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その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申した

2019年01月10日 17:45

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 19:56:15.67 ID:O6+KCoqz
天正10年(1582)午の年、信長公は甲斐国の武田四郎勝頼を御追罰のために、近江安土の
御城より御馬を出された。ただし先手は信忠公に仰せ付けられ、城之介殿は岐阜から御出陣なり。

家康卿は駿河口より御入りになられ、その他にも方々口々より飛び入れば、勝頼は甲府の家城を
開け退かれ、同国の田野里山林で討ち果てられた。その後、御仕置を残すところなく仰せつけら
れて駿河国を家康卿に進ぜられ、同年4月初め頃、信長公は安土の御城に御馬を納められた。

そこに家康卿が駿河国御拝領の御礼のため、穴山殿を御同道されて御上洛の由を聞こし召されて、
明智日向守の所をその御宿として仰せ付けられた。

そのようなところに、信長公は御もてなしのあまりにか、肴などの用意の次第を御覧になられる
ため、御宿を御見舞いになると、夏ゆえに用意された生肴は殊のほか鮮度が落ち申していたので、
門へ御入りになられるや風に乗って悪臭が吹き来たり、その香りを御嗅ぎ付けられて、もっての
ほか御立腹された。

信長公は直ちに料理の間へ御成りとなられ、「この様子では家康卿の馳走はできない!」と御立
腹になられて、堀久太郎(秀政)の所へ御宿を仰せ付けられたのだと、その時節の古き衆の口か
ら以上の通りに受け賜った。

信長記(信長公記)には『大宝坊の所を家康卿の御宿に仰せ付けられた』とある。この宿の様子
は二通りあると御心得なさるべきだろう。

日向守は「面目を失った!」と木具膳や肴の台、その他用意した取り肴以下を残らず堀へ打ち込
み申した。その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申したと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 11:01:21.60 ID:+0PwuB4l
信長「このアライを作ったのは誰だあっ!!」

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 15:07:09.56 ID:T4ak4Lvy
お堀ってゴミ捨て場でもあったんだね
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武士のうそをば武略と云

2018年12月07日 13:15

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 21:58:59.27 ID:VriDoSJN
日向守明智云う、仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆきこと也と名言也。
(老人雑話)


光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市

2018年12月02日 17:55

491 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/02(日) 16:19:37.68 ID:q8TVdi1P
既出じゃないと思ったけど、既出だったらすまん

光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181202-00010000-tanba-l28


(前文略)
 織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。

 そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。

 そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。

 土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。

 光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」

 すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」

 ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」

 まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。

 ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。

 兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。

 しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。

 柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。

 「昨日は、うめき声がもれていた」
 「一昨日は、しくしく泣いていた」

 のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。

 霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
 (参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』)



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 19:01:31.44 ID:3VrTm9J6
光秀のとこが忠興だったらしっくりくるんだが

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 21:50:49.81 ID:bbdeZ+zx
>>491
光秀らしくないなぁ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 23:53:13.05 ID:IOgcy9Nw
矢匠も命がけの仕事なんだな

495 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/03(月) 04:17:19.68 ID:DcTOfOoq
相当ストレス溜まってたのかなぁ?
この間評判の良い鈴職人が馬具用に大量の鈴作った後に殿様に殺された逸話も出てたけど、理不尽な事したら大抵後で返って来るよね。

おそらくこれが信長であった

2018年11月22日 18:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 20:25:38.67 ID:ucCeN/Yq
明智日向守が本能寺に押し寄せ、その軍勢が織田信長の御座所まで入った時、日向守の家臣である
天野源右衛門、鑓を持って縁へ上がると、鴨居に兜を当てて尻餅をついた。そこに森乱丸が鑓で源右衛門の
外腿を突いた。その後乱丸は内へ入ったが、源右衛門立ち上がり、障子越しに人影を見てこれを突いた。
おそらくこれが信長であったのだという。

(武功雑記)



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 22:08:46.32 ID:sPYXC3wR
確かこの人はこの後に森長可の部下になるんだよな
そして信長と同じ日に死んだ

