fc2ブログ

高森伊予守、志賀親度に加勢所望のこと

2022年05月26日 16:30

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:11:44.38 ID:yj+RKTrs
「大友興廃記」より「高森伊予守、志賀親度(「道懌」表記を「親度」に統一)に加勢所望のこと

肥後国の高森伊予守は大友宗麟公の幕下であり、先年小原鑑元の逆心が現れ罰せられたのも彼の働きであった。
島津義久公の家老・新納武蔵守(忠元)の計略により、島津方の稲富新助が花山にて甲斐相模守(甲斐親英、甲斐宗運の嫡男)と合戦したが、島津方は敗れた。
その遺恨により新納武蔵守は高森の城を落とそうと、天正十二年十二月十三日(1585年1月13日)に三千騎で高森伊予守の城に攻め寄せた。
伊予守も奮戦し互いに鉄砲を撃ち合ったが、とうとう大手門を破られ、伊予守は降伏し城を明け渡した。
もとより伊予守は武略の上手であったため、これは一旦城を取らせて油断させる策略であった。

十五日に伊予守は樽肴種々の土産を調えて「和睦の盃を酌み交わしましょう」と城に行ったところ、稲富はよろこんで城に入れて宴会となった。
盃をさしかわしながら稲富が言うことには
「われわれも攻城の時、大剛の者が取り囲まれ若干の負傷者や死人が出ました。
詰めの城まで攻めていたならば、最後には落城させていたでしょうが、こちらも過半が討たれていたことでしょう。
伊予守の御芳志により死なずにすみました」
このとき、伊予守はみずからを智慧才覚のない無分別者と思わせるためこう尋ねた。
伊予守「島津義久公は隣国から徐々に智略をめぐらし、諸国の侍に内通させ、彼等が味方についたのちに豊後に御出兵なさるとうかがっております。
武士の習いとして「昨日の矢先に今日はひかゆる(昨日の敵は今日の友、の意?)」と言いますので
それがしも義久公御出兵の時には稲富殿の組に入りたいと思います」
稲富「義久公の豊後御出兵はありません。
肥後は島津の隣国なので、武蔵守が才覚をもっていろいろ調略をしましたが、それでも本当の味方は少数です。
まして豊後は宗麟公が御在国なので調略ののちに出兵など思いもよらぬことです」
それを聞いた伊予守は話題を変えたのち、次のように問うた。
伊予守「さる天正六年の冬、日向国高城において豊後の諸勢に若干の死者が出ました。(耳川の戦い)
敵味方いかばかり討ち死にしたでしょうか?」
稲富「敵味方六万六千人余りの討ち死にだったそうです。
中務(島津家久)が豊後勢の死骸を讃嘆して言うには
「武士の強弱は死骸でわかるものだ。
勝負は時の運。豊後勢は敵陣に頭を向けており、味方に向かった死骸はない」と感じられたそうです。
また、義久公の命令で弔いをしました」
伊予守「おもしろいお話です。私などはただの死骸としか見ないのに、中務がそのように気づかれるとは、屍にとっての面目といえましょう」

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:16:39.85 ID:yj+RKTrs
そののち伊予守は家中の高森右京進を呼び出して
「お前は今回の降伏を無念に思っておるだろうが、これは稲富をだまして討つための策略である。
お前は密かに豊後に行って、志賀親度に我が意志を伝え、加勢を頼め」
と言うと、右京進は了承して豊後岡の城に行き、高森伊予守からの書状を披露した。
親度は書状を読むと、家中七組の頭(省略)に誰を遣わすべきか談合した。
談合の結果、大軍を差しむけ島津方をことごとく討ち取ろうと定まったところで
親度の嫡子・志賀太郎親次はその時十六歳であったが、こう発言した。
志賀親次「高森への加勢のために大軍を差し向けるのはもってのほかであります。
そのわけですが、肥前・肥後も薩摩に味方しているのは明らかです。
このたび高森を攻めているのは伊予守を敵としているのではなく、最終的に豊後をとろうと企てているからです。
わたしは遊山をすると、狩り、釣りの次には敵を討つ方法を考えるようにしておりますが、それは戦は猟に似ているからです。
猪は寝ているうちに勢子で取り囲み、魚は騒がないように遠くから網を回し、それぞれ囲いを狭めていきます。
もし初めから近くに網を回すと魚が騒ぐため、大漁は見込めないでしょう。
薩摩は名高い大将ですので、豊後を取るために周辺の国から大きな網を巡らせているのでしょう。
今、薩摩が高森を攻めているのは網の中の石を取り除いているようなものです。
島津義久は二、三年のうちに豊後を攻めようと考えております。
もしここで肥後に大軍を出しては、いくらか討たれて味方が弱体化してしまいます。
最後に大敵と戦わなければならないのに、いま人数を損なうのは不可であります。」
親度「わしもそう思うが、薩摩勢は三千ばかりあり、高森伊予守が援軍を請うているのだ。どうしたものか」
七組頭一同は親次の言葉に親度も同意したことで、お家の行く末は安泰だと感涙の涙を流し、
「親次様はまだ若いのにこのような名言を仰られるとは、お年を経ればどれだけの御分別が出てくることやら。
おそらくは九州に肩を並べるもののない名大将になるでしょう」と申した。
親度「それでは二千の兵を出そうと思ったが、親次の異見により雑兵を加えて千五百の兵を出そう。
侍大将には親次、朝倉土佐守(「留守の火縄」の朝倉一玄だろうか)、大森弾正を命じる」

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:19:35.96 ID:yj+RKTrs
肥後国高森の近くにきた志賀親次は兵を陰に隠し、使者の高森右京進とともに高森伊予守の宿所を密かに訪ねた。
伊予守「城を攻めれば負傷者や死人が大勢出るでしょう。
一口を空けて夜討ちにして城を焼けば、敵は空いている口から出ようとするでしょうから、
われわれは城の案内はわかっておりますので搦手から詰めかけて尽く討ちましょう」
こうして豊後勢は同士討ちを防ぐため、同じ装備で合言葉を決め、夜討勢を五百、城から出てきたところを討つ伏兵を、志賀勢・高森勢でそれぞれ千おいた。
こうして十二月二十九日の明け方、伊予守はかねて用意していた火矢や松明を忍び口より投げ込んで、城中の大部分を占めていたボロ屋を炎上させた。
そこで前方・後方から鬨の声を挙げたところ、城中の稲富勢は慌てふためき兵を出してきた。
味方の兵は血気さかんに闘い、互いに敵を多く討とうと争った。
稲富勢も命を惜しまず、味方が倒れても顧みず、ここを死に場所と定めて戦ったが、どんどん討たれ少なくなった。
しかし稲富は戦巧者のため、わずかの勢で戦場を横切ったため討ち損じてしまった。
戦が終わり、死骸を数えると千八百余りを討ち取っていた。
志賀勢も負傷者は多数出たが、死人は五、六人もいなかった。
城は再び高森のものとなり、志賀勢は豊後に帰還した。
志賀親次は「このたびの戦では大いなる不覚をいたしました。薩摩勢は多く討ち取りましたが、大将である稲富を討ち損じました。」
と志賀親度に申したが
親度「悔やむでない。戦というものは必ずしも敵を討つのが勝ちではない。殺さずして退散させるのも勝利である。
それにしても高森伊予守の武略のために大勝利を得たものだ」と喜んだ。
そののち伊予守から志賀親度に加勢の礼があった。
親度が大友義統公に詳細を告げると、義統公は大いに感悦した。
義統公から親度と高森に御感状が与えられた。

