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お前の子供を我に預けてくれれば

2022年01月29日 15:34

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 18:45:33.10 ID:UuGmdRex
朝野雑載」より

明智光秀が丹波入国の時、亀山の町中を通っていると、14,5ばかりの童子が通りに足を出していた。
光秀が、童子の父で鍛治屋をしているものを呼ぶと
鍛冶屋「せがれですが元来足萎えなもので、御通りの際にたいそう無礼なことをいたしました。不具のため、どうかお許しください」
光秀「いやいや無礼をとがめたのではない。
かの者の眼差しを見るに常の者ではないと感じたためだ。
お前の子供を我に預けてくれれば養生を加え、もし病が癒えれば召しつかってやるぞ」
と言ったところ、父母は大いによろこび、すぐに童子を差し出した。
光秀が有馬の湯へ五七(三十五)日入れたところ、たちまち筋骨がのびて全快した。
光秀が小姓としてつかったところ、学ばずして知り、習わずして悟り、三宅弥平次としてまたとない出世をした。
二十一の時、光秀は苗字と名前を与え明智左馬助光遠と名乗らせ、斎藤(利光)、柴田(勝定?)と同様に家老とした。

というわけで明智秀満だか光春だか光遠が光秀に召し抱えられる話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13255.html
残金は後でやるぞ
読んでいてこんな展開になるんじゃないかとヒヤヒヤした



985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 21:21:40.73 ID:4zdSNWoW
温泉に一月ちょい入っただけで全快する足腰の病気って何だったんだろ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 21:37:03.64 ID:UuGmdRex
16才未満で起きる若年性関節リウマチで一時的に関節炎がひどくて特に寒いと症状が悪化し起き上がれなかったが
温泉で温めることによりリハビリがうまく行った説

明智秀満の素性も様々な説があるので考えるだけ無駄かもしれないけど

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:38:25.10 ID:VMzXvsVK
信長だったら不具なら足はいらんとか言って切断しそう

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:47:58.80 ID:hDc7u9xE
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1091.html
信長と山中の乞食・いい話

むしろ不具の乞食を援助している逸話があるのだが

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 11:49:08.55 ID:7sLbs1mK
ノブは民衆にはやさしいよ。敵対勢力には容赦ないが。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 13:37:33.90 ID:0D4nYdNh
信長が優しいのは親しい奴だけ
低信用社会に相応しい振る舞いをしてる

信長の京では品よく大人しくしとけという命令を破ったらどうなるか?

信長の命令通りに職務を遂行しようとした関所役人を斬って
更に放火しても森長可は親しいので無罪

建築中の二条城で小者が女の顔を覗き込む迷惑行為に遭遇した信長は
すぐさま駆け付け首を斬り飛ばした
小者は面識がないから躊躇なく殺す

ヤクザと同じで身内やそれに準ずるものには優しいが
それ以外は基本的に冷酷で気分次第
ねねに対して秀吉の浮気をフォローする一方で
女癖の悪い無名の家臣を処分してたりするし

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 14:17:10.77 ID:/ljEY9Dk
秀吉 「俺は信長(呼び捨て)みてーに甘くねえぞ!キリキリ働けこの野郎!」
脇坂 「」

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 14:41:06.63 ID:ruu5vpAV
>>991
この、旧主の諱を呼び捨てで書簡中に入れるのって当時の作法に叶ってるの?
故人だから許されるのか
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いよいよ御勿体なき御分別かな

2021年01月02日 17:21

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/02(土) 00:09:24.98 ID:BlHmGHBQ
明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、丹波の城の天守にてこのように言った
「私は信長に恨み多し。その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。どうだろうか?」

弥平次承って
「御恨みの事は、さもあるでしょう。しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」

そのように言葉を尽くして諫止すると、光秀もややあって
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日この話は止んだ。

その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、四人の家老を召し集めて、
先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、弥平次が申すことと変わらず、その時
光秀も、とくと分別定まって、「ならば皆々、この事を深く秘すべし」と約した。

その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して
「近頃私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした、その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、弥平次はこれを聞くと

「いよいよ御勿体なき御分別かな。それがし一人の口はいかようにも止められますが、
四人の口を止めさせるのは困難です。天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。時を移されれば、一大事と
なるでしょう。」