順慶の小姓

2018年10月20日 11:51

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 09:11:19.83 ID:k5oh/zxF
明智光秀が織田信長を弑した時、筒井順慶は光秀と親しかったため、彼は必ず光秀に与すると
人々は考えていた。

池田紀伊守(恒興)は家臣の日置猪右衛門、土倉四郎兵衛、丹羽山城の三人を使いとして順慶のもとに
派遣させることにした。三人はこれを承って「順慶がもし明智に与するようであれば、我々が刺殺します。」
と申し上げた。紀伊守は
「いやいや、汝らが死ねば私は片手を折られたのと同じだ。」
と、これを制したが、三人は

「順慶と戦した場合、どれほどの手負い討死が出るでしょうか?この三人を以て、多くの味方と
変えるのです。順慶を打ち取れば、光秀も必ず敗北します。」

そう申して順慶の元へと向かった。

筒井順慶は彼等に対面すると
「どうして光秀の不義に与しようか!すぐに信長公の弔い合戦をしよう!」と言った。
それを語る内容は偽りとも思えなかったため、三人は喜んで帰っていったが、その道すがら、
丹羽山城が語った

「今日、順慶が否と言えば刺し殺そうと考え座中をきっと見回した所、彼の傍らにあった
16,7歳ほどの男、順慶の刀を持って居たが、その面魂は只者ではなかった。
私が順慶に飛びかかれば、即座にこの頭を二つに切り割られそうだった。」

これを聞くと日置も土倉も「そうであったか、我らもそう思っていた。」と頷いた。

その刀持ちの小姓は牧野兵太といって、武者修行をして世に聞こえた剛の者であったという。

(常山紀談)


信長四国征伐の事情

2018年10月08日 18:37

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 17:44:01.59 ID:N7Ecm7CH
元親(長宗我部元親)は天正4年(1576)よりおよそ7年の間に四国を切り従え、天正10年には元親が
ことごとく押領した。(原注:長曽我部記・土佐軍記)信長公はこれを御聞きになって元親に対し、

「土佐・阿波両国は与えよう。伊予・讃岐は献上せよ」と仰せ遣わされた。元親は「これは思いも寄らぬ仰せ
かな。それがしが四国を押領したのは、まったくもって信長から恩賜されたわけではない。すべてそれがしが

数年武力をもって切り取った国々である。何の子細があって信長に進上することだろうか。仮に討手を差し
下されようとも、どうして容易に避け渡すことであろう」と返答した。これに信長公は、

「元親は猛勇に誇り、不礼の返答をしたことは捨て置けぬ。それならば武力をもって討ち滅ぼすべし」と仰せ
になって三男・三七信孝に四国を拝領なされ、「手柄次第に切り取るべし」と丹羽五郎左衛門長秀・

織田七兵衛信澄(津田信澄)・蜂屋伯耆守頼隆を差し添えなさった。この輩は「近日中に四国へと押し渡って
長宗我部の領国をことごとく切り取り、元親のこの頃勝ち誇る矛先を挫く」と大軍を引き連れ摂津住吉の浦に

参着した。折しも梅雨の晴れ間もないので大坂の城で人馬を休め、雨が晴れて順風の時節を待って過ごした。

古写本の長曽我部記、ならびに土佐軍記を捜索するに元親は四国押領の後は織田殿へ5,6度も使者を出して
ますます昵懇との旨を記し、織田殿がとかく争論したとは見えない。まして信孝の四国拝領のことも聞こえず。

今その事情を按ずるに、元親は明智光秀の被官・斎藤利三の妹婿である。それゆえに元親がその初め織田殿へ
通じた時も光秀の計らいであっただろう。とすれば光秀の救援となるのは元親の右に出る者はいない。

織田殿は近頃光秀を快しとされなかったために、その助けとなるであろう元親をまず除きなさらんとの内意で
元親へは御指図もなく信孝らをただちに討手に遣わされたのか、または三好笑岩(康長)は秀吉の甥・秀次を

