FC2ブログ

堀と堀尾は難なく山を

2018年09月17日 18:00

堀秀政   
292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 17:48:45.23 ID:HRhvRU/p
(山崎の戦いの時)

寄手の勢は羽柴筑前守秀吉が以前からこの周辺の地理をよく知っており、天王山を敵に取らせては
味方の大事と推し量った。そこで堀久太郎(秀政)と堀尾茂助(義晴)を呼び、

「汝は早く天王山を取り敷きて敵を山上にたむろさせてはならぬ!」

と命じた。ここは山崎宝積寺の旧跡、堀尾は元来気早の勇士であり弓・鉄砲の兵2百人を先に立て、
えいえい声を出して進んだ。堀久太郎も続いて人数を押し登らせんとす。

光秀がかねて命じていた松田太郎左衛門(政近)は山上にたむろしており、堀尾の人数を上げまい
と指揮してこれを防ぐ。堀尾は弓・鉄砲の者を先に立て「やれ上がれ上がれ! 上がると勝つぞ!」

と言いながら登る。山の土はぼろぼろとして登り悪し。松田は山上より「やれ防げ防げ! 上げると
負けぞ!」と精を入れて命じ防ぐ。一方、堀久太郎は道を変えて横合いから押し登った。

松田の勢も激しく防いだものの、羽柴方は義に勇む人数が前後より激しく攻めたて、松田も鉄砲に
撃たれて散々に追い崩され、堀と堀尾は難なく山を取り敷いた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』


スポンサーサイト

この儀、別の仔細に非ず

2018年09月17日 17:10

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 12:34:03.11 ID:c3AbbcRr
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った

「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」

これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。

そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」

そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。

光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」

そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。

(甫庵信長記)

光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。


光秀天罰逃れ難く

2018年09月16日 17:28

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 17:35:28.33 ID:gJvnQJNT
(山崎の戦いの時)

光秀の先手・斎藤内蔵助(利三)は狐川の向こう岸より使者を立てて、光秀を諫めた。

「今日の合戦は御延期然るべし。筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に
拠って一戦されれば、安土に左馬助(明智秀満)がおりますので後詰の便りもあります。

そうでなければ、すぐにこれから安土に籠城されて然るべし。以前から申すように山崎の地
は味方にとってよろしからず。大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地です。

合戦の雌雄は只今にて候。時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなります。」

このように申し送ると光秀はこれを聞いて、

「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん! 汝そこまで恐れる
のならばそこを引き取って当手に来るべし! 先手は他人に申し付けん!」

と罵ったため、使者は大いに恐れて立ち返りその旨を申した。内蔵助はこれを聞いて、

「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり」

と言って嘆息した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』



147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 23:41:16.22 ID:w7XezzrT
>>146
斉藤さんって謀反にノリノリだった説と諌めた説があるけど
これは諌めた説を下敷きにしてるのかな

南坊が最初に総門を固めたのは

2018年09月13日 21:13

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 14:10:04.47 ID:Lb9DTZ1/
(山崎の戦いの時)

明智勢総軍1万4千余人は淀を出て狐川まで打ち立った。先手は川より向こうの方へ出張、
光秀は川より東に陣取った。明けて6月13日寅の刻、池田父子(恒興・元助)が

山崎表へ進んで見れば、高山南坊(右近重友)は総門を差し固め他の兵は1人も通行させ
なかった。池田父子はこれを見て、「高山は異心か! 油断するな!」と言いながら、

川に沿って細道より山崎の東総構の外を巡り、明智勢に打って掛からんと馬を速めて急ぎ
行く。南坊はその間に総門より打ち出て池田勢より遥かに先に進んでいた。

かくて南坊が最初に総門を固めたのは他の勢を入り交えずして先陣せんと心掛けた武辺の
嗜み、素晴らしくもまた殊勝なことよと敵味方ともに感じ入った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


勝敗は互いに天運に任せ候

2018年09月12日 22:06

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 17:10:37.08 ID:48VXc6XE
(山崎の戦いの時)

羽柴方総軍3万5千5百余騎は龍の雲を得て虎の風に嘯く猛威にて、6月12日に摂津尼崎を打ち立ち、
先陣はすでに山崎天神の馬場芥川辺りに充満したため、後陣はいまだ西宮清水の辺りに妨げられた。

