fc2ブログ

武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて

2022年07月17日 15:28

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/17(日) 13:02:25.89 ID:2ndILS+1
ある本に、明石氏(全登)の子である某は、大阪落城の後、田中筑後守吉政が匿い置いていたが、
その事が上聞に達し、御検議あらん為に、その家臣一人を奉行所へと召された。

忠政はこの事を重臣である平野長門と協議したが、長門は「最大事ですから、他人を遣わすべきでは
ありません。愚臣が赴きます。」と申した。

これを聞いた筑後守は落涙して、「余人を遣わさん!」と言ったが、長門は留まらず奉行所へ出て
陳弁した。そして御疑いがあり、拷問に及んだ。しかし平野はそれを嘲笑し
「申し上げるべき事無し!たとえ又あったとしても、武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて言うものか!」
と動ぜず、遂に責め殺された。そしてそれ故に筑後守は災いを免れ、明石の子もまたその跡を
晦ます事ができた。

新東鑑




スポンサーサイト



吉光の刀

2021年03月09日 18:36

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/09(火) 16:25:26.53 ID:rJk2FzJg
大阪夏の陣に於いて、石川主殿(忠総)の部隊が回収した名作の吉光の刀を、京都において
権現様(徳川家康)に献上した所、殊の外の御機嫌にて

「この刀は秀頼より明石掃部(全登)に授けられたものである。これを持った者を討ち取った時、
どのような様子であったのか」

とお尋ねに成ったため、この吉光の刀を取ってきた権太夫という者が急ぎ京都に召された。
しかし御問について「(明石掃部という人物は)見知り申さず候」との事であったので、その通りに
申し上げた。

その後、五、七年も過ぎた頃、台徳院様(徳川秀忠)の御咄に
「大阪で回収された吉光の刀は、明石掃部が所持していたものであった。その後、明石掃部の行方は
解らぬままであり、である以上、その時討ち果たされた者の中に有ったと考えるべきであるのだろうが、
あの刀を回収した主殿頭の者共は三河筋の者達で、上方の侍を見知らぬ故に、惣首数の内に押し込めて
しまったのだろう。」との上意であった。

『冬夏難波深秘録』



大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」

2020年05月27日 18:19

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 16:35:46.90 ID:rwYxnWI8

池田家臣の若原右京は殊の外肥満した大兵で、顔に指で押せそうな程の疱瘡の痕がびっしりとあった。
月代を半額にし長い刀を携えいかつい見た目ながら、弁舌鮮やかなゆゆしき男であった。
国清公(池田輝政)の御威勢が増していくにつれ、(池田家は)諸国の浪人を数多く扶持することになった。

ある日後藤又兵衛(基次)、明石掃部助(全登)、小倉作左衛門(行春)らが姫路に登城し
広間に陣太鼓が数々あるのを見て、又兵衛が
「当家で貝太鼓を司る者は誰であろうか」
と聞くとみな「知らず」と言った。ちょうど右京が縁側に通りかかったので再度聞いたところ
又兵衛が言い終わらないうちに「我が司っています」と右京が言った。
掃部が「武者奉行は誰であろうか」と聞くと、右京は
「某が承っています。諸法度相詞、物見のことまでみな我から申し付けています」と言った。
作左衛門が「陣場奉行は誰であろうか」と言うと、右京が「某です」と言ったので
各々のお尋ねはここまでとなった。

「総じて当地(姫路)は上方への往来があり、海陸肝要の所です。しかも近くには諸浪人の集う大坂が
 あり、秀頼公は若輩なので関東(幕府)の御内存が将来どうなるか分かりません。もし変があればと
 輝政は先手の旗本軍勢一切の備配りを兼ねてから定め置かれています。そのほか三カ国の国法軍法
 御不審のことがあれば尋ねてください」
と右京が言うので、三人は不興顔で言葉もなかった。
そこに「殿様御召しなり」と右京が呼ばれ、座を立った。掃部助は
「さてさて、尊大なことを言う憎き奴かな。あの男の働きといえば、関ヶ原一戦のみである。
 我らの前で、まるで人がいないような過言をするのは出しゃばりではないか」
と憤った。又兵衛は
「右京の無礼は譬えられないくらいだが、さりながらあの頬玉や人を手のひらに握り込むような
 様子は只者ではない。この家中で一人当千の者だろう。只今吐いた広言程度はやれぬ者ではない。
 太守は人を選び取る上手である」
とかえって感嘆したという。