養子としたわけだが、いま四国で元親に従わないのは三好一族ばかりであった。その三好が元親に攻められて
危うきこと旦夕に迫るゆえに、笑岩から秀吉の備中の陣へそのことを申し送って愁訴し、秀吉から織田殿へ

四国征伐を勧めてにわかにこの事が起こったのか、この二つの内どれかだろう。元親の側ではその事を知らず、
その内に織田殿も横死され、信孝らも大坂まで出軍したのみでこの事は止んだために、四国の側ではこの事に
ついてまったく取り沙汰さなかったものであろう。

――『改正三河後風土記』


光秀のもとに、このような天晴の武士が

2018年10月04日 21:36

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 18:42:28.47 ID:1Z/FlA7k
さて羽柴の大軍は稲麻竹葦の如く十重二十重に坂本城を取り巻いた。左馬助(明智秀満)は先日光秀が安土
より奪ってきた信長公が秘蔵された不動国行の太刀・二字国俊の刀・薬研藤四郎の脇差、並びに柴の肩衝・

乙御前の釜・紺ふこの水指・虚堂の墨蹟などを唐織の宿直物に包み、女房の帯に結びつけ天守の武者走りへ
持ち出した。左馬助は大声を揚げて「寄手の人々に頼み入れ候! 明智日向守光秀は運尽きて討死したこと

によりその妻子はことごとく刺し殺し左馬助も只今自殺仕るなり! 明智の一族滅び候ともこの品々は天下の
重宝であり、一時に焼け失われるのも無念なれば目録を添えて御渡し申し候!右大臣家の君達へ進上されて

給われかし!」と言い、かの包みを天守より降ろした。数万の寄手はこれを見て「かつて松永弾正が平蜘蛛
の釜を打ち破って後に、自身も切腹した多聞山城の有様とは雲泥の違いである」と感涙を流した。

その後、左馬助はかの二の谷の兜と雲龍の陣羽織に金子百両を添えて小姓1人を使いとし、坂本の西教寺に
送って亡き後の法事を頼むと、今は思い残すことなしと光秀の妻子と自身の妻子をも共に刺し殺して焼草に

火をかけた。そして天守が半ば燃え上がるのを見て腹を十文字に掻き切り、火の中へ飛び入って名を今の世
までも残しける。「どういうわけで主君を弑逆する程の光秀のもとに、このような天晴の武士がいたことよ」
と、感動しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 22:58:34.67 ID:1Rdjvim5
爆弾正「茶釜が勝手に爆発したんですよ」

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 04:47:49.18 ID:GksxLCZm
それ創作

「心得たる者もあるものかな」

2018年09月28日 11:38

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 00:24:15.78 ID:yCmDMxb0
本能寺の変の後、京を静めた明智日向守光秀は『明日西国に出陣する、なれば京町中の者ども
御礼に上がるべし。則ち東寺の四ツ塚にて請け給うべし』とあり、京の町衆は「ならば畏まり候」と、
思い思いに進上をした。

ある者は饅頭、粽、餅の類。ある者は樽、肴、菓子などを進上した。また一方に

「いやいや、そういう類の物は世も静謐に治まり互いに裃などを尋常に着て御館にて請けられる時は
然る可きだが、既に甲冑をよろい、旗指し物を取り付け、馬、武具が黒煙を立て東西に馳せまわり、
しかも鳥羽の野原にて請けられ給う礼なのだから、干し飯などこそ然るべきである。」

そう言って干し飯を積み上げて参らす者も多かった。

そのようにしている内に、日向守が四ツ塚に床几を立てさせ現れ、この町衆の進上を見て、
干し飯を参らせたのを「心得たる者もあるものかな」と殊の外喜び、その後このように言った

「洛中の礼を請けた以上、その印がなくてはならない。今後町中の地子役(固定資産税)を宥し置く」

そう御諚され、皆は「有り難し」と喜び勇んで帰っていった。

(義殘後覺)