その日の晩景、秀吉から光秀の洞ヶ峠本陣へ堀尾吉晴が使者として申し遣わされた。

「光秀が叛逆して主君・信長公御父子を弑逆奉る由を、備中高松城で承った。秀吉は不肖の身ながらも
いやしくも人の臣として、主君が弑逆にあわれたのを他所に見ることはできない。すみやかに叛臣を

誅戮して亡君の御憤りを安め奉らんと夜を日についでここに参着した。明くる13日、久我畷辺りにて
互いに雌雄を決せんと、その旨使命を通ずるものなり」

光秀も柴田源左衛門雄全(勝定か)をもって返答した。

「よくよくの御使者もっとも祝着するところに候。光秀が織田殿を恨み奉ることは世の人口に膾炙する
ところであり、今更事新たに申すに及ばず。明日の合戦は光秀の本望これに過ぎず。

勝敗は互いに天運に任せ候」

光秀はこのように使者を返し、急いで明日の合戦の手配を行った。

――『改正三河後風土記』


「ああ天なるかな!」

2018年09月01日 21:21

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 02:23:17.54 ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 13:55:32.52 ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

本圀寺襲撃と入札

2018年08月31日 17:29

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 10:36:09.89 ID:Nd9a42yo
永禄11年、織田信長は将軍・足利義昭を帰洛せしめ、六条本圀寺を以て仮の御所とした。
翌年正月3日、三好山城守、日向守、下野守、岩城主税等、一族蜂起して京中に乱入し、
六条本圀寺を取り囲みに懸った。

これに足利義昭は、自らの諸勢に下知して本国寺を持ちこたえさせた。
この時、門役(警備役)は入札(投票)を行い、入札の内17枚までが『明智十兵衛尉(光秀)』と
書かれた。また武者奉行の入札の内7枚までが野村越中守とあり、双方過半を超えもはや他の入札を
開く必要なく、これによって入札で決定される指揮官役は両名に命じられた。

彼らの指揮は著しく、何れもその剛操を以て、この襲撃は不意に起こったにもかかわらず
六条を持ち固め、三好の一党はついに引き上げた。

(士談)

三好三人衆の本国寺襲撃の時、義昭の側で指揮者を投票で決めていたらしいというお話。
光秀人望有ったのね



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 12:43:53.84 ID:ENxn/IaS
それを言うなら投票で指揮官を決めさせた義昭の企画力だろうな
流石は信長包囲網を編み出した知将だわ
場当たり的な謀反で横死したハゲとは違うんですよ

かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


本能寺の変と近江情勢

2018年06月07日 11:05

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/06(水) 22:59:53.83 ID:+taDBLgq
本能寺の変のあと、明智光秀が近江国安土城を接収すると、同国の住人たちは我も我もと
光秀に降参し、その幕下に属さない者一人もなしという有様であった。
その中で、蒲生賢秀・氏郷父子は「故信長公からの御恩を何れの世にか報い奉るべきか、
ただ一合戦して腹を掻っ切り御供せずにはしかず。」と、居城である日野城に立てこもり
要害を普請し軍勢を集めた。その数1500余騎という。

これを知った光秀は、蒲生に使いを出し『今度光秀に同心すれば近江半国を与える』と
伝えたが、蒲生父子は全く同心しなかった。

近江の住人である多賀豊前守、布施忠兵衛たちも既に明智方となっていたが、
何れも蒲生と疎意の無い人々であったので、彼らからも「罷り向かって異見を申そう」と、
自ら日野を訪れ出し再三に渡り諫言を行った。

しかし賢秀・氏郷父子は彼らと対面すらせず、ただ『武士たらん者は恩を知って以て人であると
申す。御辺たちは降参を能きと思ってそように申されるのか。」と返答した。

嘲られた両人は口惜しく感じ、馳せ帰ると光秀に申し上げた
「蒲生親子は以ての外に奇怪なる者にて候。急ぎ御退治有るべし」
特に布施忠兵衛は進み出て
「現在日野城は未だ普請中であり、堀、櫓は生壁の状態ですので、破壊も容易いでしょう。
1日も早く攻め寄せられるべきです」と積極的に提言した。
これを聞いて光秀も、尤もであると考え、すぐに蒲生攻めの準備を始めようとした。

ところがここで、信長の三男である神戸信孝が大阪より引き返し、光秀の婿であった
織田信澄を討ったという情報が入り、光秀は近江のことを明智弥平次に任せて
自らは信孝に対処するため攻め上がった。