それゆえ(右京は)播磨の童謡に
「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」
と謡われたという。これにてそのときの権勢思いやるべし。


――『池田家履歴略記



明石掃部介の子は

2016年05月08日 13:31

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 19:18:39.93 ID:TtGhYx1x
明石掃部介全盛(全登)は大阪落城の時、戦場より逃走し潜居した、という説がある。
これによると、大阪合戦の3年後、籠城の者御免という事と成り、明石も押して晴れたる身となったが、
既に老衰におよび、遂に病死した。

その子は明石の苗字を憚り、三方次郎右衛門(或いは三郎左衛門)と名乗った。
物に馴れた者であったが、元和年中に幕府が金山開発を発表した時、気のことを願い
佐渡の金山を掘る事への許可を得た。そこで彼の国に赴き掘り立てたが、金の鉱脈に当たらず、
父が蓄えた金をこれのため残らず失い、京都に帰ろうとした。

その道すがら、座頭の者が、官を進むための金を持って、同じく京に向かう所に行き会った。
三方はこの者に

「その金を是非貸して頂きたい!もしその気がないのなら殺害する!
我が願いが成就すれば即座に返済して官を進ませよう!」

そう命を捨てて言い放った。
座頭も、否といえばたちまち殺されると察し、力なくその金子を渡した。
三方はこの金を持って佐渡に立ち返り、再び掘りかけると、金脈に当たり、
これによって分限者となった。

こうして最前の座頭に早速返済し、検校の位に進ませた。
この座頭も、約束の信義を失わなかった三方に感じ入り、その後入魂の間柄と成った。

金山も次第に繁盛し、三方次郎右衛門は後に帯刀を御免あって、従者に槍など持たせて往来した。
その頃になると三方但馬と称し、裕福にして京に居住して生涯を終えた。病死の後妙覚寺に葬られ、
そこには今も彼の塔があるという。

このように、彼は佐渡において御用の役に立ったが、扶持は下されなかった。
しかし代官同様の待遇であった。

彼の息子は後年禁裏に仕え、深尾左近将監と名を改め、その子も将監を称し、孫は
左近将曹といって、従六位上であったが、享保13年(1728)に病死した。

(新東鑑)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 20:58:48.37 ID:Qdu+qghk
明石全登といえば
子孫がロシアにわたって反乱を扇動し
その後台湾の支配者になったとかいう伝説が

戸田勝成「恐らく左近は、」

2015年01月07日 18:52

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 22:38:53.29 ID:Co/gnY+p
備前宰相殿(宇喜多秀家)等は、惟新公の夜襲すべしという意見に賛成なさったが
治部殿とその寵臣・嶋左近(島清興)はこれに反対した。
特に左近の、主人の威を借りての人無げな無礼な物言いには、中務殿(島津豊久)も
大いに怒られたが、惟新公はこれを目で押しとどめてもはや何もおっしゃらず、不快の
念を隠そうとはしなかった。
宇喜多家中の明石掃部(明石全登)が、皆をなだめて軍議は早々に打ち切られた。
陣を立ち去る時、武蔵殿(戸田勝成/重政)が惟新公に「残念なことよ」と声をかけられ、
因幡殿(平塚為広)も同調して、惟新公は心慰められる想いをなされた。
中務殿はまだ憤懣冷めやらず、「嶋左近ごときに何が分かろうか」とおっしゃられると、
武蔵殿は「治部殿は戦の駆け引きに疎く、左近はしょせん大和でわずかばかりの
侍働きをして虚名を馳せただけで、その後は治部殿に仕えていたため、大戦(おおいくさ)
の経験がない。先の戦い(杭瀬川の戦い?)程度の小競り合いならともかく、此度の
ような戦で、あの二人が全軍の指揮を執るのでは、なかなか内府殿のような古強者には
勝てまい」と嘆かれた。
因幡殿が「治部は、左近に我が軍の采配を任せるのでしょうか」と問うと、武蔵殿は
「恐らく左近は、治部殿の家中をまとめるだけで精いっぱいであろう。端武者のごとく
前に出て、早々に怪我をすることになるのではないか。軍配を執ることはあるまい」
と答えられた。
武蔵殿は小身ながら知恵者と呼ばれた人であり、その言葉通り、嶋左近は治部殿の
先鋒を務めて侍大将としては活躍したものの、銃で撃たれて陣内に担ぎ込まれ、
西軍の大敗を見ることなく亡くなったということである。(兵忠記 「慶長合戦のこと」)



