葉山城を退去した永禄八年でも、まだ17歳なんですけどね龍興。



この時、土方雄久は12歳である

2015年11月28日 17:20

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 20:27:56.49 ID:vkP+opzm
ある記録によると、土方雄久が若いころ、美濃国守護であった斎藤龍興に頼まれて、
斎藤山城守(道三)の子二人を、同じ枕に切り伏せ、北畠の家臣である岡田長門守を
誅する時も、雄久が武勇を顕したという。

しかし、岡田長門守を誅殺したのはともかく、斎藤龍興のために山城守の子供を
討ったという話はいかがだろうか?
斎藤龍興が滅んだのは永禄7年8月のことだが、この時、土方雄久は12歳である。
龍興がどうして、幼い者を頼むだろうか。

また、龍興が弟を殺したという話は聞いたことがないが、山城守の嫡子である斎藤義龍は、
二人の弟の喜平次、孫四郎を討った事があった。
おそらく、この事が誤って伝えられたのだろう。
そもそも土方家の系譜にも、この話は見えない。

世の中に誤って伝えられている事は、この類のものが甚だ多いのである。

(藩翰譜)

新井白石先生による俗説批判である。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 21:29:49.66 ID:/VdiPR30
ドカタなら幼くても有り得る話だろ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 15:34:44.95 ID:TSVgMSbe
藩翰譜は稲葉山陥落永禄7年説なのか

浅井長政斎藤龍興と軍の事

2015年01月25日 17:07

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 16:01:16.11 ID:nDHE0pBS
浅井長政斎藤龍興と軍の事

浅井備前守長政は玉淵川を場所を決めて斎藤龍興と戦をした。
或る時長政は五百ばかりの兵を選び、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に、柵の木を結んで待ち受けた。
龍興は一万ばかりで出てくると長政は聞いて、百人ばかりを菩提の小道から敵の後ろへ回らせ、自ら四百ばかりで、敵が気を緩めているところを夜討ちした。
思いもよらぬところから鬨の声が上がったので、龍興は内通している者がいると思い、慌てて岐阜に引き返した。
長政は大垣のあたりに火をかけたので、龍興は
「敵が勝ちにのって大垣を攻めるのだろう、いざ援けよう。」
と岐阜を出たら、長政はすぐに引き返して、熟練した足軽三十人を樽井の土民の家に隠して、龍興が樽井に入って士卒が疲れたので、
兵糧を食べて油断しているときに、隠れていた足軽達は、所々に火をかけて焼いて煙を立てた。
長政は思いもよらぬ所へ押し寄せて散々に敵を打ち破り、すぐに南宮山に登って敵を待った。
龍興は二度も敗北し、口惜しく思って、四面を取り巻いて余さず討とう、と押し寄せた。
長政はこれを見て、
「敵は大軍である。十死一生の戦とはこのことだ。我が下知がないうちは矢の一筋も射てはならない。」
と言って攻めかかって来るのを待って、山の上から一文字に切ってかかれば、龍興大いに敗北して、これより長政を恐れてまた戦をすることは無かった。
(常山紀談)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 20:10:13.10 ID:gS2gNwYx
wiki見たら1563年に美濃遠征とある
留守中に六角が攻め寄せたんで赤尾が兵500で殿したらしい

勝女のこと

2014年07月14日 18:58

勝女   
303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:25:25.51 ID:YrWW/aMd
明良洪範より勝女のこと

勝女は京生まれで織田信行に仕え、生まれつき聡明で容貌も美しく寵愛されていた。
ある酒宴の際、信行は重臣津田八弥に
「お前もそろそろ妻をめとれ、わしが媒酌してやろう」
とその場で勝女の婚姻を決め、良日を選んで祝言をあげてやると約した。
この津田八弥というのは農民の生まれだが美男と才能のため信行にとりたてられ、織田一族の
「津田」を姓として与えられた者である。
しかし信長から信行につけられた老臣で佐久間七郎左衛門というのがあり、
八弥より待遇が悪いため大いに嫉妬し、両者のいさかいが絶えなかった。
とうとう七郎左衛門は八弥の屋敷に火を放ち、出てきた八弥を刺殺してしまった。
目付役が吟味すると、八弥の厩のそばに七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃が信長から下賜された正宗が落ちてあり、
また、火をつけた盗賊をとらえた所、七郎左衛門に命じられたと白状した。
信行が玄蕃に七郎左衛門をつれてくるよう命じた所、七郎左衛門は美濃に出奔し、斎藤道三に匿われてしまった。

