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『当代記』より、岡本大八事件について

2020年09月01日 17:48

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/01(火) 12:59:56.15 ID:xeG/Ao3Q
慶長十七年三月二十三日、岡本大八という者、親は江戸に在住していた。
この大八は九州長崎の有馬修理(晴信)を駿府に於いて取り持つ物であった。

彼は有馬修理に、修理方より金銀を差し越され、これを各年寄衆、并びに女房衆に彼の取成しを以て
遣わせば、九州鍋島の知行地のうち三ヶ所を申し請けることが出来ると有馬修理に対して偽りの報告をし、
有馬はこれを真と心得、金銀を大八方に渡した。
しかし素より偽りの謀であり、何の沙汰にも及ばなかった。

有馬修理が、大八が金銀を得て私に領した事を言上すると、この二十三日に安倍川原において
火炙りと成った。

(中略)

大八罪過の砌、大八は
「大御所に従い、長崎で唐船の糸やかれこれについての使いとして遣わされていた長谷川左兵衛(藤広)を、
有馬修理は闇討ちしようとした。」と白状した。

このため有馬修理は大久保石見守(長安)に預け置かれ、その後甲斐国郡内に遣わされた。
彼の子息である左兵衛(直純)は、この科に関係がないとして、有馬家の本領は安堵され
前々のごとく長崎に居住した。

五月七日
有馬修理(九州長崎主)は去る月より甲斐国都留郡に置かれていたが、「殺害に至るべし」と
大御所よりの命が下った。

当代記

岡本大八事件について



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ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

2020年08月24日 18:04

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 22:43:10.86 ID:cj6DY8oA
慶長十四年十二月九日、去年、長崎の有馬修理(晴信)の被官達が遣わされ、明朝のあま川(マカオ)に
商いのため渡海した所、かの所のシンニヨロ(商人)并びにカピタン(是は船頭司)たちが、

「あま川の売買の様子を日本人が知ってしまえば、重ねて黒船(ポルトガル船)が長崎に着船しても、
利を得ることが難しい」

と考え、日本人三百余人を一ヶ所に呼び入れ、悉く焼害した。

この報復として被害に相当する黒船を討つべきであると、有馬修理は駿河に於いて徳川家康に訴えた。
殊に日本人を焼害したシンニヨロ、カピタンが来朝しており、幸いにかの船を計り呼んだものの、彼らは
上陸しようとせず、料簡に及ばないため、船を改造し、干戈を以て討ち果たす用意が有った。

しかし有馬のこの計画を黒船の唐人たちは見知して、この日九日に俄に船を出し逃走を図り、
十二、三里程漕ぎ帰った所、風たちまち起こって十里ほど吹き返され、”ゆわう”という所に黒船は
上がった。この間に、有馬修理は改造した船を漕ぎ寄せ、井楼を上げ黒船に漕ぎ寄せると、
素より案内が有ったため、塩硝の保管してある場所へ火矢を打ち込んだ。このため黒船は忽ち焼亡し
沈没した。前代未聞の次第であった。

(中略)

この黒船は水上の部分ばかりが焼け、水に浸かっている部分は沈んで今もその場所にあり、
二十五尋(約三十八メートル)ほどの水深に船の沈んだ部分はあった。
このため、海士たちを召し寄せ、この船に綱を付け、引き上げる事が計られた。

この船の内部には、銀が三千貫目ほど有り、印子はいかほど有るかも知れぬほどで、糸(生糸)は
少々浮き上がったのを取って、駿府への使いに持参させた。

当代記

「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」についての記事ですね。



日本人に対し無礼であり、気が利かぬ

2018年12月10日 18:43

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 17:58:09.86 ID:Ea7f08oE
日本人に対し無礼であり、気が利かぬ


ドン・プロタジオ(有馬晴信)やドン・バルトロメウ(大村純忠)は私に多くのことを語り
教会側の態度の誤りを指摘し、バテレンたちは日本人に対し無礼であり、気が利かぬ
あまたのことがあると語り、神社仏閣の破壊はバテレンたちが教義に反するというので
不本意に行ったことに過ぎないという。

彼らは
「我が国に住んでいるバテレンたちが、日本人の美しい習慣や高尚な態度を学ぼうと
 あまり努力せぬことは全く無智なことと思われる」
と語り、とるべき手段を示した。
私(ヴァリニャーノ)は、日本人の大いなる天禀の才に驚嘆して、これを認めた。


――『日本巡察記』


有馬晴信領内の仏教弾圧

2013年08月13日 19:57

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 16:50:45.25 ID:YatkRy4b
キリシタン大名である有馬晴信の領内では、彼によって追放された僧侶たちが、加津佐の海岸近くにある
岩石の小島の洞窟内の祠に、自分たちの仏像を密かに隠し置いていた。

