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この一言は天下の名言

2022年05月17日 19:03

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 16:15:21.99 ID:g40oUKwA
或る記に、坂崎出羽守(直盛)が将軍家を怨み参らせて、己が宿所に籠もった時、幕府の執政の人々は
相議して、出羽守の老臣の元に奉書を下して、

『汝が主人、逆乱の罪遁るるべからず、坂崎の家絶えざらん事を思わば、汝が主人に勧めて自害させよ。
さあらんに於いては、世継ぎを立てるだろう。』

という旨を下知すべしと議定した。

その時、本多上野介(正純)は人々に向かい
「誠に家老が主人に腹を切らせた場合、かの家を存続させるのか」と問うた。
人々は「どうしてかの謀反人の家を存続させるだろうか。」と答えた。

正純はこれを聞くと「然らば、その奉書を下されること、然るべからず。
坂崎出羽守の不臣を罰するために、その臣に不臣を勧めるなど、天下の下知に有るべき事とも思われず。
速やかに軍勢を差し向けて誅罰あるべきものである!

人臣への教えとすべきでは無い事を述べて、偽を行い、天下の風俗を乱すべきではない!」

そう言ったが、衆議一決しなかったため、「正純の連署叶うべからず!」と署名を拒否したという。

新井白石先生曰く、「本多正純の他事は如何にもあれ、この一言は天下の名言と言うべきである。」と
評価し、柳生但馬守宗矩も、常に彼に感じ入っていたという。
誠にこの一言を以て見るに、この人が若い頃から大御所の御覚えが良かったというのもむべなるかな。
また、彼が同職の人々との関係が不快であったという事も、押して知る事ができる。

新東鑑



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 16:37:38.40 ID:pgI56b42
嘘ついて何とかしようとするエライさんってヤだな
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必ず災いに罹りて死ぬべき者なり

2022年02月15日 18:02

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 12:28:20.72 ID:mKlVt3NR
或る本に、(新井)白石先生の曰く、古田織部正は古き珍宝の全き(破損等のない状態)を、
余りに思い所無しとして好まず、されば書画のような物でも、かの所を切りこの所を断ち、凡ての
茶具をも多く損ない破り、又補い綴いで用いた。
これを世の人達は皆、興ある事に思い学んで、世に全き物は無くなる程の有様と成った。

松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、常に側の人にこのように言っていた。
「この人(古田織部)は必ず災いに罹りて死ぬべき者なり。」

その後、実際に古田織部は罪を被って誅せられたため、人々は驚き「どうして予てからそのように
見て取っていたのか」と久綱に問うた所、

「古の宝物と聞こえていても、多くは世々の乱に失せて、今有る所の物は皆、神仏が護持してこそ、
世に残ったのだろう。そのような物に対し、自分一人の好みに随って破るような事は、必ず鬼神の
悪む行為に違いない。ならばその人も又、身を全うして終わることを得ないだろうと思ったのだ。」

そう言ったという。非常に金言と言うべき、古き人の物語を承った。これは此年(現代)に於いても、
萬に付け渡って心得有るべきことではないだろうか。

新東鑑



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 13:10:59.95 ID:hwFR7qrI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9767.html
「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」


新井白石「藩翰譜」出典で出ていた

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 13:42:27.21 ID:qdlarutW
それも含めてのへうげっぷりならばよし!

351 名前:げひひ[] 投稿日:2022/02/15(火) 17:02:14.55 ID:MQXZMTnS
珍宝は
 玉と砕けて
  花と散る

この人の才と徳を

2021年11月12日 17:02

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/12(金) 16:05:25.15 ID:sJwpTf/P
寛永元年四月二十九日、江戸幕府の京都所司代などを歴任した板倉勝重は八十三歳、或いは八十歳にて卒去した。
慈光院傑山源英と諡された。

新井白石先生はこの人のことを
『世に伝わること極めて多く、悉く挙げるには暇がないほどだ。当時の智ある人に勝重のことを
尋ねてみたが、「この人の訴を断ずるに、訟に負けた者は己の罪を悔やみ、その判決を出した方を
恨まなかった」と答えた。この一言にてこの人の才と徳を知るべし。』
と言ったという。

新東鑑



しかしこの宇佐美の説は信用出来ない

2015年12月13日 12:34

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/12(土) 17:53:38.04 ID:4J3NGZ8K
宇佐美定祐(越後流軍学者)の記した『北越軍記』によると、上杉謙信は兄の六郎を討った後、
「兄を殺して国を得れば嫡を奪うようなものだ。私は国に望みはない」そう言って出家し、宗心と
号して高野山に赴こうとしたが、家臣たちに諌められ止められた。そこで
「兄を殺してその世嗣を絶った以上、わたしも世嗣を絶つべき!」と堅く誓い、また兄を殺した罪を
懺悔して、肉と色を絶ち、一生持戒し、後に謙信と改めるとある。
(中略)

しかしこの宇佐美の説は信用出来ない。兄を殺してそのまま出家した、というのもいかがなものか。
輝虎は初め弾正大弼に任じられ、従四位下に叙し、天文20年、管領職に補任されたあと、入道して
謙信と号し、権大僧正の位に任じられている。

また肉と色を絶った事は、夏目定房の記録(上杉記)の中には
『謙信常に持戒して潅頂を行うことおおよそ4度。或いは護摩を修し、或いは参禅して
肉と色を絶ったため、子無し。』
と書かれている。ここからは家を簒奪したという疑いを避けてそのようにしたとは見えない。

私が考えるに、弓矢の冥助を祈ってこのような外法を行うのは、昔の人にはよくあった
習俗である。それに謙信の遺言、葬る有様、また、現在の上杉家において、謙信の像に
仕える儀範を聞けば、彼が罪障懺悔のために持戒したなどとはとても思えない。
あまりにも弓矢の冥助を深く思いいれて、あのような行法をしたのだと推定される。

そうであるのに、兄を殺したためだなどと言われるのは、不幸な事だと言うべきであろうか。

(藩翰譜)

新井白石先生、上杉謙信にまつわる俗説を斬る。




この時、土方雄久は12歳である

2015年11月28日 17:20

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 20:27:56.49 ID:vkP+opzm
ある記録によると、土方雄久が若いころ、美濃国守護であった斎藤龍興に頼まれて、
斎藤山城守(道三)の子二人を、同じ枕に切り伏せ、北畠の家臣である岡田長門守を
誅する時も、雄久が武勇を顕したという。

しかし、岡田長門守を誅殺したのはともかく、斎藤龍興のために山城守の子供を
討ったという話はいかがだろうか?
斎藤龍興が滅んだのは永禄7年8月のことだが、この時、土方雄久は12歳である。
龍興がどうして、幼い者を頼むだろうか。

また、龍興が弟を殺したという話は聞いたことがないが、山城守の嫡子である斎藤義龍は、
二人の弟の喜平次、孫四郎を討った事があった。
おそらく、この事が誤って伝えられたのだろう。
そもそも土方家の系譜にも、この話は見えない。

世の中に誤って伝えられている事は、この類のものが甚だ多いのである。

(藩翰譜)

新井白石先生による俗説批判である。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 21:29:49.66 ID:/VdiPR30
ドカタなら幼くても有り得る話だろ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 15:34:44.95 ID:TSVgMSbe
藩翰譜は稲葉山陥落永禄7年説なのか