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 23:56:54.18 ID:Nenzv4jh
戸田さんは色んなところで褒められてるな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 04:34:44.96 ID:giNPOH3x
>>181、>>183
島左近は後世の評価が過大評価っぽいよね

・1550年に家督を継いだ幼い筒井順昭を盛り立てたと言われるが、当時の
 家臣団に名前が無く、初登場は1571年
・「筒井家の両翼(右近左近)」と並び称されたと言われるが、順昭が活躍した
 時代の両翼は松倉秀政と松田盛勝で、松倉重信(右近)と島左近はもっと後期
・実質的には定次時代の両翼だが、すぐに筒井家を出奔
 四国征伐には定次とともに従軍したようだが活躍の記録なし
・豊臣秀長・秀保に仕え、九州征伐には参加したが、秀長の病気により小田原
 征伐には参加せず、朝鮮の役でも秀保の渡海は無く、秀保配下の紀伊衆
 とともに水軍として活躍した形跡もなし
・その後に三成に仕官
 よってその戦歴は、ほとんど大和国内または信長-順昭、秀吉-定次配下での
 畿内の戦(紀州攻め・伊賀攻め)がメインで、大規模な戦は定次-四国攻め、
 秀長-九州攻めの2つのみであり、それ以降の10数年は、関ヶ原まで戦場での
 指揮の経験なし
・島氏は大和の在地土豪で、「山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」も
 嘘っぽい

大坂城、桜門に幟を一番に

2013年07月03日 19:51

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/02(火) 20:19:21.44 ID:rTXVgEIo
大阪夏の陣、幕府軍は遂に大阪城内に突入する最終局面となった。

私(水野勝成)は船場の道から城に乗り込もうと考え、その道筋を進んだ所、
船場方面から明石掃部の軍勢が押し上がってきた。そこは去年の大阪冬の陣で、
東堂和泉守(高虎)が仕寄せした場所であった。

敵はその道を押し上げ、鉄砲を一度に撃ち放つとそのまま騎馬の者達が突進した。
この攻撃に味方は追い立てられ崩れ、我々の手前まで逃げて逃げ駆けて来る。

私はその時馬から降りて立ち、

「卑怯者共!一体どこへ逃げる気か!?お前たちの顔は皆見知っているぞ!返せ!!」

と怒鳴ったが、聞くこともなく皆崩れ懸った。

この時私の家来である廣田図書、尾関左次右衛門と申す者達が鑓を手に敵へ向かっていった。
特に廣田図書は私のいた所から14,5町(およそ1.5~6キロメートル)先まで進み、敵と
鑓を合わせてこれを突き倒し、首を獲ったのを目撃した。

それから私も急ぎ進んで、廣田図書の首を取ろうとした者を突き倒し、図書を討たせる事を
阻止した。そして突き倒した者の首を

「これこそ鑓下の首(相手を倒し喉に垂直に鑓を突き立てたもの)である。この首をとれ!」

と言って、岸文左衛門と言う者に首を取らせた。
そして他のもの2名が私に向かってきたが、私は彼らを突きまくった。
するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を
突いてきた。私はその場でこの敵を突き倒し、傍に居た成瀬久太夫と言う者が走り出て

