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さらに心の許されぬ男である

2021年02月28日 17:04

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

備前老人物語



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明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

2021年02月24日 19:17

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 18:55:29.04 ID:f7Vz/0wo
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1120.html
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

天王山の戦いの陣中で神官、僧侶、医者、御用達の町人が光秀のご機嫌伺いをしている中
烏丸二条下るの町人、塩瀬三右衛門が饅頭などの菓子を持参した。
光秀がその中から粽を取り出し、食べようとしたところ
鬨の声が聞こえたため、包み葉も解かずそのまま食べてしまった。
そばにいた人々は「さては光秀といえども心臆して狼狽したか」と囁いたが
他のものは「いやいや名将は軍のことをのみ考え寝食を忘れてるのであり、
包み葉を解かなかったのも軍を気にかけている名将としての証である」
と評したという



605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 19:31:08.70 ID:f7Vz/0wo
太閤真顕記」では塩瀬三右衛門が烏丸二条下ルの町人となっていましたが
塩瀬家が饅頭屋を営んでいたことから名前がつけられた
饅頭屋町の住所は烏丸三条通り下ルなので、三条が正しいみたいです

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 11:18:27.80 ID:vxvxZf9F
京都の上る・下るは良くわからんから調べてみたが
この場合は烏丸通りと二条通りの交差点(四辻?)を
南に行った所でいいのかな?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 13:11:43.82 ID:9+K9E1ef
厳密に言えば玄関がどこの通りに面して、どの交差点から近いかだな
烏丸通りと二条通りの交差点を南下すれば最短で塩瀬家に入れる

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 14:53:29.62 ID:vstcWqSj
https://dotup.org/uploda/dotup.org2396640.jpg
ちず

このように烏丸通りと三条通りの交差点の南に
「饅頭屋町」は今も位置している

いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命

2021年02月07日 17:28

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 16:48:57.43 ID:nyQaOx/U
6月朔日の夜、惟任日向守光秀は丹州亀山の城で反逆を企て、家臣の明智左馬助(秀満)、同次右衛門尉(光
忠)、藤田伝五(行政)、斎藤内蔵助(利光)、溝尾庄兵衛(茂朝)らを呼び寄せ、密かに閑所に請じて曰く
「各々、予がために一命を申し受けるべし。もし同心なくば予の首を刎ねられよ」と云々。

各々、黙口するところで左馬助が進んで曰く「臣らは主君のため、大事に当たってどうして猶予しましょうか。
某におきましては、まず畏まり入り候」と言った。残って四臣も皆これに同ず。

時に光秀言葉を設けて曰く「予が大悦これに過ぎず。さても伴の趣旨は予が身の上において大臣家(織田信長
の勘気を蒙り、誅伐に及ぶであろう事数多これあり。つまるところ、こちらから謀叛を起こし、いま大臣家の
無勢の在京を幸いとして、かの公に御事あらしめ予天下の主とならん。これすなわち止む事を得ざるの時なり。
各々、いよいよ同心においては、霊社の誓書を記されよ」と云々。

五臣すなわち誓書をしたため、この旨相違すべからざる由をひたすらに請け負い、人質を献じた。しかれば、
今夜光秀は多勢を率い、中国出勢の行装を大臣家へ御目に掛けるため上洛との由を披露せしめ、亀山より中国
への道筋三草越より取って返し、東面に馬を向けて大江山を打ち越え、左へ下って桂川を渡り越え、今夜暁方、
諸勢は本能寺へ参陣し、かの寺を取り巻いた。

同月2日明け方、光秀の総人数は弓鉄砲をしきりに放ち鬨をあげて本能寺を攻めた。大臣家を始め御小姓供廻
の面々まで、ただ当座の喧嘩による下々の騒動だろうと思い「各々御前近くで緩怠の働きとは、すこぶる慮外」
との由を仰せ出されたところ、次第に弾矢がしきりに来る。「さては謀叛か。誰だ」と仰せのところで森蘭丸
が門外を見帰り、惟任謀叛の由を申す。

大臣家は慌てることなく、不慮の大変是非に及ばざるの由で、自身矢を放って数多の敵を射殺し給う。

(中略。信長の近習たちが討死)

