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松平の御家御相続繁盛となる事

2023年01月17日 19:07

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/16(月) 21:41:09.28 ID:Dz3TdecJ
武家閑談」の初めの話「松平の御家御相続繁盛となる事」

権現様は天文十八(十一)壬寅年十二月二十六日、岡崎の城にて御誕生。御胎内十二ヶ月という。
御童名は竹千代と称されたが、天文十三年三月の夜に御父・松平広忠卿の夢で
「神々は 永き浮世を まもるかな 薮のこころは 千代竹の宿」
という歌を金の短冊に書き、松につけたところで目が覚めたという。
広忠卿は不思議に思い、三河の大浜の称名寺十五世の住職・其阿弥に夢の話をしたところ、上人も同じ夢を見ていた。
そこでこれは竹千代殿が御繁盛するという吉夢だろうということで、御祝いの連歌興行をなされた。

また慶長三年(1598年)正月、伏見で権現様は吉夢を見られたため、二日に石清水八幡宮に詣でられたという。
すると正月十四日に、江戸の酒井忠則から使者があり、それによれば
米津清右衛門(米津正勝)の妻が元日の夜見た夢に、権現様が八幡宮に御参詣された。
そして烏帽子の神人が枝に短冊をつけて権現様に差し出して歌を詠んだという。
「盛んなる 都の花を 敬はで 東の松の 世をば継がるる」
この時から三年のうちに関ヶ原の合戦で天下を御手にされた。
また天正十年(1582年)五月二十八日、明智光秀が謀叛の企てをこめて開いた愛宕百韻の十一句と十二句にも当家繁盛の吉兆があるという。
「立ちつづく 松の梢や しげるらん」御子孫繁盛の吉兆
「浪にまがひの 入海の里」江戸繁盛の兆



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これぞ二佛の中間といふ

2022年08月20日 18:19

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/19(金) 22:16:51.61 ID:5B9ZDfFj

悪逆をなした明智日向守(光秀)が召し使った、鑓かたげ(鑓持ち)の中間があった。
六尺ゆたか(約180センチ超)なる男で、あまりにも大きいと、人はみな「おふほとけ」(大仏という意味か)

と名をつけた。

この者、日向殿へ何やら不足があって、頭を剃って引き籠もった。日州これを聞いて、久しきもので
あるからと、不足を叶えて呼び返され、又鑓をかたげた。人々はこれを見て一首連ねた

「おふほとけ あたまをみれば また佛 これぞ二佛の中間といふ』

寒川入道筆記



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/20(土) 11:53:16.25 ID:09wOHaV6
にぶつ【二仏】 の 中間(ちゅうげん)
釈迦が入滅したのち、五六億七千万年を経て、彌勒菩薩が仏となって出現するまでの中間の時期。
この期間は、無仏の世であるから、地蔵菩薩が仏にかわって衆生を救うという。

検索してきた

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/21(日) 09:02:58.98 ID:iOUIyI9Q
大(おお)は古語で「おほ」だったね。

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/21(日) 12:44:24.85 ID:AmPbRHnx
字面だとアへ顔感でるな

小幡景憲が又聞きした有名な信長のパワハラ 付、権六も被害に

2022年04月19日 18:42

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/18(月) 18:51:46.68 ID:F7aHokVL
景憲家伝」より、小幡景憲が又聞きした有名な信長のパワハラ 付、権六も被害に

信長は長篠で勝ってからことのほか不行儀が増した
柴田修理(勝家)すらも主の小鼓にて柴田に熊谷(能の敦盛)の脇を申し付け、「男(主役のシテ)見事とて脇無用引込候へと呵(大声で叱る)」
甲州没落のときも諏訪にて明智光秀の陣取りが見事だったことに嫉妬し、「明智があたまを打、その上小姓ともに明智があたまを打候へと被申、榊原小平太(康政)われら所より使に行、則其次の間にて見之物語仕る也」

榊原小平太もドン引きしたのか嬉々としてしゃべったのか
権六はいらない子

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/18(月) 18:54:43.65 ID:F7aHokVL
又聞きと書きましたが、正確には家康が語ったことを小幡景憲が記した部分です



流石にその親にその子である。

2022年03月24日 19:05

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/24(木) 17:52:15.63 ID:w8CAMmwt
明智光秀の臣であった熊谷宅右衛門の子・宮内は、後に水戸光圀公に仕えた。
彼は不思議な人物で、能の達人であるという評判を光圀公が聞き召され、度々能を仰せ付けられたのだが、
兎角に病気などと申して、終に勤めなかった。