「この首を私が討ちます!」

と申したので、その首は久太夫に取らせた。

その後、敵は引いていったので、桜門に私の幟を一本、一番に立てた。
この時、幟奉行の神谷久右衛門と言う者を召し連れて出陣していたのだ。

二番に越前の一伯様(松平忠直)の幟が一本立った。
この二本より他に、桜門に立った幟はなかった。
(水野日向守覺書)

大阪夏の陣で、大阪城に乗り込む時の模様である。




598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/02(火) 21:18:00.17 ID:aeQlAzKj
強い人は本当に強いんだな

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/02(火) 22:09:41.90 ID:wnAbh2d7
>>597
するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を突いてきた。

派手な格好した奴が出てきたなぁ
金色の梨子打烏帽子型の兜に鳥尾の引廻し…
そりゃ格好まで強烈に印象に残るわな
実際、こうして勝成が思い出して語ってるわけだし
やられた奴も本望かと

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/02(火) 22:20:38.15 ID:xFdArd2N
安土城といい大坂城といい名城が焼け落ちて残ってないな

宇喜多滅亡の端

2013年06月21日 19:50

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 20:59:56.66 ID:CjYL87PR
文禄4年(1595)の夏、宇喜多秀家の妻(豪姫)が病に伏せた。その病状は物の怪に取り憑かれたようであり、
医者ではどうすることも出来なかった。そのため秀家は祈祷するようにと日蓮宗の僧徒に申し付け、
彼らは皆丹精して数日祈ったがその験無く、その後山伏が加持して平伏した。

秀家は日蓮宗に対して大いに怒り、「今後家中の者達は日蓮宗から改宗し、他の宗派になるように!」
と申し付けた。

この時、明石掃部頭(全登)はキリシタン宗を勧め、伴天連を呼び下したため、我も我もと
この宗派に傾かない者はないほどの状況となった。
しかし戸川肥後守(達安)は殊更に日蓮宗への尊崇が厚かったため、秀家に断りを入れて
そのまま日蓮宗を信仰した。その他、浮田左京充、岡越前守、花房志摩守、花房助兵衛、以下、
家中の半ばは戸川達安の一党と成った。

一方の長船紀伊守方には、中村次郎兵衛、浮田太郎左衛門、延原土佐といった者達が一味した。

明石掃部頭はこの宗門を広めただけで、両派いずれにも加わらなかった。

この様に宇喜多家中は和することが無くなり、常に騒動する状況となり、
そして遂にはこれが、宇喜多滅亡の端となったのである。
(戸川記)




904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 21:19:33.40 ID:AzboqeYI
浮田左京亮はキリシタンだよなぁ

明石レジナの事

2012年09月28日 20:59

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 21:50:03.28 ID:NErhFr3o
明石掃部(全登)といえばキリシタン武将として、大阪の陣で活躍したこと、有名である。
その明石掃部にはレジナと言う娘があった。
彼女は大変聡明な女性であり、父からも子供の中で最も愛され、大阪城にも父とともに入城した。
城内では淀殿から大変可愛がられ、ゆくゆくは一廉の領主と結婚させよう、と言われるほどであった。

慶長20年(1615)5月7日、大阪城陥落。
幕府方の兵が乱入し、レジナを見つけると暴行を働こうとした。レジナはこれに、命がけで激しく抵抗した。
そうしているうちに幕府方の兵の中から

「お前は何者か」
と聞かれ

「私は明石掃部の娘である!私を大御所様(家康)のもとに連れていきなさい!」
そう答えた。

兵士たちは彼女の要求を聞きとどけ、家康の元へと届けた。

レジナの事を聞いた家康は彼女と対面した。
家康はレジナの気高い態度にすっかり感心し、それを大いに褒め称えた。
彼女のことは異教徒の間でも評判となり、彼らはキリシタンを賞賛した。
そして家康は彼女の身柄を、家康の側室の一人である”オカモ”という女性に預けた。
その側室や周りの人々も彼女の態度、振る舞いに感心し、丁重に扱った。

