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岐阜城主十代衆

2021年05月04日 17:08

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 01:10:47.30 ID:ME61kjQd
(岐阜城の戦いの時)

時に池田三郎左衛門尉輝政は当城の案内者なので、城山の後ろ水手口から攻め上った。
さてこの輝政は案内者たること理なり。この頃“岐阜城主十代衆”と言い伝える事がある。

その衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍、斎藤右兵衛大夫龍興、織田弾正忠
平信長、同三位中将信忠、同三七郎蔵人侍従信孝、池田勝三郎信輝(恒興)、同三郎左衛門
輝政、羽柴少将秀勝、中納言秀信なり。

輝政は右の十人衆の内なれば、よく案内を知る故についに攻め落とした。

――『美濃国諸旧記』



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 17:49:08.99 ID:xJbwI1WL
どうしても腕を組みながら高速で走り抜けるジャイアントな絵柄しか思い浮かばないのであった

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 00:24:03.94 ID:VLdNf4zT
厳密に言えば
信孝没落後、恒興は大垣城に入って嫡男の庄九郎元助が岐阜城に入ったわけだが
1年程の話だから誤解、もしくは忘れ去られてるんだろうな
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これより長政を恐れて

2021年03月26日 18:25

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/26(金) 16:59:53.91 ID:/LJeRXU6
浅井備前守長政が、玉淵川を限りとして、斎藤龍興(実際には義龍か)と合戦をした。
ある時、長政は五百ばかりの兵をよりすぐり、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に
柵を造り待ち構えた。

龍興勢一万ばかりがここに出ると、長政はこれを聞いて、百人ばかりを菩提の小道より敵の後ろに廻らせ、
自らは四百ばかりを以て敵の油断している所を夜討ちした。
そこに小道より迂回した兵も馳せ来て、思いもよらぬ所より鬨の声をあげると、龍興は内通の者が有ると
思い、慌てて岐阜へと引き返した。

その後、長政は大垣の周辺所々に火をかけさせると、龍興は「敵が勝ちに乗じて大垣を攻めるのだろう、
いざ助けよ!」と岐阜を出たが、長政は引き返す時に、足軽で物に慣れた者達三十人を樽井の土民の
家に隠した。

龍興勢が樽井に入ると、士卒も疲れていたために、兵糧を使って油断していた時、隠し置いた足軽共、
所々に火をかけて焼いた。そして長政勢は思いもよらぬ所へ押し寄せ、斎藤勢を散々に打ち破り、
やがて南宮山に上って敵を待った。

龍興は二度まで敗北し口惜しく思い、「四面を取り巻いて余さず討たん!」と押し寄せたが、
長政見て「敵は大軍なり、十死一生の戦とはこれなるべし。我が下知無き内は箭の一筋も
射るべからず。」と言って、敵が攻めかかってくるのを待って、山の上より一文字に
切って懸ると、龍興大いに敗軍して、これより長政を恐れて再び合戦すること無かった。

常山紀談



美濃国に於いては、諸人、先祖の奉じた所を重んぜず

2020年10月23日 16:48

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/23(金) 12:31:13.63 ID:7OBGeLbI
美濃国の住民は、生来甚だ良く事理を解し、大いに救いを望むことを示している。
右の坊主が当所(堺)に於いて語った所によると、美濃の王(斎藤龍興)は甚だ有名なる
禅宗の坊主を師としていた。この坊主は三十三問を列記し、これに解答を与える者があれば
その宗派に服従すべし、と云った事は昨年の書簡にて通信したが、同国にこれと意見を事にする
他の学問有る坊主あり、王は彼等を呼びその面前に於いて両人に討論を命じたが、三十余問の人が
負けたため、王は他の宗門の門弟と成った。

この第二の人はその後、同国及び多数の学者の面前に於いて。禅宗の他の一派の坊主と議論を成して
負けたため、王はこれを捨てて第三の人の宗派に入門し。これを己の師となした。

この話を伝えた坊主(今はキリシタンとなった)は、「これによって美濃国に平和があり、国王が
デウスの事を聴くに至れば、彼、并びにその国の大部分をキリシタンと成ること、甚だ困難ではない」
と云った。

この坊主は信頼すべき持参人であるため、私は同所にあるキリシタンの武士に書簡を送り、
もし機会があれば王に語って聴聞を勧め、王がその意を決するに至れば、デウスのことを説くべき人を
同所に赴かせるため、私にこれを通知することを求めた。

美濃国に於いては、諸人、先祖の奉じた所を重んぜず、最も道理に適したことを尊重するが故に、
道理の作者を信奉する傾向が少なくない。
最も愛する者よ、主が彼等に知識と恩寵を与え、救われるに至らしめ給わらんことを祈れ。

『一五六七年六月十二日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

美濃について。
龍興の、禅宗などの師を取り替える云々と言う話は、義龍の時代の、法華宗から禅宗に転じたことや、
美濃国内における快川と別伝宗亀の対立などの事を現しているのかと。