本能寺の後、光秀にとても好意的な京の町衆であった



320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 19:17:47.74 ID:WbciJMTk

>>319
あとはまとめの4860
京都屋地子免除由来
だと、明智光秀が織田信長を討った際、
「信長は殷の紂であったのだ!」と言ったら京童たちは
「光秀は自分を周の武王に例えているのか。片腹痛い」と心の中で思ってた
て話もあった

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 20:18:43.91 ID:vdEL2s7b
>>319
まぁその時点で京都を武力で実効支配してるのは光秀だから
良い顔しとくわな
その裏で面従腹背してるのが京都人クオリティ

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 10:57:57.91 ID:c1DMZ+wW
民衆はどこの地域でもそうだろ
地侍だって強者の前では内股軟膏だ

明智光秀の最期

2018年09月22日 17:47

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/22(土) 14:13:27.79 ID:khh+DCR8
(山崎の戦いの時)

光秀は先手が追々敗走するのを聞いて心中大いに悶乱し、後悔しても甲斐もなきことであった。時に御牧
より使者がやって来て早く引き取りなされと諫めるも、光秀の心は一向に定まらずとやかくと先延ばした。

比田帯刀秀照が光秀を諫めて「進むも退くも時による。先々今夜は青龍寺まで引き取り、明朝は坂本へなり
安土へなりと引き取りなされ。安土には左馬助(明智秀満)が2千余騎で在城しておりますから、いまだ

頼みがないわけではありません。早く早く!」と勧めると、光秀は途方を失って「青龍寺はどの方向だ!」
と尋ねた。帯刀は馬から飛び降りると光秀の馬の轡を取り、馬を引き立てて進めた。しかし敵は早くも道を

差し塞いだ。進士佐左衛門と関田太郎八は馬前に進み、前途を遮る敵を攻め破り引き返しては追い払った。
光秀はようやく逃げ走らんとするも本道には敵が充満して行くこと叶わず、田間の小道を過ぎて青龍寺の

総構堀に馬を乗り入れ土居を登らんとしたが馬は疲れて登れず、進士佐左衛門が来て光秀を馬から降ろし、
その馬を引き上げて光秀を抱え乗せ大手の橋より青龍寺に入った。光秀が櫓に上り四方を望めば、

敵の大軍は雲霞の如く、その旌旗は風に翻る。「ああ夥しき軍勢かな! 敵の人数は3万7千5百余騎とは
聞いていたが、かくも目に余る大勢は近国の勢が集まったのか、それとも味方の人数が敵に加わったのか。

四面楚歌の声したる項王の陣中も同じ思いであったのか!」と光秀は慌てふためいた。そこで人数の着到
を試みたがその人数を見るに、申の刻までは騎士530騎、弓鉄砲の軽卒6百人余いたものが、それも酉
の刻には上下百人に満たなくなった。光秀はよほど心取り乱したのか、この6月の極暑炎熱であるのに

朝から着ていた具足を着替えずに、まず坂本へ引き取ってともかくもせんと評議一決し、夜半の鐘を待ち
青龍寺を逃げ出た。付き従う輩は一番に明智勝兵衛(溝尾茂朝)、その後より光秀、進士佐左衛門、

堀尾与次郎、山本仙入、三宅孫十郎、村越三十郎らであった。その後、小栗栖の方へと小幡の古道を急ぎ
行くと、傍の藪陰にたむろしていた百姓一揆どもが落人と見て、藪の中から真っ先に進む勝兵衛を突いた。
(原注:原書は村越三十郎とする)勝兵衛の甲冑は札の良い胴丸なので裏を突き通しはしなかったが、

馬から突き落とされた。その次に乗り来る光秀は胴腹を突き抜かれた。光秀はあまりに狼狽してこの6月
の炎熱の中で今朝から着ていた具足を着替えもせずにいたので、槍はぐさりと具足を突き通した。

光秀は「憎き奴!」と言いながらそこを乗り抜けたが3町ほど進んではたと落馬した。供の者ども大いに
驚いて駆け集まり「坂本までの道はもう近くです!」と申したところ、光秀は腸を見せて「我が命ここに
留まる。もはや助かりがたし。汝らは我が首を切って知恩院へ送ってくれ候へ」と言うので、

やむなく勝兵衛が介錯し光秀の首を打ち落とした。この時、光秀齢59(原注:武徳編年集成に57)。
母を人質として磔にかけてより37日、主君を弑逆してよりわずかに12日。不忠不孝の天罰巡るのも
早き理、天地神明の冥鑑こそ恐ろしきものである。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/22(土) 16:49:37.68 ID:Civtyswb
>>194
生々しくてイイ(・∀・)!

斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候

2018年09月21日 10:01

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 05:57:48.32 ID:fX5WZda+
(山崎の戦いの時)

斎藤内蔵助利三は最初から今日は総敗軍と覚悟していたため、味方の敗走を見ても少しも屈せず、なんとしても
神戸三七殿(織田信孝)と一戦して今日の恥辱をそそぐべしと心掛けており、その子・伊豆守(利宗)と手勢を

整えてまったく動揺せず、静かに人数を進め山崎総構の東方の川を隔てて陣を立てた。その川は大河ではないが
近日降り続いた長雨によって水嵩は増え渦を巻いて流れた。ここに三七信孝の陣中より野掛彦之丞という者が

名乗りただ一騎馬を乗り入れ先に進んだ。内蔵助の子・伊豆守16歳、これも斎藤勢よりただ一騎川へ乗り込み、
川中で1,2度打ち合うと見えたが、双方押し並んでむずと組み合い水中へと落ちた。

これを見て斎藤の家士が一同に伊豆守を救おうと川へ乗り込むのを、内蔵助は大声を揚げて「武士の子16歳!
敵1人討てずして生きても甲斐なし! ただ捨て置け!」とこれを制した。その間に伊豆守は野掛の首を取って

下の瀬より岸に上った。これを切っ掛けとして敵味方は鉄砲矢戦となり討ちつ討たれつ喚き叫んで攻め戦った。
中でも内蔵助は大声を揚げて、「私は利仁将軍(藤原利仁)の後胤、斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候!

恐れながら、三七殿にとって御親の仇随一の者である! 御自身で私を御討ち取り下さるべし!」と言いながら、
信孝の本陣へ父子手勢は必死になって切り入った。その時、中川瀬兵衛清秀の2千5百騎が横合より打って

掛かり、斎藤勢を引き包んで討ち取らんとした。これによって信孝は斎藤勢を散々に討ちなされ、過半が討死
したので内蔵助・伊豆守父子も叶わずして一方を切り抜け跡をくらまし落ち行った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


織田信長公は信を堅く守る人物であった。しかしそれ故に

2018年09月21日 10:00

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/20(木) 22:38:34.64 ID:myQ+WRsY
織田信長公ご自身は、金石をも欺くほど、信を堅く守る人物であった。
しかしそれ故に、人の非を以ての外に悪まれた。そして臣の職分に違う事があれば、
殊に記憶し忘れること無く、一旦はそれを宥しても、腹の中に籠め、多くの年月を経て
何人かは流罪に処せられた。

一善を賞する時は衆も善を励み、一悪を罰する時は衆は自らの悪を恐れる。況やその類悪であれば
なおさらである。これを以て惟任日向守(明智光秀)は、己がこれまでした事を顧みて、
非義が累積していると感じた。しかし

「それを弁解した所で宥してはもらえないだろう、今はそのような色が見えなくても、今後必ず
戒められるだろう。」

そう思い究め、却って逆寄せして弑したのだ。

自分は忠を尽くしても、人が己に忠を尽くすことを欲するべきではない、という言葉があるが、
これが至当であろう。上下共に旧怨というものは、義を優先して捨てるべきなのだ。

(甫庵信長記)

信長が、自分と同じ倫理基準を家臣にも求めたために結果として裏切られ殺された、という批評。



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/20(木) 23:22:50.07 ID:FJ0UgTgQ
>>186
突然過去のやらかしを理由に追放されたのが林秀貞だけじゃなかったならなおのこと光秀じゃなくても誰かに討たれそうだな

敵は皆腰印を捨てたるぞ!