この時まで大臣家は未だ殿中において御弓を射給うところで、たちまち弦が切れてしまった。時に御弓を投げ
られ、自身また槍をひっさげて度々敵を突き払われた。しかるところで右の肘を槍で突かれ、御手重く進退叶
わず。これによって殿内へ入らせ給う。

その時まで女中は未だ御側に侍り、「女は苦しからず。早々に罷り出て一命助かり候へ」との由を3度仰せ下
され、すでに御殿に火がかかり来る時に奥深く御入りになり、内からも御納所口を引き立てられ、御切腹これ
あり。これは御姿を隠されるためだろうか。

その時、女房どもが取り巻いていて御最後の様体を見届け奉るという。また一説に御殿焼失の後、御死骸を探
し求めるといえども、ついに探し出せず、それかと疑う程の人もなかった。御自害か御討死か、人ついにこれ
を知らず。いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命。御歳49歳なり。

――『総見記



550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 18:38:20.19 ID:bjp1HABi
このころすでに「森蘭丸」表記?
後世に「森乱」から変えられたかもしれないけど

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 10:35:59.15 ID:bG7yJPbV
早稲田が公開してる総見記(織田軍記)だと乱丸表記だな

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 21:33:14.78 ID:hMmMh+W+
>>550
通俗日本全史版だと蘭丸でした

いよいよ御勿体なき御分別かな

2021年01月02日 17:21

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/02(土) 00:09:24.98 ID:BlHmGHBQ
明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、丹波の城の天守にてこのように言った
「私は信長に恨み多し。その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。どうだろうか?」

弥平次承って
「御恨みの事は、さもあるでしょう。しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」

そのように言葉を尽くして諫止すると、光秀もややあって
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日この話は止んだ。

その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、四人の家老を召し集めて、
先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、弥平次が申すことと変わらず、その時
光秀も、とくと分別定まって、「ならば皆々、この事を深く秘すべし」と約した。

その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して
「近頃私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした、その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、弥平次はこれを聞くと

「いよいよ御勿体なき御分別かな。それがし一人の口はいかようにも止められますが、
四人の口を止めさせるのは困難です。天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。時を移されれば、一大事と
なるでしょう。」

そう荒々しく申すと、その時光秀は、困難に直面した気色にて、前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが然るべしであろうか」とあった。
「ならば、家老共を召されて、『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている
事について、仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように』と、仰せになられるべしです。」

こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、終に
信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。

その後光秀は、京の定めをあらまし仕置して、安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に
弥平次を呼んで
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。弥平次はこれを聞くと「私のようなものを!」と、自分の鼻を指差して
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。

この談合の次第は、信長記にも見えないが、この時の状況をよく知っている人の言うままに、
ここに記す。

備前老人物語



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 00:11:51.94 ID:BFsaYPMf
江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね

左馬之助ってどっから来たんだろ

指合あればざうさなく直したり

2020年12月20日 16:51

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 09:40:35.21 ID:CZer3LRV
指合あればざうさなく直したり

烏丸光広が歌道の師・細川幽斎の言行を中心に書き留めた『耳底記』という書に
明智光秀の話題が出ているので抜粋して意訳。

一、雑談に云う。
  明智は連歌に指合(連歌の式目に違反していること)があれば簡単に直していた。
  全く(上の句、または下の句を)詠み加えることを知られていない理由である。
  馬を乗るのにも殊の外、上手や下手がある。乗らぬ先にすぐ馬が知るのである。
  それは下手は、乗るときに地団駄を踏んでからやろうとするのだが
  上手は、何ということもなくゆっくりと乗るように見えるのだ。



774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 12:54:43.63 ID:IIkZwpit
隠れていても馬は臭いでわかりまするぞ

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 16:25:47.72 ID:0oo/Xw6N
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7020.html?sp
湯浴みを嫌がって泣き出すような烏丸光広のほうが臭うのでは?