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/23(金) 13:05:40.94 ID:qrBf/VJQ
信長と敵対したのに非常に有能で思慮深いと評されてるから信長がカスだったんだな

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/23(金) 13:16:50.01 ID:wHTOLy3/
もともと義龍のわがままで幕府を巻き込んで別伝の乱を起こしてすぐ死んだから
龍興にとってはどうにもならないことです

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/23(金) 14:24:05.92 ID:3JjE8KMV
>>669
こういう、諸国の人の気風を紹介する話は非常に興味深いな。
義龍・龍興期の美濃は、旧来の幕府体制の権威によった統治だから
どちらかといえば前例主義なのかなと想像するんだが、その実気風は合理主義というのはどういうことか。
幕府の権威を利用しながら内実は道三譲りの実力主義だったりするのか、
あるいは単にフロイスが見聞きしたのがそういう人が多かっただけなのか。

揖斐落城のこと

2020年06月03日 17:57

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 22:27:47.54 ID:VzM8DUrR
義龍の子・龍興の代に至り、ついに信長のために当国を奪われる。この時に光親(揖斐光親)は
稲葉山で織田勢と戦い討死したと沙汰するも、その説は詳らかではない。しかればこれより揖斐
も織田家に降参し、相続いて揖斐に在住した。

さて揖斐落城のことを尋ねるに、その頃の池田郡本郷城主に国枝大和守正則という者あり。これ
は安藤一族の国枝大和守藤原守房の末孫である。数代本郷村の城主で、また本郷の内に良徳寺と
いう禅寺がある。当時は稲葉良通(一鉄)の父・臨仁定門が隠居していたので、正則と良通は折
節参詣した。

また揖斐光就も時々参詣したのだが、光就、良通、正則が良徳寺に参詣して碁会を催したところ、
光就と正則は碁の勝負のことで互いに口論に及んだ。良通はこれを仲裁して双方を宥め、ようや
く怒りを晴らしてその日の参詣は終わった。しかし光就の利はもっとも正しきものであった。良
通は正則の舅故に非を曲げて、無礼に扱った振る舞いであった。これによって、光就は甚だ憤り、
これより遺恨を差し挟む。

その後、天正6年寅(1578)8月18日のことであるが、正則は大野谷汲の観音へ参詣のた
め、わずかな主従で本郷を出て株瀬川を越え、道行の慰みに四方の景色を遊覧して赴いた。光就
はこの由を聞き大いに喜び、日頃の憤りを散ずべき時至れりと郎等を下知し、正則の来る道筋で
ある名礼の崎の広野に伏勢を隠し置いて、揖斐城の裏手へ出て待ち受けた。

そうとも知らずその日の巳の刻に至り、正則はわずかの士卒を引き連れやって来たのを、光就は
すは掛かれと呼ばわって大声を揚げ、「過ぎし頃の碁会の遺恨、良通の不道の扱い!その憤りを
晴らさんがため、早くよりここで待っていた!逃すまじ!」と呼ばわった。

正則大いに驚き、覚えのある事なれば、心を決して少しも恐れずに郎等を下知して切って掛かる。
揖斐勢も槍刀を打ち振り血戦したが、国枝勢もここを先途と戦った。折しも木陰より揖斐の伏勢
50余人がドッと叫んで突いて掛かれば、国枝も仰天してここまでなりと心を定め、太刀を持ち
自害しようと思った。そこへ揖斐の郎等・大西太郎兵衛が切り掛かり、ついに首を取ったりける。

正則すでに討たれければ、残る郎等は七転八倒の働きをしてことごとく討死した。(中略。国枝
方と揖斐方の戦死者を列挙)しかし光就は大いに喜び、兵士を下知して早々に城中へ引き入った。
本郷勢の13の輩の死骸を取り集め、名礼・結城村辺りの土中に埋めて13ヶ所に葬った。その
形は今も残って、谷汲道の傍らにある“十三塚”というのがこれである。

――『美濃国諸旧記

続き
揖斐氏顛末


109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 03:18:02.59 ID:PNJemRL3
>>106
だから賭け麻雀はだめなんだ

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 11:05:40.10 ID:ahKb3dTD
>>109
アハッ

斎藤義龍の死

2020年05月28日 17:47

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/28(木) 03:50:13.34 ID:z9c7xj6W
さて義龍(斎藤義龍)は一戦に道三を討ち取り悦喜少なからず。諸将へも様々な恩賞感状などを出し、
日根野備中守(弘就)、長井隼人正(道利)をして万事を計らわせ、ついに当国の守護となった。妻
室は江州小谷城主・浅井下野守久政の娘で近江の方というのを嫁する。もっとも義龍は生質勇猛絶倫
にして、身の丈7尺ほどの古今の剛将である。

嫡子の右兵衛大夫龍興は天文18年酉(1549)の2月誕生。すなわち家督として稲葉山に在城し
た。義龍は元来先の屋形・土岐頼芸の胤子であるといえども、道三の子としてかの家で成長し、親子
の恩恵もある仲なので、義を思って氏を一色とも改名した。