ある時、江戸にて客の接待が有った時、又々能を仰せ付けらてたのだが、この時は相勤める旨を申し上げた。
しかし光圀公は、当日に至って詐病を言い立てお断りを申すと思し召されていたのであるが、何事もなく
相勤めた。
彼は元より音に聞こえたほどの上手であったので、大いに御感有った。
ところが能が終わって楽屋に入ると直ぐに、病と称し、その後五十日ほど罷り出でなかった。

その後は絶えて能を仰せ付けられることは無かったが、いかなる思召か、やがて足軽を御預けあった。
そして御鷹野などの節はいつも召し連れられた。

ある時、夜詰の折に様々の咄を申した諸に、芸の話になったのだが、宮内はこのように申した

「士は第一に、芸の為に名を奪われないことが大事なのです。これを悪しく心得ると、肩に出来た瘤が
首を押しのけるようなものです。芸ばかりになってその身は無用の人となってしまいます。」

と申すと甚だ御感あり、「流石にその親にその子である。」と仰せになった。
その後御側の衆に「宮内が私の申し付けた能を度々受けない事に、なにか思慮が有るのだろうと
思っていたが、私の所存の通りで満足である。」と仰せになり、宮内は一両年の内に政事にも
預かるようになった。

(紳書抄)

明智光秀の家臣、熊谷宅右衛門の子についての逸話



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/25(金) 13:24:13.57 ID:h8ZDB8vG
人から達人と思われていても本人が納得してなかったのなら披露できないよね

その願が満たされるまで

2022年03月14日 18:19

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/14(月) 13:54:55.47 ID:LugW9j32
井戸忠右の家に伝わる話によると、井戸若狭守明智光秀の親族であったという。

槇島城に在った時、明智はこのように言った
「それがし、思うことあり。その願が満たされるまでは、大国は与えない。小国を一つ参らせよう。」
これを若狭守も聞き咎めぬ顔で居たが、その後光秀は遂に謀反した。然ればこれは光秀が、昔から
その謀反を考えていたという事であり、一朝一夕の思いつきでは無かったという事なのだろう。

紳書抄



「博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

2022年02月22日 19:03

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:20:22.88 ID:0oyJsDMd
博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

栗山大膳は日本に類いなき勇気の持ち主で、黒田長政にも見込まれていたが、忠之の代になると「天下泰平の昨今、ただの老人にすぎない」と疎んじられた。
寛永年間の六月に、知行所である嘉麻郡の間津村に出向いたところ、そこには大きな淵があり、日照りの時も水が枯れず、底が知れなかった。
ここに淵の主と言われる大きな魚亀(スッポン)がいて、近年は人をたびたび取って食らっていた。
そのため大膳は淵に赴いて、九尺ばかりあるスッポンを見るや、これこそが人を悩ませている亀だとして、鉄砲を取り出し、二つ玉で首の付け根を射抜いた。
スッポンはたちまち淵の中に沈み、淵は赤く染まった。
そのまま静かになったので、大膳は水練の達者な者を淵に入らせ、亀の首に縄をつけて引っ張ってこさせた。
淵から上げられたスッポンを見ると、身の丈九尺、幅五尺であり、民は大いに喜んだ。
栗山大膳は十六歳の時に武術を残す所なくおさめ、鉄砲を明智日向守光秀から伝来され、六十歳になってもこのような腕前だったと人々は語った。
これについては「武将感状記」にも記されている。
(「武将感状記」巻10「栗山大膳鳥銃の妙を得る事」では栗山大膳は榊の弟子としていて、鉄砲は百発百中の腕前だったとしている
また、栗山大膳は黒田騒動時でも40くらいのはず)

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:27:08.77 ID:0oyJsDMd
ついでに、
雑誌「西日本文化」に連載されていた石瀧豊美の「黒田騒動と『箱崎釜破故』」の第七回と第八回には
「お綱さんツアー・黒田騒動史跡めぐり」として