そう荒々しく申すと、その時光秀は、困難に直面した気色にて、前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが然るべしであろうか」とあった。
「ならば、家老共を召されて、『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている
事について、仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように』と、仰せになられるべしです。」

こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、終に
信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。

その後光秀は、京の定めをあらまし仕置して、安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に
弥平次を呼んで
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。弥平次はこれを聞くと「私のようなものを!」と、自分の鼻を指差して
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。

この談合の次第は、信長記にも見えないが、この時の状況をよく知っている人の言うままに、
ここに記す。

備前老人物語



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 00:11:51.94 ID:BFsaYPMf
江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね

左馬之助ってどっから来たんだろ

寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子

2019年01月14日 17:12

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 18:56:01.30 ID:iwxzEU62
(坂本城落城の時)

城中では坂本城にやって来た弥平次(明智秀満)を見付けて、上下に至るまで勇み喜ぶこと限りな
かった。それから弥平次は人数に役目を行き渡らせて「ざっと務めよ」と申した。人数は偉丈夫で
はなかったが、そこかしこに配置した。その後、湯漬けを取り寄せてゆるゆると食すると、天守に
鉄砲の薬を開けさせた。

弥平次が天守から寄手を見渡せば、すでに城を半分ほど取り巻いていた。寄手は堀久太郎殿(秀政)
である。弥平次殿は天守から降りて塀の周囲を駆け回り、自身でそこかしこで鉄砲を撃ち、城を持
ち固めているように敵に見せかけ、また天守へ取って返すと、諸々の道具を取り出した。

弥平次は新身国行の刀と吉光の脇差、虚堂の墨跡を夜の物(夜着や寝具)に包み、目録を添えて、

「やあやあ、寄手の人々へ申す! 堀監物殿にこれを渡されよ! この道具は私ならぬ天下の道具な
れば、ここで滅しては弥平次は傍若無人と思し召される故、渡し申す!」

と申し、天守からこれを落とし申し候事。ややあって堀監物は返事をし、

「御目録の如く、少しも違いなく受け取り申した! しかしながら、申したき子細がある! 日向守
殿(明智光秀)が内々に御秘蔵なされた真の倶利伽羅の吉広江の御脇差はどうしたのか!」

と尋ねた。これに弥平次は返事して、

「その道具は上様(織田信長)より日向守が拝領された御道具である! 秘蔵の吉広江の脇差は久太
郎殿やその他の大名衆も御存知のように、越前国が破れた時に、朝倉殿の御物奉行が肌に差して出て
行ったところを、後に日向守が密かに聞き出して求め置かれたものだ!

渡したいとは存ずるが、光秀が命もろともと内々に秘蔵された故、私めの腰に差して死出の山にて
日向守に渡したいがためである! その事を御心得なされたい!」

堀監物とは現在の丹後守殿(秀政の従甥直寄)の親の事にて候。

(中略)

弥平次は真の倶利伽羅の切り物のある吉広江を、言葉を違えずその時に失わせた。

「時刻が移って敵が乱入すれば外聞は見苦しいであろう」と弥平次は覚悟を定め、日向守殿の御前
所(正室)と自身の内儀を手に掛けひたひたと刺し殺し、その脇差を取り出して天守の戸を開いた。

「寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子を見習って手本にせよ!」

と弥平次は言うと、腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇ったのだということである。

後に焼け跡の灰を探してみると、残りの刀や脇差、その他の道具の形は確認できたが、吉広江の脇
差は見付からなかった。その後、古井戸からこれを取り出したが、すでに腐ってその形も見分けら
れず、「おそらく吉広江であろうか」と人々が推量するだけであったと聞いている。

松永殿(久秀)は首と平蜘蛛の釜を見せなかったが、この脇差の収め様もよく似ていると人々は申
し合ったと承り候事。

――『川角太閤記』



633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 20:38:19.00 ID:cDY2A0Xz
>>629
>腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天の空へ昇ったのだ
美しい…

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 23:31:45.01 ID:2dhPlWF7
全然悪い話ではなくむしろ良い話に思える

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 23:44:19.36 ID:0ukWP+Ka
>伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇った
松永弾正「爆死はわしの専売特許だぞ」