(氏鄕記)

本能寺の変の後の近江情勢の事など



975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 09:35:25.55 ID:PBC4CLeq
意外と、信孝の動きって重要だったということなのかな。
四国遠征軍は瓦解して、たいした働きはできなかったと言う話だが。

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 11:06:11.75 ID:GbR2xIHX
味方になるかはわからないけど婿だし
これに対応しないと味方を見殺しにするってイメージを降った者に持たれて士気が下がる要因になるし最悪離反される恐れがあるからね
あと大溝城の接収にも関係してくる

光秀利三最期

2018年05月07日 18:52

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 22:15:38.38 ID:aEBf9EVt
山崎の合戦の後、明智光秀の残党は正林寺城に籠もった。
羽柴秀吉や織田信孝などの兵は、ここに明智光秀がいると見て、柵を付けてこれを攻めた。

その時、城より蟹江才蔵が向かい出て伝えた
明智光秀はここには罷り在らず!我らの命を助けられるのであらば、城より一人ずつ出て
何者か確認されて良い!」

攻め手は答えた
「ならば斉藤内蔵助(利三)を生け捕り我らに出せば、汝らの一命は助けよう!」

すると城方は内蔵助を生け捕って攻め手へと引き渡した。
この時より蟹江才蔵は三七殿(信孝)に付くことになった。

ここでも明智を発見することが出来なかったため、近辺を残らず捜索したが、ついに見つからなかった。
翌日、村井清蔵と申すものが、大江という在所より、金柑(ハゲ頭)なる首一つを持って
代官所に現れた。この清蔵によると

「この者、昨夜大江に参り『我を坂本へ連れて行け、金銀は思うままに取らせん』と言いました。
しかし百姓共は、『どうせ盗人の謀りである、ただ打ち殺せ!』と、これを撲殺したのです。」

丹羽五郎左(長秀)がこれを見て、すぐに光秀の首と解った。彼はこの首に噛みつき、歯を
きしませて
「汝を生かして、なぶり殺しにしようと思っていたのに!」
そう叫んだ。

その後、光秀の死骸を取り寄せ、首を継いで車に載せ、洛中を曳き廻し三条河原にて
逆さ磔にかけた。
斉藤内蔵助も車に乗せて洛中を曳き廻し、三条河原に生きながら逆さ磔にして3日晒し、
その後火炙りにした。

(祖父物語)



この茶筅御曹司は

2018年04月22日 21:18

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 20:37:34.77 ID:O7Cf+qsQ
本能寺の変が起こった頃、蒲生飛騨守(氏郷)は近江の日野の谷に居たが、即座に安土へ参り、
土山に在った茶筅御曹司へ使いを立てて

「私の人数は三千あまり有り、また信長公馬廻りの士は五千もおわします。
この五千は明智の十万にも勝るでしょう。
必ず明智は安土に参ります。これと合戦すべきです!」

そう申し上げたが、茶筅御曹司はどう思ったのか蒲生に同意せず、終に合戦は無かった。
この茶筅御曹司は、後に尾張常真(織田信雄)と申した人である。

蒲生も一人の力ではどうにも出来ず、空しく日野谷へ帰った。
その後明智は坂本より船にて襲来し、安土の城を焼き払い、金銀を取り集め坂本へと帰った。

(祖父物語)


本能寺の変、当日のドキュメント

2018年04月21日 19:18

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 22:39:13.18 ID:z47y627O
明智光秀が本能寺を取り囲んだ時、信長の人数は上下百人程度でしかなく、明智勢は
三千余騎にてこれを即時に踏み破った。

そして信長の死骸を捜索したが見つからず、光秀は動揺し「もしや逃げ延びたのではないか?
如何すべきか!?」と案じている所に、明智の臣下である斉藤内蔵助(利三)という者が申し上げた

「御心やすく思し召して下さい。信長公が兵と手を合わせた後、奥に入っていったのを私が
目撃しました。」

これを聞くと明智も安心し、二条の織田信忠への攻撃へ急いだ。
信長公の死骸には、その上に森乱丸(蘭丸)が、死骸が燃えるよう畳5,6畳を重ねたと
言い伝わる。

本能寺門外の小川の端石の上に、首が十三置かれていた。
森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋の庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭であり、
鷹の御羽を継ぐ名人と呼ばれた人物であった。
その他の首は見知らぬものであった。

