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遠江をめぐる今川と斯波の争い

2020年05月10日 16:46

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 00:45:09.72 ID:ZHTYZdfR
斯波家の領国は越前、尾張であった。遠江は元今川家が領地していたが、中頃より斯波家の領と成ったので
あるが、今また斯波家衰え、今川家は応仁に乱に交わらず、威盛んにあいて、遠州を押領しようとした。

その頃、三河国臥蝶の住人に、大河内肥前守欠綱(貞綱)という者があった。元は当国の守護・吉良氏の
家礼であったのだが、近年国中に武威を振るって、遠三両国の士と相親しみ、一揆を語らい党を結んで、
悪逆度々に及んだ。この欠綱、先祖は源三位頼政の二男、源太夫判官兼綱から十一代の末孫であり、
家の紋は丸の内に十六葉の菊を付けていたため、人は皆『菊一揆』と号した。

この時、今川修理太夫氏親は領国駿河に居住していたが、「如何にもして大内介義興の如くに、
上洛し公方家への忠を尽し、大功を立てんと企てていたが、路次の遠州尾州はみな斯波家の領国であり、
度々決戦に及んでいたため、その功を遂げられ無かった。
そのような中、大河内欠綱は斯波家の味方となり、信濃三河の勢を語らい遠州を横領したのだが、氏親は
先ずこれを退治の為、永正10年(1513)の春、一万の兵を率いて遠州に討ち入り、笠井の庄楞厳寺陣を取った。

斯波治部大輔義達は尾州の兵を率い、遠州の井伊次郎直親を相伴い、深嶽の城に籠もったのを、今川の
先陣、朝比奈十郎泰以という者、ただ一手にて深嶽山に寄り来たり、案内を以て一夜討ちし、忽ち城をも
攻め落として、数百人を討ち取った。尾州勢は悉く打ち負け、同国奥の山へ引き退いた。
大河内欠綱等も散々に落失した。

翌年、また甲州の武田次郎信昌兄弟矛楯して合戦に及び、今川氏親も加勢を請われたため、駿遠両国の勢
二千余騎を差し遣わした。この勢は甲州勝山の城に籠もり、戦いに隙無く、これを見た大河内欠綱は、
残る今川家の兵は無勢であると推量し、同正月より再び蜂起し、信濃三河尾張の一族、並びに浪人共を相語らい、
又々尾州より斯波義達を請待して、遠州浜松の庄引間の城に立て籠もり、天龍川の前後在々所々を押領した。

今川氏親はこれを聞いて、六千余騎の兵を率いて、同年五月下旬、遠州へ発向したが、ちょうどこの頃
洪水夥しく、天龍川が非常に増水していたのを、氏親は川船三百余艘を竹の大綱にて悉く結びつけ、
船橋を拵えて多勢一斉に押し渡った。
斯波勢も川端に打ち出、大河内、高橋といった者たちは矢軍して防いだが、散々に切り立てられ、また
悉く敗軍した。今度は遠引も叶わず、僅か五十余町の中に悉く追い囲み、城四つ五つに立て籠もり。同六月から
八月まで相戦ったが、後には今川勢が、駿州安倍川の金堀の者を呼び寄せ城中の井戸を悉く掘り崩させ、
水一滴も無くなったため、城兵は術計尽き果て、同八月十九日、引間の城を攻め落とされ、大河内欠綱、
同弟・巨海新右衛門(道綱)、高橋以下、立て籠もる軍兵千余人討ち死にし、斯波治部大輔義達は
降人となって出てきたのを、氏親の下知として一命を助け、普済寺という禅寺に入れ置き、
『義達、今日より遠州に望む事無く、自今以後、堅く今川家へ向て敵対すべからず』
との警約の起請文を取り堅めて、剃髪黒衣を着せ、太刀、刀を奪い取って後、尾州へ送り返した。
これより斯波家の武威衰え、尾張の国人も皆、義達を疎んじたため、彼の下知に従う者は居なく成った。

然れども、三州の住人・戸田弾正少弼、諏訪信濃守らは猶も、大河内の残党を催し遠州へ乱入して
合戦度々に及んだ。その中で、三州の境、船方山の城代・多末又三郎という者が今川方であったのを、
かの一揆等が攻め落とし、又三郎は討ち死にしたため、掛川城主の朝比奈備中守泰以が、また兵を率い
寄せ来て船方の城を攻め取った。このように遠州も合戦に隙も無かったが、遂には国人等、今川家に帰服して、
斯波家は衰え果てた。

應仁後記

遠江をめぐる今川と斯波の争いについて。



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遠州曳馬城合戦

2012年02月27日 21:52

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 06:22:48.70 ID:DQcjLsvg
尾張守護・斯波義達は、守護代・織田達定の反逆を平定し、尾張における主導権を再び回復しすると、
永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
これを助けんとした。

が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
曳馬城に入った。
余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。

同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。

この時曳馬城周辺は大水により、城のまわりは海のような状況で、誰が見ても、とても攻められるような
状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。

しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。

付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。

斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
斯波義達の曳馬城合戦の逸話である


(今川家譜)
(名古屋合戦記)




198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 12:20:37.61 ID:cEZRrfY0
権威失墜という意味では処刑より効果的に思えるな
氏親もその辺りまで計算に入れてたんだろうけど

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 18:17:39.34 ID:VVyLpimU
そうしてついには尾張まで手に入れたのに、信秀に取り返されるんだっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 19:18:21.47 ID:q9Psp4RX
これは悪い話なのか?

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:08:09.28 ID:p66CsOBG
>>200
斯波義達のかっこ悪い話だろう

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:28:26.32 ID:upxUUCsY
>>197
駿河だけで3万の兵力か?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:35:27.72 ID:ieRShisD
斯波は三河も領国だったのか
何で遠江に遠征してるんだよ

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 05:48:47.21 ID:wDt7qkWR
>>204
兵数なんて数倍どころか桁までお手盛りされちゃうこんな世の中じゃ

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 08:11:33.08 ID:Np68cuS+
直家「ポイズン」

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 18:02:48.69 ID:lXkFlAqb
あんたの場合、言いたいことも言えなくなるのは相手の方だろ

死人に口無し的な意味で

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 21:16:36.48 ID:S0HI7cpc
ちょっと直家が格好いいと思ってしまった