のち天正十四年に肥後国を新納忠元が、豊後国を島津中書(家久)が討ち入った時、志賀から高森に援護の兵が出され、豊後国に高森を引き取った。
翌年、薩摩勢が退いた後、高森は肥後国に帰還した。
甲斐宗運御逝去ののち、「策を帷幄の中に巡らし、勝ちを千里の外に決す」とは高森伊予守のことであろう。



スポンサーサイト



矢崎城主・中村惟冬の妻

2022年04月25日 17:52

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/24(日) 23:17:26.73 ID:6RLowsdy
「朝野雑載」より矢崎城主・中村惟冬の妻

薩摩より島津中務少輔家久を大将として新納武蔵(新納忠元)、鎌田尾張入道寛栖(鎌田政年)、梅北宮内左衛門(梅北国兼)、河上左京(川上忠智)など三万余騎が
兵船数百艘に乗り、肥後国宇土郡の郡の浦に上陸し、阿蘇大宮司の家臣である中村伯耆惟冬の籠っている矢崎の城を取り囲み、城攻めした。
惟冬も粉骨砕身で防いだが、多勢に無勢で援軍もなかったため、過半数が討たれ、残りの多くも手負となった。
惟冬はそれでも勇気をたゆまさず、わずか七十余人で城門を開けて打って出て、数刻戦い討死した。
しばらくして惟冬の妻が緋威の鎧を着て、女二十人ばかりを左右に立て、不意にどっと打って出、敵を二、三町退けたのち、枕を並べて討死したという。


ただし「明赫記」だと中村惟冬や家臣たちは各々自らの妻子を刺し殺したのちに打って出たことになっている。



新納忠元は全身から汗を流し悔しがり

2021年11月01日 17:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/01(月) 14:51:32.43 ID:eGR1iS90
江戸後期に成立したと思われる、戦国時代-江戸初期の薩摩の君臣の話を随筆風に記した「薩州旧伝記」もしくは「薩摩旧伝集」から

文武両道の薩摩の名将・新納忠元がまだ若い頃、「太平記」を読んでいたところ、
新納氏の家祖である島津四郎時久(島津氏の第四代・島津忠宗の四男)の名前が出てきた。

以下、岩波文庫「太平記(西源院本が底本)」より該当箇所(文庫では古文だが現代語に翻訳)
「島津四郎は大力として知られ、まことに能力と風采に優れていたため、鎌倉幕府の一大事には頼りになるだろうとして
長崎円喜(鎌倉幕府末期に幕政を牛耳っていた)が烏帽子親となり、一騎当千の武者だと期待されていたため、
鎌倉の入り口の戦場(化粧坂の戦いなど)ではあえて相模入道(北条高時)の側に待機していた。
源氏(新田義貞軍)がすでに鎌倉に押し入ったため、相模入道は島津四郎を呼び、自ら酌をとって酒を勧め、三杯さかずきを傾けた後
厩で飼っていた坂東一の無双の名馬を、銀で縁取りした鞍を置いて引かせてきた。
これを見た人々はみな島津四郎を羨んだ。
島津四郎はこの馬に乗り、由比ヶ浜の浦風に大きな旗印をはためかせて堂々と敵軍に向かった。
数万の軍勢も「ああまことに一騎当千の武者だ。長崎入道(円喜)が重く恩を与え、傍若無人に振る舞わせたのも道理である」と皆感心した。
新田軍の兵もこれを見て「よい敵に会った」と思ったため
若武者どもは我先に、闘おうと馬を進めて近づいていった。
両軍の高名な大力の武者が一騎討ちで勝負を決しようとしていたため、敵味方の軍兵は固唾を呑んで見守っていると、

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/01(月) 14:57:49.26 ID:eGR1iS90
新田軍の近くにきた島津は馬から降り、兜を脱いで降伏し、新田軍に加わった。
これを見た全ての者は島津をけなし、ほかの北条から恩を受けた者どもも次々と降伏していった。」

これを読んだ新納忠元は全身から汗を流し悔しがり、それ以来武道を学ぶようになったという。
なお肥後国の住人曽我四郎という説もあると高野山の毛利本には見られるという。
太平記が編纂された頃には諸国の人々が書き足したため、あることないこと記された家もあるそうだ。
(なお岩波文庫「太平記」によれば、玄玖本、簗田本では「島津四郎」ではなく「曽我奥太郎時久」となっているという)



「明赫記」続き

2021年09月26日 16:24

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 19:59:47.88 ID:UK3kv2yK
「明赫記」続き

球磨方の相良頼房(義陽)が大軍を率い大口城に入城。
島津忠長肝付兼寛、新納刑部大輔忠元で大口城を陥すことにしたが苦戦が続き
新納忠元は肥後八代の勇士的場・後藤と互いに斬り合い、六箇所に傷を受けるまで奮闘した。
(なお「箕匂記」によれば、新納忠元が戦勝祈願のために薬師如来の堂に歌を一首書こうとしたところ、
大口城から敵方の軍勢が押し寄せてきた。
それでも歌を書こうとしたが郎党の久保・尾崎に「犬死にする気ですか?」と引きずられた。
この時、肥後八代の住人の的場五藤兵衛が斬りかかってきた)

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:02:57.42 ID:UK3kv2yK
続き「伏兵を以て凶徒を大いに敗る事」

戦争は膠着状態が続き、相良軍によっていくたびも味方の足軽が負けてしまったため、相良軍は島津をあなどるようになった。
そこで平泉の新納忠元肝付兼寛は「勝ちに驕っている兵は滅し易い、伏兵を置けば簡単に討ちとれるでしょう」
と進言したところ、新納・肝付隊が第一の伏兵隊として冨神ガ尾に、大野駿河守・宮原筑前守が第二の伏兵隊として稲荷山に埋伏することになった。
永禄十二年五月六日、囮部隊の大将として中務大輔家久が雑兵四、五百人に兵糧隊を装おって糠袋を馬や兵に積み、
軍兵千余騎に警護させて平泉を通過したところ
大口城からこれを見た敵方は「平泉方は当番交替のようだ、積み荷を奪ってしまえ」と足軽や雑兵が思い思いに駆け出し、
敵方の深水三河守は計略ではないかと疑ったが、我先にと駆け出す味方軍の後を追いかけるしかなかった。
家久は一合戦しては退き、防戦しては退き、を繰り返し、疲弊することは言うも愚かであった。
第一の伏兵隊は「家久がこのままでは討たれてしまう」と思い、一度に動こうとしたところ、
新納・肝付は「時期尚早である」と怒り、軍配を横にして下知したところ、飛び出そうとした伏兵はその場にとどまった。
家久はいろいろ気配りをして敵軍を誘引し、とうとう両伏兵隊の真ん中に入り込んだ。
第一の伏兵が一度に鬨の声を上げると、第二の伏兵も一度に動き、敵軍を真ん中に取り囲んだため、相良・菱刈勢はことごとく敗北し
島津勢は百三十六人の将、八百余人の雑兵を討ち取り、無数を切り捨てた。
こうして家久の武名は比類なきものとなった。
討ちもらした者たちは大口城に逃げ、固くこもった。

