119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/04(木) 19:04:58.26 ID:5XO+gxv1
「新羅之記録」から蠣崎良広、蠣崎季広について
(それぞれ悪い話といい話だけど同じスレに書く)
蠣崎良広(光広の子)
享禄二年(1529年)三月二十六日、狄が和喜之館を攻めてきたため、良広は和睦をすると言って多くの財物を館から離れた平地に置いた。
狄の酋長・多那嶮(タナサガシ)が財物を受け取ろうとしたところ、矢倉から放たれた矢が百余間超えて酋長の胸板に命中し絶命。
これを見た数百の狄が逃げ出したため、館から打って出、悉く討ち取った。
この前後、夜間の風雨に紛れて狄忍が館をうかがうことが数度あったが、
そのたび良広は柵越しに怪しいところを槍で突いたり、足音が聞こえる方角を射たりした。
どちらも翌朝その辺りを探ってみると、絶命している狄忍が見つかった。
天文五年(1536年)六月二十三日、多離困那(タリコナ)という狄と和睦し、得意(アイヌ語でもtokuy=親友、日本語由来)となり酒でもてなした。
酒が回ったところでタリコナ夫妻を一太刀で斬殺した。
妻の方は先に討った酋長・タナサガシの娘であり、父の仇討ちのために数年経略を巡らせていたからである。
これにより国内の東西は安全となった。
120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/04(木) 19:06:28.50 ID:5XO+gxv1
蠣崎季広(良広の子)
夷狄が喜ぶ宝物を与え、懇切に喜ばせたため夷狄から神位得意(カムイ・トクイ)と呼ばれ敬慕され、国内はおさまった。
天文十九年(1550年)六月二十三日、檜山の屋形・安東尋季の嫡男である安東舜季がこの国を見ようといらっしゃった。
いわゆる「東公の島渡り」である。
この時、舜季の二男の茂季や、津軽の喜庭伊勢守秀信(小笠原信浄?)との縁組みがなされた。
こうして近国に威勢が振るい、遠国にまで家名が知れ渡った。
また勢田内(セタナイ)の波志多犬(ハシタイヌ)を西夷の尹(統治者)、志利内(シリナイ)の知蒋多犬(チコモタイヌ)を東夷の尹となし、
「夷狄の商舶往還の法度」を定め、船舶での利益を両酋長に配分することにした。
なお光広によるショヤ・コウジ討伐の際の夷塚だが、季広の代になって鳴動することは無くなった。
(光広のところの記事だがわかりやすくするためにこちらで記載)
121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/04(木) 19:13:03.07 ID:5XO+gxv1
以下私見
wikiだと「新羅之記録」出典で安東舜季が「夷狄の商舶往還の法度」の立ち会いをしたことになってるようだけど、少なくともこの箇所では不明。
祖父の光広や父親の良広のやり口を考えたら、蠣崎氏の主君である安東氏の人間が立ち会わないとアイヌも信用しなかったのかもしれない。
ついでに「新羅之記録」では蠣崎氏はもちろん神武天皇→清和天皇→新羅三郎義光→武田氏の流れであり、
安東氏は神武天皇に敵対した安日長髄(長髄彦、安日は長髄彦の弟という説もあるが本書では同一人物としている)の子孫とされている。
安東氏が蠣崎氏のアイヌへのたびかさなる騙し討ちを見て、
宴会の最中に土蜘蛛を騙し討ちにした神武天皇のことを思ったかどうかは知らない。
現在だと「古事記」といい「新羅之記録」といいわざわざ家名に傷つくことを遺さなくても、と思うが
「新羅之記録」から蠣崎良広、蠣崎季広について
(それぞれ悪い話といい話だけど同じスレに書く)
蠣崎良広(光広の子)
享禄二年(1529年)三月二十六日、狄が和喜之館を攻めてきたため、良広は和睦をすると言って多くの財物を館から離れた平地に置いた。
狄の酋長・多那嶮(タナサガシ)が財物を受け取ろうとしたところ、矢倉から放たれた矢が百余間超えて酋長の胸板に命中し絶命。
これを見た数百の狄が逃げ出したため、館から打って出、悉く討ち取った。
この前後、夜間の風雨に紛れて狄忍が館をうかがうことが数度あったが、
そのたび良広は柵越しに怪しいところを槍で突いたり、足音が聞こえる方角を射たりした。
どちらも翌朝その辺りを探ってみると、絶命している狄忍が見つかった。
天文五年(1536年)六月二十三日、多離困那(タリコナ)という狄と和睦し、得意(アイヌ語でもtokuy=親友、日本語由来)となり酒でもてなした。
酒が回ったところでタリコナ夫妻を一太刀で斬殺した。
妻の方は先に討った酋長・タナサガシの娘であり、父の仇討ちのために数年経略を巡らせていたからである。
これにより国内の東西は安全となった。
120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/04(木) 19:06:28.50 ID:5XO+gxv1
蠣崎季広(良広の子)
夷狄が喜ぶ宝物を与え、懇切に喜ばせたため夷狄から神位得意(カムイ・トクイ)と呼ばれ敬慕され、国内はおさまった。
天文十九年(1550年)六月二十三日、檜山の屋形・安東尋季の嫡男である安東舜季がこの国を見ようといらっしゃった。
いわゆる「東公の島渡り」である。
この時、舜季の二男の茂季や、津軽の喜庭伊勢守秀信(小笠原信浄?)との縁組みがなされた。
こうして近国に威勢が振るい、遠国にまで家名が知れ渡った。
また勢田内(セタナイ)の波志多犬(ハシタイヌ)を西夷の尹(統治者)、志利内(シリナイ)の知蒋多犬(チコモタイヌ)を東夷の尹となし、
「夷狄の商舶往還の法度」を定め、船舶での利益を両酋長に配分することにした。
なお光広によるショヤ・コウジ討伐の際の夷塚だが、季広の代になって鳴動することは無くなった。
(光広のところの記事だがわかりやすくするためにこちらで記載)
121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/04(木) 19:13:03.07 ID:5XO+gxv1
以下私見
wikiだと「新羅之記録」出典で安東舜季が「夷狄の商舶往還の法度」の立ち会いをしたことになってるようだけど、少なくともこの箇所では不明。
祖父の光広や父親の良広のやり口を考えたら、蠣崎氏の主君である安東氏の人間が立ち会わないとアイヌも信用しなかったのかもしれない。
ついでに「新羅之記録」では蠣崎氏はもちろん神武天皇→清和天皇→新羅三郎義光→武田氏の流れであり、
安東氏は神武天皇に敵対した安日長髄(長髄彦、安日は長髄彦の弟という説もあるが本書では同一人物としている)の子孫とされている。
安東氏が蠣崎氏のアイヌへのたびかさなる騙し討ちを見て、
宴会の最中に土蜘蛛を騙し討ちにした神武天皇のことを思ったかどうかは知らない。
現在だと「古事記」といい「新羅之記録」といいわざわざ家名に傷つくことを遺さなくても、と思うが
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