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最上駿河父之遺跡を受て後

2016年11月11日 11:10

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/11(金) 02:18:29.80 ID:1jlJkqVM
今日は鮭の日なので、鮭様関連の話を一つ

※原文準拠

最上駿河父之遺跡を受て後

駿河守家親(最上家親)父の遺跡を受て後 日々に花車を好み 双六鞠俳諧に日を送り 殿宅に金銀を鏤むを 諸人諌めける
昔時源頼朝公政道正敷諸士に情深かりしが共 御子右衛門督頼家政道宜しからず
終に弟の実朝に殺れ玉ひ 実朝は頼家の子悪禅師公暁に討れ 頼朝父子三代治世纔四十余年にして亡びぬ
是頼朝平家を亡さんと多くの人の命を断し故 其積悪子孫に報ふて断絶せり
去れば義光も頼朝の如く政道正敷 万民に情深く 寺社を敬ひ其領を寄付し 古今に稀なる大将と云へ共
以謀略多くの領主を打亡 栄花身に余ると云へ共 其積悪子孫に報ふて 源五郎(最上家信=最上義俊)殿御代に至て没落せり
彼頼朝父子の古へに不異
家親御行跡宜しからざる由 三浦上総助御諌言申ければ 御腹立有て終に切腹被仰付けり
延沢能登守(遠江守延沢光昌の誤り)楯岡甲斐守(楯岡光直)御一門顔にして御異見無れば 最上家の家の可亡時節至来と見へたり
去れば聖人禍福将に至らんとし善必先知之 不善必先之を知と云り
孔子も国家将に興らんとし必禎祥有 国家将に亡んとし必妖□(けつ=草冠に辟)有と 云り

「信辮手記」等




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武士の一分

2015年10月31日 18:47

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 18:42:22.12 ID:vbXti872
武士の一分

元和の最上騒動で最上家信(最上義俊)が山形57万石を改易されると、所領1万石以上の大身の重臣は最上領から追放となり、他家預かりや国外追放となったが、狩川城主北館利長だけは「最上の御家騒動に責無し」「庄内治水の功労を認める」と幕命により出羽に住む事を許された

北館利長の所領は当初狩川3000石であったが、庄内潅漑治水の功績により最上義光の遺命で「治水により増えた新田はすべて利長の知行とする」と加増を安堵され、狩川領は3万石近い清算高までになっていた

家信の改易後最上領は複数の家の領土に分けられ、庄内には徳川譜代の酒井氏が14万石で入った

そして狩川領を収公された利長に、新領主の酒井氏から仕官の話がなされた

利長「知行150石の足軽大将並ですか」

利長はこの仕官の口に子(甥とも)の助次郎を酒井氏へ勧め、使者のいなくなった後に助次郎へと話した

利長「いいか、私は亡き大殿(最上義光)から過分の大恩を頂き、家親公・家信公からも身代を許され最上家のために忠勤を励んできた
しかし酒井家にとって私は外様の厄介者に過ぎないらしい
おまえ(助次郎)はまだ若い。150石の知行だが酒井家に仕えよ
それといいか、北館の『館』の字を『楯(城の意味)』に変え、『最上にキタダテあり』の誇りを常に忘れずに、世に気概を示せ」

利長は墨染めの麻袈裟に椀と杖と義光から頂いた愛用の綿帽子だけを持つと
たく鉢坊主となり世を捨て旅に出た

「庄内の昔話」「山形の昔話」ほか




最上騒動

2014年09月04日 18:50

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 01:11:00.45 ID:u2I46lAI
最上騒動

父・家親の急死により山形は12歳の最上家信(後の義俊)が継ぐ事となったが若年であったために、
重要な決定は義光・家親の慣例に従う他に、幕府に許可を得る事が求められた

