2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/22(月) 13:05:37.09 ID:LAECT/y2
上杉謙信が小田原城の蓮池まで攻め入り、明日は鎌倉に赴くべしとして、軍評定を行った時、
新発田因幡守治長(新発田重家)、その時十五歳であったが、進み出て申した
「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」
これを聞いた謙信は怒って「舌のやわらかなるままに物を言う!」と怒鳴ると、治長は居直り謹んで
「今日より君臣の義を絶えさせ給わるという事であれば、私は小田原に馳せ参り、北条家の先陣をして
君を追い打ち参らすべし。酒匂川のこなたにて容易く討ち取り奉らんものを」と申した。
謙信はその時色を和らげ、「天晴剛の者よ、神妙にも申したるかな。明日の殿をせよ。」
と命じた。
治長は「軍立てしかじかすべき」とて、やがて事無く小田原を引き取った。
治長は後に景勝の世に及んで二心ありければ、景勝これを討とうとしたが、新発田・五十野両城を
守って、三年を経て城が落ちると、治長は染月毛という馬に乗り、三尺五寸ある光重の刀を
抜き持って、大軍の中に駆け入り討ち死にした。
この馬は極めて色の白い尾であったので、茜の汁を刷毛にて染めると、年月を重ねた後、まるで真紅の糸を
乱し駆けるようであったとか。井筒女之介(尼子十勇士の一人)が、この馬を得て乗ったという。
(常山紀談)
新発田重家についての常山紀談の記事
上杉謙信が小田原城の蓮池まで攻め入り、明日は鎌倉に赴くべしとして、軍評定を行った時、
新発田因幡守治長(新発田重家)、その時十五歳であったが、進み出て申した
「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」
これを聞いた謙信は怒って「舌のやわらかなるままに物を言う!」と怒鳴ると、治長は居直り謹んで
「今日より君臣の義を絶えさせ給わるという事であれば、私は小田原に馳せ参り、北条家の先陣をして
君を追い打ち参らすべし。酒匂川のこなたにて容易く討ち取り奉らんものを」と申した。
謙信はその時色を和らげ、「天晴剛の者よ、神妙にも申したるかな。明日の殿をせよ。」
と命じた。
治長は「軍立てしかじかすべき」とて、やがて事無く小田原を引き取った。
治長は後に景勝の世に及んで二心ありければ、景勝これを討とうとしたが、新発田・五十野両城を
守って、三年を経て城が落ちると、治長は染月毛という馬に乗り、三尺五寸ある光重の刀を
抜き持って、大軍の中に駆け入り討ち死にした。
この馬は極めて色の白い尾であったので、茜の汁を刷毛にて染めると、年月を重ねた後、まるで真紅の糸を
乱し駆けるようであったとか。井筒女之介(尼子十勇士の一人)が、この馬を得て乗ったという。
(常山紀談)
新発田重家についての常山紀談の記事
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