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氏郷の所労

2022年03月31日 17:00

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/30(水) 20:10:56.12 ID:Uvu0HEdg
会津宰相(蒲生)氏郷は朝鮮征伐の頃、肥前名護屋に於いて下血を患い、諸医技を既に尽くしたが、堺の宗叔が
いよいよこれを治した。私(曲直瀬玄朔)はその時、朝鮮まで従って帰り、上洛した。その後、翌年の
秋に法眼(曲直瀬)正純が語ったところによると、氏郷に宗叔は養生葯(薬)を進上したという。この時私は、

「名護屋にて所労(病気)の後、脈を診る事ができなかったので顔色を見たが、終に調わず、肌は黄黒く
首の付け根あたりの肉は痩せ消え、目の下にはわずかに浮腫があった。もしこれで腹が張れ、四肢がむくめば
必ず大事となる、
葯を進上するといっても分別があるべきだ。」と言った。

その後十一月に太閤秀吉公が蒲生氏郷邸に御成をなされ、私もその供奉をしたのだが、この時顔色を観察すると、
腫れはやや甚だしかった。その後張腫は増し、十二月朔日、太閤殿下は民部法印(前田玄以)の屋敷に座されて、
葯院(施薬院全宗)と私の二人を召されて、氏郷の所労は如何かと聞かれた。二人ともに
「終に脈を診ることも出来ませんでした。」と答えた。「葯は誰が与えているのか。」と問われた。
「堺の宗叔の葯」と申した。

その後秀吉公は、左右に在った大納言(徳川)家康、中納言(前田)利家の二人に、「諸医を召して
氏郷の脈を診せるように」と仰せになった。
すぐに上池院、竹田蘆庵、盛方院、祥寿院、一鴎、祐安、その他九名の医師が氏郷の床下に至った。
家康、利家が左右に在って、諸医は脈を診て退いた。

同月五日、前田利家徳川家康卿は私と一鴎を召して、氏郷の脈を診た上での診断を聞いた。
私は言った「十中九は大事(重体)であります。残りの一つというのは、年齢の若さと食欲のあることだけです。
しかしさらに食欲が減じ、気力が衰えれば、十は二十にもなるほど、大事となります。」

利家が言った「他の医師たち一人ずつに尋ねたが、或いは十に五つ大事、或いは十に七、八は大事と申した。」
そして宗叔を召し、「玄朔は十に二十も大事であると言う。残りの医師は、或いは十に五.六.七、八などと
云う。お前はどのように考えるか。」
宗叔曰く「十に一つほど難しいと存じます。」と申した。

その後、利家は私に対し「氏郷の所労はいよいよ悪化している。宗叔の葯を止めるべきだ。今日よりそなたが
治療をせよ。」と言われた。私は「宗叔の葯では十死であると見ておられるのなら、五日三日は葯を与えて
その様子を見るべきです。そうしなければそれぞれの治療を照らし合わせることが出来ません。」と申した。
そこで宗叔が召され、その旨を仰せられたのだが、彼は尚も「十に一つほど危ういのだ」と申した。
それ故に、翌文禄四年正月末、宗叔の葯が止められた。

蒲生氏郷は次第に気力衰え、食欲も減じた。一鴎の葯を与えたが、十余日にして果たして逝去した。

医学天正記

蒲生氏郷の病についての記録



422 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/30(水) 22:07:24.76 ID:f88ysiOU
>>421とは別の者ですが、文字化けが一か所あるようなので一応付け加えを。

坂浄慶、竹田定加、半井驢庵、吉田成方院浄忠、祥寿院瑞久、一鴎宗虎、祐庵

医師それぞれの名がこちらです。
秀吉は皇室や足利将軍家の侍医を番医として雇い入れ、身内の診察だけではなく味方にしたい有力者へ派遣して信頼を得ようとしたとか。


医学天正記』は症例ごとに患者の名と治療実績が書かれていますけれども、ちょっと面白かったのが正親町天皇は正親町院で、後陽成天皇は今上皇帝ってとこですね。

※管理人注
修正しておきました


423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/31(木) 10:50:28.35 ID:DaErJV62
肝硬変の末期症状だね

425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/31(木) 18:25:21.07 ID:u6Hz94cM
>>421
まとめ過去ログにやっぱ同内容のものがあったか
つか10年前だし致し方なし

蒲生氏郷の病
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7540.html
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沈痾によって臥せ

