fc2ブログ

「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

2023年03月28日 19:54

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/28(火) 19:17:16.21 ID:Kg+NQ/Y7
「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

出羽国庄内の武藤出羽守義氏と申す者は悪逆であり、郡邑からむさぼり、戦のみに年月を過ごしていた。
ある年(天正十一年、1583年)の正月のはじめに、旗下の諸士を動員して領地の境を攻めようとした。
諸士は田川郡のよな坂という所で暫く休息した。
「さても屋形の義氏の無道のために、毎年戦に苦しみ、あまつさえこのように月日も多いのによりによって新玉のはじめから従軍することになるとは。
まことにに生きてても甲斐がなく、迷惑な次第である。
幸い我々の中でも東禅寺右馬介(東禅寺義長)は大身であるし、なにか一思案ないだろうか」
と口々に申した。
右馬介は「我も左様におもうけれども、一人の方策というのもなんだから、おのおの同時に方策を申そう」
こうして諸士が異口同音に「逆心!」
と言ったため、とって返して屋形の屋敷を攻めたところ、義氏は同じ出羽の金沢へ落ち延びようとした。
しかし新山森というところまで義氏が逃げたところで、諸士が追いついて義氏を討った。
しかし誰を主君とするあてもなく、最上(最上義光)の旗下となり、義氏の弟で丸岡の押領使である丸岡兵庫の息子を迎え、義氏の娘を娶せて主君となした。
しかしまた悪逆の兆しがあったため、上杉方となり、本庄越前(本庄繁長)の息子を越後から呼び寄せて主君とした。
「最上軍記」の説も大同小異である。
ただ屋形の名前を満安としているが、これは誤りである。
庄内の寺院に彼の位牌が今でもあり、実名を義氏とたしかに位牌の表に記してあるそうだ。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/28(火) 19:50:17.66 ID:Kg+NQ/Y7
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8680.html
鮭延落城後の鮭延秀綱


「奥羽永慶軍記」では武藤義氏と武藤「光安」を別人としているが武藤光安は実在不明
「最上軍記」で武藤義氏を武藤満安と表記しているとしたら本来同一人物だったのが別人になったのかも
ついでに「奥羽永慶軍記」の武藤光安は妊婦の腹を裂くという暴君テンプレをしている



スポンサーサイト



最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとは

2022年12月07日 18:39

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/07(水) 16:45:30.46 ID:/LNvPK4p
山形市最上義光歴史館 特設展示/第三部「最上家ゆかりの古文書」
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=520014

山形市最上義光歴史館では、先日より最上義光所縁の書状の数々を展示中です。伊達政宗のあの「皆殺しにしましたよ」書状も。
まだ日にちがありますのでぜひご来館ください。入館料は無料なので。

その中でも新公開がこちら。連歌を愛好した義光は里村紹巴一門と親しく付き合っており、里村昌叱(紹巴女婿)が知人に宛てたものです。


14.里村昌叱書状/宗澗宛/年未詳玖(九)月十日

猶々、珍酒・珍味
非大方候、かしこ、

昨日者節日為
御礼義御出本望候、
殊一双 鮎十九
被持候、毎度御
懇情満足不浅候、
令他出不能面談、
御残多候、佳肴故
今朝俄ニ最上殿
申入候て、只今御帰候、
右御酒 佳肴至而
恨入候、大咲、如何
様以筆可
申述候、恐々謹言、

 玖月((九))十日 策庵
        昌(花押)

 宗澗公
   まいる
    □□□(吟意下)


知人より酒樽一双と鮎19尾を頂いたお礼の書状ですが、そこへ招待された義光が全て持ち帰ってしまったという顛末で、
学芸員諸氏のご解釈によりますと、

(最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとは)残念です、(これだから田舎の人は)大笑い(大咲)ですね。

というような、どうも京都人による儀礼的な問いかけに、言葉通り乗ってしまったぶぶ漬けトラップ的な案件だったのではないかとのこと。
京都人こわい。



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/07(水) 18:29:54.59 ID:6oIoO6gb
昔から陰険なんだね

【ニュース】最上義光、やっぱり長身だった

2022年06月28日 18:22

532 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/27(月) 17:15:18.86 ID:ubDy3UJz
最上義光、やっぱり長身だった 山形大・松尾名誉教授「奥羽永慶軍記」で確認 山形新聞2022/06/25
https://www.yamagata-np.jp/news/202206/25/kj_2022062500674.php

初代山形藩主・最上義光の身長が180センチ以上と長身だったことを具体的に記した史料が存在することを
山形大の松尾剛次名誉教授が確認した。史料は義光が生きた時代の東北地方を描いた「奥羽永慶軍記」で、
東京大史料編纂所のデータベースから見つけた。同軍記から引用して義光の容姿に触れた本はあるが、
具体的にどのページを引用しているか分からなかった。今回の発見で義光の長身伝説が裏付けられた。

同軍記は天文から元和年間の東北全般の群雄争乱の跡を書いた軍記物語。義光の容貌が記されているのは
「巻二十五」の前半で、豊臣秀吉の命令で全国の大名が朝鮮出兵のため京都をたつ場面だ。
政宗の身長は以前、埋葬されている墓の発掘調査で159センチだったという結果が残っている。同軍記の記載と
矛盾がないことから義光の記載内容も「信ぴょう性が高い」と松尾名誉教授。義光は使っていた指揮棒が
刀2本分の重さで、背が高く、怪力だったとのエピソードが残っているがこれまで裏付ける史料が確認されていなかった。

