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有馬直純と栄寿院の婚姻

2020年08月30日 17:43

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/30(日) 16:59:23.49 ID:PeXmEUO7
慶長十五年、去る春、越後国主堀越後守(堀忠俊)が改易と成った時、徳川家康はその妻女
(本多美濃守(忠政)娘)を召し上げ駿府に居住させていたが、今月(十一月)九州長崎の
有馬修理息子(直純)が駿府に出仕した折、これを娶るようにと大御所が仰せに成り、彼も
異議なく承諾し、駿府に於いて見参した。
そして有馬直純が伏見に上がる時、美濃守娘も共に上ったが、これは国元の長崎に先ずこの事を
伝え、迎え船を乞うていたのである。しかし寒中にて海上が荒れ、翌春まで伏見に逗留した。

この婚姻に関しては、彼女の父である桑名の本多美濃守としては、遠国に娘を差し越すのは迷惑な
事であった。また修理の息子も二十三ばかりの者で、既に妻子があり、殊に三歳の男児も有ったのだが、
この事は大御所よりの特命であったため、元の妻を退けてこの儀に及んだのである。

『当代記』

典型的な政略結婚ですが、この後有馬直純と本多忠政娘(栄寿院)は二男三女を儲け、夫婦仲は非常に
良好だったようです。



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/30(日) 17:34:14.64 ID:QPV2KjHo
いい話なのか

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/30(日) 17:54:53.26 ID:LrGtNjxf
その政略結婚にあたって、前妻である小西行長の姪を離縁したというのは悪い話では・・w

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/30(日) 18:25:19.10 ID:7LjCLwai
家康「儂なんて無理やり離縁させられた閉経ババアを正妻にした事あるし」
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立花宗茂と舞

2019年07月18日 13:46

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 01:57:19.10 ID:tnxIIaJa
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 10:36:52.65 ID:L637dIKf
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w


101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 10:44:59.33 ID:cnhTDBxw
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 12:59:56.13 ID:SUvmqEbQ
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人

嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)