1.お綱の墓:福岡市東区馬出
2.黒田忠之の墓:福岡市博多区御供所町、東長寺
3.福岡藩刑場跡碑:福岡市中央区天神、福岡県庁跡、空誉上人の霊に悩まされた二十四代福岡県知事が建立
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13372.html
4.水鏡天満宮:空誉上人が住職をしていた智福寺跡
5.お綱門:扇坂御門?お綱が息絶えた場所
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13356.html
6.福岡家庭裁判所:お綱さんが斬り込んだ夫の屋敷跡、長宮院跡
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13366.html
7.鵜来島:箱崎釜破故で栗山大膳が密談した場所
8.空誉堂:福岡市中央区大手門の浄念寺境内
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13339.html
9.左右良(まてら)城:栗山利安が任され、子供の大膳の屋敷が麓にあった
10.龍光山円清寺:栗山利安が主君長政の冥福を祈るために建立した寺

と並んで
11.大膳楠:杷木町にあり、「箱崎釜破故」では栗山大膳が池の精の化身である大亀を射殺した事で運命が暗転するという因果応報譚となっており、
その池がかつてあったところに立っている楠を栗山大膳にちなんで「大膳楠」と呼んでいるという。
が紹介されていた。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:50:11.14 ID:0oyJsDMd
タイトルだけ見て関係がない話だと思ってしまった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4536.html
「大膳崩れ」


過去に出てきたこの話だと、亀を撃った後に大雨が降って土砂崩れが起きているが
博多細伝実録」だと、直後に雨は降ったもののすぐやみ、
淵は年々浅くなって田畑となり民の利益となった、
と書かれているため悪い話にはなっていない



本能寺にて囲碁の事

2022年02月05日 16:06

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/04(金) 22:25:17.41 ID:Xc5xSs4f
囲碁についての様々な話が書かれた「爛柯堂棋話」から
本能寺にて囲碁の事

天正十年、信長公、光秀が毛利征伐援兵に赴く武者押しをし給わんとて、江州安土より御登り、京都本能寺に御座あり。
六月朔日、本因坊(算砂)と利玄坊(林利玄)の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異の事に思いける。
子の刻過ぐる頃、両僧暇給わりて半里ばかり行くに、金鼓の声起こるを聞き驚きしが、これ光秀が謀反にして、本能寺を囲むにてぞありける。
後に囲碁の事を思い出て、「前兆ということもあるものかな」と、みな言いあえりとぞ。
その時の棋譜なりとて、今も伝えり。この碁を思い見るに、利玄が隅の石を取らるるを見損じたる、本因坊が布置・手配りの様子、これまた前兆とも言うべきか。

有名な話ではあるものの残されている棋譜(128手まで)
https://i.imgur.com/alX3zFc.jpg
alX3zFc.jpg

を見る限り、三劫の余地はないと思われるため捜索と考えられていた。
しかし
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab6176974f6bc9348e206a6426d2c13273407fc1
1万局に1回?本能寺の変前夜に出現の「三コウ」、出雲のプロ棋士が手順を発見


129手以降を考察した結果、159手目でついに三劫が出現する手順が見つかったらしい
棋譜については山陰中央新報を読まないとわからないようだが



お前の子供を我に預けてくれれば

2022年01月29日 15:34

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 18:45:33.10 ID:UuGmdRex
朝野雑載」より

明智光秀が丹波入国の時、亀山の町中を通っていると、14,5ばかりの童子が通りに足を出していた。
光秀が、童子の父で鍛治屋をしているものを呼ぶと
鍛冶屋「せがれですが元来足萎えなもので、御通りの際にたいそう無礼なことをいたしました。不具のため、どうかお許しください」
光秀「いやいや無礼をとがめたのではない。
かの者の眼差しを見るに常の者ではないと感じたためだ。
お前の子供を我に預けてくれれば養生を加え、もし病が癒えれば召しつかってやるぞ」
と言ったところ、父母は大いによろこび、すぐに童子を差し出した。
光秀が有馬の湯へ五七(三十五)日入れたところ、たちまち筋骨がのびて全快した。
光秀が小姓としてつかったところ、学ばずして知り、習わずして悟り、三宅弥平次としてまたとない出世をした。
二十一の時、光秀は苗字と名前を与え明智左馬助光遠と名乗らせ、斎藤(利光)、柴田(勝定?)と同様に家老とした。

というわけで明智秀満だか光春だか光遠が光秀に召し抱えられる話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13255.html
残金は後でやるぞ
読んでいてこんな展開になるんじゃないかとヒヤヒヤした