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:08:51.08 ID:UK3kv2yK
続き「祁答院の長野を攻める事、付 菱刈降参の事」

同月二十五日、渋谷党の祁答院の長野城を攻めた。
この時、祁答院新兵衛という者が城内より討って出て矛を合わせ勝負を決しようと四方八方に斬って回った。
味方の税所宮内少輔、仲俊坊、貴島源五郎、村原新介、村原左衛門五郎、深野平六、上床源六兵衛、岩下主殿、鍛冶屋新左衛門、尾上五郎、田実右京亮、肝付権助、等が斬りかかったが皆枕を並べて討ち死にした。
しかし味方の軍兵が退却の色を見せず奮闘したため、敵も弱り、勝鬨を上げて退陣した。
(「箕匂記」によればこの後、大口城の菱刈方が滅亡寸前となったため、
相良頼房から「もともと島津殿は国の太守のため敵対すべきではなかった、多くの士を失ったため引き上げる。
ただ菱刈氏を本城に存続させる事で頼房の面目を保たせてほしい」と和睦が提示されたため、同年九月十四日和睦となった。
九月二十日、大口城を受け取り、新納忠元に大口城の地頭職を授け武蔵守と成した。
また、真幸・菱刈・牛屎(「うしくそ」もしくは「ねばり」)を皆退治したためそれらの城もことごとく武蔵守を地頭とした。)

関連
「明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事


「薩琉軍記」群、について

2021年05月19日 16:05

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/19(水) 14:57:09.20 ID:JDqvmj6u
薩摩の琉球侵攻を描いた軍記物として「薩琉軍記」という一大ジャンル的がある
内容はというと、主人公で軍師の新納武蔵守一氏(新納忠元がモデル)や武蔵守と軍内で対立する佐野帯刀はじめ、
架空人物ばかりで史実とはかけ離れた話ばかりだが
(中には真田幸村が戦死した新納武蔵守に代わって琉球を征服する「薩州内乱記」というものまである)
薩琉軍記」群の一つ、「琉球静謐記」のラストは少し変わっているので紹介する。

琉球征伐後、龍伯公(※琉球征伐の時期なら忠恒のはずだが「琉球静謐記」では龍伯を顕彰しているため)が論功行賞を行ったところ
「朝鮮征伐の時は万死に一生の苦労をしても褒美を得なかったのに、今回の琉球征伐では国内巡視程度の労力で子孫への宝を得ることになった」
と薩摩勢は喜んだ。(軍記内ではけっこう苦戦していた)
これが江戸まで聞こえ、琉球は武を備えていないと評判となった。
琉球国王が江戸に参勤した時、松平伊豆守が国王に尋ねたことには
「なぜ琉球国は戦の方法を知らないのか?兵法の書はないのか?」
琉球国王「我が国ではむかしより戦争なし。
親が死ねば子供が、兄が死ねば弟が継いできたため、跡目争いなどなかった。ゆえに戦に詳しくないのだ」
これを聞いた伊豆守は顔を赤くし退出した。
このことが将軍の耳に入り、誠に優美であるとおぼしめしたため、
それ以来琉球国王を御老中列の次に座し、十万石以上の大名の格として尊重した。

武より文を尊重する時代に入ったためか、知恵伊豆を持ってきて武力発動を戒めるオチが付け加えられたようだ



戸次川合戦長宗我部信親の最期

2017年11月06日 17:27

242 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:27:04.80 ID:STEkgEWa
戸次川合戦長宗我部信親の最期

去る程に信親は、味方皆打ち負けて散々になり
元親の生死も知らざれば、今はこれまでとただ一途に思い定め
上下心を一致して龍粧(戸次川地名)に備を配り
静まり返って敵を待ち受けた

勇気最盛なる新納勢は、僅かな長宗我部勢が控えているの見て
ここはいささかも休むべきにはあらずと、三手に別れ閑閑と打ってかかる
信親七百余騎、三手に颯爽と別れて駆け合い
汗馬東西に駆け違い、旌旗南北に開き分かれ
追いつ返しつ、巻きつ巻きられつ、互いに命を惜しまず七、八度と戦い
新納が五千余騎、残りわずかまでに討たれたが
長宗我部勢も大半が傷をこうむり、(血で)朱になってその場にとどまった

伊勢兵部丞一千余騎、戦い屈したる長宗我部勢を
弊に乗って討たんとして横合いに駆け向うが
信親もとより思い切った事なれば、相懸かりに懸りて
弓手に側め、馬主に背け、打っては駆け通り、突いては押し払い
四武の衛陣堅きを砕き、揉み違い入り乱れ、喚き叫んで戦い続けた
敵味方の討たれた者は数知れず、互いに龍虎の争いなれば
このいくさ、いつ果てるのかもわからなかった

(続く)

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:29:50.91 ID:STEkgEWa
新納武蔵守は槍を取り、猪の怒れる如く大きく猛って突いて回る
細川源左衛門これを見て、願う所と槍を提げて向かい
武蔵守、物々しやと人を交えもせずに戦ったが
源左衛門に左腕をしたたかに突かれ、危うくなったところに
郎党二人駆け来たり、武蔵守を押し隔てて戦い
さらに伊勢兵部丞が馬を駆け寄せ、源左衛門に槍を付けたので
源左衛門ようやく若党に首を取られ討ち死にした

信親はあまりに手広く駆り立て戦う内に、乗り換えたる馬は三頭
平頭三太刀斬られて、犬居にどうと臥した
敵これを大将と見知ったので、駆け寄せ討ち取らんと進み近づくが
信親四尺三寸の大長刀を提げ、大勢の中へ割って入り
籠手・薙手・開手・十文字、八方乱して切りつけ
強靭の兵二十四、五騎を薙ぎ払ったので、長刀の柄は中より折れてしまった

(続く)

244 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:40:06.17 ID:STEkgEWa
敵二人得たり賢しと両方から飛びかかり打つ太刀を
信親さっと飛び違え、二人共に同じ枕に蹴り倒し、太刀を抜き胴を切り捨てた
新納これを見て、一騎打ちの勝負は叶うまじ
総軍一度に懸かれと下知すれば、蟻の如く集い、蜂の如く行き合い
信親の上に重なって前後左右より押し取り巻き
穂前を揃えて突く槍を、ひらりと飛び越え
持って開いては丁と切り、飛び違えては、はたと切る
されどもその身鉄石にあらざれば、精力疲れ、ついに鈴木内膳に討たれた
信親行年二十二歳、その死を惜しまぬ者はいなかった

吉良播磨守、本山将監、石谷兵部少輔らも何のために惜しむ命ぞやと
真っ先に敵の中に駈け入り、枕を並べて討ち死にした
これらを始めとして、桑名太郎左衛門……
(以下数頁に渡り延々と討ち死にした者の列挙が続く、下画像参照)
https://imgur.com/a/krw3g
https://imgur.com/a/2iU01
seGpd7c.png
NovRfsD.jpg


……この他精兵都合七百余人、我先にと駆け出で駆け出で
一騎も残らず皆斬り死にした
味方の討ち死には二千七百二十七名と聞いている

(土佐物語)



245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 14:30:51.09 ID:TScJL+6v
センゴクすごく悪い話だ

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 14:54:27.14 ID:uHhFmV3f
>>242-244
脚色もあるんだろうけど凄まじい、描写が詳しくてこのまま剣劇にできそうだ。

溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


入田家の後日談

2016年10月07日 15:17

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:37:00.52 ID:1rBePjzd
入田家の後日談

親誠の嫡男・義実(宗和)は若年につき赦され永禄末から元亀の頃(天正8年(1580年)頃説もあり)に宗麟から旧領の一部である筑前国鞍手郡若宮庄350町分を安堵された
宗麟に笠木城勤番を命じられたりするなど父のこともありながら宗麟時代はそれなりに信頼された義実だが義統時代になると俄然大友家での立場は悪化する。
天正12年から14年にかけて不仲だった戸次統貞(玄珊)の讒言によって大友義統と対立し討伐を受け居城を栂牟礼城を逃れて緩木城に移していた。
そんな義実に対して島津義弘は新納忠元を通じて宗和に寝返りを進めてきた。しかし宗和は最初「武門の素意に非ず」と断っていたが結局島津への内通を決意する。
天正14年(1586)豊薩合戦の際、南部衆の志賀親度(道益)・南志賀鑑隆(道運)や一萬田紹伝らは入田宗和主導でで島津氏に内通して大友氏の敗北に一役買った。
その後豊臣軍の豊後上陸後、宗和は岡城の志賀親次さらには豊臣秀長たちの軍に追われ豊後から薩摩に撤退し以降は日向に所領を貰い島津家臣として仕え家は斉彬や久光の時代まで続く

参考:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)ほか



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 02:48:56.69 ID:rn89lw8F
>>175
栂牟礼城は佐伯氏の居城だから入田の居城は津賀牟礼城の間違えだろうな

「しずのおだまき」

2016年05月12日 14:37

612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/05/12(木) 14:21:46.75 ID:2HZR3jHL
薩摩には「しずのおだまき」と題名のある本が2冊あり、そのうちの一冊は「賤のおだまき」
「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次(槍の達人)と、文武両道に秀でた吉田大蔵清家
(清盛ともいう、弓の名手)の男同士の愛の契りの物語である。
時代は関ケ原合戦の前年の慶長4(1599)年、島津家の筆頭老中だった伊集院幸侃が島津忠恒に伏見で上意討ちにされたため、
幸侃の嫡男忠真は都城を中心とする庄内12城にこもって反旗をひるがえした。庄内の乱である。
三五郎と清家はともに12城のひとつ、大隅財部城を攻める軍勢に加わった。出陣した2人は帖佐のあたりで辻堂のそばを通りかかり、
その柱に「共に庄内一戦旅(いちせんりょ)に赴く」と筆で書き、ともに千に一つも生きて帰らじと誓った。
庄内へ出陣の途中に門倉薬師堂(現在は醫師神社(いしじんじゃ))に立ち寄り兵士たちが堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。
そこへ遅れて平田三五郎と吉田大蔵が通り、2人も堂へ筆を入れた。しかしすでに堂には平田三五郎が筆を入れる隙も無く
吉田大蔵に抱えられ、堂の高い所に辞世の句を残した。
平田「書置くも 形見となるや 筆の跡 吾れは何処の 土となるらん」
吉田「命あれば 又も来てみん 門倉の 薬師の堂の 軒の下露」
 財部で2人は一緒に戦っていたが、ある日、乱戦のなかで離れ離れになってしまい、三五郎は清家の討ち死にを知らされる。
清家の遺骸をかき抱いて号泣した三五郎は「今は力なし、合戦に隙(ひま)なふ(なく)して後れしこと無念なれ、今生の対面是迄なり」
と告げると、馬にひらりと打ち乗り、敵陣に駆け入って古井(こい)原で討ち死にした。三五郎は清家との愛に殉じたのである。
この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。「本藩人物誌」は三五郎を
「時に十五歳にて卯花威(うのはなおどし)の鎧を着せると云々」、清家についても「慶長四年庄内乱ノ時於財部戦死二十八歳」と、
それぞれ記している。また「殉国名薮抄」という庄内合戦の戦死者名簿には、11月28日条に清家と三五郎の名前が並んで出ていることから、
2人は同日に亡くなったことがわかる。
2人の討ち死には島津方の間で静かな感動を呼んだらしい。歌詠みとしても知られる新納忠元も庄内合戦に出陣したが、
三五郎の死を聞いて「かれは無双の美童なり」と哀傷し、一首を手向けている(「盛香集」)。
「きのふ迄誰か手枕にみだれけん よもきが元にかゝる黒かみ」
(昨日まで誰かの手枕の上で乱れていた黒髪が、いまは荒れ果てた陣所に(遺髪として)かけられていることよ)−という大意だろうか。
 忠元が詠んだように、薩摩武士にとって衆道は不道徳なものではなく、士道の精華として称揚された面もあった。
その理想像こそ三五郎であり、二才たちの間で三五郎に仮託される形で遺風が伝わったのかもしれない。 
(さつま人国誌、薩摩琵琶歌の形見の桜など)

「賤のおだまき」は森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」にも登場しております。
「賤のおだまき」が明治17、8年に「美本仕立て」で出版されたが発禁になったことがその当時の新聞に書かれています



曽木の滝では

2015年06月07日 16:27

890 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/06(土) 22:29:47.31 ID:nEHsoC9s
鹿児島県伊佐市にある曽木の滝。この滝では

南の方の武蔵、新納忠元・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/688-9de1da57

に書いてあるが、新納忠元が秀吉を滝壺に突き落とそうとしたこと
が伝わっている。
(昭和32年(1957年)に柳原 白蓮が世界平和運動の講演のために訪れた時に
案内人を務めた郷土の医師から、新納忠元と豊臣秀吉の会見や滝見物の
言い伝え、 川ざらえと薩摩藩の米の流通などの話を聞いた後に歌を詠み
「もののふの昔がたりを曽木の滝 水のしぶきにぬれつつぞ聞く」
この歌の歌碑が曾木の滝にあります。)
そして、曽木の滝にはもう一人戦国の人の話があります。

薩摩のスナイパー2・押川強兵衛
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/7784-f34d239e

押川強兵衛は少年時代、曽木の滝で水練をし体を鍛えていました。
ある日、泳ぎ疲れた強兵衛が、(滝の下の河の中にある)岩の上で
昼寝をしていたら猟師が強兵衛を河童と間違え鉄砲を向けたことが
ありました。そのことからその岩は「カッパ石」と名付けられました。
また滝の左岸には、強兵衛が並べたとされる同じ形の4つの屋形の
巨岩がみられ、「力石」と呼ばれています。
(「カッパ石」と「力石」の場所は忠元が秀吉を滝壺に突き落とそう
 とした「観音渕」の付近です)
参考 曽木の滝周辺資源カード4



891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/07(日) 10:07:27.28 ID:DFE7lzNk
ザビエルハゲの少年だったのか?

