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最上義光の武者修行(複数説あり)

2016年06月18日 11:27

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 11:06:57.52 ID:YWmczOZ9
最上義光の武者修行(複数説あり)

座王高湯(蔵王温泉)で賊を退治した最上義守・義光父子が山形城に帰って後、義光は昼夜問わずに寝食を忘れ武芸の鍛錬に勤しんだ。
そんな義光は城を訪れた者から「越後の主上杉謙信は世にも知られた名将ですが、幼少の時から修業に明け暮れ、国中のあちこちに忍び旅をされたと言います」といった話を聞いた。
また近習が言うには「天下に名前を知られる大将に愚かなる者は一人もいません。
小田原の北条氏康の祖父の早雲公は昔伊勢国で友達数人と巡礼の如く武者修行を行い、旅の途中の駿河で今川氏親に仕え両上杉を追い払い、伊豆相模は素より関八州の棟梁ともなりました。」と話をされた。
義光は幼心に英雄譚に想いを馳せ、父義守に暇乞いもせず親しい者わずか二・三人と語らい、書き置きを残して夜のとばりに山形城から忍び旅立ってしまった。

明くる朝若殿(義光)がいない事に気付いた山形城内は騒然となり、最上義守に近臣が義光の書き置き状を差し出した。

義守が紙を開いて見ると

義光(`・ω・´)「義光はいやしくも清和天皇の流れの武門の家に生まれ、おとん(義守)の慈しみを受けて成長してもう立派な若者なんよ。
…なのに未だ武勇の徳が足りずにご先祖様の名跡にふさわしい行いができていないからこれは歎き悲しむだけではダメなのでなんとかしようと考えたんよ!
だから天童街道から大石田を抜け庄内から越後方面へと武者修業するんよ!
名刹・古戦場を見学して修行の旅を通じて人馬の運用や地形と戦術を身につけるんよ!
あ、とりあえず七年くらい武者修行してくるんよ」

義守「・・・」

近習の者が殿(義守)を見るには微動だにせず、その内心を窺い知る事はできなかった。

「奥羽軍談」



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 11:39:34.08 ID:knxNHmPT
最後の一文も書いてあるのかな、それとも投稿者の創作?
最上は見極めづらい

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 12:33:02.22 ID:Ljbl26nA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8510.html?sp&sp
これだと自分より強い者を探しに全国で武者修行するぞ!ととりあえず隣の越後行ったら
軍神様がいて自分の弱さを思い知ったとかなんとか

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 12:49:24.85 ID:s4ObcymM
馬鹿だねぇ

747 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/18(土) 13:46:22.71 ID:YWmczOZ9
義守ヒラキテ見玉フニ其文「…先ツ七年ノ御暇玉ハリ候得カシ(義光書置)」ト有シトカヤ。義守気色少驚カセ玉ハズ。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 13:59:37.20 ID:YWmczOZ9
(´・ω・`)雰囲気で

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 14:39:23.92 ID:NzW65WpW
いつも同じ顔文字つけるといろんな解釈できる逸話も一様に印象偏るんだけどわざとやってんのかな

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奥羽の鬼姫

2015年10月10日 18:38

義姫   
430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 15:58:47.27 ID:44KyAK+0
奥羽の鬼姫

山形の最上義守には一人の姫がいた。名を義(義子・於義)。
父の義守と兄の義光が家督と天童八楯との外交方針で争う席にて突如「不甲斐無し」と兄義光の頬を思い切り叩(はた)いた。
最上義守は「この気性と器量をして、男子であったなら一角(ひとかど)の大将にもなっていただろうに」と娘が女として生まれた事を残念がったという。

「山形の昔話」

「お兄ちゃんの馬鹿!カス!分からず屋!そんなお兄ちゃんなんて嫌い!」と妹にビンタされた最上義光の巷話



431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 18:25:48.17 ID:oh0pdqBA
不甲斐なし
流行る…

伊良子宗牛の事

2015年03月15日 16:24

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 06:52:00.57 ID:2TOljY+0
伊良子宗牛の事