その時は秀吉に内通して

2020年12月19日 16:07

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 22:06:27.21 ID:Z7QWz4kr
大和国は京都将軍家が末となり、武威が衰えた頃から天正の頃までは、国侍が相互に自立の
志を立てて、尽く戦国と成り、各地でせり合いが止まなかった。
そのような中で、筒井順慶は弓矢強く、殊に一門が広く有ったために、大半の国侍を討ち従え、
そして筒井という場所に城を築き居城とした。

さて、織田信長公が上方を御手に入れられた頃、順慶は明智光秀を頼んで信長公に出仕し、
松永久秀を倒し国中を従え、大和の旗頭となった。順系と松永については後に記す。

その後、天正十年六月、信長に対する明智光秀の逆心の時、光秀は筒井に使いを送り、

『信長公への怨み甚だにより、本能寺に押し寄せ、御腹を召された。それより二条の屋形に取り詰め
信忠公も御生害遊ばされた。しかれば、あなたと私との数年の親しみはこの時のためであり、
味方に与されるのであれば本望である。そうであれば、大和・紀伊・和泉の三ヶ国を与えるだろう。』

との内容を申してきた。順慶は家臣を集め、評議を行わせ様々な意見が出たが、家老達は何れも
「とにかく、明智の味方を仕るべきです。」との旨を申し上げた。しかしここで、松倉右近(重信)
がこう申した

「先ず出馬するという旨を、明智には御返答し、八幡山まで御出になり、彼の地は良き要害ですので、
暫くそこに御在陣されて様子を見られるべきです。定めて秀吉公は中国を引き払い打ち上がり、
明智退治を仕るでしょうから、その時は秀吉に内通して、逆徒を裏切るべきです。」

そう、たって諫めたため、順慶は一万余の人数で出馬し、八幡山に在陣していた所に、案の定
秀吉公が中国を扱いにして引き揚げ、尼崎に到った所に、順慶は使者を遣わし、明智に対して
裏切りを仕る事を申し上げると、秀吉公も御満足に思し召されたか、お頼みに成るとの御返答であった。

そして山崎表の合戦の時、秀吉公の先手、高山右近、中川瀬兵衛は明智の先手を突き崩したが、
この時筒井順慶も八幡山より人数を下し、淀川の辺りにて、敗軍の敵を五、六百ほど討ち取った。
順慶は、秀吉公に味方は仕ったが、勝負を見合わせた事について、秀吉公も無二の志とは思し召されて
いるものの、この時のことの故であろうか

筒井順慶は、信長公の時に、「相替わらぬ大和の大将である」と仰せ付けられていた。
そして秀吉公天下御統一の時、天正十三年、四郎殿(筒井定次)に伊賀一国を給わり遣わされ、
「伊賀守」と受領仕った。そして大和には、秀吉公の御舎弟である美濃守秀長に、紀伊・和泉・大和三ヶ国を
給わり御越になった。そして秀吉公の指図にて、筒井城を割り、郡山に新城を築き居城にせよとの事で、
郡山に城を取り立てたが、この縄張りも秀吉公御指図であった。
そこに秀長は在城し、大和の国侍達は何れも秀長の家来として成り置かれた。

大和軍記



明智令押領之由被聞食訖

2020年11月25日 17:02

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 15:12:48.57 ID:OxAEvWpj
元亀二年十二月十一日

早朝、竹門より御使として宮内卿が来られた。禁裏より織田信長へ綸旨を出すこと、
同じく薫物(たきもの)十貝を渡すことへの異存について返答した。
綸旨の内容は、このようなものであった

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖
諸門跡領之儀者、為朝恩天下安全之護持之事候條、
可混山門之儀更不可有之候、既及退転之間歎思召候、
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者、可悦思召之由、
天気所候也、仍執達如件、

(今度の山門(比叡山)の事について、諸門跡の領地を、明智光秀が横領していると(天皇が)聞き
及ばれました。
諸門跡領については、天下安全を護持するための朝恩であり、山門領と一緒にすべきではありません。
既に退転に及んだというその嘆きを思し召され、諸門跡領悉く、別儀無いと申し付けられれば、
悦ばしく思われるでしょう。
天気(天皇の意思)所候なり。執達件の如し)