しかし子として親を誅した天罰は逃れられないのか、わずか6ヶ年を保った後に難病を受けて大いに
苦しみ、永禄4辛酉年(1561)6月11日、35歳を一期としてついに空しく相なりける。さり
ながら義龍は常に禅法に帰依し信心を明らめたのか、臨終に及んで辞世の偈を残した。その詩に曰く、

「三十余年 守譜人天 刹那一句 仏想不伝」

また永禄元年に自ら伝焼寺(伝燈寺)の別伝和尚に帰依して、国中の寺院の式を定めた。

令嗣の龍興は書工に仰せ付けて義龍の絵像を書し、快利和尚(快川紹喜)の筆を借りて辞世の偈をそ
の上に書いたのである。

――『美濃国諸旧記


義龍は器量世に優れた勇将なれば、国中に靡かぬ草木もなく井口の大将と仰がれたが、永禄4辛酉年
5月11日、病に臥して逝去し給う。常に禅法に帰依し心源を明らめ、辞世の偈に、

「三十余年 守護人天 刹那一句 仏祖不伝」

行年35。法名を雲峯玄龍居士と号す。

快川和尚(快川紹喜)の筆を借りて辞世の偈を寿像の上に書き記す。(義龍は)永禄元年より伝燈寺
の和尚に帰依して、国中の寺院の法式を定めた(永禄別伝の乱。この事件で義龍と快川は対立した)。
これひとえに、かの僧の所意によってであると国中の僧は大いに擾乱した。

――『濃陽諸士伝記


しかるに義龍は病に臥せて程なく、永禄4辛酉年5月11日、稲葉山城で逝去し給う。行年30有余
歳なり。すなわち常在寺に葬る。雲峰玄龍大居士と号す。日頃禅宗に帰依なされた故、辞世の偈あり。

「三十余歳 守護人天 刹那一句 仏祖不得」

長子の喜太郎龍興は家督を継いで右兵衛太夫、美濃守に歴任した故に、斎藤の一族どもは心を合わせ
られたため、国中は義龍の時よりも静かであった。斎藤の跡を継いだとして“斎藤右兵衛太夫龍興”と
名乗りける。

――『土岐累代記



”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



斎藤龍興の没落

2020年01月27日 17:11

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/27(月) 14:05:59.36 ID:evGfP5sX
織田上総介信長はその心中に様々の計略を働かせ、美濃の旗下である稲葉伊予守(良通)を始め、
氏家常陸介(直元))、安藤伊賀守(守就)、不破河内守(光治)を味方につけて内通せしめ、
永禄七年九月朔日(実際には永禄十年)、大軍を率いて濃州へ討ち入り、稲葉山城東西南北に
火を放って焼き立て、息もつかせず攻め戦った。この時葦手の正法寺も兵火の余炎に掛かり
灰燼となった。土岐家数代の旧跡はこの時焼亡し、その後再興する人もなく、正法寺の名のみ残り、
退転した。
この時、瑞龍寺も焼亡したが、この寺は悟渓一派(悟渓宗頓:瑞龍寺開山。大徳寺52世住持、妙心寺
11世住持、妙心寺四派の一つ東海派の開祖)の旧跡であったので、再び再興された。

稲葉山城中は信長の攻勢に叶い難く、斎藤龍興は降を乞うて城を明け渡し、近江へと落ち行き、
浅井備前守長政を頼った。大伯父である長井隼人佐道利も関城へと落ちて、龍興とともに江州へと
落ち、後に越前へ越えて朝倉義景に与し、永禄天正の間、所々にて武功が有った。

龍興は天正元年八月八日、姉川の軍に討ち死にした。(姉川の戦いは元亀元年。実際には刀根坂の戦い)
また長井道利はその後将軍義昭公に仕え、摂津にて討ち死にした。その子は稲葉能登守(信通ヵ)の
家に奉公したという。

(土岐累代記)

後の反信長戦線の印象なんでしょうけど、斎藤龍興が浅井長政を頼って落ちていったという伝承もあったのですね。



居ながら尿を流すは、家の面目

2017年11月28日 15:49

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 13:26:17.99 ID:q/sq0uZp
斎藤道三が3人の息子を前に往昔の軍の手立てなどを語っていた所、嫡男の龍興が、
物語の半ばに立ち上がって用を足しに行った。
道三は不快に思い、龍興が帰ってくるとこのように言った

「武士にとって戦場の物語は、これ皆武義の教えである。志ある者達ならば好んで聞くべきなのだ。
志が有れば、物語の面白さに聞き惚れて、居ながらにして小用を致したとしても無礼とは言わない。
むしろ語り伝えに、『龍興は軍物語に聞き惚れて居ながら尿を流した』と言われるは、家の面目と
言うべきであろう。
お前はやがて家を失い、他の紋に馬をつなぐだろう。」

そう涙を流して諌めたという。

(士談)