永正の頃(1500年頃)、甲斐国守護の座を巡り武田信直(武田信虎)は叔父の油川信恵と国を二分する争いを行っていた
信恵方には武田一族の岩手縄美、秋山信任、小山田氏らが味方したが、信恵が大敗を喫すると秋山氏も信直に従う事となった
しかし秋山一族の中には信直を国主として認めない者や、信恵方についた事を咎められ、やがては所領を捨て出奔する者もあった
その中には三河渥美の伊良子に移り住んだ者もいた
三河に移った者は土地の名を取り伊良子を名乗り、その後出羽国に流れ最上義守に仕えた

「奥羽軍談」「山形の昔話」ほか

伊良子宗牛の出自の話



義守の手紙に見る天正最上の乱

2014年08月22日 13:48

987 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 01:58:45.13 ID:k/wP8bZN
義守の手紙に見る天正最上の乱

しばらく前の事、神奈川県に在住の旧伊達家家臣の末裔の方が青葉城資料館に寄贈した百通余りの書状の中に、新発見となる最上義守の書状が4通含まれていた事が明らかとなった

書状は隠居した最上義守が伊達家に出したもので
義光に家督を譲ったものの

義守「義光に家督を譲ったのは時期尚早であり誤りだった」
「(天童八楯と揉め事を起こそうとする)義光をおとなしくさせたい」
「言う事を聞かないなら義光を討つのも仕方ない」と、義光にとってはかなり物騒な内容であり

「義光を討つか追放して、最上家の当主に戻りたいから、機会が来たら是非に力(援軍)を貸してほしい」とも書かれていた

実際には、伊達輝宗があまり積極的に最上家の内紛に介入しなかったために、白鳥長久の仲介で最上義光と輝宗との間に休戦約定が結ばれ、義守の家督復権には至らなかった

書状は最上義守が50代、義光が25才頃のものと見られている




白寿丸

2014年04月13日 18:45

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 07:15:04.29 ID:8555LqJW
ある日、最上義守の夢枕に立派な姿をした武将があらわれ、こう告げた。
「義守よ。立派な跡継ぎが欲しいと願っているようだな。おまえの願いをかなえてやろう。
これからも祖先や神仏を敬い、正しい行いをするように」
武将は最上一族の祖である斯波兼頼であった。

やがて義守も正室が懐妊し、天文十五年(1546)正月元日に、待望の男児が生まれた。
すると山形城門にまつられていた山王権現(現日枝神社)上空に白い旗に見える雲がたなびき、
男児の誕生を祝うようであったという。

男児は「白寿丸」と名付けられ、また源五郎とも称された。のちの義光である。





最上義守、息子と京へ

2014年03月02日 18:58

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:27:11.82 ID:CxSCJIi/
最上義守、息子と京へ

永禄6(1563)年、最上義守は18歳になる息子の義光を連れて京に上り、将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。

「6月14日、久しぶりに将軍(足利義輝公)の屋敷に伺ったら、丁度出羽の御所(屋形号)の山形殿父子(最上義守と義光)が来ておられた。
父子は将軍に馬と太刀を献上して、義光に頂いた義の文字や、常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、私もそこに顔を出させてもらった。将軍から下された杯を、二人は「かたじけないことです」と言って頂戴した。私も深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」

「山科言継卿記」

公家の日記に書き残された、最上父子の京都旅行の一幕




497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:59:44.64 ID:CxSCJIi/
「姫武将政宗伝ぼんたん!」の義守と義光で脳内再生

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 04:08:18.84 ID:CxSCJIi/
高湯(蔵王)温泉で義守は義光に笹切の名刀を与えたり、足利将軍から一字拝領出来る様大枚まで叩いたのに
いつから仲が悪くなったのやら

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 10:26:37.23 ID:UTJyG6Sf
ちゃっかりしたやつだなと思ったが、山科言継なら納得

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 10:31:18.63 ID:nv323lgY
うむ、言継なら仕方ない

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 10:38:44.71 ID:aZwEZyei
言継が酔うって、どんだけ大量の酒が出たんだよ

