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「明赫記」忠平公木崎原御合戦の事

2021年09月29日 18:35

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/29(水) 14:41:14.01 ID:nYYkWdlb
明赫記」忠平公木崎原御合戦の事

本文のあらまし
元亀三年五月四日、伊東軍数千人が加久藤城に攻めてきて放火をしてきた。
忠平公(義弘)は慌てずわずか四、五十騎を連れて木崎原に打って出、
敵の伊東又二郎、落合源左衛門尉の大軍を打ちまかし、両大将も討ち取った。
忠平公自身も打ち掛かってきた柚木崎丹後守と肥田木玄斎を斬り伏せた。

原注:「木崎原御合戦伝記」によれば以下のようなことがあったとされる
・忠平公は夜中のうちに五十人の兵を相手の逃走経路に伏せ、遁走する兵を討ち取れと伝えてあった
・加久藤城の兵が本道を通って飯野亀ヶ城に移動するところを敵に見せ、城についたらそのまま間道から加久城に戻し、加久藤城を空城のように見せ、「攻めたら簡単に陥せるだろう」と敵に思わせた
・忠平公の奥方に仕える忠義な女中の密通が露見したため処罰のため縛られた。
奥方が哀れに思い女中を逃してやったところ、女中は伊東方に保護された。あとは↓の話とだいたい同じ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2473.html

・忠平公が、戦場で自分の馬の腰が折れる夢をみた。凶兆ではないかと占い名人の座頭・兼一に夢の内容を告げたところ
「馬の腰が折れたら御徒(おかち)になるので吉夢です」と言われ御機嫌がよくなった。
また兼一は琵琶法師として敵領にも自由に出入りできたので、敵将の賢愚、軍法についても情報を得てきた。
・白鳥山の光厳上人に白旗を用意させ、戦闘開始の際、山の高いところで百姓たちに白旗を上げさせ大軍がいるように見せた。
また紙で作った人形を配置し、白鳥権現の使いである白衣の神人の神助があるように見せた。
・不動寺の僧が陣僧をよそおって敵に近づき、隠し持っていた銃で敵将を狙撃し撹乱した。



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「明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事

2021年09月25日 15:54

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:50:19.98 ID:DzAydl/y
明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事

菱刈氏はもともと島津家臣で、球磨方との戦功により横川の地を賜ったが、増長し、島津を離反し球磨方についた。
義久公は菱刈方の馬越城を攻略するにあたって、数万騎を率い横川を押し通った。
これを見た菱刈方がいそいで味方の伊東・相良に連絡し、横川方の防備を強くした。
兵法に「虎の洞穴では東を打ってから西へ行け」とあるのを我が事とは知らない愚かさよ。
島津軍はたちまち道を変えて般若寺・構子木越の方面に発し、永禄十一年二十四日の早天に馬越しろに押し寄せ、鬨の声をあげて我先に切岸に攻め上った。
塀際にて先手の軍勢が大勢手負や死者となったが忠平公(義弘)が攻め上り、島津方は我も我もと攻め戦い、詰城の井手籠父子三人の首を上げ勝ち鬨を上げた。
菱刈方は、横川・湯尾方面は薩摩口のため厳重に警戒をしていたが、般若寺・構子木方面は険しいため、こちらから攻めてくるとはまったく予想外であった。
馬越一城が陥落したことで湯尾、本城、横川、曽木、羽月、山野、平泉、青木、一山の城はその夜ことごとく陥落した。
それでも菱刈氏は降伏せず大口城に籠り球磨方の援軍を待った。
(「惟新公御記」によれば馬越城攻めに当たって無数の松明の灯りが出現したため、
貴久公・義久公は「これは当家が信仰している稲荷大明神の奇火であり瑞兆である」として鬨の声をあげて攻め込んだという)

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