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:27:43.10 ID:YrWW/aMd
勝女は、婚儀はまだとはいえ夫と約した八弥の仇を討とうと信行に暇を乞うた。
信行は「相手は勇士、お前は女だからここは尼にでもなって八弥の菩提を弔え」
とすすめたものの、結局八弥を刺したと思われる正宗を与え、暇を出した。
勝女は岐阜近在に住みつくと、鷹狩をしていた道三の嫡子龍興の目にとまり、そのまま道三夫人の侍女となった。
器量よしで歌道にもすぐれていたため寵愛されていたところ、翌年三月、競射の参加者の名簿に
佐久間七郎左衛門の名を認めたため、夫人に願って競射を拝見する許可を得た。
参加者25名中15番目の佐久間七郎左衛門が名乗った瞬間、勝女はおどりいでて短刀で七郎左衛門の脇腹を突き、
「津田八弥が妻勝なり。夫のために仇を報ずる!」と大音声で叫んだため、大騒動となった。
七郎左衛門は即死。道三、龍興も驚き経緯を尋ねると勝女は動ぜずありのままを答えたため、
道三の怒りは減じたものの
「お主の志には感動したが、織田信行から七郎左衛門を戻せと言われても今まで断ってきた。
わしを頼ってきたため隠してきたのだ。しかし女のためにむざむざ殺されたことが世間に知られれば
わしにとっては恥辱極まりない。かわいそうだが明日死刑に処す。それまで牢に入っておれ」
道三夫人は勝女を牢に入れるにしのびず、道三に懇願し、勝女を一晩あずかる許可を得た。
夫人「わたしはあなたの行為に感動しました。このまま逃げなさい」
勝女はそれでは夫人にとって申し訳ない、罰を受けましょう、と言ったものの、結局夫人に説得され、
夫人から路銀をもらい、未明に城外に逃亡した。

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:30:38.58 ID:YrWW/aMd
勝女は三河は岡崎に来て宿屋の主人にわけを話すと、主人は大須賀五郎左衛門康高に事の次第を話し、
康高はすぐに家康に報告し、貞烈に感動した家康は「男女に限らず万人の鑑である」と城に引き取った。

七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃は勝女が岡崎にいると知るや信長に勝女を尾張へ戻すよう願った。
信長は池田紀伊守恒興を使者として勝女を乞うたが、
家康は「勝は夫のために仇を討った貞婦です。おそらくこれは玄蕃の願いでしょう。
仇討は古今稀であり、しかもわたしを頼ってきたものをそちらに渡す理由がありましょうか。
信長殿は玄蕃の願いを叶えなければ玄蕃が謀反するとおそれているですか?
もしこの言葉が無礼と思われるのなら戦で決着つけましょう。
その場合こちらは信玄と同盟して尾張に攻め入りましょう」
と答えたため信長もあきらめた。
玄蕃は怒りを増し、金銀で勇士たちを雇い、岡崎に潜入させて勝女を殺そうとした。
勝女は物詣のため城外に出たが、警護していた大原左近右衛門惟宗、今村伝十郎が
曲者二人を見とがめ、生け捕り拷問。曲者二人は玄蕃に頼まれたと白状した。
即刻二人の賊は処刑。梟首の上、制札に書かれた文面は
「この者共、佐久間玄蕃に頼まれた由を白状すれども、盗賊ら己が難儀を逃れんために
いうことならん。よってここに梟首するものなり」

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:32:46.06 ID:YrWW/aMd
信長は大いに怒り「わが領内に関することと知りながらこちらに通達もなしによくも罰したことよ。
しかも玄蕃の名前まで書くのは無礼であろう!」と使者を出したが
岡崎で老臣たちが使者に答えるには
「われわれも相談したのですが、貴国の老臣佐久間ともあろうものが
まさか一婦人に刺客をさしむけ殺害をはかるなどとは思われず、
おそらくこれは盗賊が自分の罪を免れようと嘘を言ったのだろうと判断したのです。
制札にもそう書いてますよね?」
これを使者より伝え聞いた信長はよけいに憤怒し、和平を破って戦闘におよぼうとしている、
という風説が岡崎までに届いたため、城の警護を固くすることになった。
勝女はこれを聞き
「わたくしめ一人のせいで、この国が戦になってしまうことは本意ではありません」
と今までの恩を感謝する書をしたため自殺。
この書を見たものはみな落涙し、家康も絶世の烈婦であると讃え、次第を信長に伝え、
大樹寺に葬り厚く弔った。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:36:45.81 ID:YrWW/aMd
と書いたものの、佐久間玄蕃って誰だろう
時代から考えて盛政のはずはないし