2018年09月20日 21:05

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 23:35:47.29 ID:9YaWm/t0
(山崎の戦いの時)

御牧兄弟(量重・量則)は初め一番に敵中に馳せ入って攻め破り、また一方を切り抜けて人馬の息を休めた。

「伊勢(貞興)も諏訪(盛直)も討たれたと見えて旗・馬印は乱れ走っている。近江勢は皆逃げ失せ、天王山に
たむろしていた松田(政近)を初め丹波侍も敗北したのか堀(秀政)と堀尾(吉晴)の旌旗が山風に翻っている。
今や総敗軍と覚ゆるぞ。光秀の先途を見届けるまでもない、ここで討死して光秀を落とすべし!」

このように兄弟は相談して、光秀の方へもその旨を申し送って兄弟一同に敵中へ突き入り死物狂いに奮戦すれば、
池田(恒興)・中川(清秀)らの大勢はこれをあしらいかねて見えた。

その時、池田紀伊守元助はこれを見て鞍壺に立ち上がり旗を打ち振るって高らかに命じた。

「敵は皆腰印を捨てたるぞ! 目当てにして組み合い討て!」

そのように元助が牙を噛んで命じると、総勢がこれに心付いて勇み進んで討つにつれて、御牧兄弟を初めとして
2百余騎の軍士は枕を並べて討たれたのである。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


堀と堀尾は難なく山を

2018年09月17日 18:00

堀秀政   
292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 17:48:45.23 ID:HRhvRU/p
(山崎の戦いの時)

寄手の勢は羽柴筑前守秀吉が以前からこの周辺の地理をよく知っており、天王山を敵に取らせては
味方の大事と推し量った。そこで堀久太郎(秀政)と堀尾茂助(義晴)を呼び、

「汝は早く天王山を取り敷きて敵を山上にたむろさせてはならぬ!」

と命じた。ここは山崎宝積寺の旧跡、堀尾は元来気早の勇士であり弓・鉄砲の兵2百人を先に立て、
えいえい声を出して進んだ。堀久太郎も続いて人数を押し登らせんとす。

光秀がかねて命じていた松田太郎左衛門(政近)は山上にたむろしており、堀尾の人数を上げまい
と指揮してこれを防ぐ。堀尾は弓・鉄砲の者を先に立て「やれ上がれ上がれ! 上がると勝つぞ!」

と言いながら登る。山の土はぼろぼろとして登り悪し。松田は山上より「やれ防げ防げ! 上げると
負けぞ!」と精を入れて命じ防ぐ。一方、堀久太郎は道を変えて横合いから押し登った。

松田の勢も激しく防いだものの、羽柴方は義に勇む人数が前後より激しく攻めたて、松田も鉄砲に
撃たれて散々に追い崩され、堀と堀尾は難なく山を取り敷いた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』


この儀、別の仔細に非ず

2018年09月17日 17:10

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 12:34:03.11 ID:c3AbbcRr
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った

「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」

これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。

そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」

そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。

光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」

そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。

(甫庵信長記)

光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。


光秀天罰逃れ難く

2018年09月16日 17:28

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 17:35:28.33 ID:gJvnQJNT
(山崎の戦いの時)

光秀の先手・斎藤内蔵助(利三)は狐川の向こう岸より使者を立てて、光秀を諫めた。

「今日の合戦は御延期然るべし。筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に
拠って一戦されれば、安土に左馬助(明智秀満)がおりますので後詰の便りもあります。

そうでなければ、すぐにこれから安土に籠城されて然るべし。以前から申すように山崎の地
は味方にとってよろしからず。大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地です。

合戦の雌雄は只今にて候。時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなります。」

このように申し送ると光秀はこれを聞いて、

「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん! 汝そこまで恐れる
のならばそこを引き取って当手に来るべし! 先手は他人に申し付けん!」

と罵ったため、使者は大いに恐れて立ち返りその旨を申した。内蔵助はこれを聞いて、

「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり」

と言って嘆息した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』



147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 23:41:16.22 ID:w7XezzrT
>>146
斉藤さんって謀反にノリノリだった説と諌めた説があるけど
これは諌めた説を下敷きにしてるのかな

