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周防守は、身を踏み込んで勤る者である

2022年08月31日 18:56

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/30(火) 07:51:04.79 ID:rNXzoC2O
板倉周防守(重宗)が江戸に下向された時、松平伊豆守信綱がこのように言った

「上様(徳川家光)にも、段々と政務に御心を尽くされています。上方のことも仔細に
聞いてみたく思っておられるようで、今後は仲間に遣わされる書状にも、今少し
御念を入れられ、上方の事を上聞されるようになさるべしでしょう。」
(重宗は何れも上の御機嫌を伺い、さらに堂上方に別儀なき儀ばかりを書いたという)

これを聞いて周防守は
「上方から百二十里隔てている以上、上様がどれほど御発明であっても、その情報は及び腰になり、
御存これ無き儀となります。そのために拙者が差し置かれているのです。ですので、
申し上げるには及ばざる事と存じ奉ります。」
と言った

この事を家光公は聞き召され、「周防守は、身を踏み込んで勤る者である。」と。
御感悦斜めならずであったという。

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弁慶堀

2022年08月28日 15:40

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/28(日) 13:29:50.38 ID:yhd8x8KM
江戸城、西御丸の外堀を弁慶堀と呼ぶのは、慶長五年、関ヶ原合戦の後に、上方衆では藤堂高虎
関東衆では伊達政宗の両人が頭取となり、江戸に屋敷地を拝領仕りたい旨を願われた。

家康公はこれを聞き召され、「各々大阪に屋敷有れば、当地にては無用の事なり。」と仰せになられたものの、
たって願われたために、外桜田辺り(今の大名小路の場所である)にて、東国西国の大名、加藤清正を始め、
黒田、鍋島、毛利、島津、伊達、上杉、浅野、南部、亀井、仙石、相馬、水谷、秋田、土方、その他の衆
(前田は芳春院江戸下向の時、秀忠公より御城大手先に於いて下されていた。また浅野幸長は弾正長政に
先立って、桜田霞ヶ関という所を拝領した故に、これを上屋敷となし、老父弾正隠居所に仕りたいと
願ったために、別に屋敷を下されたという)
御当家(徳川家)への御奉公始めとして、東西の諸侯による打ち込みの御堀普請が行われた。
これは東西の武蔵坊と言える心で行ったので、下々はこの堀を「弁慶堀」と申し習わした。

この頃、御堀はようやく幅十間(約18メートル)あまりであったのだが、屋敷拝領の諸侯よりの
願いを以て、堀の土を揚げ方々へ引取り、地上げに用いたため、現代のように御堀も広くなり、
底も深くなったという。

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壮士の死戦すべき所はここぞ

2022年08月14日 16:34

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/14(日) 13:44:08.53 ID:pKpwmqpE
尾州長久手の戦に、成瀬隼人正(正成)は十七歳であったが、敵軍に乗り込み兜首を取り、
家康公の御覧に入れると
「汝は勇士なり。旗本の兵寡し。先ずこれを守れ。」
と仰せになったため、御馬の先にあって息を継いでいた。

ところが先手が敵軍に辟易しているのを見て、駆け出そうとしたが、馬取が轡を取って
「既に功名を遂げられました、然るを敵の中に入り命を亡くすのは何の益があるでしょうか!」
と言った。
これを聞いた正成は大いに怒り馬取を罵ったが手を放さなかったため、刀を抜いて峰打ちし、

「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、逃げる所を追い詰めた後に
止むものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みる事など出来ない!」

しかし鞭打っても罵っても、馬取は猶も放さなかった。

この時家康公は三十間ばかり隔てた場所でこれをご覧になっていたが、

「味方が足を貯め兼ねている。壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」

と仰せになると、馬取この時轡を放った。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を獲って、東西を馳廻り、味方を恥ずかしめた