985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 21:21:40.73 ID:4zdSNWoW
温泉に一月ちょい入っただけで全快する足腰の病気って何だったんだろ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 21:37:03.64 ID:UuGmdRex
16才未満で起きる若年性関節リウマチで一時的に関節炎がひどくて特に寒いと症状が悪化し起き上がれなかったが
温泉で温めることによりリハビリがうまく行った説

明智秀満の素性も様々な説があるので考えるだけ無駄かもしれないけど

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:38:25.10 ID:VMzXvsVK
信長だったら不具なら足はいらんとか言って切断しそう

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:47:58.80 ID:hDc7u9xE
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1091.html
信長と山中の乞食・いい話

むしろ不具の乞食を援助している逸話があるのだが

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:49:08.55 ID:7sLbs1mK
ノブは民衆にはやさしいよ。敵対勢力には容赦ないが。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 13:37:33.90 ID:0D4nYdNh
信長が優しいのは親しい奴だけ
低信用社会に相応しい振る舞いをしてる

信長の京では品よく大人しくしとけという命令を破ったらどうなるか?

信長の命令通りに職務を遂行しようとした関所役人を斬って
更に放火しても森長可は親しいので無罪

建築中の二条城で小者が女の顔を覗き込む迷惑行為に遭遇した信長は
すぐさま駆け付け首を斬り飛ばした
小者は面識がないから躊躇なく殺す

ヤクザと同じで身内やそれに準ずるものには優しいが
それ以外は基本的に冷酷で気分次第
ねねに対して秀吉の浮気をフォローする一方で
女癖の悪い無名の家臣を処分してたりするし

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 14:17:10.77 ID:/ljEY9Dk
秀吉 「俺は信長(呼び捨て)みてーに甘くねえぞ!キリキリ働けこの野郎!」
脇坂 「」

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 14:41:06.63 ID:ruu5vpAV
>>991
この、旧主の諱を呼び捨てで書簡中に入れるのって当時の作法に叶ってるの?
故人だから許されるのか

可児郡池田の城主 池田織部正輝家

2021年05月01日 18:39

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 17:32:56.21 ID:9P2krZ2J
可児郡池田の城主 池田織部正輝家

当家も明智の一家にして、元祖は明智遠江守光朝の三男・三郎左衛門尉輝継が
初めてここに住し、それより以来、輝家まで当城主なり。

右の織部正は光秀に属し、後に城州伏見の城を守り、天正10年6月14日、
羽柴の大軍を引き受けて討死しける。

右の他にも明智の一家にして、隠岐・溝尾・奥田・三宅・藤田・肥田・池田・
瀬田・柿田・妻木などと申し、数代血脈の一門多くして皆ことごとく嫡家光秀
に属し、後には天正10年、山崎の戦にて滅びたりぬ。

明智光秀は信長に仕えて、わずか15ヶ年にして60万石余の大名となりぬ。
按ずるにかくの如く良き家臣等が皆もって一門たる故、身命を捨てて働きある
ために、自然と武功も優れてありしと見えたりという。

――『美濃国諸旧記』



君臣共に悪逆を共有している

2021年03月30日 18:09

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/30(火) 17:42:46.03 ID:N0+W4jyb
明智光秀は天正七年六月、修験者を遣わして丹波の守護、波多野右衛門太夫秀治の元に、光秀の母を
人質に出したため、秀治はその弟である遠江守秀尚と共に本目の城に来たのを、酒盛りをして饗し、
兵を伏せ置きて兄弟を始め従者十一人を生け捕りにして安土に遣わした。秀治は伏兵と散々に戦い、
この時傷を蒙り途中にて死した。信長は秀尚以下を安土にて磔とした。
丹波に残った者達は、明智の母を磔にした。
そして明智は終に赤井等を攻め従え、丹波を信長より賜った。

また信長、ある時酒宴して七盃入の盃を以て光秀にそれを呑むことを強いた。
光秀は「思いもよらず」と辞し申しと、信長は脇差を抜き
「この白刃を呑むべきか、酒を呑むべきか」
と怒ったため、光秀は酒を呑んだ。

その後、稲葉伊予守(良通)の家人を、明智が多くの禄を与えて呼び出したが、これに対し稲葉は
返還するように求めたが戻さず、信長からも「戻せ」と下知されたにもかかわらず従わなかった。
信長は怒り、明智の髪を掴んで引き伏せて責められた、この時光秀は
「国を賜り候へども、身の為に致すような事はせず、士を養うを第一としているのです。」
との内容を答えると、信長は怒りながらも追求を止めた。