同軍記は現在も活字本が流通しているが、内容が割愛されている部分も多く、今回松尾名誉教授が確認した
義光の部分はない場合が多い。理由について松尾名誉教授は「まず自筆本が現存しない」と指摘する。

(中略)

奥羽永慶軍記 秋田藩(現在の秋田県)の郷土史家戸部正直が記した軍記物語。元禄11(1698)年にまとめ上げた。
当時の東北地方の史料が少なく、物語ではあるが多くの歴史家が引用している。

※山形新聞ウェブサイトはPCからなら全文無料閲覧可ですが、スマホからだと有料です

533 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/27(月) 17:20:01.16 ID:ubDy3UJz
一応、一番下の永慶軍記の解説の通り、軍記物というのは承知の上であえてのお話でありますので・・・



【ニュース】義姫の人物像に迫る機会に 山形で尊像のみ入れ式

2021年09月28日 17:41

義姫   
612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 16:25:11.39 ID:wTypS4si
義姫の人物像に迫る機会に 山形で尊像のみ入れ式
https://www.yamagata-np.jp/news/202109/27/kj_2021092700585.php
山形新聞2021/9/27 18:51

初代山形藩主・最上義光の妹で、伊達政宗の実母である義姫(よしひめ)(1548~1623年)の400年忌(没後399年)を2022年に迎えることに合わせ、
菩提(ぼだい)寺の少林山保春院(仙台市若林区)が木製の尊像を制作するプロジェクトを展開している。山形市での尊像の「のみ入れ式」が27日、
同市の最上義光歴史館で行われ、関係者は「義姫の人物像に迫る機会にしたい」と期待を込める。

義姫は米沢城主伊達輝宗と結婚し、政宗らを出産。米沢城の東館に住んだことから「お東の方」とも呼ばれ、出家後は保春院と称した。死後、政宗が
供養のために建立した保春院には位牌(いはい)が安置されている。

義姫にはさまざまはエピソードがある。政宗を毒殺しようとしたとされ、悪女のイメージを持つ人も多い。しかし、政宗と互いを思いやる手紙のやりとりが
あったことなどが分かり、近年は、伊達家と最上家を守るために必死だったことや、家族を思いやる人物像が考察されている。

プロジェクトでは、没後400年の2023年7月に開眼法要を計画している。尊像は木曽ヒノキを用い高さ約50センチ。三浦真人住職(42)は「保春院様の
人物像をひもとき、見つめ直す機会にしたい」と話す。仙台市では先月と今月にのみ入れ式を行った。

この日は山形霞城郷土史研究会、同館サポータークラブ「義光(ぎこう)会」、同館の関係者ら約50人が出席し、一人一人が順番にのみを入れた。
同研究会の伊藤藤夫会長(83)は「義姫の今までのイメージを払拭(ふっしょく)し、いい母親だったと多くの人に知ってもらいたい」と話した。



伊達の加勢

2021年09月14日 18:45

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 15:06:35.11 ID:q8uyA47f
慶長出羽合戦、始め最上義光上杉景勝の大軍が押し寄せると聞いた時、子息修理太夫家親に申された

「この度、直江山城守(兼続)大将にて四万余りの軍兵を引率し攻め来たるという事であり、
敵勢は定めて、雲霞のごとくであろう。
私は山形の城を以て。出来る限り防ぎ戦い、叶わずば腹を切る。その方は早々に奥州岩手沢に赴き、
加勢を伊達政宗に乞うように。

但し、我が姉(義姫、実際には妹)は政宗の実母であり、その方と政宗は従兄弟であるのだが、
先の鮎貝藤太郎(宗信)の事で政宗との関係が悪化し多年となっている(鮎貝宗信謀反事件)。
既に弓矢も数度に及んでおり、伊達家も我々に加勢する事は中々合点しないとは思う。

しかし政宗も関東方無二の味方であるのだから、私からの要請を聞く時は、関東(家康)の後聞を憚り、
加勢すること必定である。
その内に山形が落城すれば、私は討ち死にする。その方は生き残って、家名を相続するのだ。
父子が一所にあって討たれるなど、言い甲斐もない事だ。」

そう言って今生の暇乞いの盃を取り交わし、家親は馬に打ち乗って奥州岩手沢を指して駆けた。

九月八日、岩手沢に到着して政宗に対面した。家親は言った
「この度、関東の御下知により義光も軍兵を催促し、米沢口より会津に取り掛かるべしと支度をしていた
所に、治部(石田三成)が大阪に討って出て、京都、畿内がこれに一味し、伏見の城を攻め落とし、
既に治部の先勢は美濃口に充満しているとの事で、関東の御勢は会津攻めを止められ、江戸に引き入り、
上洛されました。これによって直江山城はその利に乗じ、この隙を伺って、四万余りの軍兵にて近日、
最上を攻め潰すべき支度をしているとの情報が申し来ました、そのため味方にも数ヶ所の砦を構えさせ
待ち受けていますが、大敵であれば、此の方が打ち負けること必定です。