「君が間近で進退剛怯を御覧になっているのに、きたなくも逃げ走り、一体何の面目があって
後人にまみえるのか!?」

正成のこの言葉に励まされて、引き色だった者も踏みとどまり、進む者はいよいよ勇んだ。

こうして、その年の暮、成瀬正成には根来衆五十人が預けられた。
家康公は、「成瀬の長久手の働きは、軍功の士にも劣らない」と、感じ仰せになられた。
徳川家において十七歳にして将となったのは、正成一人ばかりであるという。

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私ほどの者が磔にかかる時

2022年08月08日 18:40

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/07(日) 21:43:22.51 ID:SY5vKsav
豊臣秀吉公が小田原進発の時に、伊達陸奥守政宗(この時は左京大夫と称す)は参陣無かった事で、
秀吉公は甚だ怒り給われたのを、政宗聞いて小田原陣に至り、中村一氏に付いて

「それがしは関白殿の御門下に、必ず馬を繋ぐべき筋目はない。これによって日頃より、日和を見ていた所、
北条が滅びた後に、奥州へ御発向されるという風聞を承った。
然るに於いては、必定防戦は危ういと存じたため、日を継いで馳せ参った、
昔、源頼朝卿が千葉広常の遅参を咎められたような御気色が有るのは迷惑である!」

そのように言った所、秀吉公は御笑いあって
「政宗はありの儘なる者なり。」と、その罪を免ぜられた。

然るにその年の冬、奥州九戸に一揆が起こり、政宗もその味方をしているとの聞こえがあったため、
秀吉公は政宗を悪まれ、急ぎ上洛すべしとの仰せがあった。
政宗はこれを承ると、「私ほどの者が磔にかかる時、並々のものでは口惜しい。」
と、金銀にて装飾した磔柱を真っ先に持たせて上京した。

この頃秀吉公は伏見の城地を見て居られたのだが、政宗の上洛をお聞きになって、「ここへ来るように」
と仰せられた。このため伏見に参向すると、御側に招かれ、その日使われていた御杖(或いは扇子)にて、
政宗の首を押さえて

「その方が上洛しなかった場合は、かように申し付けようと思っていた所、速やかに馳上がった上は
これを免ずるなり。」と仰せになった。

政宗は畏まって、御前を退出したという。

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328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/08(月) 02:29:08.03 ID:cS6asV3w
おぉ
金の磔柱の話は北条征伐の時の事と思ってたけど違う時の話だったのね

長晟は長重を諭して言った

2022年08月05日 18:31

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/04(木) 21:03:34.37 ID:yLplrfvZ
江戸城の石垣普請を、浅野但馬守長晟に仰せ付けられた所、町場は深泥であったため、大木を
底に敷いたのだが、普請の半ばにおいて石垣は崩れてしまった。
このため「浅野家の身上危なかるべし」と人々に噂された。
そのため、舎弟である采女正長重は、兄長晟に対してこのように諌めた

「普請奉行にこの責任を取らせ腹を切らせ、公儀に陳謝されるべきです」

しかし長晟はこれを承諾しなかった。長重はいよいよ諌めた上で
「御為を思って言っているのに、用いられない」
と恨む色が見えた。

長晟は長重を諭して言った

「私は、浅野左衛門佐に命じて普請の名代とした。そして普請奉行は左衛門佐の下知を受けた。
であれば、石垣の崩れた事について、その罪は普請奉行一人のものではない。
罪があるとすれば、先ず私に帰す。その次が左衛門佐である。

身の難を逃れるために罪なき者を弑する事は不義であり、私はそれを見るに忍びない。
その方はそんな心である故に私は、庶流を以て嫡流を簒うのではないかと畏れる。

義は上下ともに武士の守る所である。義を捨てて利を取るのは商売の風である。
今、試みに武士に対して「商売の風あり」と言えば、その者は必ず怒って悪声を
復そうとし、猶も止まらない時は刀によって殺すだろう。
その名を外に恥じて、その実を内に省みるべきではないだろうか。」