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/07(日) 16:38:36.99 ID:ecbDPL9G
>>891
意味は分かるんだが
せめてトンスラと言ってやりなよw

893 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/07(日) 21:57:40.48 ID:RARX4r5x
「カッパ石」と「力石」の場所は、曽木の滝周辺マップを
見ると滝壺のすぐ近くなので普通の人は泳げない所だから
河童と間違えられたのかも。

新納忠元・愛刀の行方

2013年01月20日 19:03

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 19:51:24.80 ID:awcIxwbk
>>74
蛇足ですが、こちらの後日談を。

新納忠元・愛刀の行方

天保の世になっても新納忠元を慕う者は多く、地元大口の郷士たちは連判で廟社建立の請願書を提出した。
御納戸奉行の海老原壮之丞は直ちに藩主の島津斉興公へ取次いだ。
この時の薩摩藩は莫大な財政赤字を解消するため藩政改革に追われていたが、藩主はこれを認められ
遠く京へ霊神霊社号免許を提出し、許可を受けた。天保14年のことである。

天保15年に工事は落成し、安政六年に明神の宣下があり、同年更に大明神への昇格が行われた。
かくて新納忠元は忠元神社の祭神となり、臨終の床で念を込められた愛刀も宝物として奉納されたのである。

それから時は流れ……薩摩は再び戦火に包まれた。
最後の武士の反乱、西南戦争である。

薩軍による熊本城の攻略は難航し、大将の西郷隆盛は「まるで清正公を相手に戦っているようだ」との
言葉を残し転進を決意した。
官軍は薩軍を追って陸路から海路から侵攻し、薩摩の至る所で大小幾多の戦いが行われた。
それは大口も例外でなかったのである。
追う官軍、逃げ惑う住民、その流れに逆らって歩みをすすめる男がいた。
年は三十手前、身の丈6尺(180㎝)余り、雷撃隊隊長の肩書きを持つその男は弾丸の雨の中、
忠元神社へ向かった。
(続く)

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 19:54:13.14 ID:awcIxwbk
(続き)
「薩軍の幹部が忠元神社へ逃げ込んだ」との知らせを受けた官軍により神社は直ちに包囲されたが
「名臣、忠元公を祀る神社を戦火に攻め込むのは…」と躊躇する意見がないではなかった。
(官軍にも薩摩出身のものは多く、参軍の黒田清隆からして薩摩の下級武士だったのである)
結局出入り口を固めて待ち構えていたところ、果たして先に神社に入った男が出てきた。
身には三尺八寸の大太刀を帯びている。

「肥薩の境犯さるることなかれ」古の名将が念を込めたその刀を抜き放つや、男は群がる官軍に
身を躍らせて縦横無尽に切りまくった。
男は残り少なくなった味方を糾合し、官軍への反撃を再開した。「第二の田原坂」と呼ばれるほどの
激戦だったという。

だが圧倒的な兵力差はどうにもならず、最初こそ馬上で颯爽と指揮をとっていた男も、大口から高原、
高崎へ撤退するときには
「わいら、逃ぐっは斬っど(お前たち、逃げる奴は切り捨てるぞ!)」と味方の尻を追いまくらねば
ならぬほど惨めな敗走をすることになった。
昭和の初期は西南戦争を経験した古老も多く、この狂気混じりの叱咤を「十郎太さまの激は
敵よりおじかった(恐かった)」との証言も残っている。

大口を退いた後の雷撃隊隊長、辺見十郎太の最期は諸説あってはっきりしない。
西郷隆盛の自刃を見届けた後に別府晋介と刺し違えて死んだとも、大勢の官軍を相手に
壮絶な戦死を遂げたとも伝えられる。
いずれにせよ確かなのは新納忠元の死から260年以上の時を経て、その愛刀が再び振るわれたことである。

薩摩で迎える武士の世の終焉と、そこで振るわれる我が愛刀をかつての持ち主は
どのような思いで眺めていたであろうか。

関連
新納忠元の最期
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7200.html



144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 20:00:46.30 ID:6uk7Eu0W
薩摩は自国の忠臣を祀る神社の宝物まで略奪したのか…

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 21:15:19.33 ID:ywEeCPqH
>>144
アホか貴様は

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 00:14:53.23 ID:FH9nC42R
そこまでして己を鼓舞するとは、さすがスーパー薩摩人の末裔

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 10:41:53.14 ID:CVoW2nGh
>>144
ちゃんとお借りしたんじゃないの?
返せてないみたいだけど

新納忠元の最期

2013年01月13日 19:25

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 19:26:13.97 ID:bCcU/3o7
新納忠元は島津忠良を烏帽子親として元服して以降50年余りの歳月を陣中で過ごしてきたが、
晩年は寄る年波に勝てず床に伏せる日々が続いたという。

その衰弱振りたるや、「(掛け)布団が(体に架かって)苦しい」と訴えるなど、かつての雄姿からは想像も出来ぬほどであった。
家の者は敷き布団の四隅に低く切った柱を置き、その上に掛け布団を被せて忠元の体に布団が直接掛からないように気遣ったが、快癒の兆しは一向に見られなかった。

忠元には二人の息子がいたがいずれにも先立たれていた。
特に次男の忠増を関ヶ原の後に失ったことはよほど応えたらしく、忠増の忘れ形見である幼い忠清の将来を思いやって
懊悩する日々であった(長男の忠堯は子を残さぬまま、龍造寺との合戦で戦死)。

時の島津家当主である忠恒はこれを気の毒に思い、使者を遣わして忠清に大口地頭の地位を約束した。
主君の気遣いに忠元は涙を流して喜んだが、「畏れ多いことながら」と謝絶した。使者が帰った後、孫を枕元に呼んで曰わく、
「お殿様は忝くも、お前にこの爺と同じ地位を約束してくれた。
 じゃがそれは爺の方からお断り申し上げた。大口地頭は肥後からの守りを担う重要なお役目じゃ。
 才覚も定かでない幼い者がそのような重要な立場にあって、主家が安泰を得た例は古今東西無きに等しい。
 研鑽と鍛錬を怠らなければ、いずれお殿様はお前にふさわしいお役目を与えてくれよう。」
と不相応な地位を望まぬよう諭した。そして
「爺のようにただ強ければよい、戦に勝てばよい、という時代は終わった。
 これからはよく主を支え、時に諫め、外にあっては上方の者に侮られぬよう教養を身に付け、
 駆け引きにおいても遅れをとらぬようにせねばならんぞ」
と付け加えた。

忠元の体調はその後も回復せず、義久、義弘、忠恒ら歴代島津家当主の祈りも虚しく悪化の一途を辿った。
いよいよ死期を悟った忠元は呻き声を出して忠増の妻を呼んだ
(衰弱が進んだ忠元の言葉を聞き分けられるのは、身の回りを世話していた彼女だけだったという)

(続く)

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 19:29:00.82 ID:bCcU/3o7
(続き)
彼女によって家中の者が集められ、忠元の言葉が伝えられた。
「儂の身体を国分の方へ向けよ」
国分は先々代の当主、義久の居城である。おそらくは最後の暇乞いをなされるのであろう……
主人の覚悟を察した一同は、出入りの大工に命じて大きな木の板を設えた。

忠元の体を敷き布団ごと板の上に乗せて身体を国分の方角へ向かせると
「お義父上様、国分でございますよ」忠増の妻の言葉が聞こえたか、布団のなかで姿勢を正した。
心中で別れを告げたか、次は義弘の居城の加治木、その次は忠恒の鹿児島へと向きを変えさせた。

そして最期に「肥後へ向けよ」と命じた。

名将にして難敵、加藤清正の治める地である。
長年振るってきた愛刀を持って来させると、死期を迎えた老人とは思えぬ力強さで刀を握り、眼前に構えた。
刀とその先にある肥後を睨みつける眼光に周りは昔日の鬼武蔵を見る思いだったが、それも長く続かず、
刀を戻すと疲れきったていで忠元は布団ごと床にもどされた。
暫くして意識を取り戻し、「儂の念を刀に込めておいた。されば肥薩の境が侵されることは当面あるまい」
言い終わると眠るように目を閉じた。