国元を離れ江戸で育った家信は重臣らと水が合わず、また重臣らも若年な上に文楽に興じる家信の政道と
指揮力に不安と不満を感じた

氏家光氏「家宰の私が言うのもなんだが、…若殿は国を束ねるには…ちょっと、な…」

楯岡光直「義康君、家親君、義親君は已にあらず
…若の代わりに光茂(後の山野辺義忠)君ではどうであろう?」

鮭延秀綱「あぁ、光茂殿なら亡き大殿(義光)譲りの才覚もあるし、誠に主として申し分無いな!」
松根光広「あいや待たれよ!家信は幼いとは言え最上の大守、吾等が支えずしてなんとする」

東根景佐「あまり大きな声で騒ぐな。若の耳に聞こえるぞ」

家中は山野辺派と家信派に別れ、険悪な雰囲気となった

やがて元和8(1622)年、反家信の山野辺派の横暴に憤りを感じた松根光広は鬱憤を抑え切れず
老中の酒井忠世に「家親の頓死は楯岡光直の毒殺に違いない」と訴えた

忠世は訴えに基づいて光直を取り調べたが証拠はなく、光広は筑後の立花氏にお預けとなった

騒ぎを重く見た幕府は旗本の島田利正(後の二代目南町奉行)と米津田政(後の初代北町奉行)を
代官として山形に派遣

幕府の調停に従わず、家内騒動が続く様なら問題を起こした責で一旦国替と減封を命じ、家信には新たに
他国で6万石を与え、
成長の後様子を見ていずれは山形と出羽の本領を段階的に還す、という決定を下した

しかし光茂と秀綱は「松根のような家臣を重用する家信を仰ぐ事は出来ぬ」と反論し、
最上家で最大の光茂擁立派である秀綱は「もし願い叶わぬなら、吾等山野辺派は知行を返上し、
頭を丸め高野山へ参る」と続けた

島田と米津は江戸に急ぎ戻り、この様子を忠世に報告した

幕府の態度は硬化し、元和8年(1622年)、山形藩最上家57万石は改易された

山野辺光茂は備前岡山の池田忠雄の下に追放され
楯岡光直は肥後熊本の細川家に預けられた




猿の絵馬

2014年09月02日 18:54

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/02(火) 04:37:36.67 ID:Q4BWDwK2
猿の絵馬

最上家信(義俊)は生後を江戸屋敷で暮らしたが、父家親の急死により山形の遺領を継ぐ事となった

十とわずかばかりの年端も行かぬ新君主に、戦国の世を生き抜いた老臣らはまるで言う事を聞かぬ暴れ馬にも等しかった
亡き祖父義光と父家親の影響は余りにも幼少の家信には大きな壁となって、到る所で重圧となった

(家信は)平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし
『治代普顕記』

殿とは言え、尻の青いガキが酒や女にうつつを抜かし、寺社の再興はするが政事には不安が多過ぎる、と感じた生え抜きの重臣らは、家信を廃し、義光の四男の山野辺光茂(義忠)を最上家の当主として認めてもらいたいと幕府に願い出る行動に移った

最上家信は日枝神社に納める絵馬を描きながら、近習に悩みを打ち明けた

家信「わしは絵は好きだが、他の倣いには向かない様だ。天は何故にわしを最上家の世継ぎに生んだのだろうな。まるで芸を仕込まれる猿じゃ…」
鳥越久兵衛「殿はまだ若うござる。松根光広さま等のご助力を仰ぎ、ゆっくりでも確実に、政道をも修めて行きましょうぞ」


絵馬奉納の二年後に「家内騒動をまとめられぬ者に、奥羽の抑えの山形を領する資分なし」として、最上家信は改易された

最上家信の筆とも言われる猿の絵馬
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=10077011995180&c=10




最上義俊と徳川実紀

2011年11月04日 22:05

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 00:21:24.49 ID:qGVHfQ/S
最上義俊と徳川実紀

「徳川実紀」によれば元和初頭九月
最上義俊が大酒を呑み芸者を囲い舟遊びの挙げ句に大名という身分でありながら船頭と舵の取り合いで
争論した、という不名誉なことが記録されている。
ただし、同時期七月から九月にかけて江戸城普請に携わる家臣らを労う義俊の書状が存在することによって、
この時には義俊が山形に在国中だったことが明らかなので事件が事実であったかはともかく、
時期については誤りとしなければならない。