二条落去して5日過ぎ、明智は参内をして洛中を乗り廻し、町中の地子(固定資産税)の免除を
発表した。

(祖父物語)

本能寺の変、当日のドキュメント



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 17:47:41.68 ID:Onnh1i4N
村井貞勝や毛利新助は晒されてないのか

そして明智光秀は本能寺を取り巻き

2018年04月20日 15:55

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 20:26:31.02 ID:A4D8S2I6
織田信長が甲州征伐から帰陣の後、徳川家康の上洛があり、これに対し、明智光秀
その御馳走が命ぜられた。

光秀は「忝なし」と承り、その接待のために珍物を調え、京堺の傘や木履(木靴)まで
買い占め、夥しく用意した。

ところが、俄に役目替えが命ぜられ、家康の馳走は他の者に仰せ付けられ、明智は
羽柴筑前守(秀吉)が安芸の毛利と対陣し難儀に及んでいるとの注進があったため、
「急ぎ加勢にまかり下るべし。横目に堀久太郎(秀政)を差し備える)と仰せ出された。

この時、明智は思った
「諏訪(の打擲事件より)このかた、御目見得も宜しからず。今度の御馳走の事も中途で
他人に仰せ付けられ外聞も然るべからず。」
そう腹立ちに思いつめ、用意した御馳走も調えものも一緒に、安土城下のどどが橋(百々橋)の
下にみな捨てた。ちなみにこの橋は「昼夜人が通うから」と、織田信長が名付けたものだという。

そして明智光秀は、秀吉への加勢に向かう人数にて本能寺を取り巻き火をかけたのである。

(祖父物語)

明智光秀大河決定記念(?)に



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:01:04.74 ID:FJu9jTQg
最後はパワハラで終わる大河なんて嫌だ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:55:37.04 ID:MP4IvDR6
大河で明智…どうせ信長がスゲー嫌な奴で光秀が聖人のようなキャラクタになるんだろうな
本能寺の変も義挙ってことになるんだろう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 02:15:42.06 ID:bbtGVHM5
オホホ、麻呂が来た意味分かるであろ? は最近使われなくなったな

汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?

2018年04月16日 18:29

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/15(日) 23:12:20.06 ID:jJSKP1dL
織田信長の甲州征伐の折、

織田信長は信州諏訪郡の何れの寺であったか、御本陣を据えられると、その席にて
明智光秀がこう申した

「このような目出度き事は御座いません。私も年来骨を折りたる故、諏訪郡の内は皆
織田家に従っています。何れも御覧ぜよ!」

そのように武田の総崩れを喜んだ所、信長の御気色たちまち変わり

「汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?我こそ日頃粉骨を尽くしたのだ!
憎き奴なり!」

そう激怒し、懸造りの欄干に明智の頭を押し付け叩いた。
その時、明智は諸人の中で恥をかき無念千万と存じ詰めた気色が現れたという。

(祖父物語)

有名な逸話ですが、出典は祖父物語だったのですね



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 03:07:07.82 ID:7xkzIepw
川角太閤記にもあるので、そっちが原典かもしれないし、いずれにせよ又聞きした話だからなぁ。
ただ、フロイスの書簡にも光秀が殴打されたという話はあるらしい。

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 04:27:04.65 ID:PS026Nxp
川角太閤記の光秀殴打に関する記事は至って簡潔で「信濃の上の諏訪にての御折檻」としか書いてないな

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 23:23:57.60 ID:9mr2vYq2
おまゆう

弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべき

2018年03月20日 18:19

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/20(火) 17:17:15.85 ID:Hwko5hvB
丹波国は惟任日向守(明智光秀)が、織田信長の御朱印を以って一国を下された。
これはこの時の理にかなった申し付けであった。

光秀は前代未聞の大将であり、坂本城主にて滋賀郡の領主であった。
信長に敵対した多喜郡高城の波多野兄弟(波多野秀治、秀尚)が扱いにより安土に送られた時、
光秀は彼らをその路中で絡め取り、安土まで馬上に縛り付け、筒を差し、そこに手足を結び、
波多野兄弟を磔の姿にした。前代未聞である。その姿で天正7年6月10日、京都を通過した。

光秀は美濃国住人で、土岐氏の随分衆であり、明智十兵衛尉と名乗っていたが、その後
上様(信長)の仰せにより、惟任日向守となった名誉の大将である。
弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべきである。

(立入左京亮入道隆佐記)

なんだか光秀の評価が恐ろしく高い立入宗継の記録である


【ニュース】明智光秀が土橋重治に宛てた書状

2017年09月13日 18:26

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 22:50:10.86 ID:BmQuoTzP
良い話か悪い話か迷うけど
幕府再興を掲げた良い話?