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 06:55:05.76 ID:jOloNtFC
最後自殺すんだろなーと思ってたら自殺した
この辺のメンタリティーは500年前から変わらずか

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 07:01:42.67 ID:UdEexSsb
道三がいるのに、家康と信長が同盟関係にある時点でわけがわからんよね

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 07:52:44.37 ID:UGyojH9t
義龍「…」

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 08:03:16.18 ID:4unFyKeC
単に道三と義龍混同しただけだとすると
桶狭間のあと家康が岡崎城を取り戻して
義龍が死ぬ前の1560年か1561年ごろか
清洲同盟はまだだがとりあえず小康状態ってことで和平、と言ってるのだろうか
でも信行生きてるってことは尾張を出た後数年岐阜に?
どこまでほんとかわからないから考察するだけ無駄な気もするが

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 13:38:18.59 ID:yk0AUsYP
一言、でっちあげ、でいいんじゃないここまでくると

信長の尾張掌握と美濃攻めについて

2014年03月12日 18:58

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:05:54.09 ID:zwcXgUzi
彼(織田信長)の父(信秀)が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに
願い、父が病気から回復するかどうか尋ねた。彼らが回復するであろうと保証した。しかるに父は数日後に
世を去った。そこで信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を閉め
「貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てた。今や自らの生命に付き更に念を入れて偶像に祈るが良い」
と言って、彼らを外から包囲したあと、彼らのうち数人を射殺させた。

彼は好戦的で傲慢不遜であったので、兄が父の相続において自分に優先することが耐えられなかった。
そこで目的を果たすため病気を装って数日床につき、兄が見舞いに来ないと母に訴えた。
兄は信長の欺瞞を恐れてそうしなかったのであるが、信長からの激しい催促により終に訪問した。
そのさい、彼は脈を診てもらうために左手を差し出し、兄がそれを取った時、彼は大いなる迅速さで
既に用意してあった短刀を掴み、その場で直ちに兄を殺した。
(これは信長による弟信勝の暗殺についての事であろう)

彼は織田家を掌握した後、同国の3分の1を所有する他の一人の殿に対して戦を行い、容易に彼を追放して
尾張国の絶対君主となった。(斯波義銀追放のことか)

だが彼は隣国をも支配しようと欲していたので、突如、尾張に接する美濃国に対する攻撃を遅滞なく準備した。
彼が陣営を整えると、美濃国主(斎藤龍興)も同様に成した。そこで彼は戦略を用いた。

彼は夜間、家臣の内ほぼ半ばを退かせ、大いなる夜陰に乗じて、敵を7,8里側面から迂回し、彼らを
密かに美濃国主の背後に配置し、その際、敵方の家来の印のついた旗を持たせておいた。
美濃国主は眼前の信長の陣営を密かに偵察させ、自分の軍勢がはるかに優勢であることを聞いて攻撃した。
しかるに彼が攻撃を開始した時、信長も美濃国主の軍勢の背後に移動していた。
敵のこの動きから彼の背後に生じうる事態について、美濃国主はいささかも懸念しておらず、むしろ彼は
後ろの軍勢を見て、味方の旗を認め非常に喜び、目前の敵を攻撃することにのみいっそう夢中になった。

ところが両軍が刃を交え始めた頃、後ろから突如信長が現れ美濃国主を挟撃し、その多数の部下を殺し
軍勢に打撃を与えた後、直ちに美濃の主城(稲葉山城)へ突進し、かくて全ては難なく信長に帰伏した。
こうして彼は美濃国を獲得したのである。

ところが美濃国主は非常に苦労して騎馬で従った数名の僅かな貴人とともに脱出し、都に逃れ、
同所も安全でないと見ると、日本人すべての追放者にとって避難所である堺に赴いた。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスの日本史に見える、信長の尾張掌握と美濃攻めについての話である。




