しかしこの宇佐美の説は信用出来ない

2015年12月13日 12:34

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/12(土) 17:53:38.04 ID:4J3NGZ8K
宇佐美定祐(越後流軍学者)の記した『北越軍記』によると、上杉謙信は兄の六郎を討った後、
「兄を殺して国を得れば嫡を奪うようなものだ。私は国に望みはない」そう言って出家し、宗心と
号して高野山に赴こうとしたが、家臣たちに諌められ止められた。そこで
「兄を殺してその世嗣を絶った以上、わたしも世嗣を絶つべき!」と堅く誓い、また兄を殺した罪を
懺悔して、肉と色を絶ち、一生持戒し、後に謙信と改めるとある。
(中略)

しかしこの宇佐美の説は信用出来ない。兄を殺してそのまま出家した、というのもいかがなものか。
輝虎は初め弾正大弼に任じられ、従四位下に叙し、天文20年、管領職に補任されたあと、入道して
謙信と号し、権大僧正の位に任じられている。

また肉と色を絶った事は、夏目定房の記録(上杉記)の中には
『謙信常に持戒して潅頂を行うことおおよそ4度。或いは護摩を修し、或いは参禅して
肉と色を絶ったため、子無し。』
と書かれている。ここからは家を簒奪したという疑いを避けてそのようにしたとは見えない。

私が考えるに、弓矢の冥助を祈ってこのような外法を行うのは、昔の人にはよくあった
習俗である。それに謙信の遺言、葬る有様、また、現在の上杉家において、謙信の像に
仕える儀範を聞けば、彼が罪障懺悔のために持戒したなどとはとても思えない。
あまりにも弓矢の冥助を深く思いいれて、あのような行法をしたのだと推定される。

そうであるのに、兄を殺したためだなどと言われるのは、不幸な事だと言うべきであろうか。

(藩翰譜)

新井白石先生、上杉謙信にまつわる俗説を斬る。




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この時、土方雄久は12歳である

2015年11月28日 17:20

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 20:27:56.49 ID:vkP+opzm
ある記録によると、土方雄久が若いころ、美濃国守護であった斎藤龍興に頼まれて、
斎藤山城守(道三)の子二人を、同じ枕に切り伏せ、北畠の家臣である岡田長門守を
誅する時も、雄久が武勇を顕したという。

しかし、岡田長門守を誅殺したのはともかく、斎藤龍興のために山城守の子供を
討ったという話はいかがだろうか?
斎藤龍興が滅んだのは永禄7年8月のことだが、この時、土方雄久は12歳である。
龍興がどうして、幼い者を頼むだろうか。

また、龍興が弟を殺したという話は聞いたことがないが、山城守の嫡子である斎藤義龍は、
二人の弟の喜平次、孫四郎を討った事があった。
おそらく、この事が誤って伝えられたのだろう。
そもそも土方家の系譜にも、この話は見えない。

世の中に誤って伝えられている事は、この類のものが甚だ多いのである。

(藩翰譜)

新井白石先生による俗説批判である。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 21:29:49.66 ID:/VdiPR30
ドカタなら幼くても有り得る話だろ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 15:34:44.95 ID:TSVgMSbe
藩翰譜は稲葉山陥落永禄7年説なのか