このように申すと、長重はこれに答える言葉も無かったという。

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今、そのような事をするのは無用である

2022年08月03日 18:28

558 名前:sage[] 投稿日:2022/08/03(水) 16:02:14.92 ID:1Htktg65
黒田筑前守長政が、常々人に語られていたことによると。

「私は十四歳の松千代と言っていた頃から、手を下した手柄は度々に及んでいたが、父・如水に
高名があった故に、人はこれを賞美しなかった。

浅野幸長については、天下の上下が勇者と誉める。これはその父である弾正(浅野長政)が、
分別才覚は優れていても、さほど武辺が無い故である。」
と申された

また、小瀬甫庵が太閤記(甫庵太閤記)を作る時、諸家より書付けを遣わして、その家々の武名を
書き入れるべし、とあった。この時黒田家の老臣たちもこれを聞き伝え、

「御祖父以来の御武功、現在、天下に隠れ無しと雖も、後世に至っては埋もれてしまうことも
計り難いものです。幸いにこれらの事を小瀬甫庵に話して、足利義昭公、信長公、秀吉公より
賜った数多の御感状、その他異国本朝にて隠れなき御武功を、書物に著し給われるべきです。」

と申し上げたのだが、長政は更に承認しなかった。

「凡そ将士が武功を立てるのは主君の為であり、私の名を求めるためではない。
殊更太平の世となっては、武を隠すのが本意である、と聞いている。
今、そのような事をするのは無用である。」

そう言って、遂に甫庵に書付けを渡さなかった。それ故に、かの太閤記において黒田家の武功が
多く漏れていたのだという。

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559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 16:27:19.19 ID:Sg3FcvIH
こんな上司はイヤだな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 17:01:10.29 ID:YqfozYQV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2893.html
小瀬甫庵、取材する

こっちでは立花宗茂とセットで出ていた

最前の絵を書き直したという

2022年08月02日 18:31

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 21:51:27.44 ID:0y6b9poa
加藤左馬助(嘉明)の家では、老若共に帯を後ろで結ぶことは法度であり、前の方の脇で
結んだという。これは、急事の折には帯が解けることがあるが、後ろでは結び難く、
前の脇で結ぶ場合は走りながらでも結ぶ事のできる故である。

また家中の士であっても、具足兜を着すれば戦場において見知り難きものであるとして、
家中全員の具足兜、前立物まで屏風の絵に書かせ、縅毛以下、少しも違わぬように
極彩色に描かせ、その姓名を記し、会津の城中の広間の番所より書院まで、その屏風を
何双に立て置き、諸士が互いにこれらを見知るようにさせた。
そのため、もし誰であっても具足を縅し直すか、何であっても品の替わる事があれば、
役人までこれを届け、すると絵師がかの士の許へ行き、詳細に見届けて最前の絵を書き直したという。

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石川五右衛門の一計も絶えて

2022年07月30日 15:49

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/29(金) 20:17:48.73 ID:yuTGgqLc
石川五右衛門という盗賊は、大小名、諸士群参の日、大阪並びに聚楽の営中に紛れ入り、
諸席に置かれている重代の宝刀、或いは鋭利の良刀を、自分の鉛刀に代えて帯し退き出た。
このため、すり替えられた者達で心ならずも惰弱の汚名を被り、歯噛みをして憤る輩数多であった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関にて刀を従者に遣わし、短刀だけで営中に登った。
衆人はその才智を嘆美し、これに倣い、皆家従に刀を持たせるようになったため、石川五右衛門
一計も絶えて、その後営中に紛れ入る事もなくなった。
またこれよりこの事が士風となったという。