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 10:46:17.46 ID:tMbAxVxs
ところで義光の「義」は義輝から拝領したものとして
義守の「義」はどっから?
代々拝領してきたから、ほとんど通字になってたとしたら、
あんまりありがたみがないような

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 11:16:21.39 ID:uiUgpBUc
官位と同じで、自称と公認の違いじゃないの。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 17:07:00.44 ID:1KnOREGZ
原文では義の字拝領について礼をしたとは書かれていないようだが

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 19:58:02.71 ID:CxSCJIi/
>>504
息子の義光は元服しての父のお供だったから状況証拠で

(義光に頂いた義の文字や、以下略…社交辞令の挨拶など カッコカリ)常日頃からの感謝と御礼を申されていた。

でOK?

あくまで()で

最上義守、生前葬を上げる?

2014年03月02日 18:58

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:45:54.89 ID:CxSCJIi/
最上義守、生前葬を上げる?

家中の義光推しの空気と病を圧した重臣氏家定直の諌言もあり、最上義守は家督を息子の義光に譲る事を決断。
栄林と号し山形城の北の龍門寺に隠居した。

この寺に興味深い文書が残る。

元亀2(1571)年、秋彼岸の日、葬送に際して火を下ろすときに唱える「炬下語(あこご)」が、義守のために用意された、といったものである。

この後義守は伊達輝宗に手紙を出し「やっぱり義光に家督継がせたのミスだった。(ワシが)当主に(また)なるから力(兵)貸して」といった申し出をする。

伊達輝宗は周囲に「中野殿(最上義守)が天童や白鳥と結んでなにやら企てている」と手紙を出したが
この手紙の「中野殿」が後代義光と家督を争った「最上義時」扱いされる原因にもなった

一度は家督を譲ったものの
最上義光に不安を感じ、「天正最上の乱」勃発に際し覚悟の生前葬を上げた最上義守の周りを巻き込んだ悪い話?




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:51:19.14 ID:CxSCJIi/
ノブヤボではぱっとしないけど、最上義守は伊達家の傀儡だった最上家を独立大名に立ち直らせた
ある意味最上家中興の祖。

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 02:04:49.15 ID:1KnOREGZ
炬下語ではなく下炬語じゃね
禅に帰入して得度した事の証明として行われるもんなので、別に不穏な意味は無いはずだが

629 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/02(日) 02:45:53.97 ID:CxSCJIi/
>>628
下炬でしたね

龍門寺は(現在)曹洞宗ですが
宗派によっての解釈の違いなんかもあるのでしょうか?

栄林を号し龍門寺に入ってから
時期を少し置いての話の様です

気分転換かなにかの区切りやけじめ?

下炬 あこ 導師が松明をとって、死者を火葬する意。
転じて、棺前に立って引導を授けること。
曹洞宗では三尺二寸。
浄土宗では二尺五寸とされ、1本を落とし(厭離穢土)、残る1本(欣求浄土)で1円を描き引導文を述べた後落とすなどの作法がある。
迦葉が釈尊の荼毘の炬をとった(菩薩所胎経)。
大声を上げて一喝するのは、中国黄檗の希運禅師の故事より(伝燈録)。
炬はかがり火、松明(たいまつ)の意。
「智慧の火を以って煩悩の薪を焼くの標示なり」(百通切紙第三)

あこ
禅宗で、火葬のときに導師が遺体を焼く燃料に火をつけること。のちには偈(げ)を唱えてしぐさをするだけになった。秉炬(ひんこ)。

630 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/02(日) 02:51:55.21 ID:CxSCJIi/

隠居後に改めて得度もしたけれど
義光に家督を譲ったのは腑に落ちなかった→隠居も得度もかなぐり捨てて伊達・天童・白鳥を巻き込み天正最上の乱へ、といった流れでしょうか

最上義光、山賊の首魁を討つ

2013年05月13日 19:57

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 14:48:19.29 ID:zhidyYg3
最上義光、山賊の首魁を討つ