342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:05:25.94 ID:+NX5BKfl
>>341
義龍「」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:38.50 ID:q/sq0uZp
>>342
原文ママなのですが、おそらく義龍の間違いでしょうね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:35:25.79 ID:fMrCqu7j
竹中半兵衛「私が、小便をかけた斎藤飛騨守を美濃城乗っ取りの際に討ち取ったように
男子に小便、というのはあまりな屈辱。
先先代のお言葉とは思われません」

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:08:56.81 ID:VQeFYYED
竹中半兵衛でしょ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:12:24.89 ID:q/sq0uZp
>>346
有名なのがそれこそ龍興の家来だった竹中半兵衛が息子重門を叱ったやつで、
竹中半兵衛と座り小便・いい話
何故か伊達政宗にも同じような逸話がある
政宗、息子忠宗を叱る

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/29(水) 10:47:42.90 ID:mFIHIWzA
>>341
その話何パターンあんだよ?
武家の数だけあんのか?

「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」

2017年07月05日 18:30

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 17:38:50.37 ID:YxoXjZLJ
竹中半兵衛斎藤龍興に奉公して稲葉山にあった時、半兵衛と同じように使われた者があり、
ある時、半兵衛には巣鷹の仔が与えられ、このもう一人にはコノリ(ハイタカの小型の雄)が与えられた。
ところが、龍興は一旦半兵衛に与えた巣鷹の仔を取り返して相手に与え、コノリの方を再度
半兵衛に与えた、

この事に半兵衛は強く憤り、稲葉山から出奔すべく計画を立てた。
彼は同士の侍18人と語らい、番つづらにそれぞれ具足を入れさせ、当番として場内に入ると
切って廻り、そのまま出奔した。

この時、稲葉山城内の一人が半兵衛に切りかかったが、半兵衛も刀を抜いて切り込み、向こうの刀を
柄で受け止めた。そこで刀に打たれたために半兵衛の刀が抜けたが、この抜けた刃が相手を
仕留めた。
彼も幼少より剣術を習っていたが、実戦を行ったのはこの時が初めてであったという。半兵衛19才の
時の事だそうだ。

彼が若輩の頃、人々から『鼻たらし』と嘲られていたが、この時自ら手鼻をかんで

「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」

と言ったという。

半兵衛は一生の間、常に数珠をつまぐり、「美濃の国には誰もない。誰もない。」とばかり
言っていたそうだ。

この半兵衛、元は美濃赤坂の商人、あかねやの子であり、龍興の元から出奔する頃までは父も存命し、
至って裕福な者であったという。

(士談)



929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 22:18:54.21 ID:QCAwnrGS
美濃では商人の出でなければ身の立てようがないんか

長谷川甚兵衛は非常な勇士であり

2017年04月11日 19:22

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 18:19:32.73 ID:gmptssHW
長谷川甚兵衛、初名は宗二郎と言った、非常な勇士であり、斎藤道三に仕え、後の父子対決の時は
義龍に属した。

斎藤義龍が父に反逆した時、美濃の諸侍は慌てて悉く屋敷を立ち退き、その振る舞い非常に見苦しい
ものであったが、甚兵衛一人屋敷を立ち退かなかった。
そこで義龍は様々に説得し、甚兵衛は遂に義龍に従った。

美濃において度々の国取合に、功を顕すこと、一々挙げて言うことも出来ないほどであった。
ある時甚兵衛は、美濃における小競り合いの時に、敵が引くであろう小路に、在々より石臼などといった物を
提出させこれを置いたが、人々はこんなものに意味があるのかと思った。
ところが、敵は急に引き立ち、この石臼などに躓き倒れて、多く討たれたという。
これは在所の者が今も語り伝えている。
時に応じての才覚とはこういうものだと思われる。

(士談)


治部大輔義龍は悪逆不孝で

2017年03月29日 19:12

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』


西美濃三人衆の寝返り

2016年02月21日 18:53

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 17:59:48.90 ID:BiwxmhRL
斎藤龍興の家臣である、西美濃三人衆と呼ばれた氏家常陸介(直元)、稲葉伊予守(良通)、
伊賀伊賀守(安藤守就)がある時会合し、伊賀守は言った

「今の斎藤龍興の所業を見るに、日を追いつきを経るに従って、諌めを行い国家の為よろしき人と言うほどの
人物には、皆出仕を停止させ、阿諛追従する者ほど威名盛んである。不順、これより甚だしい物はない。
このようにして滅んでいった国々は、指を折っても数えきれない。

一方、織田信長は仁義の道を行われ、武勇智謀、最も優れている。この人を頼んで武功に励み、
奮功した家臣たちを撫育しようではないか!」


しかし氏家は
「承った話は、何れも至当であり、これに異議を唱えるものではない。しかしながら一度も
諫言に及ばずしてこのような事をするのは、ただ自分の身を立てようとするだけで、義に非ず。
先ず諫書を上げて、もし用いられなかった時は、そのようにしようではないか。」