東照宮(徳川家康)御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜられた、種々饗礼を設けたが、信長が
鷹野の時、立ち寄って見て、肉の臭くなっていると草鞋にて踏み散らした。
光秀が又新たに用意している所に、備中に出陣せよと下知された。
これに光秀は忍びかねて、信長に叛いたのだという

であれば、信長の暴なること元より論を待たない。
光秀は土地を攻略するために老母を人質として殺すという不孝を、信長は賞した。
君臣共に悪逆を共有している。終わりを良くせざること、理である。

常山紀談



涙を留めることが出来なかったのが、秀吉の双眼である

2021年03月29日 18:02

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/29(月) 15:22:42.62 ID:i9JLaDLA
(秀吉の主催した織田信長の葬儀にて)、その時、秀吉、御次丸(羽柴秀勝)は相共に焼香し、
十月十五日巳の刻、(信長は)無常の煙となし奉った。誠にこれ、一生別離の悲しみである。
一体誰がこれを嘆かないでいられるだろうか。
葬儀の間、涙を留めることが出来なかったのが、秀吉の双眼である。

偏に将軍(信長)の威気は天下を覆い古今に独歩していた。上は上皇(天皇)を安んじ奉り、
下は下民を憐れんだ。そのため、忝なくも勅使を立てられ贈官を給わった。
総見院殿大相国一品泰巌大居士と号し奉るものである。

秀吉が備中表において武勇を専らとし、謀策をめぐらせ給わなければ、どうしてこのように速やかに、
惟任(光秀)を退治できただろうか。
今、本意を達し、この孝養を行うこと、秀吉一世の冥加、末代の龜鑑である。

すなわち藻虫斎(大村)由己が、記し置く所である。万歳珍重である。

天正十年十月二十五日 謹んで之を誌るす

惟任退治記

秀吉が大村由己に編纂させた惟任退治記の中で、おそらく一番伝えたかった部分



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/29(月) 15:37:54.63 ID:h1DRfmDL
日付は重要やね

さらに心の許されぬ男である

2021年02月28日 17:04

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

備前老人物語



明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

2021年02月24日 19:17

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 18:55:29.04 ID:f7Vz/0wo
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1120.html
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

天王山の戦いの陣中で神官、僧侶、医者、御用達の町人が光秀のご機嫌伺いをしている中
烏丸二条下るの町人、塩瀬三右衛門が饅頭などの菓子を持参した。
光秀がその中から粽を取り出し、食べようとしたところ
鬨の声が聞こえたため、包み葉も解かずそのまま食べてしまった。
そばにいた人々は「さては光秀といえども心臆して狼狽したか」と囁いたが
他のものは「いやいや名将は軍のことをのみ考え寝食を忘れてるのであり、
包み葉を解かなかったのも軍を気にかけている名将としての証である」
と評したという



605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 19:31:08.70 ID:f7Vz/0wo
太閤真顕記」では塩瀬三右衛門が烏丸二条下ルの町人となっていましたが
塩瀬家が饅頭屋を営んでいたことから名前がつけられた
饅頭屋町の住所は烏丸三条通り下ルなので、三条が正しいみたいです

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 11:18:27.80 ID:vxvxZf9F
京都の上る・下るは良くわからんから調べてみたが
この場合は烏丸通りと二条通りの交差点(四辻?)を
南に行った所でいいのかな?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 13:11:43.82 ID:9+K9E1ef
厳密に言えば玄関がどこの通りに面して、どの交差点から近いかだな
烏丸通りと二条通りの交差点を南下すれば最短で塩瀬家に入れる

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 14:53:29.62 ID:vstcWqSj
https://dotup.org/uploda/dotup.org2396640.jpg
ちず

このように烏丸通りと三条通りの交差点の南に
「饅頭屋町」は今も位置している

いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命

2021年02月07日 17:28

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 16:48:57.43 ID:nyQaOx/U
6月朔日の夜、惟任日向守光秀は丹州亀山の城で反逆を企て、家臣の明智左馬助(秀満)、同次右衛門尉(光
忠)、藤田伝五(行政)、斎藤内蔵助(利光)、溝尾庄兵衛(茂朝)らを呼び寄せ、密かに閑所に請じて曰く
「各々、予がために一命を申し受けるべし。もし同心なくば予の首を刎ねられよ」と云々。