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鳶沢町

2022年07月25日 17:40

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 15:31:56.54 ID:SpzzsYtk
徳川家康公が江戸に御入国の砌、町方に盗賊が数多入り込み、皆々難儀しているとお聞きになり、
「その張本たる者を、一人召し捕らえるように」と奉行中に仰せ渡された。
そしてその頃、関東において名を得た盗賊の頭である鳶沢という者を捕らえ、これを言上すると、
家康公はその者を助命するよう仰せ付けられ、「彼の働きを以て、他国の盗賊が入り込まないようにせよ」
と仰せ渡された。

鳶沢はこれを承ると、
「命を御助け下さったことは有り難いのですが、他国の盗人が入り込まぬようにというのは、
私一人の力では及ばぬことです。何処であってもいいので、屋敷地を下し置かれれば、私は手下の者を
呼び集め、そこに差し置き、彼らに申し付けて吟味をさせるでしょう、

ただし、手下の者達も盗みを止めてしまっては身過ぎも出来なくなってしまいます。ですので、
当地の古着買いの元締めを御免下され、その他の者を御停止されますように。」

と相願った所、家康公はこの義をお聞き届けられ、遊女街の近辺の、一町四方の葭原を屋敷地として
給わった。鳶沢はこれを切り開き、鳶沢町の名付け、町家に取り立て、手下の者達に古着買いをさせ、
方々へ出して吟味させたため、程なく盗賊が入り込むことはなくなり、次第に御静謐になった。
そして古着買いもいつしか止み、鳶沢町も今は富沢町という。

新東鑑

徳川家康が盗賊の鳶沢甚内を取り立てたお話



その方は要らざる立派立てを申す

2022年07月21日 16:55

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/21(木) 14:25:21.15 ID:9of599z4
徳川家康公が江府(江戸)に御入国の時は、城中の家作は申すに及ばず、二、三の丸、外郭にある家までも、
先の城主であった遠山氏の時のあった家屋がそのまま残っていた故に、当分はそれらを悉く用いられた。

然れども御城内には木削葺(こけら葺)の家すら一軒もなく、皆日光削ぎ、甲州削ぎなどで取葺に致し、
御台所は萱葺きで、手広くはあったのだが殊の外古く、御玄関の上の段には、船板の幅広のものを
二段に重ねたばかりにて、板敷きすら無かった。

本多佐渡守(正信)はこれを見て、「あまりに見苦しく、他国より参られた使者への外聞も如何かと
思います。なので御玄関廻りは造作を仰せ付けられるのが然るべしです。」と言上した所、家康公は

「その方は要らざる立派立てを申す」

と御笑いになり、家作の事にはお構いなく、「本丸と二の丸に有る堀を埋めるべし」と仰せ付けられ、
そういったものは万事を差し置かれて、御家中の大身小身に限らず、知行割を急がされた。

総奉行には御老中である榊原式部大輔(康政)、その下に青山藤蔵、伊那熊蔵、その他目附衆を加えられ、
かつ、御旧領四ヶ国に置かれていた御代官、勘定方の面々に、早々に当地に罷り出て、昼夜かけて
知行割を致すようにと仰せ渡された。

但し知行方の仕様は、旗本小身の面々には江戸に近くで渡し、知行高に応じ、順々に道のり遠き所を
渡すように。但し道中一夜泊より遠方で旗本に知行を渡す事は無用である、と仰せ付けられた。

又、大身の衆へ城地を下さる場合には、割り当ての外、皆御自身の思し召しにて遣わされた。

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家康が江戸城の整備よりも家中の知行割りの作業を優先させたというお話。



306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/21(木) 17:56:51.06 ID:ptp19eSq
秀吉に対するアピールもあっただろうな

増上寺、浅草寺のこと

2022年07月19日 19:35

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/19(火) 19:25:56.28 ID:v0TjrcZ5
豊臣秀吉公が北条を攻め給った時(小田原征伐)、徳川家康公は小田原へ御着陣後に仰せになった