十二月十日  左中辨 晴豐
   織田彈正忠殿

言継卿記

比叡山焼き討ち後、明智光秀が諸門跡領まで横領したことに対して、朝廷よりその停止を求めた
信長への綸旨。



佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う

2020年11月23日 16:16

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/23(月) 13:00:14.80 ID:ZmTOtX/e
日向守明智(光秀)云わく、佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う。
土民百姓はかはゆきこと也、と。
名言也

老人雑話

有名な話ですが、出典は老人雑話だったのですね



秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想

2020年11月14日 17:04

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/14(土) 12:20:30.26 ID:eKnM9SJ7
ある時、豊臣秀吉公がいつもの御参内の時に、御装束を召し変えられている途中、施薬院にこのように云われた

「私は尾州の民間より出たため、草を刈る術は知っていても、筆を取ることさえ知らず、もとより
歌、連歌の道などを知るべきもないが、不慮に雲上に交わりを成す身となった。

ただし、我が母が若き時、内裏の御厨子所の下女であったが、思いもかけず玉体に近づき奉った事があった。
その夜の夢に、幾千万の祓箱が伊勢から播磨を指して、隙間もなく天上を飛び行き、また、ちはやぶる神が
見え、人々の手をとったという夢想を感じて、私を懐胎した。

この夢想が当たったと見えて、私は信長公より、御唐傘を許され播州に発向し、即時に斬り平らげ、別所を
従え、それよりすぐに、九州(西国という意味)にかかり、安芸の毛利と対陣し、彼等を水責めに
攻め殺さんとしたが、無道の明智日向惟任めが、六月二日に信長公を討ち奉ったという飛脚が到来した。

この事、天下にやがて隠れも無い事になるだろうから、敵に知らせず上洛するのは悪しき事だと思い、
しかじかの次第にて急ぎ罷り上がり主君の御弔合戦をいたさんと欲する。ただしこのような状況を見て、
我々の跡を追撃しようと思われるのなら、却ってその武勇は弱きに似ている、尋常に、只今一戦して、
それを弔い合戦にいたすべき、と申し使わせた所、毛利家も、さすがにあわれなることと感じたのか、
又は秀吉が主君のために身を捨てて最後の合戦をいたそうとするのを、恐ろしく思ったのか、異議もなく
人質を出したため、我々はそのまま上洛し、憎き惟任が鉾をほこりにほこって清龍寺まで出張してきたのを、
六月十三日に、山崎表より突き崩し、雑兵まで残らず討ち果たした。

惟任は主君の御罰が当たったのか、冥加尽きて、厠の中で、汚き百姓に殺されたが、その首を取り寄せて、
去る二日に失い奉った本能寺の焼け跡に、梟首にかけて我が鬱憤を散じたのである。

しかしながら、もし信長公が生きていた時、これほどの忠功を致して悦ばせ奉れば、一体どれほど自分も
嬉しいだろうかと、猶悲しみの涙が出て、しきりに落ちる故に、紫野にて御葬を勤め、太政大臣の御位を送り、
大徳寺に一宇を建立し、総見院殿を崇め奉ったのである。

(戴恩記)

秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想



中でも美濃国は光秀の生国なれば

2020年10月26日 17:34

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/25(日) 01:25:47.09 ID:TcotcfKQ
しかるに土岐一族の明智日向守光秀は弘治2年(1556)の秋に当国(美濃)を出てその翌年より
6ヶ年の間、国々を遍歴してその後に織田信長公に仕え、15年の内に68万石を領した。もっとも
智謀軍慮を兼ね備えていた徳である。

しかるに、主君の信長公は元来良智の大将なので、折に触れ時に寄せて光秀を召され諸々の事を尋ね
給う。しかしながら光秀は、一度もその問いの趣を知らないということがなかった。

ある時に織田殿が光秀に尋ね給うには、「汝は諸国を修行したので、およそその国の人の風俗の善悪
を知っていることだろう。どの国は善であるのか、かつどの国は悪いのか、その心を見たるところが
あらば、語り聞かせよ」と宣う。その時に光秀はあらまし国々の人風を言上するに及ぶことがあった。