各々、黙口するところで左馬助が進んで曰く「臣らは主君のため、大事に当たってどうして猶予しましょうか。
某におきましては、まず畏まり入り候」と言った。残って四臣も皆これに同ず。

時に光秀言葉を設けて曰く「予が大悦これに過ぎず。さても伴の趣旨は予が身の上において大臣家(織田信長
の勘気を蒙り、誅伐に及ぶであろう事数多これあり。つまるところ、こちらから謀叛を起こし、いま大臣家の
無勢の在京を幸いとして、かの公に御事あらしめ予天下の主とならん。これすなわち止む事を得ざるの時なり。
各々、いよいよ同心においては、霊社の誓書を記されよ」と云々。

五臣すなわち誓書をしたため、この旨相違すべからざる由をひたすらに請け負い、人質を献じた。しかれば、
今夜光秀は多勢を率い、中国出勢の行装を大臣家へ御目に掛けるため上洛との由を披露せしめ、亀山より中国
への道筋三草越より取って返し、東面に馬を向けて大江山を打ち越え、左へ下って桂川を渡り越え、今夜暁方、
諸勢は本能寺へ参陣し、かの寺を取り巻いた。

同月2日明け方、光秀の総人数は弓鉄砲をしきりに放ち鬨をあげて本能寺を攻めた。大臣家を始め御小姓供廻
の面々まで、ただ当座の喧嘩による下々の騒動だろうと思い「各々御前近くで緩怠の働きとは、すこぶる慮外」
との由を仰せ出されたところ、次第に弾矢がしきりに来る。「さては謀叛か。誰だ」と仰せのところで森蘭丸
が門外を見帰り、惟任謀叛の由を申す。

大臣家は慌てることなく、不慮の大変是非に及ばざるの由で、自身矢を放って数多の敵を射殺し給う。

(中略。信長の近習たちが討死)

この時まで大臣家は未だ殿中において御弓を射給うところで、たちまち弦が切れてしまった。時に御弓を投げ
られ、自身また槍をひっさげて度々敵を突き払われた。しかるところで右の肘を槍で突かれ、御手重く進退叶
わず。これによって殿内へ入らせ給う。

その時まで女中は未だ御側に侍り、「女は苦しからず。早々に罷り出て一命助かり候へ」との由を3度仰せ下
され、すでに御殿に火がかかり来る時に奥深く御入りになり、内からも御納所口を引き立てられ、御切腹これ
あり。これは御姿を隠されるためだろうか。

その時、女房どもが取り巻いていて御最後の様体を見届け奉るという。また一説に御殿焼失の後、御死骸を探
し求めるといえども、ついに探し出せず、それかと疑う程の人もなかった。御自害か御討死か、人ついにこれ
を知らず。いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命。御歳49歳なり。

――『総見記



550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 18:38:20.19 ID:bjp1HABi
このころすでに「森蘭丸」表記?
後世に「森乱」から変えられたかもしれないけど

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 10:35:59.15 ID:bG7yJPbV
早稲田が公開してる総見記(織田軍記)だと乱丸表記だな

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 21:33:14.78 ID:hMmMh+W+
>>550
通俗日本全史版だと蘭丸でした

いよいよ御勿体なき御分別かな

2021年01月02日 17:21

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/02(土) 00:09:24.98 ID:BlHmGHBQ
明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、丹波の城の天守にてこのように言った
「私は信長に恨み多し。その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。どうだろうか?」

弥平次承って
「御恨みの事は、さもあるでしょう。しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」

そのように言葉を尽くして諫止すると、光秀もややあって
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日この話は止んだ。

その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、四人の家老を召し集めて、
先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、弥平次が申すことと変わらず、その時
光秀も、とくと分別定まって、「ならば皆々、この事を深く秘すべし」と約した。

その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して
「近頃私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした、その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、弥平次はこれを聞くと

「いよいよ御勿体なき御分別かな。それがし一人の口はいかようにも止められますが、
四人の口を止めさせるのは困難です。天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。時を移されれば、一大事と
なるでしょう。」

そう荒々しく申すと、その時光秀は、困難に直面した気色にて、前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが然るべしであろうか」とあった。
「ならば、家老共を召されて、『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている
事について、仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように』と、仰せになられるべしです。」

こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、終に
信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。