こうして彼らは諫書を作り、龍興に差し上げた

一、君たる道を真の儒者に能く問われて、行いを然るべくされますように。
一、近習に侍っている執権たちは、国家の為には鴆毒です。急ぎ薬言の臣を用いられますように。
一、幽悪を察し、微善を試み、お心持ち至誠に、賞罰を行われますように。


このように諌めたが、阿諛する家臣たちは、却って之を取り消させるように讒言したので、
翌年になって三人衆は信長に使者を出し、味方に参る由を申し上げると、信長も「願う所の幸い、
天の与えるところである。」と、村井民部丞、島田所助の二人を派遣し能く語らしめた。

永禄七年八月朔日、信長は三河に攻め込む旨を触れ、小牧山に勢揃いした所で、三河には一言も触れず
「美濃国において然るべきこと有るぞ!進めや!」と宣言し、出陣し、瑞龍寺山へと駆け上がった。

この突然の軍勢の出現に、稲葉山城の者たち慌て騒いで「こは何者ぞ、敵か味方か?」と怪しむほどであった。
信長は片端より火をかけ、即座に裸城にした。このような所に三人衆もはせ参り、臣従を許したお礼を申し上げ
「この城攻めも苦労すると思っていましたが、このように何の問題もなく押し詰められた事、誠に御名誉です」
と申し上げた。

その日は強風が吹き雨も降りだしたので、翌日諸方の手分けをして、鹿垣を二重三重に結い廻し、
「一人も漏らすな」と下知した。
城内は、兵糧の支度もなく逃げ入ったものだから、早くも以ての外に弱り、「命を助けて頂ければ
城を明け渡します。」と様々に詫び言を申してきた。
信長は家臣を呼び集め、どうすべきかを尋ねた所、
「先ず龍興の一命を助けられ、この城を請取あって、国々太平の功を励ますことこそ宜しいかと思います。」
と、人々一致したため、信長も之に同意し稲葉山城を受け取り、龍興を退去させた。

こうして信長の武威は、飛竜が天に上がるがごとくであった。

(甫庵信長記)
まあ実際に稲葉山城を退去した永禄八年でも、まだ17歳なんですけどね龍興。



この時、土方雄久は12歳である

2015年11月28日 17:20

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 20:27:56.49 ID:vkP+opzm
ある記録によると、土方雄久が若いころ、美濃国守護であった斎藤龍興に頼まれて、
斎藤山城守(道三)の子二人を、同じ枕に切り伏せ、北畠の家臣である岡田長門守を
誅する時も、雄久が武勇を顕したという。

しかし、岡田長門守を誅殺したのはともかく、斎藤龍興のために山城守の子供を
討ったという話はいかがだろうか?
斎藤龍興が滅んだのは永禄7年8月のことだが、この時、土方雄久は12歳である。
龍興がどうして、幼い者を頼むだろうか。

また、龍興が弟を殺したという話は聞いたことがないが、山城守の嫡子である斎藤義龍は、
二人の弟の喜平次、孫四郎を討った事があった。
おそらく、この事が誤って伝えられたのだろう。
そもそも土方家の系譜にも、この話は見えない。

世の中に誤って伝えられている事は、この類のものが甚だ多いのである。

(藩翰譜)

新井白石先生による俗説批判である。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 21:29:49.66 ID:/VdiPR30
ドカタなら幼くても有り得る話だろ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 15:34:44.95 ID:TSVgMSbe
藩翰譜は稲葉山陥落永禄7年説なのか

浅井長政斎藤龍興と軍の事

2015年01月25日 17:07

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 16:01:16.11 ID:nDHE0pBS
浅井長政斎藤龍興と軍の事

浅井備前守長政は玉淵川を場所を決めて斎藤龍興と戦をした。
或る時長政は五百ばかりの兵を選び、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に、柵の木を結んで待ち受けた。
龍興は一万ばかりで出てくると長政は聞いて、百人ばかりを菩提の小道から敵の後ろへ回らせ、自ら四百ばかりで、敵が気を緩めているところを夜討ちした。
思いもよらぬところから鬨の声が上がったので、龍興は内通している者がいると思い、慌てて岐阜に引き返した。
長政は大垣のあたりに火をかけたので、龍興は
「敵が勝ちにのって大垣を攻めるのだろう、いざ援けよう。」
と岐阜を出たら、長政はすぐに引き返して、熟練した足軽三十人を樽井の土民の家に隠して、龍興が樽井に入って士卒が疲れたので、
兵糧を食べて油断しているときに、隠れていた足軽達は、所々に火をかけて焼いて煙を立てた。
長政は思いもよらぬ所へ押し寄せて散々に敵を打ち破り、すぐに南宮山に登って敵を待った。
龍興は二度も敗北し、口惜しく思って、四面を取り巻いて余さず討とう、と押し寄せた。
長政はこれを見て、
「敵は大軍である。十死一生の戦とはこのことだ。我が下知がないうちは矢の一筋も射てはならない。」
と言って攻めかかって来るのを待って、山の上から一文字に切ってかかれば、龍興大いに敗北して、これより長政を恐れてまた戦をすることは無かった。
(常山紀談)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 20:10:13.10 ID:gS2gNwYx
wiki見たら1563年に美濃遠征とある
留守中に六角が攻め寄せたんで赤尾が兵500で殿したらしい