しかしながら光秀は諸国修行を志してその国を領する太守の政道、将の心持ち、家中の諸士の剛臆を
見て、仕官を志していた故に人風を知るはずもなくとも、少しずつ日を重ねて逗留する内にその地の
人に接して察しただけである。しかしその察したことが、格別(信長の望むところと)相違していな
かったところは、もっとも御感あったことであった。

中でも美濃国は光秀の生国なれば、風俗の良き国と言うのも如何なものかと(信長へは)申し上げな
かったものの、元来濃州は代々良将の住む国故、おのずと人風もよろしき国であると(光秀は)家臣
などへ話したのだという。

これによって古は知らないが、近代に濃州より出でてその名をいささか知られた武士について、あら
ましを挙げきれない。もっとも土岐・斎藤の一族だけに限ったことではない。

明智日向守光秀、蜂屋出羽守頼隆、妻木長門守忠頼(省略。美濃出身の武士を列挙)この他に当国よ
り出でて大家に仕官の面々は数多ありといえども、際限なきによりあらましはここまでを記した。

――『美濃国諸旧記



『老人雑話』より、秀吉秘話を選録

2020年09月04日 18:40

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/03(木) 22:22:52.08 ID:1dFb0oYm
老人雑話』より、秀吉秘話を選録

・産出量を超える松茸
山城の国に山里というところがあり、(太閤秀吉から)梅松という僧侶が預かっていた。新たに松を植え、程なくして松林ができあがったので、秀吉に松茸を献上した。
秀吉は笑って、「私の威光がまったくなかったとき、私も(信長に)何度か松茸を献上した。実はよそから買って献上していたのだ」。
秀吉は側近の者に「もう松茸を献上することはやめさせなさい。(松茸が)生えすぎている」と言ったそうだ。

・大清洲捜査網
秀吉がはじめ、微賤の者だったとき、(中間?)衆の間で刀がなくなった人がいた。秀吉は貧しかったので、人々は秀吉を疑った。
これによって秀吉は城下の民家をあまねく尋ね歩き、質屋にあるのを発見した。(質屋に)尋問して盗んだ犯人を捕らえ、信長が狩りに出るときに訴え出た。
信長は感じ入り、初めて微禄を与えたそうだ。

・中国大返し、政宗っぽい秀吉
明智光秀織田信長を討ったとき、秀吉は軍を返し、途中の尼崎の寺に入り、「法体」(出家)して京に上った。「素衣白馬」(死を覚悟)の心だった。
その寺にはいまも寺領があるという。

・信長へのはったりと大ウソ
松永久秀が(信長に謀反して)籠城したとき、信長は討手に秀吉を派遣した。
その後、秀吉から書状で信長に(攻撃前から)注進しようとした。
「何日には総構えを破り、何日には二の丸を破り、何日には久秀の首を取った」。
(秀吉の)右筆が「これで大丈夫なのですか?」と聞くと、秀吉は「この通りにならなければ信長様は私を殺す。もし計画通りにならなければ私は死ぬ」。
(秀吉は)そのスケジュール通りに「無理に討破り」、久秀の首を箱に入れて信長に届けた。
信長が言うには「この首は偽物だろう。久秀は首になっても私の前に出てくる者ではない。秀吉が(誰かの首を)たばかって送ってきたのだろう」。
箱を開いてみれば、まさにそうだった。
久秀は最後まで降伏せず、鉄砲の火薬に火をかけて焼け死んだ。

※北陸遠征で無断帰陣したあとだったので、ハッスルしたんでしょうか?大将は信忠ですけど



見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



『多聞院日記』より、本能寺前後の話

2020年08月28日 17:10

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:02.81 ID:+of7yAKA
多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500~600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:56.34 ID:+of7yAKA
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000~7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも

殊ノ外ホメ奉ル

2020年08月21日 16:48

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 20:48:00.62 ID:96SZy5U2
祖父物語』から
有名な話でほかの文献からのまとめ記事がありますが、一応。本能寺後の津田信澄の話。いろいろと記事では混乱が見られますが、そのまま記します