大阪の陣の戦後処理にめどが付き、家康が駿府に帰るという時に、家康は再びレジナと対面した。
家康は彼女に、その父で戦後行方不明となった明石掃部の行方について尋ねた。
彼女は「時分は屋敷の中に居たので解らない」と答えた。
また自分の兄弟は5人いるが、そのうち一人はキリスト教の修道士になった、ということも答えた。

彼女は家康の前でも落ち着き、誠実に答えたので、その姿は家康の側近たちも賞賛するほどであった。

質問を終えると家康はレジナに、
「そなたは今後も、キリスト教への信仰を持ち続け、父である明石掃部の霊魂のため祈りを捧げるように。」

と言って小袖一枚と銀子を与えた。その上でさらに

「そなたが自由に、どこにでも行く事を許可しよう。もし北政所の所に留まりたいと思うのなら、私がその斡旋をしよう。」

とまで言った。しかしレジナはこれに

「私は恵まれない環境に身を投じることこそ、キリシタンとして神への純潔を守ることが出来るのだと考えています。」
と答え、その申し出を断ったのだという。

キリシタンの記録に見える、明石掃部の娘、レジナについての逸話である。
(シュッテ「1614-15大阪の陣と日本の教会」)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 21:58:22.94 ID:pml4fx5k
Reginaだと女王という意味だが
さすがに大層な名前ではないだろうし

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 22:04:27.16 ID:vYIjAbG1
この頃って禁教令が出てるよなぁ

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/28(金) 01:33:25.63 ID:m7NvOGZk
「連れていけ~」って言えば家康の所に連れてってくれるのねw

関ヶ原、黒田長政と明石全登

2011年07月29日 23:01

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 13:48:21.08 ID:uTik07+G
関ヶ原についての記事

『内府様(家康)の軍勢を荒らせし者で、明石掃部(Acasicamon)と薩摩の如く甚だしい者は
無かった。

その中でも明石掃部は退却せずして敵中に突入し、自害するよりも敵の手にかかることを望み、
しだいに敵に追い詰められもはや逃れるすべのない事を知ると、甲斐守(黒田長政)の軍隊に
乱入して最後の血戦を試みんとした。

甲斐守は乱入してきたのが、その挙動、及び軍装によって掃部であることを知り、声高に下知を伝えた

「おまえたち、彼を助けよ!殺してはならない!私が彼を生け捕りにする!」

この叫びに黒田軍は皆動きを止め、甲斐守は自ら明石の方に進み近づくと、その頭に手をかけて
抱擁し、涙を流して語りかけた

「我が友よ!我ら互いに敵となってここに見参することの苦しさよ。
勝ち誇る我軍によって敗れたと言っても、あなたの名誉は隠れ無いものである。」

これに明石は
「あなたが真の友ならば、その刀で今すぐに私を斬ってくれ!」

と答えたが、甲斐守はその言葉に従わず、それどころか自分の馬を明石に与え、
それに騎らしめて戦場を脱出させ、敵の命を救った。』
(モンタヌス日本誌)

日本の記録では見たこともない、関ケ原における黒田長政明石全登のエピソードである。




908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 19:35:31.71 ID:ZzTF9sjv
明石は関ヶ原の後黒田に保護されたんだっか。

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 20:13:21.79 ID:xsW++Brm
同じキリシュタンだからな
確かに可能性はあるなw

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 00:34:28.41 ID:kRyBlpXj
>>908
しばらくは黒田親子の下で厚遇されてたはず
長政としては自分で優秀な人間をスカウトしたい時期だったし
血の繋がりがある明石全登はうってつけだったんだけど
領内でのクリスチャンへのあたりが強くなった時に放置してたら
出奔されて又兵衛と一緒に大阪方に付かれるハメに