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小西行長の捕虜、景応舜

2010年12月14日 00:00

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/12(日) 23:10:50 ID:VGt/xQGi
同じく忠州絡みの話を

1592年4月24日尚州で李鎰に率いられた朝鮮軍を破った小西行長は、そこで景応舜という者を捕虜とした。
倭学通事であった応舜は日本語に通じており、行長は彼を朝鮮側との交渉の使者とした。
行長は応舜に秀吉からの手紙と礼曹(朝鮮の役所)への公文を託して解放すると共に
「講和の意思があるなら李徳馨を使者として四月二十八日に忠州で会いたい」との伝言を託した。
なお李徳馨は開戦前の交渉において日本側の使者を接待した人物である。

応舜の帰還によってこの事を知った朝鮮側は
事態が少しでも和らげばと応ずることとし、李徳馨も使者となることを希望したため
礼曹に答書を作らせて徳馨と応舜を忠州へと出発させた

が、その途中で忠州は陥落してしまい、一行は立ち往生する事となる。
応舜が様子を探る為に忠州へと向かったのであるが
運悪く加藤清正に捕まり、斬られてしまった。
徳馨はやむを得ず引き返し、講和の話はうやむやのうちに終わった。




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 00:48:57 ID:KDIT8k1C
運悪く加藤清正に捕まり

運悪いなホントに……。



7 名前:5[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 01:39:12 ID:AXAqysHt
ID変わっているけどちょっと補足を…
・行長が捕虜を講和の使者にしたのは景応舜が初めてではなかった。
 東來城で捕虜にした蔚山郡守の李彦誠という人物にも手紙を託して開放していたが
 彦誠は罰せられることを恐れて自力で脱出したと申し出て手紙のことを報告しなかった。
 が、応舜の書状に「前にも蔚山郡守に手紙を託したが返報がない」と書かれていた為発覚

・ルイス・フロイスの「日本史」に収められている行長から秀吉への書状にこの件に関する記述があるのだが
 そこでは景応舜は日本へ人質を差し出すことと明侵攻の援助を伝える朝鮮国王からの使者となっている。
 この記述が正しければ「仮道入明」は成功していたことに…

・宣祖実録によるとこの一件の後、朝鮮では「倭將逼擁馨爲主, 金誠一爲相」という噂が流れたという。
 李徳馨は直接指名を受けたせいで疑われたのか。
 金誠一はttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2066.htmlこういった件もあって当時は評判が悪かったらしい。




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