南坊が最初に総門を固めたのは

2018年09月13日 21:13

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 14:10:04.47 ID:Lb9DTZ1/
(山崎の戦いの時)

明智勢総軍1万4千余人は淀を出て狐川まで打ち立った。先手は川より向こうの方へ出張、
光秀は川より東に陣取った。明けて6月13日寅の刻、池田父子(恒興・元助)が

山崎表へ進んで見れば、高山南坊(右近重友)は総門を差し固め他の兵は1人も通行させ
なかった。池田父子はこれを見て、「高山は異心か! 油断するな!」と言いながら、

川に沿って細道より山崎の東総構の外を巡り、明智勢に打って掛からんと馬を速めて急ぎ
行く。南坊はその間に総門より打ち出て池田勢より遥かに先に進んでいた。

かくて南坊が最初に総門を固めたのは他の勢を入り交えずして先陣せんと心掛けた武辺の
嗜み、素晴らしくもまた殊勝なことよと敵味方ともに感じ入った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


勝敗は互いに天運に任せ候

2018年09月12日 22:06

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 17:10:37.08 ID:48VXc6XE
(山崎の戦いの時)

羽柴方総軍3万5千5百余騎は龍の雲を得て虎の風に嘯く猛威にて、6月12日に摂津尼崎を打ち立ち、
先陣はすでに山崎天神の馬場芥川辺りに充満したため、後陣はいまだ西宮清水の辺りに妨げられた。

その日の晩景、秀吉から光秀の洞ヶ峠本陣へ堀尾吉晴が使者として申し遣わされた。

「光秀が叛逆して主君・信長公御父子を弑逆奉る由を、備中高松城で承った。秀吉は不肖の身ながらも
いやしくも人の臣として、主君が弑逆にあわれたのを他所に見ることはできない。すみやかに叛臣を

誅戮して亡君の御憤りを安め奉らんと夜を日についでここに参着した。明くる13日、久我畷辺りにて
互いに雌雄を決せんと、その旨使命を通ずるものなり」

光秀も柴田源左衛門雄全(勝定か)をもって返答した。

「よくよくの御使者もっとも祝着するところに候。光秀が織田殿を恨み奉ることは世の人口に膾炙する
ところであり、今更事新たに申すに及ばず。明日の合戦は光秀の本望これに過ぎず。

勝敗は互いに天運に任せ候」

光秀はこのように使者を返し、急いで明日の合戦の手配を行った。

――『改正三河後風土記』


「ああ天なるかな!」

2018年09月01日 21:21

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 02:23:17.54 ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 13:55:32.52 ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

本圀寺襲撃と入札

2018年08月31日 17:29

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 10:36:09.89 ID:Nd9a42yo
永禄11年、織田信長は将軍・足利義昭を帰洛せしめ、六条本圀寺を以て仮の御所とした。
翌年正月3日、三好山城守、日向守、下野守、岩城主税等、一族蜂起して京中に乱入し、
六条本圀寺を取り囲みに懸った。

これに足利義昭は、自らの諸勢に下知して本国寺を持ちこたえさせた。
この時、門役(警備役)は入札(投票)を行い、入札の内17枚までが『明智十兵衛尉(光秀)』と
書かれた。また武者奉行の入札の内7枚までが野村越中守とあり、双方過半を超えもはや他の入札を
開く必要なく、これによって入札で決定される指揮官役は両名に命じられた。

彼らの指揮は著しく、何れもその剛操を以て、この襲撃は不意に起こったにもかかわらず
六条を持ち固め、三好の一党はついに引き上げた。

(士談)

三好三人衆の本国寺襲撃の時、義昭の側で指揮者を投票で決めていたらしいというお話。
光秀人望有ったのね



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 12:43:53.84 ID:ENxn/IaS
それを言うなら投票で指揮官を決めさせた義昭の企画力だろうな
流石は信長包囲網を編み出した知将だわ
場当たり的な謀反で横死したハゲとは違うんですよ

かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』