勝女のこと

2014年07月14日 18:58

勝女   
303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:25:25.51 ID:YrWW/aMd
明良洪範より勝女のこと

勝女は京生まれで織田信行に仕え、生まれつき聡明で容貌も美しく寵愛されていた。
ある酒宴の際、信行は重臣津田八弥に
「お前もそろそろ妻をめとれ、わしが媒酌してやろう」
とその場で勝女の婚姻を決め、良日を選んで祝言をあげてやると約した。
この津田八弥というのは農民の生まれだが美男と才能のため信行にとりたてられ、織田一族の
「津田」を姓として与えられた者である。
しかし信長から信行につけられた老臣で佐久間七郎左衛門というのがあり、
八弥より待遇が悪いため大いに嫉妬し、両者のいさかいが絶えなかった。
とうとう七郎左衛門は八弥の屋敷に火を放ち、出てきた八弥を刺殺してしまった。
目付役が吟味すると、八弥の厩のそばに七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃が信長から下賜された正宗が落ちてあり、
また、火をつけた盗賊をとらえた所、七郎左衛門に命じられたと白状した。
信行が玄蕃に七郎左衛門をつれてくるよう命じた所、七郎左衛門は美濃に出奔し、斎藤道三に匿われてしまった。

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:27:43.10 ID:YrWW/aMd
勝女は、婚儀はまだとはいえ夫と約した八弥の仇を討とうと信行に暇を乞うた。
信行は「相手は勇士、お前は女だからここは尼にでもなって八弥の菩提を弔え」
とすすめたものの、結局八弥を刺したと思われる正宗を与え、暇を出した。
勝女は岐阜近在に住みつくと、鷹狩をしていた道三の嫡子龍興の目にとまり、そのまま道三夫人の侍女となった。
器量よしで歌道にもすぐれていたため寵愛されていたところ、翌年三月、競射の参加者の名簿に
佐久間七郎左衛門の名を認めたため、夫人に願って競射を拝見する許可を得た。
参加者25名中15番目の佐久間七郎左衛門が名乗った瞬間、勝女はおどりいでて短刀で七郎左衛門の脇腹を突き、
「津田八弥が妻勝なり。夫のために仇を報ずる!」と大音声で叫んだため、大騒動となった。
七郎左衛門は即死。道三、龍興も驚き経緯を尋ねると勝女は動ぜずありのままを答えたため、
道三の怒りは減じたものの
「お主の志には感動したが、織田信行から七郎左衛門を戻せと言われても今まで断ってきた。
わしを頼ってきたため隠してきたのだ。しかし女のためにむざむざ殺されたことが世間に知られれば
わしにとっては恥辱極まりない。かわいそうだが明日死刑に処す。それまで牢に入っておれ」
道三夫人は勝女を牢に入れるにしのびず、道三に懇願し、勝女を一晩あずかる許可を得た。
夫人「わたしはあなたの行為に感動しました。このまま逃げなさい」
勝女はそれでは夫人にとって申し訳ない、罰を受けましょう、と言ったものの、結局夫人に説得され、
夫人から路銀をもらい、未明に城外に逃亡した。

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:30:38.58 ID:YrWW/aMd
勝女は三河は岡崎に来て宿屋の主人にわけを話すと、主人は大須賀五郎左衛門康高に事の次第を話し、
康高はすぐに家康に報告し、貞烈に感動した家康は「男女に限らず万人の鑑である」と城に引き取った。

七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃は勝女が岡崎にいると知るや信長に勝女を尾張へ戻すよう願った。
信長は池田紀伊守恒興を使者として勝女を乞うたが、
家康は「勝は夫のために仇を討った貞婦です。おそらくこれは玄蕃の願いでしょう。
仇討は古今稀であり、しかもわたしを頼ってきたものをそちらに渡す理由がありましょうか。
信長殿は玄蕃の願いを叶えなければ玄蕃が謀反するとおそれているですか?
もしこの言葉が無礼と思われるのなら戦で決着つけましょう。
その場合こちらは信玄と同盟して尾張に攻め入りましょう」
と答えたため信長もあきらめた。
玄蕃は怒りを増し、金銀で勇士たちを雇い、岡崎に潜入させて勝女を殺そうとした。
勝女は物詣のため城外に出たが、警護していた大原左近右衛門惟宗、今村伝十郎が
曲者二人を見とがめ、生け捕り拷問。曲者二人は玄蕃に頼まれたと白状した。
即刻二人の賊は処刑。梟首の上、制札に書かれた文面は
「この者共、佐久間玄蕃に頼まれた由を白状すれども、盗賊ら己が難儀を逃れんために
いうことならん。よってここに梟首するものなり」

