624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/15(月) 14:43:03.76 ID:dvp4Eblt
(徳川家康の側室である)小督局、名は於万の方。永見志摩守貞英の娘にて、第二の御子、結城(秀康)殿の
御母上である。
一説に、永見志摩守は三河国池鯉鮒の人であり、於万の方は、幼い頃より徳川殿の北の方・築山殿に
宮仕えされていたのだが、君の御愛くしみを受け身重くなり、これを築山殿が知られ、ある夜於万殿を
赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てられた。
その折、本多作左衛門重次が宿直をしており、女の泣く声を訝って捜した所、この有様を見て、急ぎ
縛めを解き、事の故を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱し、その後、君にこれこれと申し上げると、
いかに宣われたのだろうか、重次はそのまま自宅で於万の方を保護し、天正二年の二月、浜松の城外、
富見村という所で御子を産まれた。これ即ち於義丸殿(秀康)にておわす。
このような事であったので、御対面も無く、重次がよろず育みまいらせた。
また一説には、於万の方は身が重くなったため、北の方に漏れ聞こえて憂き目を見ることを恐れ、
密かに忍び出て、本多豊後守(広孝)の家の重臣である本多半右衛門の家に走り入り、云々の事なりと
云うと、半右衛門は本多作左衛門に告げ、作左衛門は密かに君に申して、己が元に迎え取り、
介抱したという。何れがまことであろうか。
結城(秀康)殿が越前を賜られると、局も越前におわしけるが、慶長十二年の四月八日、結城殿は
先に逝かれまいらし、悲観に耐えずたちまちにして落飾された事も悲しいことである。
法号を長勝院殿という。
元和五年の十二月六日、福井にて亡くなられた。七十三歳であったという。敦賀の孝顕寺に葬られた。
彼女の実家である永見の家も越前家に仕え、忠直朝臣の時に家は亡んだ。
その後、忠直は豊後の配所にて産まれた子を永見と名乗らせ、その家を立てられた。
しかしこれも、光長朝臣(松平光長・秀康の孫)が(越後騒動により)流罪となった時に罪をかぶって
終に家は絶えた。
(以貴小伝)
(徳川家康の側室である)小督局、名は於万の方。永見志摩守貞英の娘にて、第二の御子、結城(秀康)殿の
御母上である。
一説に、永見志摩守は三河国池鯉鮒の人であり、於万の方は、幼い頃より徳川殿の北の方・築山殿に
宮仕えされていたのだが、君の御愛くしみを受け身重くなり、これを築山殿が知られ、ある夜於万殿を
赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てられた。
その折、本多作左衛門重次が宿直をしており、女の泣く声を訝って捜した所、この有様を見て、急ぎ
縛めを解き、事の故を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱し、その後、君にこれこれと申し上げると、
いかに宣われたのだろうか、重次はそのまま自宅で於万の方を保護し、天正二年の二月、浜松の城外、
富見村という所で御子を産まれた。これ即ち於義丸殿(秀康)にておわす。
このような事であったので、御対面も無く、重次がよろず育みまいらせた。
また一説には、於万の方は身が重くなったため、北の方に漏れ聞こえて憂き目を見ることを恐れ、
密かに忍び出て、本多豊後守(広孝)の家の重臣である本多半右衛門の家に走り入り、云々の事なりと
云うと、半右衛門は本多作左衛門に告げ、作左衛門は密かに君に申して、己が元に迎え取り、
介抱したという。何れがまことであろうか。
結城(秀康)殿が越前を賜られると、局も越前におわしけるが、慶長十二年の四月八日、結城殿は
先に逝かれまいらし、悲観に耐えずたちまちにして落飾された事も悲しいことである。
法号を長勝院殿という。
元和五年の十二月六日、福井にて亡くなられた。七十三歳であったという。敦賀の孝顕寺に葬られた。
彼女の実家である永見の家も越前家に仕え、忠直朝臣の時に家は亡んだ。
その後、忠直は豊後の配所にて産まれた子を永見と名乗らせ、その家を立てられた。
しかしこれも、光長朝臣(松平光長・秀康の孫)が(越後騒動により)流罪となった時に罪をかぶって
終に家は絶えた。
(以貴小伝)
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