「武州江戸において、祈祷所に成るべき天台寺と、菩提所になるべき浄土寺を見立てるように。」

この上意に対し、
「浄土宗では伝通院と増上寺と申す寺が二ヶ所あります。然れども伝通院はここの在郷にあります。
増上寺は前に海、後ろに山を抱えている景池であります。
また御祈祷所になるべき天台寺としては、浅草寺観音堂の外にはありません。」
と報告が言上された。

これにより増上寺、浅草寺の二院の住持を小田原の御陣所に召され、御目見えを仰せ付けられた。
その後、両寺の境内にて、乱妨禁制の御書付を下されるとき、祐筆よりこの書付を調え差し上げた所、
この内容を御覧の上、その日付に対し
「浅草寺の方は、卯月○日と認めさせよ。」
と仰せがあった。

御祐筆方より、重ねて「概ねこういった事については、月の異名は書き申しません」
と書法についての言上があったが、仰せに
「増上寺は菩提所なれば、さもあるべし。浅草寺は祈祷所であるのだから、異名にて認めるように。」
と上意あったという。

この浅草寺は古来より、寺中に坊数三十六ヶ所あった。然れどもこの当時は殊の外破壊しており、
そのうち十坊ばかりは清僧であったが、残りは山伏の類であり、妻帯の坊主もあったため、
徳川家の御祈祷所としては不都合であるとの沙汰もあった。
しかし家康公は夜のようなことに御構いも無く、九月には小田原征伐も定まり、御城(江戸城)に於いて
大般若経転読があった。この時は勿論、その他の御祈祷においても清僧にだけ仰せ付けられた。
故に妻帯の者は自然と寺内の徘徊も致し難くなり、或いは子を、或いは弟子を清僧とし、
又は寺を譲るなどしてその身は退院したため、程なく清僧ばかりとなった。

新東鑑



武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて

2022年07月17日 15:28

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/17(日) 13:02:25.89 ID:2ndILS+1
ある本に、明石氏(全登)の子である某は、大阪落城の後、田中筑後守吉政が匿い置いていたが、
その事が上聞に達し、御検議あらん為に、その家臣一人を奉行所へと召された。

忠政はこの事を重臣である平野長門と協議したが、長門は「最大事ですから、他人を遣わすべきでは
ありません。愚臣が赴きます。」と申した。

これを聞いた筑後守は落涙して、「余人を遣わさん!」と言ったが、長門は留まらず奉行所へ出て
陳弁した。そして御疑いがあり、拷問に及んだ。しかし平野はそれを嘲笑し
「申し上げるべき事無し!たとえ又あったとしても、武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて言うものか!」
と動ぜず、遂に責め殺された。そしてそれ故に筑後守は災いを免れ、明石の子もまたその跡を
晦ます事ができた。

新東鑑




当城に鎮守があるか

2022年07月09日 16:34

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/09(土) 11:09:41.07 ID:/UX4P9R1
天正年中、徳川家康公は江府(江戸)に移り給った時、榊原式部大輔康政を召され、

「当城に鎮守があるか」

と御尋ねになられた。康政承り、「御曲輪の内の北の辺りに、小社が見えました。」と言上した。
則ち康政を案内として北曲輪に入ると、小坂の上に、梅の木を数多植えてあるのをご覧になって、

「太田道灌は歌人であった故に、天神を勧請したのか」
と仰せになった。また一社の額を見られて

「当城に鎮守がなければ、坂本の山王を勧請すべしと思っていたが、量らずも山王社が建て置いてあるぞ」
との上意があったのを、康政承り

「ここにおのずからそのようになっていたのは、偏に御永久の吉瑞と存じ奉ります」
と申し上げると、家康公も御機嫌斜めならずして、こうしてこの社を紅葉山に移され、新たに造立された。