津田信澄明智光秀の指示で大坂に赴いたのは、織田信孝丹羽長秀に腹を切らせようとしてのことだった。
信澄は織田信勝の嫡男で、明智の婿だった。大坂天王寺の千貫櫓にいた。長秀は玉造、信孝は京橋口乾の角櫓にいた。
夜中に信孝の小姓が1人で長秀宅に向かい、「信澄の内々の用意では、信孝と長秀が明日、弔い合戦に出るところを討とうというはかりごとで、京橋に人数を出すと聞いている」
長秀はそのとき、「ずいぶん早いお出でですね。私も信孝様のところに参って御意を得ようと考えていたところです。明朝、弔い合戦に行く名目で軍勢をそろえてお待ちください。私が鉄砲を2発撃ちます。そのとき、采配を取って千貫櫓を攻撃してください。信澄の軍勢が京橋に出るのは幸いなことです。信澄の周りには侍200人ほどがいるでしょう」
打ち合わせの通り、翌朝長秀が鉄砲を2発撃つと、信孝が采配を取って千貫櫓に攻めかかり、即座に信澄の首を取り、堺にてさらし首にした。
「味方の者どもは信長公に(名誉の討死に?)遅れ、士気が落ちているので、まずはこの首をさらし、味方の勢いをつけるがためにやったのだ」と話していた。
信孝が弔い合戦に出陣したとき、信澄の首を板に打ち付け馬印のごとくにして持ち歩いていた。
池田恒興と羽柴秀吉はこれを見て、「お手柄、吉報です。必ずや明智は力を落とすでしょう。明智には子供がいないので天下はこの人に譲るものだと思っていました。お手柄です」と「殊ノ外ホメ奉ル」。



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/21(金) 08:52:09.49 ID:CFIrcChl
秀吉も子がいないから秀勝を殺せばよかった

明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時

2020年08月14日 17:01

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 15:32:16.74 ID:1KuHNIZk
明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時、本能寺に我等より先に入ったというものがあれば、それは全て嘘である。
その理由は、信長様に切腹させるとは夢にも思わなかったからである。
その頃、太閤様が備中に輝元殿を討ちにいっておりその援軍に明智が行くことになっていた。
山崎の方に向かうと思っていたのだが、思いとは違い京へと行くことになった。我等は、その時に家康様が上洛していたので、
家康様を討つとばかり思っていた。本能寺というところも知らなかった。
人衆の中から、馬に乗った二人が出てきた。斎藤内蔵助の息子と小姓であった。本能寺の方に行く間、我等はその後に付き、
片原町へ入った。
二人は北へ向かい、我等はみな堀際へ東向きに向かった。
本道へ出ると、橋の際に人が1人いたのでそのまま我等は首を取った。
内へはいると、門は開いており、鼠のようなものすらいなかった。首を持ったまま内へ入った。
北から入った弥平次(明智秀満)殿の母衣衆二人が首は打ち捨てるように言われたので、堂の下へ投げ入れ、正面から侵入したが、
広間にも一人も人はいなかった。蚊帳がつってあるだけで人はいなかった。
庫裏の方より髪を下げた白い着物の女を捕らえたが侍は一人もいなかった。女は「上様は白い着物を召されている」と言ったが、
それが信長様のことだとは知らなかった。その女は斎藤内蔵助殿に渡した。
御奉公衆は袴・肩衣、股立を取り、2・3人が堂の中へ入ってきた。
そこで首を又一つ取った。その者は、一人奥の間から出てきて、帯もしていなかった。刀を抜き、浅黄色の帷子で出てきた。
その時、多くの人が入ってきてそれを見て敵が崩れた。我等は蚊帳の陰に入り、かの者が出てきて過ぎていくところを後ろから切った。
首を二つ取ったので、褒美として槍をいただいた。
「本城惣右衛門覚書」



262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 21:23:11.70 ID:h/4i2y9k
>>261
これは出所が古書店というのが惜しい
高齢ゆえ記憶違いはあっても、大筋は合っていると個人的には思うけど
そういえば、226の兵隊もまさかクーデターとは知らなかったから、本城の記録も正しいとかどっかのサイトで指摘してたな
イエズス会の記録でも家康暗殺の噂があったというが、それが真実味を帯びて語られる土壌があったと
武田征伐後からの信長、家康双方の接待合戦なんかを考えると、なぜそんな話が広がったのか理解に苦しむのだが、みなさんはどう考える?