事新しき申絛ではありますが、貴殿の御母堂は我が叔母であり、従兄弟のよしみ浅からず。
然れども先年の鮎貝藤太郎の事により、伊達・最上は確執に及び敵味方となり、数年争いましたが、
これは頗る本意では有りません。

この度直江が最上を攻め平らげれば、則ち、さらに下湯の原にかかり、岩手沢に取り掛かること、
隴を得て蜀を望むの勢いはとどまることは無いでしょう。これはいわゆる、唇亡びて歯寒しという
警句です。

今度、多年の宿意を咎めること無く、加勢を出され、最上の急難を救われれば、外には関東への奉公、
家は一家を救う所、名実ともに全き所であります。
正に今、最上は大事に及んでいます。貴殿が加勢されず、直江が最上を攻め取れば、一体何の面目が
あって、御所(家康)に見えられるのでしょうか?」

このように理を尽くして申されると、政宗もこれを聞いて「尤も至極」と同心し、
「追っ付け、加勢を出すので、貴殿は父義光と一所に、山形を持ちこたえるように。」と家親を反し、
則ち最上へ加勢を差し越した。
(中略)
政宗総軍は旗の紋に、琵琶の図を書いた。『我は琵琶なり。敵ひけ。』という事である。

近世軍記

慶長出羽合戦に於ける、最上から伊達政宗への救援要請について



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 18:41:05.76 ID:Ovha0XjA
今となってはいろいろ突っ込みはあるが一番は家親じゃなくて義康の誤りか

直江の誤りと見るのが正道である。

2021年08月06日 18:08

下秀久   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/06(金) 15:18:04.32 ID:JIwzFV+j
長谷堂城の戦いから、直江兼続軍の撤退の時、最上領谷地の城に下次右衛門(秀久)が残し置かれており、
周辺の仕置を申し付けられていたが、彼は石田三成が滅亡した以上、行く末上杉家頼りなしと思い、
最上に従い、最上衆を庄内に引き入れ切り取らせた。
そうなれば、直江さえ会津に呼び返される程であったので、庄内に置かれた城持ち衆も留守居を
少々残して皆会津に召喚されており、そのためやすやすと、何の手間取ることもなく庄内三郡は
最上義光の手に入った。

この次右衛門は謙信公の下男であったのを、御眼力を以て御取り立てになり、騎馬の列になさて、
その御推察の如く数度武功を顕したことで次第に立身した。この者は隠れなき算術の上手であった。

景勝公の御代に、四人御領分として、勘定奉行の下次右衛門は庄内を、川村彦左衛門は佐渡国、
窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後国旗本に有り、その様子、御仕置の作法は
武道の助けとされた。

今度、最上へ直江が出陣した折、谷地、寒川江の領城を乗っ取れたのは、この下次右衛門の分別
宜しき故であった。しかし武道は良しと雖も、元来下臈であるため義理を知らぬため逆心した。
然れば、その原因は直江が谷地城に次右衛門を残し置いた為であり、直江の誤りと見るのが
正道である。

(管窺武鑑)

実際には下秀久は直江から撤退を知らされておらず取り残される形になっていたとか。



905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 03:36:42.47 ID:arSrnCGw
管窺武鑑が執拗に藤田age直江sageしてんなと思って
どういう書物かと調べてみたらああ…納得ってなったわ

三家については以上の通りであり

2021年08月05日 17:23

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:06:56.12 ID:tRQNg+FM
上杉景勝公は石田三成と陰謀を示し合わされた

石田三成が上方に於いて逆謀の色を顕せば、諸国より三成と内通していた者達が打って出て、
徳川家康と取合いを始めるだろう。私はそれを聞いて兵を発し、奥羽筋を打って上方と首尾を
あわせるべきか。であれば、仙台の(伊達)政宗(筆者注・この頃は岩出山城)、出羽の最上(義光)、
越後の堀(秀治)、この三人は燐競にて大身であると雖も、三人共にこの景勝の、物の敵とは思われない。
何故ならば、

一に、堀久太郎(秀治)は昨今の若将であり、弓矢の術を知らず、家法正しからずして家中は
二、三に割れ、殊に上方風であり。押し掛けには強いが後道に弱く、領民は堀家の新仕置に飽きはて、
古主である上杉家を慕っている。
また堀家を取り立てた太閤の御厚恩を忘れて家康に従う不義の兵であるから、これを踏み潰すに
手間はいらないだろう。

二に、伊達政宗は久しき家では有るが、その父である輝宗より二代に渡って境争い、坪弓箭をも
賢く取り、政宗一身の覚悟も無類で、能き大将である。
しかし家中は前代の悪風儀に慣れ、我儘を仕る士共は、現代の新仕置を迷惑がり、それを実行しようとすと、
手荒き政宗であるとし、心で疎み身を虚しくして。家中は意志が一致していない。

また大敵であると言っても上杉家と比べれば小身である。七手組の頭が、一両備えで押し向かえば、
政宗が手を出すことは出来ないだろう。
殊に政宗の心の有り様は、弓箭の正道について誠の吟味も入れようとせず、ただその時節に任せて
敵にも成り味方にも成り、自分の家を恙無く相続する事こそ至高であるとの奥意であるから、
我が方に少しでも強みがあると判断すれば、すぐに手のひらを返し当方に頼み従うだろう。