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 14:49:45.95 ID:928moBb/
>>629
>死出の山にて
>日向守に渡したいがためである!
これでほんとにそれだけ失われたってのがロマンティックで良いなぁ

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 15:37:18.95 ID:Qplf3XGe
誰かーロマンティック
止めてーロマンティック
胸がー胸がー苦しくなるー

光秀のもとに、このような天晴の武士が

2018年10月04日 21:36

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 18:42:28.47 ID:1Z/FlA7k
さて羽柴の大軍は稲麻竹葦の如く十重二十重に坂本城を取り巻いた。左馬助(明智秀満)は先日光秀が安土
より奪ってきた信長公が秘蔵された不動国行の太刀・二字国俊の刀・薬研藤四郎の脇差、並びに柴の肩衝・

乙御前の釜・紺ふこの水指・虚堂の墨蹟などを唐織の宿直物に包み、女房の帯に結びつけ天守の武者走りへ
持ち出した。左馬助は大声を揚げて「寄手の人々に頼み入れ候! 明智日向守光秀は運尽きて討死したこと

によりその妻子はことごとく刺し殺し左馬助も只今自殺仕るなり! 明智の一族滅び候ともこの品々は天下の
重宝であり、一時に焼け失われるのも無念なれば目録を添えて御渡し申し候!右大臣家の君達へ進上されて

給われかし!」と言い、かの包みを天守より降ろした。数万の寄手はこれを見て「かつて松永弾正が平蜘蛛
の釜を打ち破って後に、自身も切腹した多聞山城の有様とは雲泥の違いである」と感涙を流した。

その後、左馬助はかの二の谷の兜と雲龍の陣羽織に金子百両を添えて小姓1人を使いとし、坂本の西教寺に
送って亡き後の法事を頼むと、今は思い残すことなしと光秀の妻子と自身の妻子をも共に刺し殺して焼草に

火をかけた。そして天守が半ば燃え上がるのを見て腹を十文字に掻き切り、火の中へ飛び入って名を今の世
までも残しける。「どういうわけで主君を弑逆する程の光秀のもとに、このような天晴の武士がいたことよ」
と、感動しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 22:58:34.67 ID:1Rdjvim5
爆弾正「茶釜が勝手に爆発したんですよ」

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 04:47:49.18 ID:GksxLCZm
それ創作

左馬助の馬

2018年09月29日 18:37

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 20:03:16.89 ID:9noaiQKG
明智左馬助(秀満)は2千騎で安土城を守っていたが、羽柴筑前守が3万余騎で西国より馳せ上り6月13日に
山崎表で一戦あると聞き、「敵は亡君復讐の義兵で勇気は激しく、味方は不義天罰を逃れまい。

私はこの城を誰のためにいつまで守るべきなのか。ただ山崎の勢に馳せ加わり光秀と死を共にせん」と志を決し
すでに出陣したところに、光秀は山崎の一戦に打ち負け、青龍寺にも堪りかねて坂本へ引き返そうとし、途中の

小栗栖で土民のために討たれたとの噂を聞き「それでは出軍しても仕方ない。坂本城へ引き返して光秀の妻子ら
を刺し殺し、自分もこれでは甲斐もないゆえ直ちに自殺せん」と思い定め、粟津を北へ大津目指して馳せ帰った。

羽柴の大軍は昨日の勝ちに乗じて堀久太郎秀政を先手とし雲霞の如く群がり、えいえい声を出して大津松本の間、
おものの浜打手の浜辺まで押し来たり、光秀の居城・坂本を一呑みにせん勢いであった。羽柴勢は左馬助と札の

辻辺りで出合い頭に出で逢いたちまち戦いを交えた。左馬助は真っ先に駆けて右往左往に馳せ廻り、力を尽くし
花々しく戦った。しかし左馬助の2千騎は大軍に引き包まれてあるいは討たれ、あるいは落ち去り、今は左馬助

1人となって、ついに一方を切り抜けて名にある琵琶湖へ馬をさっと乗り入れた。左馬助のその日の出で立ちは
“二の谷”といわれる名高き兜、白練に狩野永徳が描いた雲龍の陣羽織で大鹿毛の駿馬に跨り、さざ波や志賀の

