遠州掛川の円福寺にあった武田信虎は、信玄より遣わされた日向源藤斎にこのように言った。
「今川家は、ここ10年のうちにも滅亡するだろう。その仔細は、上方牢人の武藤という、武辺のことについては
仮初にも知らない、利得ばかりの役を今川義元から申し付けられた、半分町人、半分侍のような者が居るが、
その子が、生まれつき良き者であると、今川氏真の御座を直させる役につかせ、三浦右衛門(正俊)と名づけた。
そして今では氏真は、この三浦右衛門の言うがままと成り、霜月や極月にも、右衛門が所望ならば
踊りを七月のように踊らせ、また五月の菖蒲斬りを七月末まで叩き合わせ、能・猿楽、遊山、月見、花見、
歌、茶の湯、川漁、舟遊びにあけくれ、民百姓を虐待し、譜代の家老や今川一家の衆にも頭を上げさせない。
ことに、遠州の国人飯尾氏の跡目を望み、今川家において最も権威ある家老である朝比奈兵衛尉をも遮り、
地下も侍も氏真を恨むように成ったのは、みな三浦右衛門のせいである。
この三浦右衛門と言う人物は武士の義理を知らぬ者らしく、今川義元が手を付けた女子に、菊鶴という、
これは義元の近習・四宮右近の妹があったのだが、これを密かに妾にしたのが、義元が討ち死にした
年のうちであった。この事も右衛門を恐れて、氏真に知らせる者とてなかった。
しかしこういった事を、この信虎は氏真に申し聞かせたため、右衛門は私を憎み、彼のお気に入りである
名古屋の与七郎と言う者は、私を武田の強欲入道と名付けた。
これというのも、元は氏真の心得が悪いからである。氏真が23歳の時、父義元を織田信長に殺されて
はや4年になる。当年26歳に氏真は年令を重ねても、父の弔い合戦をするような心ばせは夢にも無い。
氏真も臆病というわけではない。しかし心掛けが無いため、西国において大内義隆、関東にては上杉憲政と
同類に数えられる。
特に、三河岡崎の城主で、今は家康と名乗っている者は当年22歳になるが、義元のお陰で岡崎に帰還したが、
氏真を見限り今川の敵である信長と入魂して、互いに起請文を交換し合い、信長に脅威があれば家康が助け、
家康に大事があれな信長ら助けるとし、既に家康の、当年5歳になる嫡男を聟に取ると約束した。
そして元康といったのを家康と改名し、4年前より三河国を切り取って廻った。
この事に対し今川家の重臣より抗議が寄せられたが、家康は
『今川の御恩にて岡崎に帰参致すこと、父広忠以来二代に渡り、少しでも今川家に対しぞんざいに思えば
御罰が当たります。このあたりでの取り合いは、所領の境問答があるからです。
信長と入魂したのは、彼の内実を見透かし、義元公の弔い合戦を氏真公がなされる時のためです。』
そう答えて家康は弟を人質に出した。
しかしその駿河の使いが山中あたりを行く自分に働き、氏真を主君として崇める者達を次々と切り従えたのを、
今川家の重臣達は重大事と考え氏真を諌めたが、家康のめのとである酒井雅楽助(正親か)という者の
工夫良き故か、成瀬藤五郎という口利きの上手い侍を一人、三浦右衛門の所に付け置いたことで、
氏真と家康の間も元のように回復した。
こんな状態なら、家康と信長の同盟により、三河、遠州、駿河3ヶ国は家康信長に取られ、結局
敵の方が今川家を滅ぼすであろうから、信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように。
ただ、舅であるから北条氏康は今川氏真を助けるだろう、しかし氏康の子息氏政は、信玄の婿であるから、
そのあたりは信玄も定めて分別が有ると思う。こう、信玄に申せ。」
これに日向源藤斎は申し上げた
「信玄様は、万事において入念な方です。口上だけを以っては如何かと思います。信虎様の御一筆を
遣わされますように。」
しかし信虎
「文書で言うならその方を呼びはしない!大事の事は、絶対に書物にはせぬものだ。」
「であれば、信虎公の御判を一つ押して下さい。それをお目にかけ証拠とし、信虎公の奥意を申し上げます。
私は諸国へ御使に参りますが、どんな手立てにおける吉事であっても信玄公は、ふまえる所のない情報は
少しも信用なされません。」
そこで信虎は直判を日向源藤斎に渡した。次の日は日向は逗留し、翌19日、信虎は円福寺を立って上洛した。
それを見送ると、日向は二十日に掛川を立ったが、安倍川が増水していたため回り道をし、25日に甲府に付き
信玄に信虎の判を御目にかけ、件の事を申し上げた所、一切感心のないような表情で
「信虎公は老耄されたのだろう。皆いたずら事である。源藤斎はこの事、今後必ず取り沙汰してはならない。」
そう機嫌悪く言った。
(甲陽軍鑑)
767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/09(土) 10:01:41.22 ID:byQptwpE
本当今川氏真って最低なやつだなw
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