三に、出羽の最上(義光)は数代相続の家であるが、弓箭について然りとするような誉れが無く、
身にかかる火を払うばかりにて、他国遠国へ取り掛かるような武道のこだわりも無く、
家中の者共は事毎に居丈高にばかり仕り、武功誉れの者が有っても、新参譜代筋どちらでも、
小身であれば家老や出頭人の前では頭を挙げさせぬ故に、彼らが十考えている内三、四を言ってすら、
家老や出頭人の威に押され、一言を躓いただけでも善悪の批判を受ける。

そのため言葉少なく手短に計り言おうとして、その理屈が伝わらず、四つ言ったとしてもその内三つは
みな戯言となり、残った一つの理も、相手には生聞こえとなり、それを言った人物が不合点者と
取りなされる。故に以後は控えて物も言わなくなる。或いは、いかほど能き者であっても、口が
不調法であっては面出しも成らぬ。故に下の理が上に達しない。

最上家中では新参であっても大身であれば、譜代を押しのけ上座に在り、我意を振る舞う。
元より古参にて大身であれば、心は鈍くても我儘に口をきく。
執権に於いてこのような国法なのだから、軍法も未練なものであろう。であれば、上杉家に対せば
手に立つような事はない。

三家については以上の通りであり、であれば、石田が上方にて兵を起こせば、私は奥北国を
討ち靡かせるか、でなければこの大身の三家には押さえを置いて、家康の持つ関東へ働き出れば、
常陸の佐竹を始め当方への志の衆、東国にも多いのだから、攻め上がり家康を取り挟んで
一戦を遂げれば勝利を得るだろう。」

管窺武鑑

上杉景勝の堀家、伊達家、最上家への評価について。



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:37:19.76 ID:WRarKSNv
管窺武鑑って黒歴史ノートなのか

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 17:35:12.09 ID:fqhsEK9r
>>896
>>901

べらべらよく喋る景勝だな
無口って誰が言ったんだ

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 19:47:27.12 ID:TruHcJ9v
>>920
上杉景勝は一言も喋ってない。
心の声として芥川隆行のナレーションが流れてるだけだ。

【ニュース】若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも

2021年07月16日 16:15

296 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/15(木) 18:39:33.39 ID:QXMk6ZEN
https://kahoku.news/articles/20210714khn000040.html
若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも
河北新報2021年07月15日 06:00


見つかった政宗の書状。花押のみ本人の肉筆
 仙台藩祖伊達政宗(1567~1636年)が家督を継ぎ米沢城主になって2年目の20歳の時、
伯父である山形城主最上義光(よしあき)の重臣に宛てた書状が仙台市内で見つかった。知られていない
当時の最上家の動向が明記されている上、戦国武将の駆け引きもうかがえる貴重な史料。政宗の若い頃の
書状は珍しく、覚悟や初々しい気概が読み取れるという。

日付は卯月(うづき)13日(旧暦4月13日、現在の5月)で内容から1586(天正14)年の書状。
宛先は最上家家老の氏家尾張守(おわりのかみ)=守棟(もりむね)=。縦33・7センチ、横47・0センチに
当時の一般的な武将の書状と同じく右筆(ゆうひつ)が字を書き、花押のみ政宗の肉筆だ。
有名なセキレイの花押の原型という。
冒頭、鮭延(さけのべ)口まで出陣し真室(山形県真室川町)で敗れた氏家を気遣い、義光が自ら赴くことに
関心を寄せている。義光出陣を知らせた氏家の書状への返事とみられ、山形勢が北の最上地方を攻略する
緊迫した状況を示す。
政宗は自身の近況にも触れ、南下して小浜(福島県二本松市)城主の畠山氏に攻め入る準備をしていると説明。
政宗に家督を譲った父輝宗はこの前年、投降を装った当時の城主畠山義継に拉致され、阿武隈川(同市)の河原で殺害された。
人質となった輝宗は伊達勢に「自分もろとも義継を討て」と命じ、凄惨(せいさん)な最期を遂げている。
文面には父を弔う政宗の意思がにじむ。
当時、伊達家と最上家は領地が接しておりライバル同士だが、引き続き手紙のやりとりも求めた。
佐藤憲一・元仙台市博物館長は「盛りだくさんの内容だ。当時の義光の動き自体が知られておらず、新たな史料ではないか。
戦続きの時期の二本松攻め直前の手紙で、政宗の覚悟が分かる」と指摘。友好的な内容で、政宗と義光は仲が悪いという
印象とは違うが「両家はいつか直接対決もあり得ると意識している。腹の探り合いであり、相手の情報を引き出す
戦国の世の駆け引きだ」と推測した。

<原文(抜粋)>      
急度用一簡候、仍鮭延口出勢付而其方被
打越之由候條、内々無心元候哉、近日於真室ニ
少々被失利之由、其聞候、実義候哉、就中
依之義光も自身被打出之由候、弥御床布候、(中略)
当口之事も二三家相催今十五日ヨリ
向二ニ押詰可及其刷之由令逼塞候、於時宜に
可御心安候、扨々其表模様委曲被顕回答候者
可為本望候、(以下略)