明智光秀土橋重治に宛てた書状

毎日
https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c
産経
http://www.sankei.com/life/news/170912/lif1709120003-n1.html
読売
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170912-OYT1T50009.html
朝日
http://www.asahi.com/articles/ASK9C45WPK9CONFB00F.html
日経
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO21007030R10C17A9CR8000/
伊勢新聞
http://www.isenp.co.jp/2017/09/12/7440/



※管理人注
個人的にはこのニュース、光秀が室町幕府再興のために本能寺を起こした、というよりも、
時期的にも内容的にも、追い詰められた光秀が手当たり次第に味方を募っていた事を表すもの、
じゃないかなと判断しています。

門役の大切

2017年05月07日 17:47

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/07(日) 09:50:54.31 ID:UvNQKj6R
古より、城より突いて出た後には、門役を務めることを以って城中の大切と致し、能く事に成れた
侍を以ってこれに当てた。六条合戦の門役は明智十兵衛(光秀)が務めたこと、人の知るところである。

秀吉が信長の命を受けて金ケ崎に殿として残り、朝倉中書(景恒)と戦を決した時、朝倉中書は
金ケ崎の城より出て秀吉と戦ったが、この時毛屋七左衛門を以って門役とした。
中書敗軍して兵士ら我先にと城を指して引いていたが、秀吉はその機を失わず追い打ちを仕掛け、
門際まで押し入った。しかし毛屋が素早く門を打ったため、城中つつがなかった。この事は当時
朝倉の家にて沙汰されたという。

後に秀吉は横山城に居たが、彼が信長への報告のため岐阜に赴いた時、浅井長政が兵を出して
横山城を囲んだ。
この時城中は以ての外に無勢であったが、竹中半兵衛が居留まり下知したため、危ういこと無く、
むしろ城より突き出て、大いに戦ってまた城に入った。竹中半兵衛は状況をよく見て、
門役に下知し、早く門を打たせたため、城をよく持ち固めたのだという。

こういった事を詳細に極めない輩には、このような大切の役儀は命じにくいことである。

(士談)


近頃、良将と言い慣わしているのは3人である

2017年04月07日 09:09

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 07:40:50.80 ID:QSR6vaY2
近頃、良将と言い慣わしているのは3人である。

明智日向守(光秀)、柴田修理亮(勝家)、石田治部少輔(三成)である。

この3人は天下分け目の合戦をしたからだろうか。

――『武功雑記』


796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 11:41:48.62 ID:JGVRCPsM
光秀は統率力はあるが人望がなく
勝家は人望はあるが統率力がなく
三成はどちらも足りなかった

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 12:15:53.54 ID:MegIC7/H
三陪臣の知恵、勇気、大志になぞらえると
光秀:知恵と勇気はあるが大志が欠けている堀直政タイプ
勝家:勇気と大志はあるが知恵が欠けている直江兼続タイプ
三成:知恵と大志はあるが勇気が欠けている小早川隆景タイプ

それぞれ一度は敵対したことのある相手のような

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 12:35:17.52 ID:5LsjIhpR
天下三陪臣は直政版は言行録だけど、成立した時代の早い葉隠の直茂版の方が正確そう
堀直政って隆景や兼続とならぶくらいの功績を挙げてるの?

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 13:07:31.94 ID:D1fqJLWP
名将言行録につっ込み入れるのは野暮

今西春房と娘の大蔵姫

2017年03月31日 21:45

森忠政   
708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。


光秀の連歌、今愛宕になき事

2016年08月30日 17:23

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/30(火) 02:43:42.84 ID:6yQcpp99
光秀の連歌、今愛宕になき事

愛宕山で明智光秀連歌のことは、世にあまねく知るところであるが、
そのときの懐紙、伝わってかの山房にあるという。

予は今年阪昌成に〔連歌師〕にこれを問うと、

「寛政の末に、かの山で火事があったとき、このものも消失ました。」

とのことであった。貴むに足りるものではないが、旧物なので惜しいものだ。

そのときの百韻は今に伝写のものがあるという。

(甲子夜話)

燃えちゃったので、里村紹巴の書き換えも分からないままとなってしまいました