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於万の方について

2021年03月15日 18:58

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/15(月) 14:43:03.76 ID:dvp4Eblt
徳川家康の側室である)小督局、名は於万の方。永見志摩守貞英の娘にて、第二の御子、結城(秀康)殿の
御母上である。

一説に、永見志摩守は三河国池鯉鮒の人であり、於万の方は、幼い頃より徳川殿の北の方・築山殿に
宮仕えされていたのだが、君の御愛くしみを受け身重くなり、これを築山殿が知られ、ある夜於万殿を
赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てられた。
その折、本多作左衛門重次が宿直をしており、女の泣く声を訝って捜した所、この有様を見て、急ぎ
縛めを解き、事の故を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱し、その後、君にこれこれと申し上げると、
いかに宣われたのだろうか、重次はそのまま自宅で於万の方を保護し、天正二年の二月、浜松の城外、
富見村という所で御子を産まれた。これ即ち於義丸殿(秀康)にておわす。
このような事であったので、御対面も無く、重次がよろず育みまいらせた。

また一説には、於万の方は身が重くなったため、北の方に漏れ聞こえて憂き目を見ることを恐れ、
密かに忍び出て、本多豊後守(広孝)の家の重臣である本多半右衛門の家に走り入り、云々の事なりと
云うと、半右衛門は本多作左衛門に告げ、作左衛門は密かに君に申して、己が元に迎え取り、
介抱したという。何れがまことであろうか。

結城(秀康)殿が越前を賜られると、局も越前におわしけるが、慶長十二年の四月八日、結城殿は
先に逝かれまいらし、悲観に耐えずたちまちにして落飾された事も悲しいことである。
法号を長勝院殿という。
元和五年の十二月六日、福井にて亡くなられた。七十三歳であったという。敦賀の孝顕寺に葬られた。

彼女の実家である永見の家も越前家に仕え、忠直朝臣の時に家は亡んだ。
その後、忠直は豊後の配所にて産まれた子を永見と名乗らせ、その家を立てられた。
しかしこれも、光長朝臣(松平光長・秀康の孫)が(越後騒動により)流罪となった時に罪をかぶって
終に家は絶えた。

以貴小伝



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