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 07:51:45.79 ID:9aPcvoDD
以前家康は武田に内応しようとしていたが信長に察知され止む無く信康に罪を被せ家を保ったが今回武田が滅ぶことになり武田方から家康が謀反しようとしていたとの噂が信長の耳に入り必要以上に真偽の確認をして家康暗殺計画に至ったと考える

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:24:31.27 ID:b1boNngP
あるわけねーじゃん

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:47:40.02 ID:Cy2by8PS
>>262
明智家中では家康はライバルだから、信長よりは殺す対象として適切と思われてたんじゃない?

本能寺の変後、顛末

2020年07月19日 17:50

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/19(日) 13:25:42.92 ID:my2u+8BH
徳川家康は堺において本能寺の変の事を聞くと、大和路へ懸かり、高田の城に寄って、城主に刀、並びに
金二千両を下し、その日に出立して、六月四日、三河国大浜に船にて下着され、明智を討つための軍勢を
催し、先ず鳴海まで出陣した。

この頃、羽柴秀吉は美作国高倉(実際には備中国高松)に於いて、森輝元(原文ママ。毛利輝元)と対陣
していた所、信長が没したと告げられ、先ず隠密に森と一和し、摂州表に打ち出て、山崎宝寺上の高山へ
人数を上げた所、明智がかの表に押し出し、六月十三日に合戦した。
明智は敗北し、坂本城に引き上げようと考えていたのか、山科まで逃げ来た所を、百姓等に打ち殺された。
歳六十七であった。

この時、安土に置かれていた明智左馬介はこの事を聞くと、坂本に駆けつけ、明智光秀の男児である十五郎と
一所に火を懸け切腹した。

斎藤内蔵助(利三)は虜となり、京都へ引かれ大路を引き回され六条河原にて斬首された。首は獄門に掛けられた。
この内蔵助は信長勘当の者であったのを、近年明智が隠して抱え置いていたのだという。

家康公は鳴海に居陣していた所、秀吉よりこの様体が委細注進されたため、則ち帰馬され、六月二十八日、
甲州に出馬された。

当代記



織田信忠の最期

2020年07月18日 17:04

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/17(金) 22:37:35.86 ID:WYpM/PiB
織田信忠は本能寺にて父・信長が明智光秀に襲われたことを聞かれると、自身も父とともに本能寺へ
籠ろうと出られたが、そこに村井長春(貞勝)親子三人が参上し、
「本能寺ははや火が懸かり、事終わりました。また妙覚寺へ帰られるべきでも有りません。
二条の新御所へお籠りに成るのが尤もです」
と言上したため、則ち二条へ移られ、親王若宮を内裏へ移し奉った。しかし寄手も襲ってこないため、
「安土に移られ、その上で惟任を御退治されるべきです。」と各々言上した。
だが信忠はこう言った

「これほどの謀反の企てをする奴原が、どうして京の口々に手を廻さずにいるだろうか。安土に向かう途中で
相果てるのは無念である。徒にここを退くべきではない。」

これに近臣の毛利新左衛門、福富平左衛門、菅屋九右衛門たちが「尤もの御諚」と申したため、信忠の
言うとおりに定まった。

しかし実際には、惟任はこの行動を深く隠密に行っていたため、路地に人を置くと言った事は成されておらず、
安土に移ることは問題なく行えたのであり、これも御運の末であったのだろう。

午刻(午後0時ころ)に及び、惟任は一万ばかりにて押し寄せた。二条に籠もった人々は、坂井越中守、團平八、
斎藤新五、野々村三十郎、赤座七郎右衛門、猪子兵介、塙伝三郎、飯尾茂介、村井長春親子三人、
菅屋九右衛門親子三人、毛利新左衛門、織田源三郎を始めとして、屈強の衆六十五人、もとより身命を惜しまず
相戦ったため、暫く抗戦が続いたが、その後寄手は隣家に上り弓鉄砲を以て攻めたことで、信忠は切腹された。
鎌田吾郎左衛門が介錯し、その御遺骸は遺言に任せ、焔の中へ入れ奉った。歳二十六であった。