その後光秀は、京の定めをあらまし仕置して、安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に
弥平次を呼んで
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。弥平次はこれを聞くと「私のようなものを!」と、自分の鼻を指差して
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。

この談合の次第は、信長記にも見えないが、この時の状況をよく知っている人の言うままに、
ここに記す。

備前老人物語



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 00:11:51.94 ID:BFsaYPMf
江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね

左馬之助ってどっから来たんだろ

指合あればざうさなく直したり

2020年12月20日 16:51

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 09:40:35.21 ID:CZer3LRV
指合あればざうさなく直したり

烏丸光広が歌道の師・細川幽斎の言行を中心に書き留めた『耳底記』という書に
明智光秀の話題が出ているので抜粋して意訳。

一、雑談に云う。
  明智は連歌に指合(連歌の式目に違反していること)があれば簡単に直していた。
  全く(上の句、または下の句を)詠み加えることを知られていない理由である。
  馬を乗るのにも殊の外、上手や下手がある。乗らぬ先にすぐ馬が知るのである。
  それは下手は、乗るときに地団駄を踏んでからやろうとするのだが
  上手は、何ということもなくゆっくりと乗るように見えるのだ。



774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 12:54:43.63 ID:IIkZwpit
隠れていても馬は臭いでわかりまするぞ

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/20(日) 16:25:47.72 ID:0oo/Xw6N
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7020.html?sp
湯浴みを嫌がって泣き出すような烏丸光広のほうが臭うのでは?

その時は秀吉に内通して

2020年12月19日 16:07

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 22:06:27.21 ID:Z7QWz4kr
大和国は京都将軍家が末となり、武威が衰えた頃から天正の頃までは、国侍が相互に自立の
志を立てて、尽く戦国と成り、各地でせり合いが止まなかった。
そのような中で、筒井順慶は弓矢強く、殊に一門が広く有ったために、大半の国侍を討ち従え、
そして筒井という場所に城を築き居城とした。

さて、織田信長公が上方を御手に入れられた頃、順慶は明智光秀を頼んで信長公に出仕し、
松永久秀を倒し国中を従え、大和の旗頭となった。順系と松永については後に記す。

その後、天正十年六月、信長に対する明智光秀の逆心の時、光秀は筒井に使いを送り、

『信長公への怨み甚だにより、本能寺に押し寄せ、御腹を召された。それより二条の屋形に取り詰め
信忠公も御生害遊ばされた。しかれば、あなたと私との数年の親しみはこの時のためであり、
味方に与されるのであれば本望である。そうであれば、大和・紀伊・和泉の三ヶ国を与えるだろう。』

との内容を申してきた。順慶は家臣を集め、評議を行わせ様々な意見が出たが、家老達は何れも
「とにかく、明智の味方を仕るべきです。」との旨を申し上げた。しかしここで、松倉右近(重信)
がこう申した

「先ず出馬するという旨を、明智には御返答し、八幡山まで御出になり、彼の地は良き要害ですので、
暫くそこに御在陣されて様子を見られるべきです。定めて秀吉公は中国を引き払い打ち上がり、
明智退治を仕るでしょうから、その時は秀吉に内通して、逆徒を裏切るべきです。」

そう、たって諫めたため、順慶は一万余の人数で出馬し、八幡山に在陣していた所に、案の定
秀吉公が中国を扱いにして引き揚げ、尼崎に到った所に、順慶は使者を遣わし、明智に対して
裏切りを仕る事を申し上げると、秀吉公も御満足に思し召されたか、お頼みに成るとの御返答であった。

そして山崎表の合戦の時、秀吉公の先手、高山右近、中川瀬兵衛は明智の先手を突き崩したが、
この時筒井順慶も八幡山より人数を下し、淀川の辺りにて、敗軍の敵を五、六百ほど討ち取った。
順慶は、秀吉公に味方は仕ったが、勝負を見合わせた事について、秀吉公も無二の志とは思し召されて
いるものの、この時のことの故であろうか

筒井順慶は、信長公の時に、「相替わらぬ大和の大将である」と仰せ付けられていた。
そして秀吉公天下御統一の時、天正十三年、四郎殿(筒井定次)に伊賀一国を給わり遣わされ、
「伊賀守」と受領仕った。そして大和には、秀吉公の御舎弟である美濃守秀長に、紀伊・和泉・大和三ヶ国を
給わり御越になった。そして秀吉公の指図にて、筒井城を割り、郡山に新城を築き居城にせよとの事で、
郡山に城を取り立てたが、この縄張りも秀吉公御指図であった。
そこに秀長は在城し、大和の国侍達は何れも秀長の家来として成り置かれた。