忠元の死後は多数の殉死者がでることと想われたが、家人の長老格であった伊地知清人と宮内九兵衛が先手を打って
「我々二人がお供をするゆえ、決してあと追わぬように」と切腹して果てたため以降の殉死者は出なかったが、
自らの指を切って殉死の代わりとしたものが後を絶たなかった。
その遺骸は大口天龍寺にて火葬に付し、霊屋を祥雲寺に建ててその中に夫人の碑と並べて安置した。
法名を耆翁良英庵主。

忠元が死の床にあってなお警戒し続けた加藤清正は忠元と同じ年にこの世を去り、
後を子の忠広が継いだが家臣団を統御しきれず改易。肥後は加藤家に変わって細川家が入ることになった。

忠元が最後に語ったとおり、加藤家によって肥薩の国境が侵されることはついになかったのである。





78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 21:01:59.98 ID:j16t8+VK
悪家久さん、嫁さんもそれ位気遣ってあげて下さい

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 23:40:02.42 ID:E1Pp/HP8
こういう名将の最期は悲しさよりも寂しさの方が先に立つな…
なのにどうしても悪久の名前に目が行ってしまう

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/13(日) 16:02:52.18 ID:32Y53pFv
>>79
デ新納さんほどの人物が「武辺の時代は終わった」と言うと
ほんとに戦国の終わりを実感させるよなぁ

やはり新納武蔵の武勇、比類無し

2012年08月19日 21:10

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 14:46:29.19 ID:c07NlFBC
ある時、薩摩島津軍が山越えをして敵城を目指すことがあった。いつ敵に見つかるか分からぬ土地で、
深く険しい山坂、道無き道を進むうち、さしもの薩摩隼人たちも音を上げた。

「い、いやぁ、しかしノドが渇くこと、ノドが渇くこと!」
「そうじゃのう・・ん?“のどの渇ける、の、ど、の、か、わ、け、る”・・・・・・
どうじゃ武蔵どの!歌数寄で知られた貴殿のこと、このような時でも上の句など付けられるかのう?」

危険な行軍のストレスを逸らすための座興か、イライラがつのっての無茶振りと言ったところだが、
お題を振られた新納武蔵守忠元は、すぐに上の句を詠んでみせた。

「 “中つかふ 女の足の ながければ” 」
「「おお!流石は武蔵どの!!」」

常と変わらぬ忠元に、島津家中は「やはり新納武蔵の武勇、比類無し」と賞賛した。(薩藩旧伝集より)


“中使ふ 女の足の 長ければ のどの渇ける のどの渇ける”

敵地を行軍中に
「 ウチのメイドさんの脚(;´Д`)ハァハァ 」(超意訳)とか言っちゃう親指武蔵マジリスペクト




128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 16:30:20.97 ID:lme70Y/G
武勇?

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 17:15:41.73 ID:nopW7FZ1
首取るだけが武勇じゃない
それで難行軍の士気が上がれば立派な武勇


130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 17:16:12.40 ID:M1oEUGj7
武勇っつーか戦場行くのに下ネタ(?)かましてる南の鬼武蔵は度胸のある勇者だって話だろ

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 18:26:32.00 ID:BwQaCWrc
武勇だけじゃなくて教養もあるからなあ、親指武蔵は
・・・幽斎さまだったらどんな句になるんだろう?

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 19:12:02.58 ID:wK/xOXfA
幽斎様といい、この手の古典落語の「青菜」みたいな話多いなぁ

まぁ俺は冴えた句を詠む数寄者ではなく冷えた柳陰を飲む方が好きな者だが

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 19:23:42.88 ID:Hb6qklkd
そういえば「生ツバごっくん」ってフレーズ、最近みないね

島津忠良はあるとき、幼年のものを集めた

2011年10月09日 22:14

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 21:16:06.25 ID:wkLG33LJ
島津忠良あるとき、家臣の子弟、特に幼年のものを集めた。
いずれ年端も行かぬ子供たち。だが数十年後には家中の柱石として、自分の子や孫を
支えてもらわねばならない立場である。

子供達の利発さを確かめようという意図でもあったのであろうか。全員に数珠を手渡すと
「その手にある数珠の玉は幾つあるか数えてみなさい。早く数え終わったものから順に褒美を上げよう」
餅の袋を見せてそう言ったのである。

数珠の玉の数は108個と相場が決まっている。だがそのことを知らない子供たちは必死に数え始めた。
そんな中、終始身じろぎもせずじっと数珠を見つめる子供がいた。何をしたらいいのかわからない、という
風でもなさそうである
「はて、変わった子だの」忠良はその子が気になったが、他の子供たちから「大殿様!数え終わりもした!」と
報告を受けてる間に彼のことを忘れてしまった

さて、散会となったあと忠良は先ほどの子供だけ呼び戻して尋ねた。
「お前は最後まで数珠の玉を数えようとしてなかったな。あれは何故じゃ?」
「数珠の数は108と決まっております。それ故わたしは数えなかったのでございます」
「ふうむ、それならそれで数えるフリだけでもして折ればよいではないか。先駆けて褒美を得ること、思いの
ままであろうに」
「仰る通りではございますが、それではズルになってしまいます。わたしはずるをしてまで
褒美を得たいとは思わなかったのでございます」
ここまで聞いて忠良はその子を返したが、何か思うことがあったらしい

後年元服を終えた少年は忠良に目通りし、その日から忠良、貴久、義久、義弘、忠恒の五代にわたって
島津家にその生涯をささげることになる。

後の親指武蔵こと新納忠元である




13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 21:22:51.15 ID:q5CH5Q/S
栴檀は双葉より芳し

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 23:32:13.35 ID:FDubvkxO
>>11
昔、鹿児島に住んでたときに仕事先のおいちゃんから
「1番偉い薩摩隼人は困難に挑戦して成功したもの、2番目に偉いのは困難に挑戦して失敗したもの」
ってよく聞かされた。デ新納さん挑戦すらしてないやんか。

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 23:34:27.96 ID:TMuSvb5G
周りがそんな薩摩隼人ばっかだから
デニーロみたいな人材が必要なんだろ……

親指武蔵の作業を邪魔してはイケナイ

2011年07月06日 23:11

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 23:43:07.03 ID:/Wg21lRH
島津氏が薩摩・大隅・日向三州統一に向けて諸大名と対峙していたころ、新納武蔵守忠元は
菱刈氏攻略を命じられ、薩摩大口の地頭として赴任した。

菱刈氏との戦に向かう前、忠元は戦勝祈願のため、薬師堂に参詣した。ところが、
「ご、ご注進!相良頼房(義陽)が、こちらに攻めてまいります!」

「なんじゃと!?菱刈と相良が、示し合わせておったか!」
「ここは仏閣、しかも我らは祈願祭事の最中だぞ?相良め、卑怯な!」
「ともかく、忠元どのにお知らせせよ。」

そのころ忠元は、薬師堂の窓のさんに登り、壁の上の方に祈願書など書きつけていた。
「忠元どの、一大事じゃ!相良が寄せて来る。早う出て指揮してくだされ!」
「・・・・・・」「どうした忠元どの!相良の奇襲じゃ、事は一刻を争うぞ!?」
「・・・・・・」「た、忠元どの?」
「・・・・・・これ書き終わったら本気出す。」