浦風に立つ波を蹴立て蹴立て、唐崎の1本の松を目指して静々と馬を泳がせた。羽柴の大軍は口々に「今に見よ、
左馬助は水に沈んで死ぬであろう」とこなたの湖岸に立ち並び、ただうかうかと眺めていた。左馬助はやがて

唐崎まで事もなく乗り付けたため、大津浦で眺めていた大軍は「ややっ、左馬助は海上を渡ったぞ!」と湖岸を
西へ喚き叫んで馳せ向かった。左馬助は唐崎に乗り上がり、1本の松陰で馬から降りて松の根に腰を打ち掛け、

追い来る大軍を遠見して休んでいたが、追兵がすでに4,5丁に迫る時、ひらりと馬に打ち乗ってただ一乗りに
坂本へ馳せ入った。町中には十王堂があった。左馬助はその堂の前で馬から降り、手綱を切って堂の格子に馬を

繋ぎ付けた。そして矢立の筆を取り出すと帖紙を引き裂いて「この馬は只今湖水を渡った馬です。分捕った御方
はこの馬に憐れみを御かけになって下さい」と書き付け、手取髪に結い付けると自身は坂本城へと入った。

光秀の妻(原注:服部出羽守保章の娘なり。台徳公(徳川秀忠)の御生母・宝台院殿とは又従姉妹だという)は
自然・天然(原注:原書に二男・阿古、三男・乙寿)という兄弟の子を天守に登らせ、下に焼草を積んで寄手を

待ち受けた。羽柴の大軍は潮の湧くが如く追々嵩んで押し寄せた。その時、十王堂に繋がれた馬を見付けて秀吉
に献上すると、秀吉は大いに賞愛されて翌年の賤ヶ岳の合戦でもこの馬に乗られたのだという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 16:21:54.44 ID:mS5x8qWa
>>321
自然ってこのときすでに井伊直虎に匿われたんじゃなかったの?
と大河ネタ

この儀、別の仔細に非ず

2018年09月17日 17:10

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 12:34:03.11 ID:c3AbbcRr
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った

「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」

これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。

そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」

そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。

光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」

そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。

(甫庵信長記)

光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。


明智光秀とその周辺の、最期

2015年02月03日 18:52

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 12:11:00.66 ID:9SXo73QX
山崎の合戦で敗軍したのを見た明智光秀は、青龍寺の城へと馳せた入った。そして硬く包囲されていたにも
かかわらず、親しき従者5,6人を具して城を紛れ出て、坂本城に向かって落ちていった。

通常人の通る道は自ずから警戒されていると、道を変え伏見の北の方、大亀谷にかかり、山中にて
具足を脱いで、勧修寺を過ぎ小栗栖を通っていた所、野伏どもの声が聞こえてきた。
「この夜更けに馬の音がするのは、きっと落ち武者だろう。さあ具足を剥ぎ取ろうではないか!」
「そうしよう!」
そのように語っていた。

その日は水無月(6月)13日、月は高く登っていたが、たいへん曇っていて非常に暗い夜であった。
里の中道の、細くなっているとこをを進んでいた所、垣越しに付いてきた鑓が、光秀の脇に刺さった。
しかし光秀は素知らぬ体でそのまま通り、三町(約300メートル)ばかり進んで、里の外れで馬より転び落ちた。

従っていた者達「これはどうなされました!?」と問うと、
「先に里の中の野伏の声がしたあたりで、突き出された鑓にあたったのだ。
そこに居たままでは、野伏共が一層つきまとうと思ったので、さらぬ体でここまで進んだ。
しかし今はもう、先には進む事ができなくなったようだ。
我が首を切って、顔を深くうずめ隠すように。」

そう言って息絶えた。
従者たちは騒ぎたてたがどうすることも出来ず、言い残した通りに首を切って光秀が乗っていた
馬の鞍覆いに包み、道から一町ほど離れた、藪の茂っている溝に隠し、死骸も人に見られてはならないと、
道から少し脇に取り隠して、それから従っていた者達は、思い思いに落ちていった。