<現代語訳>
 急いでお手紙を差し上げます。鮭延口まで手勢を率いて出兵したとのこと、内心心配しておりました。
近頃、真室で少々敗戦したと聞きましたが、本当でしょうか。特に、そのことを聞いた義光公も自ら
出陣なされると聞き、どのような状況か知りたいものです。(中略)
 当方も2、3の味方となる者を誘って今月15日から二本松に向かい、相手に攻め入るつもりです。
これから先のことは、どうぞご安心ください。そちらの様子を詳しくお知らせいただければ本望です。(以下略)



297 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/16(金) 05:57:22.42 ID:vZZjKxhH
氏家が、現在の秋田県側の小野寺方だった鮭延秀綱を降したのが天正9年とされるので、
5年たっても秋田からは峠で隔てられた現在の山形県側を掌握できてなかったのかよ?
ってとこと、対戦相手は小野寺だよね?ってとこも

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/16(金) 08:39:03.30 ID:/hg+qTEl
天正13年鮭延降伏説もあるから、対戦相手は大宝寺かもしれん
まあその年でも小野寺の可能性は否定できないけど

302 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/17(土) 13:19:35.52 ID:T1b5z7I4
山形宮城以北の戦国時代はなんかもう知識的にというか喧伝のされ具合でも空白地帯で・・

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 13:48:18.08 ID:kSnbjMiS
最近、なろうで木村吉清や新田政盛に転生して頑張る話が連載されていて、全然このあたりのこと知らんから勉強になる

賤が植うる 田歌の聲も都かな

2021年06月08日 17:10

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 12:48:59.84 ID:bZSdvN0k
慶長三年、会津に上杉景勝が入部した時、蒲生家の浪人数百名を召し出した。栗生美濃守、外池甚五左衛門、
岡野左内、布施次郎右衛門、北川図所、高力図所、青木新兵衛、安田勘助、小田切所左衛門、
横田大学、正木大膳、長井善左衛門、佐野源太、堀源助、等である。
この時関東浪人には、山上道及、上泉主水、車丹波守、等数十人、
上方者には、水野藤兵衛、前田慶次郎、宇佐美弥五左衛門など数十人が召し抱えられた。

このうち前田慶次(利益)は、加賀(前田)利家卿の従弟である(実際には甥)。
彼が初めて景勝に礼を申し上げたときは、穀蔵院ひよつと斎と名乗った。
その夏頃であったか、高宮の二幅袖の帷子褊綴を着し、非常に異形なる体であった。
また、彼は詩歌の達者であった。直江山城守兼続も学者であった故に仲良く、
直江宅にて慶次は論語の講釈をいたし、又は源氏物語の講釈をした。

慶長五年九月、景勝の名代として、直江山城守が四万余にて最上に出陣した砌、慶次は黒具足に猩々緋の羽織、
金のいらたか念珠(修験者の用いる角のある108の珠を用いた数珠)を頭に懸けたが、念珠の房には
金の瓢箪が付けられ、背に下るようにかけられた。
河原毛の野髪、大しだの馬に、金の兜巾を冠らせて打ち乗り、三寸計りの黒の馬に、緞子の袋に
干し味噌、乾飯を入れ鞍壺に置き、種子島ニ挺付けて、乗り換えとして引かせた。

最上からの上杉勢の退き口の時、敵勢と槍を合わせて、その高名は耳目を驚かせた。
水野藤兵衛、藤田森右衛門、溝口左馬助、韮塚理右衛門、宇佐美弥五左衛門と慶次と、以上五人が、
一所にて槍をした。

この時、最上義光は伊達政宗よりの加勢を一手に合わせて、上杉勢の退き口を追撃したため、
中々大事に及び、杉原常陸介、溝口左馬助らが種子島八百挺にて防ぎ戦ったが、最上勢は激しく
攻撃してきた。これに直江山城守は怒り出し

「味方が押し立てられて足を乱し、追い打ちに遭うのはもはや間もなくの事だろう。さても口惜しい。
腹を切らん!」

と言い出したところを、前田慶次が押し止め

「言語道断!左様に心弱くて大将が出来るでしょうか。私におまかせ候へ!」

と言うと取って返し、先の通り、水野、韮塚、藤田、宇佐美と、この慶次の五人にて槍を合わせ、
最上勢を突き返し、能く引き払い、何事もなく引き取った。

関ヶ原御陣過ぎて、景勝が米沢に移封された時、慶次を諸方より欲しがり、高い知行にて呼んだが、
「我が主は景勝より他は無し」とて、一生妻子も持たず、寺に住居しているかのように生活し、
在郷に引き込んで、弾正定勝の代に病死した。

慶次は連歌を嗜み、紹巴が評価した句も数多あるが、その中より覚えているものを記す

『賤が植うる 田歌の聲も都かな』

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 14:53:36.83 ID:KzHVeQpO
花の慶次の名場面だったな

【話題】最上義光時代の山形城本丸御殿復元CG

2021年05月23日 17:37

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 17:00:50.04 ID:QYAc2Tbk
鳥居忠政に取り壊される前の最上義光時代の山形城本丸御殿復元CG
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kakuka/machizukuri/koen/sogo/yamagatajo/vr/