729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:49:01.65 ID:hQDTSnkr
親父生き返らせられなかった僧を殺した話は日本史が出展だったんだ?
信長の残忍さと神仏に対するニヒルな考え方を強調させる江戸期辺りの造作かと思ってたよ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:50:33.10 ID:hTWr+4y/
信憑性はともかく具体的な美濃攻め近時代史料あったのか。フロイスとは盲点だった

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 02:04:28.94 ID:4NuqqxYq
信長公記と中島家文書ぐらいかなあ、美濃攻めで使い物になるのは

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 03:42:43.39 ID:+plAK+O6
>>728
「射殺」というのは、弓矢なのか鉄砲なのだろうか?w

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4485.html
だと、火をつけて殺したとあるので、
「射殺」が原文ではどういう単語だったか気になるところだな

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 08:06:38.24 ID:G+ra/FOi
火矢でしょ、たかが僧侶に鉄砲使うと思う?
ゴキブリ殺すのに火炎放射器つかうようなもん

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 10:40:42.78 ID:n9DkdTvR
ひゃー

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 13:17:20.40 ID:9wEctfnR
【審議中】
    |∧∧|       (( ) )   (( ) )  ((⌒ )
 __(;゚Д゚)___   (( ) )   (( ⌒ )  (( ) )
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              u-u (    ) (   ノ u-u
                  `u-u'. `u-u'


736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/13(木) 09:00:44.06 ID:F7HlC8Qi
>>734-735
最初意味が分からなかったw

浅井長政、斎藤龍興を評す

2011年05月20日 00:01

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 11:32:25.09 ID:WpXvErRg
永禄7年(1564)7月の末、尾張の織田信長と美濃の斎藤龍興が戦い、
龍興が敗北した。
また同年8月10日にも両者は戦い、この時は斉藤勢が大敗北をした。
しかし龍興は決して、信長に降伏しようとはしなかった。

さて、この事を知った近江の浅井長政は、赤尾という家臣にこんな言葉を漏らした。

斎藤龍興という人は誠に、今の世の義士である。

将来、我々の武威が盛んになれば必ずこの人を幕下に加えよう。
もしまた我々の武威が衰えて他の勢力に付かねばならぬ時が来たら、
必ずこの人を頼ろう。

ああ、今後の世の中に義士が現れるとは私には思えない。
ただ裕福な商人の友を作ってこれを縁とし、それにへつらうような士や将ばかり多い
世の中ではないか。」

浅井長政による、斎藤龍興評である。
(浅井日記)




682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 12:54:24.20 ID:FPEAlSY0
負けっぱなしの人の下に付いたり、家臣にしようとしたりする
意味が解らんが…
気概だけは立派なり!ってことなん?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 13:31:56.12 ID:EktnG6Iv
六角に屈した事とかもあると思う

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 14:38:53.63 ID:5OyY7kHY
浅井長政が天庵さまと出会ったとしたら、もはや何が興るか想像できない

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 18:45:04.49 ID:FCmIQRs1
天庵さまって別に義士じゃないよな。奇怪な徳はあるけど

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 19:20:01.94 ID:vLE0dyFo
龍興もどの辺が義士なんだ…
信長=(当時の長政にとって)悪 に一貫して反抗してるから?
それ以外では暗君エピソードくらいしか知らなかったのでwikipe見たら
長政の甥か従兄弟に当たるんだな
キリスト教に接近したからかもしれんが、宣教師からの評価も高い

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 19:22:11.67 ID:Hbqph87K
宣教師の武将評価ほど信用ならないものはない

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:02:44.33 ID:yGWwilAu
宣教師の記録を信じるなら、あの一条兼定はスーパー聖人君主なのである。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:13:08.36 ID:stFhYcRd
聖人が悪人の策謀に勝てるわけもなく

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:27:07.36 ID:M28elnrz
>>685
義士は菅谷さんと小田領民の皆さんだな。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:43:27.19 ID:q0LMY/Jh
宣教師が入れ込んだ大名が悉く衰退したのは策謀に劣る聖人だったからかw

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:19:55.89 ID:APCW+l9I
織田秀信とか前田玄以の息子(パウロ、長男のほう?)も宣教師からは高く評価されていた


693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:25:39.57 ID:RJMZT/VL
竜造寺「カエサルとか言われて調子こいてたら釣られたクマー」