その頃青龍寺城では、光秀が城を出た後、城兵たちは城から逃げ出し、城を取り巻く軍勢に討たれ、
あるいは生け捕りにされるものも多かった。
生け捕った城兵に尋問すると、「光秀はまだ日が暮れぬ内に城を出た。それを知らなかったため
このような事になった。」と、みな同音に語った。
そこではじめて秀吉方は、光秀が青龍寺城を落ちたことを知り、「坂本に向かったに違いない」と、
軍兵を江西はと急がせた。

明智弥平次(秀満)は安土城にあったが、羽柴秀吉が西国より上り、山崎に合戦に向かったとの報を聞いて、
「この城を守ることは意味が無い、光秀様と合流しなければ。」と13日に安土を出て山崎へと向かったが、
丁度その頃、堀久太郎(秀政)の軍が安土へと向かっており、大津の打出浜にて弥平次の軍と行合、
交戦となった。弥平次の兵は多く討たれたものの、80余騎を率いて終に坂本城へと入った。

14日、羽柴秀吉は三井寺に至った。そこでは明智方の落人の首が方々より持ち込まれた。
その中に小栗栖の住人が、明智光秀の首を持ってきた。
「いかにしてこの首を取ったのか?」と問うと、「今朝、里人が外に出て、落人は居ないかと
見廻りをした所、藪の下でこの首を見つけました。立派な布に包まれ、いかにも常の人の物ではないと思われ、
あれこれと見ている内に、光秀を見知ったものがきて、これはその首だと言ったため、急ぎこちらに
持ち寄ったのです。」と答えた。

この首を見た秀吉は大いに喜び
「信長公を討った報いが早くも来たか!」と、杖でその首を打った。

弥平次は坂本の城に入ったが、従っていた者達も皆、自分の思うところへと様々に落ちていき、城を守ることも
出来ぬ有り様であった。そのため、光秀の子である”自然”と言う者を連れて天守に登り、敵が四方より
近づくと、自然を刺し殺し、天守に火をかけ、腹を斬って死んだ。

斉藤内蔵助(利三)は光秀の二無きものであったが。戦場を逃れ江西の堅田の井貝という者を頼り、
身を隠そうとしたものの、その井貝によって捕らわれ秀吉に差し出された。
そのころ、明智光秀はその遺骸も探しだされ、首とともに今日の粟田口に磔となって晒されていたが、
内蔵助もその傍らで同じように晒された。
(豐鑑)

豊鑑より、明智光秀とその周辺の、最期の模様である。




秀満は人目に触れないよう隠させた

2012年06月03日 21:04

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 00:51:07.53 ID:AdnI7bmv
明智左馬助秀満は本能寺の焼跡から信長の屍を捜索していた。
すると並河金右衛門が自ら討ち取った信長の首と白綾衣袖を持ってやってきた。
秀満はすぐにこれを人目に触れないよう隠させた。
金右衛門は「左馬助殿はそれがしの功を隠されようとなさるのか!」と怒った。
秀満は金右衛門を諭して言った。
「前右府殿(信長)はかつて甲斐征伐において勝頼公の首を罵詈されたが、今になって人々はこれを誹誇している。
もし今、殿に前右府殿の首を御見せすれば恨み骨髄に達しているゆえ、必ず陵辱されるであろう。
そうなると殿の汚名が末代まで残ってしまう事は必定だ。天命とは実に畏るべきものである。
そなたの功はわしが後日必ず証を立ててやるゆえ、今は黙ってわしの言う事を聞いてもらいたい。」
そして涙を流しながら頼み込んだ。
金右衛門もその志に感じて秀満に托す事を了承し、秀満は僧西誉に命じて信長の遺骸を葬らせた。

光秀は信長の屍がなかなか見つからないので斎藤(内蔵助)利三を遣わして秀満にこう伝言をさせた。
「その方は先陣となっておるのに未だ前右府殿の生死の明証を得ていないとはどういう事だ!
もし生き延びて逃げられていたならば既に我等は為す術が無くなってしまう。」
これを聞いて秀満は真実を利三に告げた。
利三も感じ入って、焼け焦げた白綾の衣を取って信長の死の証としたのである。

ところで織田信長を討ち取った並河金右衛門だが、明智軍が山崎の合戦で敗れるとその素性を隠して
後に加藤清正に仕え、江戸時代になってからも長生きていたそうである。




741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 01:02:18.69 ID:KXdInI4V
信長は死体損壊ばっかしてたから評判最悪でしたね