最上義光通称は二郎太郎、修理大夫義守の子である。
左近権少将に進み、出羽守を兼ねる。

義光の体格は衆に優れ五、六歳の頃には他の十二、三歳くらいに見えた。
年を長ずるに及び、力はあくまでも強く七、八人でも動かせなかった大石を
軽々と転がして見せたので人々は皆、舌を巻いて驚き「成長の暁には、どんな
勇将になられるのだろうか」と語り合い、深く望みを託した。

永禄四年四月、義光十六歳の時に父義守に従い高湯温泉へと出かけた。

当時この地方には一団の山賊が横行しており、諸方の富家に乱入して
財宝を掠奪しており、諸人は皆恐れ慄いていた。

四日の夜、その山賊の首魁は部下七十人余りを率いて高湯を襲い、火を
仮屋に放ってドッと鬨をあげた。

「賊が押し寄せたぞ」義守の従者は皆、太刀を取って出て防ぐ。
義守は事に慣れた勇将であり、じきに小具足に身を固めて指揮をとった。

義光もまた太刀を取って躍り出たところ、大きな男がしきりに部下に
激を飛ばしていた。義光は「さては奴こそ首魁だろう、討ち取ってやろう」
と考え、疾風の如く駆け寄って真っ向から真っ二つに切り割った。
その早業は目にも留まらぬものであった、

それを見た一人の賊が槍をひねって突いてかかったが、義光はサッと刀を
振るい肩から乳の下まで斬り下げた。

こうしている間にも従者たちは各々奮って戦い、あちらこちらに敵を追い詰め
或いは殺し、或いは傷つけた。残った賊はおおいに恐れおののき、先を争って
逃げて行った。

義守は義光を召して、「汝は幼きといえど、よき我が教えを守って武芸に熟達した。
今日の難において賊の首魁を倒したのはこのうえもない手柄である。
この太刀は我が初陣の時に楢下口で高名したときに父より賜った重代の宝だ。
これを今日の褒美に与えよう」と告げ、手ずから篠切貞宗の刀を授けた。

義光はこの太刀を受け取って感涙にむせんだ。

義光のこの日の奮闘は鏡宿における源義経の勇武に劣らず、
青年の鋭気は今なお古のごとし

(青年美談)

めずらしく親子の仲が良い話




277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 16:06:08.20 ID:w5b7iIIp
まだ志村さんはいないんだな

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 14:37:54.97 ID:N7I0LoSI
私は宮城の人間なんだが>>286の白鳥十郎長久の書状が発見されたって話を、
震災前に宮城の河北新報のネット版記事で読んだ記憶があったなと思ったら、
その時の記事をPDFにして保存してた人がいたみたいだ。

悲運の戦国大名白鳥十郎長久 実在裏付ける書状 発見(20100307)
ttp://www.morobito.com/jyuro/jyu1_h22.pdf

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 13:01:05.84 ID:/nnh54fQ
>>276
義光の逸話は無理に鮭という文字を入れないほうが読み易いし親しめるな
この頃は親子仲良いのか

親子鷹

2010年10月31日 00:00

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 14:58:46 ID:ookZ7Ln1
親子鷹

親子大喧嘩の末、氏家定直の注進もあって最上家の家督は義守から義光にようやく引き継がれた。
近隣の諸勢力から祝いの贈物が届いたが、ちょっと変わったエピソードを挙げておく。

最上家臣「こちらに名を記されよ」
A「大江家臣中山玄蕃」
B「大江家臣中山玄蕃」
最上家臣「めでたい席とはいえ、いたずらはやめられよ。名は何と申す?」
A「なかやまともまさにて」
B「なかやまともまさにござる」
最上家臣「ふざけるのも大概になされよ!」
A「はぁ?」
B「ふざけてなんかないんだけど・・・」
最上義守「おお、これは中山殿!今日は御子息もお連れか」
最上家臣「???」

父、中山玄蕃朝政
子、中山玄蕃朝正

子の朝正は後に大江氏滅亡後最上義光に仕え庄内攻めの仲介役となっている。