この鎌田は追腹を切ると言ったのだが、どうした訳か終に切らなかった。
右の六十五人の内、討ち死にした者は六十三人であった。
織田源五(信長弟有楽)は逃げ出た。時の人はこれを悪んだ。

当代記



六月十三日に相果て、跡形も無くなった

2020年07月17日 18:29

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 22:09:55.77 ID:4Mxqh86c
明智日向守(光秀)はかつて一僕として朝夕の飲食さえ乏しい身であったのを、織田信長が取り立てられ、
坂本の主とし、その上丹波国一国一円を下された。にもかかわらず、かかる不思議(本能寺の変)を思い
立ったというのは是非に及ばぬ(理解の出来ない)次第である。しかし忽ち天責を蒙り、六月十三日に相果て
跡形も無くなった。(この時明智の歳は六十七であった。)

一方、織田信長は近年(天下の)政務を執り行い、無道もこれ無き所に、このように横死されてしまったこと、
偏に(信長の高野聖殺害に対する)弘法大師の法罰が当たったのだと言われた。

当代記



205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 23:20:14.56 ID:SbkCxOUQ
>>204
関連として、太田牛一とフロイスによる本能寺の書きぶりの微妙な違いが気になる
牛一は逃げのびた女房衆に取材している可能性がある
フロイスの場合、南蛮寺が本能寺から至近
ほぼ共通の噂か証言があったと思ってるんだけど

『当代記』より、本能寺の変

2020年07月16日 17:32

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 15:30:44.82 ID:4Mxqh86c
天正十年六月朔日、惟任日向守(明智光秀)は重臣である明智左馬介、同次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵助、
溝尾勝兵衛を召して、これからのことについて調談した。彼ら五人に起請文を書かせ人質を取り、

「明日中国へ打ち立てるべき人数を、信長にお目に懸けるべき。」

と伝え、戌刻(午後十時ころ)亀山を立ち大江山を越え、京へと急速に到着すると、二日の曙、信長の宿所
である本能寺を取り巻き、弓鉄砲を撃ち込んだ。信長はこれを聞かれて「謀反か、何者ぞ」と問われた。
森の乱丸走り出て、惟任反逆の故を言上した。これに信長は「是非に及ばず」と答えられた。

信長は弓を取って矢を数射された。屋代勝助以下が厩より出てきて、相戦って討ち死にした(この勝助は
馬についての目利きで、奥州の者であった)。近習の輩、同じく小姓衆も比類なく相働いたため、暫くは
支えたものの、寄手は大勢である故に、皆以て討ち死にした。

信長は弓の弦が切れたため、鑓を以って戦われたが、その時に右の肘を突かれた。そして内に入り、
女房衆に対し「女は苦しからず、急ぎ退くように」と三度まで言われてから、奥の間に入られた。
その後焼死されたのか、後に御遺骸は発見されず、惟任も不審に思い、色々と捜索させたがその甲斐は
無かった。

当代記

本能寺の変について



弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ

2020年07月01日 17:13

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 21:54:30.51 ID:G1TABAxh
織田信長公より九八郎(奥平信昌)が拝領した刀は、目貫口蓋は、去々年後藤光乗に仰せ付け、京都に於いて
掘られたもので、昔、弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ、それは、女は色に耽る者なれども、
老年なれば面は猿に似て手にあじか(土を運ぶ道具)を持ち、その中にくわえ蕨など入れ、肘に掛け後ろに
袋を負い、前打ち広げて腰を掛けていたる体が書かれており、信長はこれを見給うと、「この図を写すべし」
と命ぜられ、そうして掘られた口蓋であった。

その頃、この図を明智日向守(光秀)が狩野が絵像に写させた所、尽く出来、眼に点入れまでしてあったのが、
一夜の内にこの絵が腐り果てた。この事を明智に申し上げた所、「権者の筆跡を凡夫として写しけるによって、
このように成ったのだろうか。奇特である」と云ったという。

『当代記』