30年以上霞城公園(山形城跡)は発掘や工事を続けているけれど、生きている間にどこまで建物群は復元されるのだろう




【ニュース】山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」

2020年02月08日 16:54

619 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:30:33.30 ID:FBTlD/sc
山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」
http://c-note.jp/yoshiaki/data/15793358611.jpeg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki1-2s.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki2-1s.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki4s2.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki5s2.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki6-1s.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki7-1s.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki9s.jpg
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=480698
15793358611.jpeg
shiki1-2s.jpg
shiki2-1s.jpg
shiki4s2.jpg
shiki5s2.jpg
shiki6-1s.jpg
shiki7-1s.jpg
shiki9s.jpg

山形市の最上義光歴史館で、最上義光愛用の鉄棒を山形県指定無形文化財の刀匠
上林恒平氏が復元し展示中とのこと。
上林氏は結城家に伝わった天下三槍の一つの御手杵の槍も復元しています。


歴史館での解説によると、義光は常に手元に置いて戦場でも愛用し、子々孫々に
伝えるために最晩年に金象嵌で由来を刻んだとか。
ところが最上氏改易のごたごたで蔵にしまい込んだまま忘れ去られて、新城主となった
鳥居氏がこれを発見して最上氏に送り返した経緯があるそうな・・

最上氏改易での領地接収に当った伊達成実の亘理伊達家に、最上家重臣延沢氏の
甲冑が伝わったりしていますので、返却されてよかったとしか言えませんね。
(この甲冑は後に市場に放出され平成になって米国人コレクターに売却された)

鳥居氏も後に何度かの改易を繰り返していますから、もしもそのまま鳥居氏が接収してたら
江戸時代中に失われた可能性が高そうです。



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 11:19:51.97 ID:7FwsNVis
指揮棒っていうぐらいだから丸い棒だと思ってたんだが
四角いのか

622 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 12:00:39.77 ID:MA6fy5um
刻まれた文字は「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」

近年ネット上でうるさい海外出羽守ポリコレ棒と違って、本物の出羽守棒ですな。

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 12:58:56.56 ID:BmZgWOJR
最上記念館に直江軍の旗があるんだけどいかにも手書きで感動した

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 15:36:44.09 ID:POWo705j
鉄製とはいえあくまでも兵権を象徴するもんだし、とっさにこれで応戦はあるかもだけど
これを金棒みたいにぶんぶんは振り回さないよね?

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 15:43:26.27 ID:BWjBwiP7
重過ぎたらまとめの6843
「小幡勘兵衛の鉄の軍配」

のように、権現様が「こんな重いものを持って、どうして兵の指揮が出来るものか」 
と、どなりつけることに

626 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 15:57:59.25 ID:hMpJmxV+
http://samidare.jp/yoshiaki/data/15407904041.jpeg
15407904041.jpeg

実際どうだったかはともかく、戦場でもこれを振り回していた伝承はあったようで、
「長谷堂合戦図屏風」では、長さ8尺程に描かれたこの鉄棒を振りかざして殴り付ける姿があります。

627 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 15:59:40.89 ID:hMpJmxV+
屏風絵は両手で持ってますが、実物はどう見ても片手用ですね。

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 16:49:04.72 ID:oWA1ySTR
クッソ重いのにブンブン振り回してたから氏家さんに怒られてなかったか?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 16:49:27.08 ID:oWA1ySTR
山形城の銅像は片手だな。

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 17:10:19.87 ID:BmZgWOJR
最上さん大柄で力自慢なんでしょ?
再放送の戦国鍋テレビで言ってたw

最上義光と向去(ムカサリ)道

2019年12月11日 16:39

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/11(水) 11:01:10.95 ID:+Xsq24cf
最上義光と向去(ムカサリ)道

戦国時代のある日、山形の最上家と谷地の白鳥家の間で縁談の話が持ち上がりました。
最上義光は家臣の蔵増親景に命じて長男の最上義康と白鳥長久の娘の日吉姫(伏姫とも)の婚儀のために、姫を谷地から山形へと迎える新道を(山形から漆山、高擶、蔵増、谷地を通る最短距離の新街道)を切り開きました。

日吉姫はこの道を通って山形に嫁ぎ、沿道の領民たちは、この道を「向去(ムカサリ)道」と呼びました。
それから間もなく血染めの桜で知られる白鳥長久謀殺事件が起き、婚姻が事実上のおしゃかとなると、最上の軍勢がこの新道を谷地まで攻め入り、姫の里の谷地は落城。
「ムカサリ道」は「いくさ道」でもあったのです。

天童にあるこの道も、今ではわずかに名残を留めるだけとなりました。
また、長崎と山辺間の「立道」(たちみち)にも中山氏と山野辺氏の縁組の不幸な逸話があり、以後嫁入りの際は「ムカサリ」はこの道を避けて通らなくなったと言います。
他にもムカサリと冠される橋があり、白鷹町荒砥の「ムカサリ橋」も何故か理由はわかりませんが、昔から「ムカサリ」は渡れない橋だと言われています。伝承は理屈ではないということでしょう。

山形の昔話
天童の昔話
てんどうのむかしばなし第二集
白鳥十郎公ものがたり/槙清哉/著
山辺夜話/武田泰三/著
あらと百物語/荒人・乱舞実行委員会/編



【ニュース】初公開 山形城主・最上義光 直筆の手紙一般公開へ 山形市

2019年06月09日 09:22

130 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/08(土) 17:02:18.56 ID:1WjVqsNF
初公開 山形城主・最上義光 直筆の手紙一般公開へ 山形市
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190605-00010003-sakuranbo-l06
山形城主・最上義光の研究を進める上で、貴重な直筆の手紙が、7月初めて、一般公開されることになった。