“是非無く、忠元を(窓から)引落とし候由”(薩藩旧伝集)


島津軍が出た時には、相良軍は薬師堂の前に陣を構えており、一人の武者が飛び出してきた。
「我こそは八代の住人、的場五藤!いざ尋常に「やかましか!」「ぶべらっ!!」

的場を倒した忠元は、相良陣に矢文を射掛けた。矢文には和歌が一首書かれていた。

“無用かな 人の弓矢に より房の 首をごう木に 下がらして(相良して)見む”

「ひーっ!鬼武蔵がブチ切れた―――――っ!!」
忠元の剣幕に恐れをなした相良軍は、早々に陣を引き払った。

教訓:親指武蔵の作業を邪魔してはイケナイという、久々に南の武蔵さんが鬼(?)な話。





“♪鹿児島の館 快い館 お盃賜る 琉球で語ろ・・・”

2011年02月16日 00:01

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 10:25:08 ID:CZFhRDCk
語り継ぐ

「さんさいさま、さんさいさま!おうたをうたってくださいな。」
「おう、よしよし!さて、何の唄が良いかな?」

養女のお三にせがまれた三斎こと細川忠興は、快く求めに応じた。
「いつもの、さつまのうたがききたいです!」
「いいともいいとも。この唄はな、わしの古い友達に教えてもらった唄なのだよ・・・」



http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4768.htmlの後、
細川忠興は上洛して来た島津家一行の中に、新納忠元の姿を認めた。

「忠元殿、いつぞやは。」
「これは忠興殿!・・・・・・そうでしたか、あの旗印は、幽斎殿のものではなく、忠興殿でしたか。
小牧の戦いで、徳川軍相手に水際立った殿軍ぶりを見せたという勇士に、無粋な物言いをしてしまいました。」

恐縮する忠元に、忠興は素直な感謝の気持ちを述べ、以後二人は互いに宴会等に招きあう昵懇の仲となった。



“♪鹿児島の館 快い館 お盃賜る 琉球で語ろ・・・”

琉球の使節が薩摩での歓待ぶりを本国でも語ろうという筋の隆達節は、ある席で忠元が唄ったものだという。
のちに忠興の孫・細川立孝の正室となったお三(源立院)は養父の面影を懐かしみ、この隆達節と
それにまつわる話を、家臣たちに語った。

お三の語りは家臣たちによって「細川家記」に収録され、忠興と忠元の交誼を現代に伝えている。




新納忠元と島津義弘、ちょっとお行儀の悪い話。

2010年12月28日 00:00

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/26(日) 22:02:26 ID:gh/nWc7l
ちょっとお行儀の悪い話。

新納忠元島津義弘に茶を進上したときのこと、
柄にもなく緊張したのであろうか、落ち着きを欠いた進退を見せてしまった。
この事を義弘に見咎められると忠元、
「戦場ではこのような無作法、決して致さぬのですが・・・」
とらしくない言い訳をした。
これを聞いた義弘、
「おお、そうだそうだ。茶道の作法とはまことにやかましき物よ」
と膝を打って笑い、その後は二人して姿勢を崩してお茶をがぶがぶ飲んだとのこと。

島津義弘新納忠元、文武両道の誉れ高い名将であるが
実は堅苦しいことは二人とも苦手だったらしい。

まとめサイトの管理人さん曰く
>島津家において新納忠元さんのポジションというのは非常に特別ですね。これは後世においてもそうで、
>島津家中における君主の理想像が島津義弘なら、家臣の理想像は新納忠元さんとされていた節があります。
( http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4986.html )

とあるが、こういったおおらかな君臣関係も
義弘と忠元が理想の君臣とされた理由のひとつかもしれない。




171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/27(月) 00:09:29 ID:yUTmSb2G
(´・ω・`)「理想の主君とはまさしく僕のことだね」

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/27(月) 07:05:19 ID:hM+h53Fr
>>171
あんた誰だよ

『 難波の霞 』

2010年12月20日 00:01

877 名前:1/2[sage] 投稿日:2010/12/19(日) 17:08:55 ID:5KSHtmH+
薩摩島津家が天皇のもとに参内することになった前日、宮中から箱が送られてきた。箱の中には、

『 難波の霞 』と書かれた紙切れが入っているだけだった。

「これは、何のことじゃ?」
島津家の重臣達がいくら頭をひねって考え抜いても、何の意味があるのか、さっぱり分からない。

「まずい。これでは明日、義久様に恥を掻かせてしまう!」
「だが、どうすれば・・・」

「おや、何の騒ぎですかな?」
「おお武蔵どの!良いところに来てくれた!実は、こんなものが宮中より届いたのですが・・・」
重臣達は最後の頼みの綱、通りかかった新納武蔵守忠元にすがりついた。


「ああ、こりゃ和歌の定番ネタのことじゃな。」忠元は、あっさり謎を解いた。

“難波潟 刈りふく蘆の 八重霞 ひまこそなけれ 春のあけぼの”(二条為氏・新後撰集)

「難波の入り江には蘆が生い茂り、それを覆い隠すように霞が立ち込める、というのが定番の情景でな。
つまり『難波の霞』が隠すのは『あし』、『あし』を隠すのは履き物。
すなわち、宮中に特有の履き物である木靴・革靴を改めて参れ、という謎かけじゃよ。」

「「「おおお!さすがは武蔵どの!!」」」


新納忠元が謎を解いた」という噂はたちまち宮中に伝わり、公家衆はその姿を見んと宮中で待ち受けた。

878 名前:2/2[sage] 投稿日:2010/12/19(日) 17:09:44 ID:5KSHtmH+
参内当日、島津義久に随行した忠元を、公家衆は奇異の目で見つめた。

(あれが名高い新納武蔵守かいな)(武名高く教養深いと評判の武蔵守が、こんな小さいお人とは)
(しかし、ほんにえらいおチビさんどすなあ)(あれで有名だから、むしろ大したモンやホホホ・・・)

「・・・・・・!!」「忠元。」
「・・・わかって、おります。」義久に暗に釘を刺された忠元は、暴れ出したい衝動を必死で抑えた。

無事、参内を遂げた島津家一行に、天皇は親しく声をかけた。

「さて、薩摩は遠国だ。何ぞ上方と変わっている、珍しき事はないか?武蔵守よ、どうだ?」
「そうですな、薩摩では跳び方が面白いと、良く蛙を棒で突っつくのが上方と変わっておりまする。」
「か、蛙?!」
「ええ、あのゲコゲコ鳴く蛙です。都にも蛙が多いようで、楽しみな限りにござる。ハハハ・・・」
忠元は、天皇の左右に控える百官を見渡して笑った。
「さ、左様か。それは面白い事を聞いた。島津家の者ども、今日は下がって良いぞ。」


島津家一行が退出した後、公家衆は忠元を嘲笑った。
「聞くと違って、何や阿呆なこと言うお人でしたなあ。」「ほんに・・・ホホホ・・・・・・」

「阿呆は卿達だ。」

「な、何を申されます主上!」「・・・『井蛙』という言葉を知っているか?」
「『大海を知らず』、という話でおじゃりますか?」

“井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏虫不可以語於氷者、篤於時也。”(荘子)