それを知ったキリスト教の宣教師は、若者たちを従えてその洞窟に向かい。、取り出せる仏像は取り出し、
後は放火して焼き尽くした。

そしてキリスト教徒の少年たちに仏像を運ばせ、有馬の住民達の面前で、仏像につばを吐きかけるなど冒涜し、
最期にそれらを皆打ち壊し薪にした。
(ルイス・フロイス「日本史」)

有馬晴信の領内における仏教弾圧の模様である。




149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 23:52:41.10 ID:2DKCJqo5
一神教の排他性や危険さは歴史が証明している。

日本では本地垂迹のように神も仏も仲良くというのが基本。

我は寺僧・空圓。実は

2013年06月29日 20:00

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 14:13:43.66 ID:wXEh7esj
天正5(1577)年、龍造寺隆信神代貴茂の手引きで島原に上陸し侵攻した。
有馬晴信も兵を出してこれを迎撃したが、龍造寺勢に破られた。
隆信は余勢を駆って千々石氏を攻めたが、これに有馬の援軍も加わり先手はおろか旗本まで崩されることとなった。
これはその時の話である。


隆信の陣には空圓という僧が陣中を見舞っていた。
この空圓は近年肥前に寄って与賀の蜜蔵寺に宿を取っていた際に、村中城へ招かれて法談をしたところ、
隆信夫妻が深く帰依して、蜜蔵寺を修造して光照寺と改め、住職に置かれたものであった。

さて、空圓は、龍造寺の軍が崩壊する様を目撃すると、長袖を結んで肩にかけ長刀を取ると、
「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と叫んで敵に斬りかかり、
四方八方へと敵を討ち払い、奮戦して遂には果てた。
この空圓は、これまで生国も俗姓も話すことはなかったが、ここに至って初めて名乗りを上げたのであった。




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 14:56:08.81 ID:MqAbeISa
誰だよ・・・つか松永久秀の弟が何で今更

アビラ・ヒロン署、日本王国記にある秀吉死後の様子

2011年02月01日 00:00

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 00:08:52 ID:PXeoL7/1
アビラ・ヒロン署、日本王国記にある秀吉死後の様子
太閤は家康に王子(秀頼)の後見を頼んだが、次第に家康は謀反を企てるようになった。
太閤の崇拝者は秀頼に天下を取らせようとし、石田三成小西行長加藤清正が同盟を結び、家康が
謀反を起こした自分の領地を平定しに出かけた隙をつき、挙兵し、都にいた家康の手の者を殺した。
家康はそれを知ると軍を率いて都を襲った。
同盟者たちは多くの兵を連れていたが統一がとれずに、有馬晴信の裏切りの為、内府に滅ぼされた。
薩摩の殿は家康を出し抜いて領地に引き上げ、有馬は裏切ったために許された。
肥後の殿は和睦し、小西は捕まり殺され、石田は頭を下にして磔にされた。




594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 00:24:18 ID:8F8PDzUQ
有馬がなんか大物だ

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 00:39:20 ID:rfVEZ9da
西洋人なら、小西や有馬のことはある程度美化すると思ったが、そうでもないのか
ところで有馬の娘あたりの洗礼名がマリアだったら
有馬マリアとなって、逆さに読んでも同じ名前に

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 07:38:48 ID:cbuul03s
>>595
有栖川乙

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 10:50:21 ID:LXnzbk2b
>肥後の殿は和睦し

誰の事だろ?

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 11:27:19 ID:A+814i4r
加藤じゃないか?
石田や小西と組んだことになっているし。

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 12:34:03 ID:LnXnczcC
過大にも見えるのは、もしかして小早川秀秋を有馬晴信の配下あたりに認識してとかなのかな

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 15:12:45 ID:ZfiD3iZx
海外では貿易で有名だったとかかも>有馬晴信

605 名前:593[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 22:44:16 ID:73ZvUjqM
アビラ・ヒロンはスペイン人貿易商で、熱心なカトリックだけど宣教師ほど信仰を中心とした見方はしてないかな。
もちろん記述が偏っていないわけではないけど。
日本王国記に注釈を付けたイエスズ会のモレホンは「裏切ったのは別の人たちで、有馬ではない。
この記述は誤りである」と書いている。
訂正すべきところは他にあると思うんだけど…
ちなみに「天下」は五畿内という5つの国を指す、と最初の方に説明がある。

ヒロンは貿易相手にオランダを選んで、カトリックを計画的に迫害し始めた家康が大嫌いで、
強欲だの暴君だの書いている。
秀吉は「我らの父」で、秀吉はパードレを迫害し財産を没収したが、我々には危害を加えず、
我々を侮辱した日本人は厳罰に処された、とある。
26聖人の殉教の記述もあるけど、この本では秀吉が石田三成の意見を取り入れて、
命令を修正したことになっている。
立場がちがうと見方もここまで変わるのか…という感じです。


608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 23:44:41 ID:zxPvfyzP
ヒロンはわかってないくせに断言するクセがあるから面白い。
欠点あっても日本王国記はいい史料だけどね。