新東鑑

この紅葉山山王社が、後に更に移転して、現在の永田町の日枝神社となったそうで。



正月元旦に兎の御吸物を召し上がられる事について

2022年07月07日 18:06

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/07(木) 17:10:07.68 ID:7LyLmL9R
将軍家に於いて、例年正月元旦に兎の御吸物を召し上がられる事について、御先祖である
世良田左京佐有親(得川有親)は上野国徳川(得川)を領され、鎌倉公方である足利左馬頭持氏の
御家人であったのだが、永享年中、足利義教将軍とかの持氏と不和のことあって合戦ありしに(永享の乱)、
左馬頭遂に打ち負けて自害され、その後は皆京都将軍の下知となり、管領上杉憲実は制法政務を厳重に
執り行ったため、威勢日々に盛んになった。

そして鎌倉公方の残党を捜し求めたが、中でも新田の一族においては、根を絶ち葉を枯らすべしとの事故、
有親は得川に安堵なり難く、同十一年(或いは十二年とあり)三月上旬、有親並びにその子息・親氏は
密かに居所を離れ出て、方々に流浪して、忍んで相州藤沢に在る、時宗の清浄寺にて髪を剃り、
有親は長阿弥、親氏は徳阿弥(後に還俗して松平太郎左衛門と称す)と名乗り予てから懇意にしていた
小笠原清宗の三男、林藤助光政という者、信州の山家に蟄居していたので、有親父子は同年十二月下旬、
かの所を尋ねて至った。

藤助は大いに悦び、何か饗応しようと思ったが一物も無く、同月二十九日、自ら雪を分けて狩りを
した所、兎一疋を得たため、翌十三年正月元旦に、この兎を吸物にして進めた。
これより徳川家の吉例となった。

そして同年六月、藤助の許を立ち越え、三州坂井の郷の氏・家を借り、有親は嘉吉二年に死去した。

(新東鑑)

徳川将軍家の正月儀礼についての伝承。徳川の先祖が永享の乱のために三河に流れてきたという話も
あったのですね。



證據の龍

2022年07月06日 18:43

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/05(火) 19:43:13.55 ID:ubBmdJR7
絵師の狩野山楽光頼は元・木村氏にて、豊臣秀吉公に仕えていたが、画に巧みである故に
狩野永徳の養子分に仰せ付けられ、それより氏を狩野とした。

大阪陣の時、狩野山楽は大阪城に残ったが、その息子である木村右京は味方の鉄砲に当たって死んだ。
然るに、大阪落城の砌、山楽は逃げ出て八幡の瀧本坊に忍び居た所を搦め捕られ、既に誅殺されるべき
所に、九条殿並びに本願寺東台院殿より、「彼は絵師であり武辺のことには拘わらぬ者である。」
との仰せられ、助命の儀をお頼みあった。

そこで「絵師と相違無いとの證據があるか。」とお尋ねの所、先達て秀吉公が、洛東東福寺の法堂を
造営された際に、天井に僧の明兆が筆した幡龍破画の残片があったのを、狩野永徳に補画(修復)
させた所、永徳はその功を遂げずに卒した。よってその跡を山楽が描いた。
これを申し立てて、命を免れた。

現在に至っても、かの画を『證據の龍』と呼んでいるという。

山楽は現在の縫殿助の先祖である。

(新東鑑)



285 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/07/05(火) 23:11:42.48 ID:u5LZH6cj
狩野派絵師のほとんどが徳川将軍家御用の奥絵師として江戸在住だったのに対し、山楽の系統は京都在住で京狩野と呼ばれる
山楽の後継者の山雪とその子孫は代々縫殿助を称している

只今の士は、何と言える若者ぞ!?