今年3月まで、山形大学で日本史学の教授を務め、現在は名誉教授の松尾剛次さん。松尾さんは38年間、山形大学で研究し、
最上義光に関する史料の発見と見直しを進めている。今回、松尾さんは以前から研究対象で私的に所蔵されていた史料を
自ら買い取り、初めて一般公開することを決めた。

(松尾剛次さん)
「天正14年の正月7日付、最上義光書状で、東禅寺氏永に宛てたもの」

松尾さんが買い取った義光直筆の手紙は1586年、援軍を求めた酒田城主・東禅寺氏永に宛てたもので、わずかながら軍を
派遣すると応えている。松尾さんによると、至るところに義光の字のくせや力強さがあり、義光の刻印も押されている。

(松尾剛次さん)
「字も力強く書かれているが、論理的な組み立て、非常に義光は頭のいい人。天正14年における最上義光の判断・情勢がわかって非常に興味深い」

義光の人物像を克明に浮かび上がらせる上で、こういった古文書の1つ1つが貴重になってくる。

(松尾剛次さん)
「(義光は)ずるくて残忍なイメージがあるが、多くの史料に最上義光は名君だったとある。優秀かつ素晴らしい人物だったとの史料がたくさんある」

古文書の多くは、私的に所蔵されていることが多く、一般に公開されることはほとんどない。今回松尾さんが見せてくれたのには、
公開することで貴重な史料を後世に残すという狙いがある。



最上義光、山形城作庭のいい話

2019年04月19日 16:37

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 16:21:36.68 ID:tLGrHa8N
最上義光、山形城作庭のいい話

出羽国上山(かみのやま)には昔蔵王の山が噴火した際の火山岩が点在している

昔々のある日のこと、最上義光が鷹狩に上山の金瓶にやって来たことがあった
その金瓶の丘陵に義光は東西12m、南北7m、高さ3.3mもの巨岩を見つけた

最上義光「なんと素晴らしい大岩なのだろう!是非に山形のお城の庭に置く石に欲しいものだ」

義光が家来に岩を見に行かせると、岩の下に洞(ほら)があり、洞の中には子狼がおり、
不穏な唸り声に岩の上を見ると、岩の上には親の狼がおり、義光の家来たちを睨み付けておりました

家来が義光に「岩は狼の巣でした」と報告すると、義光は
最上義光(´・ω・`)「岩が狼の家なら奪うことは可哀想だし、今回はしょうがないよね。素晴らしい岩だけど庭石にするのは諦めよう」と言いました

当時狼は人が飼っているニワトリやヤギなどの家畜を襲い、その狂暴さからも人に恐れられていましたが、
しかし、この狼石に棲んでいた狼の親子だけはとても人懐こく、金瓶の人たちは狼に子が産まれると巣穴にお祝いのご馳走を持ち寄るなど可愛がっていました

金瓶では狼と住民との良好な関係が後世まで続いたそうな

「上山(かみのやま)の昔話」「おおかみ石」



803 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 18:25:33.44 ID:ZFKPFqLy
         \       ヽ           |        /        /
          \      ヽ               /      /
‐、、   殺 伐 と し た ス レ に オ オ カ ミ が ! !   _,,-''

       ,-'"ヽ         ∩___∩
      /   i、  _,、    | ノ      ヽ
      { ノ    "'"  "'"'"/  ●   ● |
      /         |    ( _●_)  ミ
      /          彡、   |∪|   ミ  _/\/\/\/|_
    i つ き の わ ぐ ま  \  ヽノ  /   \          /
    /              `ー-ー'" }   <  ニャーン! >
    i'    /、                 ,i   /          \
    い _/  `-、.,,     、_       i     ̄|/\/\/\/ ̄
   /' /     _/  \`i   "   /゙   ./
  (,,/     , '  _,,-'" i  ヾi__,,,...--t'"  ,|
       ,/ /     \  ヽ、   i  |
       (、,,/       〉、 、,}    |  .i
                `` `     ! 、、\
                       !、_n_,〉>

    /'''7'''7     /'''7       / ̄ ̄ ̄/    / ̄ ̄ ̄ /
    / /i  |      / /      .. ̄ .フ ./.    / ./二/ /  . . ____
  _ノ / i  i__ . ノ /__,l ̄i   __/  (___   /__,--,  /    /____/
 /__,/  ゝ、__| /___,、__i  /___,.ノゝ_/    /___ノ..