大和軍記



明智令押領之由被聞食訖

2020年11月25日 17:02

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 15:12:48.57 ID:OxAEvWpj
元亀二年十二月十一日

早朝、竹門より御使として宮内卿が来られた。禁裏より織田信長へ綸旨を出すこと、
同じく薫物(たきもの)十貝を渡すことへの異存について返答した。
綸旨の内容は、このようなものであった

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖
諸門跡領之儀者、為朝恩天下安全之護持之事候條、
可混山門之儀更不可有之候、既及退転之間歎思召候、
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者、可悦思召之由、
天気所候也、仍執達如件、

(今度の山門(比叡山)の事について、諸門跡の領地を、明智光秀が横領していると(天皇が)聞き
及ばれました。
諸門跡領については、天下安全を護持するための朝恩であり、山門領と一緒にすべきではありません。
既に退転に及んだというその嘆きを思し召され、諸門跡領悉く、別儀無いと申し付けられれば、
悦ばしく思われるでしょう。
天気(天皇の意思)所候なり。執達件の如し)


十二月十日  左中辨 晴豐
   織田彈正忠殿

言継卿記

比叡山焼き討ち後、明智光秀が諸門跡領まで横領したことに対して、朝廷よりその停止を求めた
信長への綸旨。



佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う

2020年11月23日 16:16

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/23(月) 13:00:14.80 ID:ZmTOtX/e
日向守明智(光秀)云わく、佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う。
土民百姓はかはゆきこと也、と。
名言也

老人雑話

有名な話ですが、出典は老人雑話だったのですね



秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想

2020年11月14日 17:04

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/14(土) 12:20:30.26 ID:eKnM9SJ7
ある時、豊臣秀吉公がいつもの御参内の時に、御装束を召し変えられている途中、施薬院にこのように云われた

「私は尾州の民間より出たため、草を刈る術は知っていても、筆を取ることさえ知らず、もとより
歌、連歌の道などを知るべきもないが、不慮に雲上に交わりを成す身となった。

ただし、我が母が若き時、内裏の御厨子所の下女であったが、思いもかけず玉体に近づき奉った事があった。
その夜の夢に、幾千万の祓箱が伊勢から播磨を指して、隙間もなく天上を飛び行き、また、ちはやぶる神が
見え、人々の手をとったという夢想を感じて、私を懐胎した。

この夢想が当たったと見えて、私は信長公より、御唐傘を許され播州に発向し、即時に斬り平らげ、別所を
従え、それよりすぐに、九州(西国という意味)にかかり、安芸の毛利と対陣し、彼等を水責めに
攻め殺さんとしたが、無道の明智日向惟任めが、六月二日に信長公を討ち奉ったという飛脚が到来した。

この事、天下にやがて隠れも無い事になるだろうから、敵に知らせず上洛するのは悪しき事だと思い、
しかじかの次第にて急ぎ罷り上がり主君の御弔合戦をいたさんと欲する。ただしこのような状況を見て、
我々の跡を追撃しようと思われるのなら、却ってその武勇は弱きに似ている、尋常に、只今一戦して、
それを弔い合戦にいたすべき、と申し使わせた所、毛利家も、さすがにあわれなることと感じたのか、
又は秀吉が主君のために身を捨てて最後の合戦をいたそうとするのを、恐ろしく思ったのか、異議もなく
人質を出したため、我々はそのまま上洛し、憎き惟任が鉾をほこりにほこって清龍寺まで出張してきたのを、
六月十三日に、山崎表より突き崩し、雑兵まで残らず討ち果たした。

惟任は主君の御罰が当たったのか、冥加尽きて、厠の中で、汚き百姓に殺されたが、その首を取り寄せて、
去る二日に失い奉った本能寺の焼け跡に、梟首にかけて我が鬱憤を散じたのである。

しかしながら、もし信長公が生きていた時、これほどの忠功を致して悦ばせ奉れば、一体どれほど自分も
嬉しいだろうかと、猶悲しみの涙が出て、しきりに落ちる故に、紫野にて御葬を勤め、太政大臣の御位を送り、
大徳寺に一宇を建立し、総見院殿を崇め奉ったのである。

(戴恩記)

秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想