一栗高春の乱

2014年08月22日 13:49

983 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:27:11.06 ID:k/wP8bZN
一栗高春の乱

慶長19(1614)年に最上義光が没すると、江戸で徳川秀忠の近習をしていた最上家親が帰国しその遺領を継いだが、国元から長く離れていたために在国の重臣らとは意思の疎通が噛み合わない部分が少なからずあった

鶴ヶ岡城の侍大将であった一栗高春も家親とは馬が合わず、酒田を治める亀ヶ崎城の志村光惟(志村光安の息子)を訪ね
「家親様よりは舎弟の清水義親さまの方が我らが最上家の当主として押しいただくべき方ではなかろうか?」と腹の内を打ち明けたが
光惟は高春に「徳川の治世が定まった今、徳川家に覚えめでたき家親さまをこのままみなで支えていくべきでしょう」と諌めた

しかし日がな家親の政事は義光のやり方に倣わぬ部分があり、些細な事で処罰をされる郎党が増えるに至り
大事を光惟に漏らした高春は「家親の耳に反意が入れば、わしとてただでは済まぬだろう」と危惧を強めた

同年6月、故・最上義光の弟である楯岡光直が内陸から庄内に来るのに合わせ、宴の企画がなされた

高春は寶客警護と称して武装させた兵を鶴ヶ岡城に数十人配し、宴もたけなわの時を見計らい
「かねて諸将にお話いたしました清水義親さまを仰ぐ儀のご返事を、この場で改めて頂戴できませぬでしょうか」と申し出た

志村光惟「楯岡光直さまも見えられてるのに、そちはまだその様な事を言うのか?」
下秀実(下吉忠の息子。吉忠の隠居により跡を継ぎ尾浦城主)「宴の席で切り出す話でなかろう」

高春「同心頂けぬのであれば御免!」

光惟と秀実が高春によって斬られた

(つづく)

984 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:28:24.50 ID:k/wP8bZN
(つづき)

新関久正「兵部(高春)!貴様乱心したか!?」

高春「新関さまこそかねては親身に話を聞いてくだされたのは偽りでござれたか?」

久正「多少の蟠(わだかま)りがないとは言えないまでも、そちのやっている事は謀叛でしかないわ!」

この一喝で鶴ヶ岡城にいた侍たちがすわ大事(事件)かとわらわらと集まって来た

高春はどうにか城外に逃れたが、追っ手は増すばかり

添川の淵に達した所で天命を悟った高春は自刃して果てた

高春に最期まで従った者は40名ほどであったという

この乱により清水義親を最上家の当主に擁立しようと考える家臣の存在を知った最上家親は
大阪の豊臣征伐を控える大変な時期に少しでも後顧の憂いを減らそうと
清水城攻撃を発令した





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