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:32:46.06 ID:YrWW/aMd
信長は大いに怒り「わが領内に関することと知りながらこちらに通達もなしによくも罰したことよ。
しかも玄蕃の名前まで書くのは無礼であろう!」と使者を出したが
岡崎で老臣たちが使者に答えるには
「われわれも相談したのですが、貴国の老臣佐久間ともあろうものが
まさか一婦人に刺客をさしむけ殺害をはかるなどとは思われず、
おそらくこれは盗賊が自分の罪を免れようと嘘を言ったのだろうと判断したのです。
制札にもそう書いてますよね?」
これを使者より伝え聞いた信長はよけいに憤怒し、和平を破って戦闘におよぼうとしている、
という風説が岡崎までに届いたため、城の警護を固くすることになった。
勝女はこれを聞き
「わたくしめ一人のせいで、この国が戦になってしまうことは本意ではありません」
と今までの恩を感謝する書をしたため自殺。
この書を見たものはみな落涙し、家康も絶世の烈婦であると讃え、次第を信長に伝え、
大樹寺に葬り厚く弔った。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 03:36:45.81 ID:YrWW/aMd
と書いたものの、佐久間玄蕃って誰だろう
時代から考えて盛政のはずはないし




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 06:55:05.76 ID:jOloNtFC
最後自殺すんだろなーと思ってたら自殺した
この辺のメンタリティーは500年前から変わらずか

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 07:01:42.67 ID:UdEexSsb
道三がいるのに、家康と信長が同盟関係にある時点でわけがわからんよね

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 07:52:44.37 ID:UGyojH9t
義龍「…」

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 08:03:16.18 ID:4unFyKeC
単に道三と義龍混同しただけだとすると
桶狭間のあと家康が岡崎城を取り戻して
義龍が死ぬ前の1560年か1561年ごろか
清洲同盟はまだだがとりあえず小康状態ってことで和平、と言ってるのだろうか
でも信行生きてるってことは尾張を出た後数年岐阜に?
どこまでほんとかわからないから考察するだけ無駄な気もするが

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 13:38:18.59 ID:yk0AUsYP
一言、でっちあげ、でいいんじゃないここまでくると

信長の尾張掌握と美濃攻めについて

2014年03月12日 18:58

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:05:54.09 ID:zwcXgUzi
彼(織田信長)の父(信秀)が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに
願い、父が病気から回復するかどうか尋ねた。彼らが回復するであろうと保証した。しかるに父は数日後に
世を去った。そこで信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を閉め
「貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てた。今や自らの生命に付き更に念を入れて偶像に祈るが良い」
と言って、彼らを外から包囲したあと、彼らのうち数人を射殺させた。

彼は好戦的で傲慢不遜であったので、兄が父の相続において自分に優先することが耐えられなかった。
そこで目的を果たすため病気を装って数日床につき、兄が見舞いに来ないと母に訴えた。
兄は信長の欺瞞を恐れてそうしなかったのであるが、信長からの激しい催促により終に訪問した。
そのさい、彼は脈を診てもらうために左手を差し出し、兄がそれを取った時、彼は大いなる迅速さで
既に用意してあった短刀を掴み、その場で直ちに兄を殺した。
(これは信長による弟信勝の暗殺についての事であろう)

彼は織田家を掌握した後、同国の3分の1を所有する他の一人の殿に対して戦を行い、容易に彼を追放して
尾張国の絶対君主となった。(斯波義銀追放のことか)

だが彼は隣国をも支配しようと欲していたので、突如、尾張に接する美濃国に対する攻撃を遅滞なく準備した。
彼が陣営を整えると、美濃国主(斎藤龍興)も同様に成した。そこで彼は戦略を用いた。

彼は夜間、家臣の内ほぼ半ばを退かせ、大いなる夜陰に乗じて、敵を7,8里側面から迂回し、彼らを
密かに美濃国主の背後に配置し、その際、敵方の家来の印のついた旗を持たせておいた。
美濃国主は眼前の信長の陣営を密かに偵察させ、自分の軍勢がはるかに優勢であることを聞いて攻撃した。
しかるに彼が攻撃を開始した時、信長も美濃国主の軍勢の背後に移動していた。
敵のこの動きから彼の背後に生じうる事態について、美濃国主はいささかも懸念しておらず、むしろ彼は
後ろの軍勢を見て、味方の旗を認め非常に喜び、目前の敵を攻撃することにのみいっそう夢中になった。

ところが両軍が刃を交え始めた頃、後ろから突如信長が現れ美濃国主を挟撃し、その多数の部下を殺し
軍勢に打撃を与えた後、直ちに美濃の主城(稲葉山城)へ突進し、かくて全ては難なく信長に帰伏した。
こうして彼は美濃国を獲得したのである。

ところが美濃国主は非常に苦労して騎馬で従った数名の僅かな貴人とともに脱出し、都に逃れ、
同所も安全でないと見ると、日本人すべての追放者にとって避難所である堺に赴いた。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスの日本史に見える、信長の尾張掌握と美濃攻めについての話である。