「和歌の知識という井戸に篭もる都の蛙を、薩摩者が漢籍という棒で突ついた、という訳だ。
分かったか。以後、田舎者とて武家を嘲笑うこと、まかりならぬ。これ以上、朕に恥を掻かせるな。」

天皇の静かな怒りに、公家衆は一言も返せず、うなだれるばかりだった。




879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/19(日) 17:37:21 ID:uElzWMr0
新納さんかっこいいー!
そして公卿ざまぁw
こーいうスカッとする話良いな

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/19(日) 21:11:56 ID:m+4oBwsY
>>877-878
この切り返しはかっこいいな。
まーくんの逸話にしてもそうだが、自分もイヤミに対してさらっと皮肉で返せるだけの
教養を身に着けたいと思うわ。
[ 続きを読む ]

新納忠元、敵に米を

2010年10月24日 00:00

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 23:10:39 ID:OmUoIH4p
豊臣秀吉による九州征伐の時のことである。
細川忠興と蒲生氏郷の軍は、新納忠元の籠る大隅大口城を攻めていた。

ところでこの九州征伐、兵糧不足の話がそこらかしこに出てくるのだが、この大口城攻めも例外ではなく、
攻め手の豊臣軍は甚だしい兵糧不足に陥り、細川忠興すら一両日にわたって食事を取らず
なんとか凌ぐ、ということすらあったそうだ。

そんな時、大口城より一人の若党が下人たちに米俵を担がせ川を渡り、
忠興の陣の前まで来ると、このように大声を発した

「その筋違いの幟、長岡幽斎殿家中の陣と存ずる。
城主新納忠元よりの口上をお伝え申す!

さて、戦は兵糧のことを先ず第一にするものだと存じておりますが、
このたび、秀吉公においては兵糧がご不足の様子。誠に笑止なことでござる。

ところで長岡幽斎殿はわが主君、島津義久とかねてから殊の外懇意な間柄でござった。
その縁により、はばかりながらこの米をそちらにさし上げんと存ずる!」

なんと、半ば飢餓状態の忠興の軍に、敵である新納忠元が米を分け与えるというのだ。
嘲笑であると取るべきか、親指武蔵の剛毅さと見るべきか。
忠興はこれに大いに驚いたが

「我が軍に兵糧は潤沢にあり、そのような物は必要ない!」

と、強がりを言いこれを拒否した。


後年、忠興はこの時の事について、こんな述懐を漏らしたそうだ

「あの時は本当に苦しかった。新納忠元の申し出を聞いたときには感動のあまり、
つい米を受け取りそうになったものだ。」


新納忠元、敵に塩ならぬ敵に米を贈る。と言うお話




851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 23:44:52 ID:eVZMlN8V
流石「じゃないほう」の鬼武蔵さんやで

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 23:57:02 ID:V4VGphNs
忠興、誘惑に打ち勝ったいい話

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 00:14:56 ID:pEYVtP/P
食欲に誇りが勝った面子守ったいい話だな
信長も言っていたな、飯がなくても誇りがあれば人は生きていけるって、ドリフターズで

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 00:22:22 ID:W/DO6eWo
幽斎さんなら上手い事言ってもらっちまうんだろうなぁ~

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 01:10:51 ID:5PnQkWT9
幽斎にも送ってたりする→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2996.html
デニーロはやっぱかっこええな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 01:14:28 ID:cOudrbBa
幽斎さんなら名刀とか古筆を贈り返すんだろうなぁ。

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 07:28:34 ID:itB0OKdp
>>853
兵糧に毒盛ってあったら全員毒死の悪い話になってたな

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 09:17:48 ID:W/DO6eWo
幽斎さん、お米はきっちりいただいんだね^^
でも、武蔵さんも幽斎さんもかっけーなー



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 12:44:31 ID:6xFGWZcs
兵站の基本がなってないってどういうことなの……

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 13:07:28 ID:1REFYu5h
>>860
日本の伝統だろw

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 13:15:10 ID:hHQ2OI/L
>>860
織田系の兵站の基本って、合戦のある周辺で商人や農民から米穀を銭で買取り
それを兵站拠点に集積させ活用する、ということだったらしいのね。

で、これは畿内やその周辺といった、生産力が旺盛で余剰米も多く、また貨幣経済も
盛んだった地域では通用したのだけど、九州征伐の時の九州はちょうどひどい不作
だったこともあって、この「織田方式」が通用しなかったっぽいのね。

で、米のある地域から運ぼうとしても、このころは未だ「長距離の輸送力」という意味では
秀吉の軍も貧弱で、効率的な運搬が実現できず自軍の兵を多く飢えさせた、という状況
だった模様。

小田原の陣の時予め米雑穀20万石を集めておいたというのは。この九州征伐の時の
反省からだろうね。

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 13:47:14 ID:lM6oRg+8
九州征伐の際、兵庫尼崎では約三十万人分の兵糧、二万匹の馬の飼料など一年分を集め
輸送にあたったんだが、その膨大な物資輸送の様子を見て細川幽斎が一句

「米舟は国々よるも著きにけり あけても積まん倉なしの浜」

兵糧調達、供給もすごい一大事業だったようで
それでも足りなかったんだなぁ

ちなみにこの時の兵站奉行、ご存知石田三成、大谷吉継、そして長束正家
いつものメンツなら長束でなく増田長盛がいる所なんだが、
算術能力に優れていたという長束を起用してる所が、やっぱ大変な事業だったんだろうと思った

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 14:00:24 ID:JI91N8BU
>>850

太閤さんも賤ヶ岳で猛暑でダレてる兵達のために
近隣の村々から笠を買い集め敵方にも配ったという話があったね

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 14:56:37 ID:769u16WF
新納さん、やるじゃんwww
流石、島津の重臣

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 15:01:11 ID:HF5WshSf
>>853
可愛いよ三斎さんw
デニーロは普通に漢、カッコいい。

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 16:08:03 ID:JkzDgxmY
そもそも戦国時代は自弁です
部隊によって兵糧に差があるのは当たり前

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 16:09:13 ID:JkzDgxmY
>>861
WWⅡでは、各国とも兵站はボロボロだぞ
色んな国で色んな笑い話が残ってる

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 16:11:42 ID:J/g+UlTw
ナポレオン時代のフランス軍とかもひどいよな。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 16:24:27 ID:G8uXonYt
>各国とも
程度がおおきく違うのに各国ともとひとくくりにしちゃうのはなんかちがうとおもうぞなもし

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 17:06:03 ID:35tlXNap
兵站を円滑に行うのはいつの時代だって平坦な道じゃないさ

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 17:09:51 ID:JkzDgxmY
>>870
場所や条件が同じ軍などこの世に二つとないんだから
比べようがあるめぇ

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 18:24:12 ID:iBZGMFqm
>>871 を凍蚓様付きのお伽衆に取り立てようぞ

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 19:23:24 ID:UX6ueWrd
兵站を
担当すべく
兵隊が
平坦な道を
兵站担ぎ

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 19:30:42 ID:HnL/Yjs6
>>874 を武蔵守様付きのお伽衆に取り立てようぞ

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 21:10:29 ID:UtllSkfi
>>868
ところで水はありませんかね、パスタを茹でたいのだが



後日談
“♪鹿児島の館 快い館 お盃賜る 琉球で語ろ・・・”
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5141.html