2022年03月28日 19:11

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/28(月) 18:00:38.53 ID:oDQvJ5ak
天正十五年(1587)春、毛利右馬頭(輝元公)は、関白大相国(豊臣)秀吉公が島津征伐のため
御動座された時、輝元は豊前小倉に在ったのだが、そこに於いて沈痾(長く治らない病気)によって
臥せ、吐瀉、下血が止まらなかった。心臓の下に堅いしこりがあり、左脚脛が腫れ、高骨に痛みがり、
更に歩行も出来なかった。

私(曲直瀬玄朔)は殿下の命によって小倉に至り、これを治療した。
十数日ほどすると、足の痛みは大半減じ、輝元は馬に乗って、豊後を経て日向に入った。
私もそれに従い、治療を続けた。

島津降参の後、豊臣軍は撤収したが、輝元も安芸吉田に帰り、秋の末に至って病は平復した。
そのため私も帰洛した。

この治療において、初めは朮苓、陳通巳役乳、近膝参甘の類い、後は参朮苓、甘霍朴、半貴、青芍、膠帰の
類いを処方した。出入りの加減によって平安となった。

医学天正記

九州役の時に毛利輝元が病に臥せていたらしいというお話


道三はその時すでに耳が遠く

2019年05月21日 14:16

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 21:02:18.44 ID:0sKb7zBq
老人(江村専斎)が幼い時、延寿院玄朔(曲直瀬玄朔)はすでに壮年で、故道三(曲直瀬道三)の
世嗣として、洛中医師の上首であった。人々は玄朔を敬慕した。故道三はその時すでに耳が遠く、
療治も絶え絶えとなり隠居した故である。

玄朔の療治は盛んに流行って方々から招待された。その時は肩輿という物もなくて、大きな朱傘を
差し掛けさせて高木履で杖をつき、何処へも歩いて行った。人々が羨むことであったという。

――『老人雑話』



蒲生氏郷の病

2013年05月19日 19:04

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 11:41:02.02 ID:X1lutpHf
会津宰相氏郷、蒲生忠三郎也歳は三十余。
朝鮮征伐の頃に肥前名護屋において患い下血し、諸医が技をつくしたが
堺の宗叔の治療で回復した。私はそのとき朝鮮にいたが帰って上洛した。

翌年の秋、法眼正純(曲直瀬正純)が「氏郷へ養生薬を進上しました」と
言ったとき、私は「名護屋で患ったあと脈は見てないが顔色をみたところ、
顔色が黄黒でやせが目立ち目の下がむくんでいる。もし腹が膨れて足に
むくみが出てきたら助からないので、薬を進上するときは気をつけなくては
いけない」と言った。

11月、太閤秀吉公の御成に私も供奉した時、また顔色をみたところ腫れが
はなはだしく、その後も腫れが増していった。

12月1日、太閤殿下が民部法印(前田玄以)の亭にいた時、施薬院と私の
二人を召して氏郷の病状について尋ねられた。二人は「脈を診ていませんので
判りません」と申し上げた。
薬は誰が与えているのかと尋ねられたので「堺の宗叔です」と申し上げたところ、
左右におられた大納言家康、中納言利家の二人に「諸医を召して脈をとらせよ」
と仰せられた。

即座に上池院、竹田驢庵、盛方院、祥壽院、一鴎、祐安、その他あわせて九人が
氏郷の病床に向かい、家康利家が左右に居るなか諸医が脈を診て退いた。

12月5日、利家家康卿が私と一鴎を召して氏郷の容体を問われた。
私は「十のうち九は助かりません。残る一つは年が若く食欲もあるからです。
なお食欲が減り気力が衰えたら十のうち廿は助かりません」と言った。

利家は残りの医師に一人ずつ尋ねたが、或いは「十のうち五は助かりません」
或いは「十のうち七、八は助かりません」と言った。

利家は宗叔を呼び「玄朔は十に廿、その他の医師も十のうち五、六、七、八は
助からないと言っているがどうか」と言ったが、宗叔は「十に一つは難しいで
しょう」と申し上げた。

その後、利家は私に対して「氏郷の病はますます悪化している。宗叔の治療を
止めて、今日から治療せよ」と言われた。
私は「宗叔が十死と見て諦めたら、数日間投薬してみましょう。そうでなければ
ご斟酌ください」と言った。利家は宗叔を呼ばれその旨を仰せられたが「十に
一つは如何と」申した。

翌文禄4年1月末、宗叔の投薬は止められた。
次第に気力が衰え食欲も減退し、一鴎が投薬を行ったが十余日で亡くなった。

(医学天正記)

蒲生氏郷が病み衰えていく様子が克明に残されたちょっと哀しい話
でも「200%」とか断言しちゃう玄朔さんって…

※同内容
氏郷の所労