2022年06月29日 17:36

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/28(火) 22:46:36.60 ID:jbOcgdLv
大阪冬の陣の時、蜂須賀阿波守(至鎮)の陣に塙団右衛門が夜討ちした時、蜂須賀の家臣・賀島主水という者、
この時十五歳であったが、敵が一人、橋の欄干に在ったのを、鑓を突き立てたが、かの者は
「味方を見誤ったか!?」と言ってきた。それを聞いた味方の者達も「同士討ちするな!」と
声をかけてきたので、賀島はそのまま鑓を引いた。
するとかの者は大阪城内に駆け入り、馬を控えて、

「只今の士は、何と言える若者ぞ!?我は今夜の大将、塙団右衛門なり!!」

と名乗り捨てて内に入ったという。賀島主水はこの事を。老後まで語っていたとか。

新東鑑



士たる者は、平生より

2022年06月27日 16:03

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/26(日) 22:05:18.83 ID:mmbd0jN2
真田左衛門佐信仍(信繁)(本書に、世に幸村と云うは誤りなりと云々)は、家康公に御敵対申す始めより、
千子村正の大小を常に身を放たず帯していたという。村正の道具は、徳川家に祟るという説を真田が聞いて、
調伏の心としたのであろう。士たる者は、平生よりこのような忠義を含み、心を尽くすべし。

また石田治部少輔(三成)は悪しからざる者である。如何なる人であっても、各々その主人のために
命を軽んじ、義を立てて事を行う者は、敵であっても悪むべきではない。これは君臣共に心得るべき
事である。

これは水戸黄門光圀卿は宣われた事だという。

新東鑑



などと当時、吹聴されたという

2022年06月24日 15:33

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 13:27:06.95 ID:xQzhpBRV
大阪夏の陣、大阪落城の時、吹田の渡しでは、落人たちがこれを渡るため大勢が我先にと船に乗り込んだが、
このため転覆し、足軽などには溺死した者もあった。しかしこの時期は水が深くなかったため、
助かった者も多かった。

この時、吹田の庄屋である太郎左衛門(一説に五郎左衛門)という者、元は荒木摂津守(村重)の家臣であった、
織田信長公の為に荒木の家は断絶され、彼は吹田に引き籠もった。
そして元来慈悲深い人物であったので、船の転覆を聞いて水に落ちた者共を連れ帰り、衣類を乾かし、
数百人に食事を与えた。

しかし彼らの多くは、或いは親類に離れ、又は金銀を皮に紛失するなどして泣き悲しみ、また服が乾くまで
丸裸で居るものもあったので、道行く人達はこれを見て

吹田太郎左衛門は、落人から物を剥ぎ取る為に、呑口を拵えた船五艘を用意し、兵船十艘ばかりを
水際に控えさせておき、川向うに屈強の者共五十人余りを楯突かせて伏せ置き、手向かい出来ないような
落人は何の仔細もなく船に乗せ、川中に至る時、川岸の双方より兵船を漕ぎ寄せて物を奪い取り、
しかし叶わないときは、船の呑口を抜いて水に沈めた。さらにこの時、水練の達者な者が乗り合わせていて
向こう岸まで泳ぎ着いたなら、伏せ置いていた者達を以て討ち取らんと用意した。
そして凡そ、落人八百余人を殺した。」

などと当時、吹聴されたという。

新東鑑



このような御吟味に遭い、面目無き仕合に候

2022年06月23日 18:40

堀直寄   
524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/23(木) 15:10:43.30 ID:HyJAyFnJ
上條又八は織田常真公(信雄)の譜代の士であったが、大坂の陣で大阪城に籠城して高名をなした。
後に浪人して、森右近太夫(忠政)に仕えた。その後、浅野但馬守(長晟)の家来となり、
朋輩の和田庄兵衛という者と喧嘩して、双方暇を出されたが、江戸西福寺において千部の
法華経転読の砌、和田を討って其の身も手を負い、曽我丹後守宅に引き籠もった。

時に堀丹後守直寄は西福寺の近所であったので、人を以て和田の死骸を見させた所、彼は
鎖帷子を着けていた。また誰言うともなく、上條は素肌(防具を着ていない状態)であったと言われていたのを
丹後守聞いて、又八の元へ浪人を遣わしてこのように伝えた