最上義光、山形城作庭の悪い話

2019年03月24日 17:33

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/24(日) 15:54:12.02 ID:sv4h2wg8
最上義光、山形城作庭の悪い話

昔正月に新庄藩の殿様が曲川に鷹狩に行ったところ、突如大吹雪となり、先達の案内で杉の大木の下で風雪を凌いでいた
連れの人数は15人程で、木陰で一行が二列に並んだが、木の枝張りが良いため少しも風があ当たらなかった
暫くすると大吹雪もやんだので、その木の下から出て来て10間ほど歩き、振り返って大木を見ると葉が茂り幹も見えない
巨木であった
新庄の殿様は大変に不思議がり「これはどうした木だ」と先達の村人に尋ねた
村人は「この杉の木はお目にかける事はもちろん、話にも出してはならない木だったのです。ただ、今は大吹雪で
凍死寸前だったので、やむなくこの木の下にご案内しました
この木は曲川の大杉と言って、昔は2本あったのですが、1本は最上義光公がこの大杉の噂をお聞きになり、
是非に山形のお城の庭に欲しいと仰せられ、大勢の人夫を駆り出して掘り起こし、数月掛けて山形まで運んだところ、
土が馴染まず枯れてしまいました
それからというもの、この大杉の西沢目の村には悪い事ばかり起こるようになり、現在でも貧乏なのです
今はお殿様がほど近い新庄におられますので、もしこの木がお目にとまりご用材になってしまえば、西沢目の村は
なおいっそう貧困になってしまいます故、
この木の話は申し上げませんでした。なにとぞこの木のお話はなさいませぬよう」と答えた
吹雪もおさまり、お殿様は新庄にそのまま帰ったが、帰り際にまた大杉を振り返ってみると、不思議なことに大杉は
普通の杉と同じように見えたという
その後この大杉は神木として現在まで大切に守られてきた

「新庄古老聞書」
関連:小杉の大杉、トトロ杉



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/24(日) 17:42:06.15 ID:73iKfOuo
>>812
日本昔話でありそうw

お陰を以って天下に面目を

2018年06月14日 18:18

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:07:32.39 ID:MnYHqCft
天正19年(1591)、豊臣秀吉は隠居し、天下並びに聚楽城を猶子である三好中納言秀次へ譲った。
その官位昇進のため、同年12月28日、秀吉秀次以下天下の諸大名は、位次第に車にて参内を
することとなった。

この時秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て

「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」

このように申し上げたところ、秀吉も「そういう事なら」と、最上義光を政宗の前に立てた。

これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」

それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。

(氏鄕記)



11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:10:00.88 ID:NpoWDhvU
氏郷が、最上家の取次だったのかな。わざわざ人質まで送るとは。

備の形成途中で

2017年11月04日 13:34

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 12:35:39.58 ID:KfZh2TsO
慶長5年、長尾(上杉)景勝が出羽国最上義光を攻めた時、上山城に里見越後(義近)の子、民部太夫が
籠っているのを、上杉方である山中城主・横田式部穂村造酒允と言う者が両人大将分にて、人数
300ばかり押し寄せ、山向に陣を取り、それぞれ馬より降りて備の形成を初めた。

この様子を詳しく見ていた里見は、馬武者を選りすぐってこれに突撃を行い、横田・穂村の兵は
尽く敗北した。

横田はこの突撃の時、未だ馬に乗っていたためそのまま馬を駆けて落ち延びた。
穂村は馬から降りており、再び乗ろうとした時馬が付きかね手間を掛けている間に、敵が重なり来て
討ち死にしたという。

(士談)

備の形成途中で攻められるとやはり弱いのだな



240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 12:42:09.96 ID:Anj7CIbq
城攻めにきてるのに300っていうのも気になるが、こんなしょうもない負け方は初めて見た

獅子踊祭

2017年01月10日 17:50

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 00:34:24.29 ID:bY/+l3+r
獅子踊祭

最上義光の御世、7月の盆辺りになると方々から300人もの獅子踊りの集団が集まってきて、山形城下の三寺を打ち揃えるでもなく太鼓を叩いて練り歩いたという
今は廃れてどの様な祭事であったかは定かではない

「新庄古老覚書」



野口(もしくは野上)七郎右衛門という人は

2017年01月05日 09:39

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/05(木) 01:01:30.53 ID:Kng6zxaG
 最上の侍の野口(もしくは野上)七郎右衛門という人は、
首供養までしたほど働き軍功を稼いだ侍であったが、一生具足を着なかった。
いつでも羽織ばかり着て功名を得た。

 とかく命は天に在り。死のうと思っても、時節が来なかったら生き延び、
どれだけ用心して逃げ隠れても、命の極ならば逃れる事はない。


『武士としては』

本多忠勝みたいな人だ…



義光は笑った

2016年10月21日 09:24

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 02:00:56.12 ID:ZIiyZKTJ
義光は笑った

慶長5(1600)年9月半ば、直江兼続率いる上杉の大軍が山形盆地を臨む菅沢丘へと布陣した

最上軍の将の氏家左近(氏家光氏)は「(富神山奥の)西黒森で上杉の荷駄道を撹乱し、後方を掻き回したい」と軍議で申し出た

この提案に小勢ではすぐに消耗し、あたら兵を失うと諸将の反対はあったが、左近の手勢60人程での作戦が認められた

兵には命知らずで足の早い者が集められた

これを耳にした延沢遠江(延沢光昌)も沼木方面への遠見の役を申し出た

最上義光は延沢の重臣有路但馬、笹原石見、糟谷延元らに軽挙あるべからずと念を押した

その日の夕刻延沢勢の進出した沼木の西、須川の東岸に大量の最上方の幟旗が立ち気勢が上がり
横目衆から義光に「この様な立て札が至る所に立っております。いかがいたしましょう?」と問い合わせがあった

立て札には「最上は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく 青垣 山篭れる 最上し 美(うる)はし」と書かれていた

義光は立て札を元に戻す様に命じて声を立てて笑い、非常に嬉しそうであったとされる

「山形合戦」等