729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:49:01.65 ID:hQDTSnkr
親父生き返らせられなかった僧を殺した話は日本史が出展だったんだ?
信長の残忍さと神仏に対するニヒルな考え方を強調させる江戸期辺りの造作かと思ってたよ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:50:33.10 ID:hTWr+4y/
信憑性はともかく具体的な美濃攻め近時代史料あったのか。フロイスとは盲点だった

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 02:04:28.94 ID:4NuqqxYq
信長公記と中島家文書ぐらいかなあ、美濃攻めで使い物になるのは

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 03:42:43.39 ID:+plAK+O6
>>728
「射殺」というのは、弓矢なのか鉄砲なのだろうか?w

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4485.html
だと、火をつけて殺したとあるので、
「射殺」が原文ではどういう単語だったか気になるところだな

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 08:06:38.24 ID:G+ra/FOi
火矢でしょ、たかが僧侶に鉄砲使うと思う?
ゴキブリ殺すのに火炎放射器つかうようなもん

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 10:40:42.78 ID:n9DkdTvR
ひゃー

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 13:17:20.40 ID:9wEctfnR
【審議中】
    |∧∧|       (( ) )   (( ) )  ((⌒ )
 __(;゚Д゚)___   (( ) )   (( ⌒ )  (( ) )
 | ⊂l     l⊃|    ノ火.,、   ノ人., 、  ノ人.,、
  ̄ ̄|.|.  .|| ̄ ̄   γノ)::)  γノ)::)   γノ)::) 
    |.|=.=.||       ゝ人ノ  ゝ火ノ   ゝ人ノ
    |∪∪|        ||∧,,∧ ||∧,,∧  ||  ボォオ
    |    |      ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
    |    |      ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
   ~~~~~~~~     | U (  ´・) (・`  ). .と ノ
              u-u (    ) (   ノ u-u
                  `u-u'. `u-u'


736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/13(木) 09:00:44.06 ID:F7HlC8Qi
>>734-735
最初意味が分からなかったw

浅井長政、斎藤龍興を評す

2011年05月20日 00:01

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 11:32:25.09 ID:WpXvErRg
永禄7年(1564)7月の末、尾張の織田信長と美濃の斎藤龍興が戦い、
龍興が敗北した。
また同年8月10日にも両者は戦い、この時は斉藤勢が大敗北をした。
しかし龍興は決して、信長に降伏しようとはしなかった。

さて、この事を知った近江の浅井長政は、赤尾という家臣にこんな言葉を漏らした。

斎藤龍興という人は誠に、今の世の義士である。

将来、我々の武威が盛んになれば必ずこの人を幕下に加えよう。
もしまた我々の武威が衰えて他の勢力に付かねばならぬ時が来たら、
必ずこの人を頼ろう。

ああ、今後の世の中に義士が現れるとは私には思えない。
ただ裕福な商人の友を作ってこれを縁とし、それにへつらうような士や将ばかり多い
世の中ではないか。」

浅井長政による、斎藤龍興評である。
(浅井日記)




682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 12:54:24.20 ID:FPEAlSY0
負けっぱなしの人の下に付いたり、家臣にしようとしたりする
意味が解らんが…
気概だけは立派なり!ってことなん?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 13:31:56.12 ID:EktnG6Iv
六角に屈した事とかもあると思う

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 14:38:53.63 ID:5OyY7kHY
浅井長政が天庵さまと出会ったとしたら、もはや何が興るか想像できない

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 18:45:04.49 ID:FCmIQRs1
天庵さまって別に義士じゃないよな。奇怪な徳はあるけど

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 19:20:01.94 ID:vLE0dyFo
龍興もどの辺が義士なんだ…
信長=(当時の長政にとって)悪 に一貫して反抗してるから?
それ以外では暗君エピソードくらいしか知らなかったのでwikipe見たら
長政の甥か従兄弟に当たるんだな
キリスト教に接近したからかもしれんが、宣教師からの評価も高い

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 19:22:11.67 ID:Hbqph87K
宣教師の武将評価ほど信用ならないものはない

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:02:44.33 ID:yGWwilAu
宣教師の記録を信じるなら、あの一条兼定はスーパー聖人君主なのである。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:13:08.36 ID:stFhYcRd
聖人が悪人の策謀に勝てるわけもなく

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:27:07.36 ID:M28elnrz
>>685
義士は菅谷さんと小田領民の皆さんだな。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:43:27.19 ID:q0LMY/Jh
宣教師が入れ込んだ大名が悉く衰退したのは策謀に劣る聖人だったからかw

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:19:55.89 ID:APCW+l9I
織田秀信とか前田玄以の息子(パウロ、長男のほう?)も宣教師からは高く評価されていた


693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:25:39.57 ID:RJMZT/VL
竜造寺「カエサルとか言われて調子こいてたら釣られたクマー」