「首尾よく本望を遂げられ、珍重に存ずる。承れば其方の敵・庄兵衛が鎖帷子を着していたと伝え聞くが、
其方は素肌であったという。彼を弱敵と思い鎖を着なかったというのはその意を得ない。
どうして大事の討ち物ををするのに、素肌であったのか。武士が軍陣において鎧を着るのと同じである。
御心底を聞き届けたい。」

又八はかの浪人に向かって

「丹州公の御目通りにも罷り出でていない所に、御懇ろの御意、過分に存じ奉ります。
着込みを着さなかった事を御吟味されましたが、あれはたまたま行き当たっての事なのです。
さりながら私も和田庄兵衛のように鎖を着て路中を踏み仰ていれば、いかばかり見事であったでしょうか。
素肌にて渡り合い、着込みをしている敵を思うままに討ち果たし存命仕り、このような御吟味に遭い、
面目無き仕合に候。」
と返答したという。

新東鑑

なんというかちょっと面倒くさい話だな



貴殿と私の武辺は互角である

2022年06月21日 20:25

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/21(火) 13:22:33.00 ID:5AhDOXhB
関ヶ原合戦の時、備前中納言(宇喜多)秀家卿の後勢七、八〇ほどが、福島左衛門大夫(正則)の先鋒、
福島丹波(治重)の備先を通ったが、地形が低かったため丹波の位置からは見えなかった所、正則の
旗本が見つけ、青木清右衛門を使いとして早々にこれを知らせた所、丹波は若者五、六〇を遣わし、
かの秀家卿の勢を追いかけさせた。

この時、黒田家の臣・後藤又兵衛が丹波の元に乗り来て「退き遅れたる敵が七、八〇ほど、対面を
横切って通っているが、能き仕物に候。追いかけて若者共に取らせ候へ」と言ってきた。
これを聞いた丹波が笑っている所に、先に遣わした五、六〇の若者たちが、皆首を取って帰ってきた。
これを見た又兵衛は「ぬからぬ丹波かな」と感じ入った。

ところがこの後、世の取り沙汰に、この時の戦いは後藤又兵衛が指図して、組勢に高名をさせたのであり、
全く又兵衛のおかげである、と言われた。丹波はこれを聞いて、「疑いもなく後藤の過言である。」と
奇怪に思い、いっそ対面して真偽を正そうと思っていたが、そのような中、又兵衛は浪人して、上方に
上がるとして、宮島で潮待ちをしていた。

この事を、安芸の領主と成った福島正則が聞きつけ、丹波を使いとして、「又兵衛を福島家で抱えたい。」と
申したが、又兵衛は「三万石ならば御奉公申すべし。」と言った。
丹波は戻りこの旨を正則に申し上げると、正則は頭を振って
「譜代のその方や小関岩美ですら二万石であり、三万石など思いもよらない!」
と言った。しかしこれを丹波は諌めて曰く

「又兵衛を三万石にて召し出されば、石見も拙者も威光が付きます。何故なら、又兵衛でさえ三万石
になるのなら、石見、丹波などは、外へ出したら四万石の侍であり、譜代故に小身のままなのだ、と
言われるでしょう。ならば、拙者までの面目なのです。」

そのように諌めたが、正則は承諾せず、再び丹波を使いとして、又兵衛に断りを申し遣わした。
そして暇乞して帰る時、先達ての世上の取り沙汰を思い出した。

「先年、関ヶ原にて備前勢の退き遅れた者達を我が手が討ち取った。ところがそれを、貴殿の指図にて
私に手柄させたのだと世上で申されているという。虚か実か、承り届けん。」

そう言って又兵衛に詰め寄ったが、又兵衛はこれに冷笑して
「貴殿と私の武辺は互角である。戦場において貴殿の指図を私は請けない。
然れば、私の指図も貴殿が請けることはないだろう。」

そのように返答したという。

(新東鑑)