義俊は暗愚な主君とされがちであるが、福島正則改易の江戸屋敷接取の立ち会いに若年ながら
見事な統率を発揮したとして、徳川秀忠が刀を与えたという。
前後義俊は16程の齢。
当時の彼の力だけでは家臣の制御ができなかったであろうことは、のちの経緯から推測することは可能である。

最上改易後は子義智を遺し御家再興を憂いつつ27歳で死去している。




最上の窮乏の悪い話

2011年10月24日 22:03

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:19:25.75 ID:QEnkVD6m

んじゃ最上の窮乏の悪い話。

最上家親の急死(享年36)によって嫡男義俊(13)が家督を継ぐも、
一部の最上家臣団は義光の四男山野辺義忠を山形領主として認める様幕府に嘆願を続けた。

徳川家康に器量人と呼ばれた義忠と、能力の量れない子供とを比較するなと言うのも無理な話。

幕府の仲介を無視した最上家臣団のいざこざを抑えられない義俊は「太守の器なし」として
山形57万石は改易された。

近江と三河の分地で1万石を与えられた義俊だったが

表高57万石に海産物やら副産業で実高80~90万石はあった最上家
義俊が成人の暁には追って山形で20万石に復帰させるーといった幕府の口約束もあった。
給料60万円に副業20万円のサラリーマンが
「明日から当分1万円で暮らせ」と言われる様なもの

一時の窮乏を凌ぐために「後で買い直せばいい」と、家宝の武具やら軸やらが大量に質に出された
・足利将軍家拝領の食器
・軸
・経文
・伝藤原家絵巻物
・信長公拝領家宝
・最上義光桶皮胴
・秀吉拝領着物
・家康拝領茶器
etcetc

更に後代義智以降の代には1万石から5000石へ減封され、
最上家伝の「名刀鬼切」までが質に出された。




477 名前:連投[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:26:44.35 ID:QEnkVD6m
そう考えると、最上義光歴史館の義光の兜と鉄棒、良く現代まで残ったな・・・

最上歴代や家臣団の甲冑なんてほとんど見かけた事ないけど。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:30:34.72 ID:uAZicEAC
>>476
家臣もお家の為と思って、優秀な跡取りが当主になってほしいと思ったんだろうけど
その思いが暴発して結果的にお家無くなったという皮肉が辛いなあ
最上家問わずそういうの多いし

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 22:18:41.87 ID:ySFSSKkD
盛大に銃痕が残ってるから売れなかったんじゃね

山形城吉字構

2011年09月11日 22:25

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 07:44:00.90 ID:YWJa+l78
山形城吉字構

元和8年、最上義俊の代に御家騒動から最上家は改易となる。
同年、鳥居元忠の子忠政が22万石をもって新たな山形領主となった。

忠政が山形に入ると鍵路や通りの要所要所に砦の様な寺社の軒が連なっていた。

「平穏な世にこの街構えはいけない。これではいつ一揆勢が城の内に集まるかわかったものではない」

三の丸内にあった三割の寺社が破却され、残った多くの寺社も山形城から離れた場所へと移築された。

寺社を大切にした義光の思いが鳥居家の移封にとっては邪魔となった悪い話。




855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 13:49:16.08 ID:e56Rhpnz
拠点となる寺社の破却は為政者としては当然の行為だな。
特によそ者の鳥居さんからしたらね。

逆に最上は戦国威風の残る鮭さまの時代から何一つ変われなかったから取潰されたとも言える。
馬鹿な家臣と馬鹿殿ファミリーのお家騒動だもんなあ…




856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 14:13:14.07 ID:2NYFZg17
まぁ最上側とすれば、いざ戦時となれば、
その寺社等も防衛拠点にするつもりだったんだろうな。
でも、新規に入る側の鳥居側からは邪魔でしか無いよなぁ。