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キリシタン全体にとって甚だ悲しむべき、また我等の敵にとって大いに喜ぶべき報知

2019年09月29日 14:20

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/29(日) 12:52:44.29 ID:c91QPm4X
8月25日頃、我等並びにこの国のキリシタン全体にとって甚だ悲しむべき、また我等の敵にとって
大いに喜ぶべき報知が豊後に達した。すなわちドン・ベルトラメウ(大村純忠)は死し、その兄弟である
有馬の王(有馬義貞)は逃げ、ポルトガルの帆船およびジャンク船は横瀬浦港を去り、会堂及び
同地全体は他の多数の村々とともに焼かれ、キリシタンは皆死し、または迫害を加えられているという
報知である。(大村純忠の義兄である後藤貴明の反乱の事と考えられる。純正の死は誤報)

而してこれは、ドン・ベルトラメウが領内の仏像を焼いたためであり、その部下の者も、彼の親戚である
他の君主と供に暴起して悉く領地を奪い、有馬の王もその弟の奉じたキリストの教えを好遇し、
弟がキリシタンと成り、仏像を焼き、坊主に迫害を加えたにも関わらず、仏より何等の罰を受けることが
無かったため、「仏に何の力もないことは明らかである」と言い、その兄弟のごとくデウスの教えを
奉ぜんとし、またその領内にデウスの教えを弘める許可を与える事が良いと思い、また既に領内2ヶ所に
おいて千二百あまりのキリシタンが存在していた。

このような状況で家臣たちがこれに叛起し、デウスの教えに大いに反対するその従弟(後藤貴明)が
叛徒の首領と成った。

我等はこの報知を得て大いに驚きまた悲しみ、この事についてのみ語り、キリシタンは恐怖し、異教徒たちは

「デウスに力有れば仏の力よりドン・ベルトラメウを救出すべし。ドン・ベルトラメウの如くデウスの教えを
愛し、仏に迫害を加える者は無かった。宣教師たちが説いていたようにデウスに力があるのなら、その
僕を助けるべきである。」と言って大いに罵言し、また

「キリシタンの教えは偽物であり、滅ぼすべきものである。何故ならその教えの入った所には必ず
戦争及び紛争が起こる。」と言い、その議論を確証するため、日本に於いて最も古く、また立派であった
二つの都市、すなわち博多及び山口がキリシタンの教を受け入れた後滅亡したこと、その他多くの事を
挙げ、人民をして我等に大なる嫌悪を懐くに至らしめ、また我等は人を喰う者にして魔法使いであると
彼等の頭に入れ、また我等は日月も仏像も拝することを禁ずるが、そんな事を為し、また説く者は全く
信ずるべきではないと言った。

このような話は我等の行く各地において坊主に共通した所である。

(1563年11月17日(永禄六年十一月二日)付、イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

後藤貴明の反乱の報についての記録である。キリスト教が入った所では平和よりもむしろ戦乱が起こる、
という印象がこの時代から既に有ったのですね。



469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/29(日) 13:33:51.38 ID:bMxm3j9d
隆盛の有馬に屈する形で大村は有馬から婿を迎え隠居、実子は後藤へ婿にやって反乱の目を潰すが、純忠が領内の寺や菩提寺を廃するとこれに怒り、これより大村を仇敵とみなした
なにもキリスト教だからではない、跡目を継げなかったことが争いの元凶なのである
なお龍造寺が隆盛を極めると後藤貴明は隆信の子家信を養子とし実子清明を隆信の養子に、大村純忠は娘を隆信の子家種の室に送った
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摩利支天と称する大にして甚だ美麗なる偶像

2019年09月27日 16:25

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 14:56:12.80 ID:B2xH82PH
彼(大村純忠)はその兄(有馬義貞)より出陣の通知を受け取ったことにより、翌朝出陣の準備を
整えた後、パードレのもとに人を遣わし、彼とその家臣のためデウスに祈り、またその妻が妊娠して
いる故に、我等の主が安産を与え給うよう祈ることを求めた。

ドン・ベルトラメウ(大村純忠)が出陣した時、途中にて一つの注目すべきことが起きた。
日本人は戦争の神にして、摩利支天と称する大にして甚だ美麗なる偶像を有し、大身の人も
賤しき者も、その前を通る時は地面まで頭を下げ、及ぶ限り自ら卑しくする習慣が有った。
偶像の背後、頭の上にこれを覆うガロGallo(鶏)があった。異教徒たちは疑問ある時に、そのもとに至りて
これに伺うのを常とした。

ドン・ベルトラメウは軍隊を率いてここに到着したとき、部下を停止させて、進んで偶像を取り出して焼き、
次いでその寺院にも火をかけた。またガロをその面前にもってこさせ、剣によってこれに一撃を与え、
「今まで幾度、私を欺いたのか!」と言った。

悉く焼き盡くした後、その場所に甚だ美麗なる十字架を建てさせ、部下一同とともに深甚の敬意を表して
戦地に赴いた。

彼が(前に述べたる如く)我等の主なるデウスのため約束したより多くの事を成した一例は、
その兄の救援のため戦争に臨んだ時、人を領内に遣わし悉く偶像を焼き、また港より1、2レグワの
所にある森より、ポルトガル船に必要な材木を、ポルトガル人の望むまま伐採させるべしと命じて、
これを実行した。また武士等と語り、デウスのことについて疑いが有れば彼に尋ねよ、彼はそれについて
説明する、と言った。

(1563年11月14日(永禄六年十月二十九日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)



海賊に遭難

2019年04月22日 17:59

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/22(月) 14:05:14.07 ID:10EQUDe/
(ルイス・ダルメイダは)パードレ・コスモ・デ・トルレスの滞在する大村へ向かうこととし、
枝の祝日(1570年3月19日(元亀元年二月十三日))の前夜、秋月を出発した。

途中2日間を費やして聖週の月曜に、高瀬において乗船し、木曜日には大村に到着して告白をなし
聖体を受けようと計画していたのだが、我らの主であるキリストには別のお考えがあり、私達が高瀬を
出港した後、甚だ強い風が船首に向かって吹き付けたため、高瀬より3レグワの小弯に入り、
風が静まるのを待って、7レグワ隔たった有馬の王(有馬義貞)の領内の、他の地へ渡ろうと考えていた。

火曜日の夜、強風は静まり我々の進路に向かって順風が吹いたため、甚だ喜んで出帆し、これであれば
聖週の木曜日には大村に到着すると思われた。風も甚だ良く、夜半には有馬の海岸へ着き、岸に沿って
進んでいたその時、海賊の船十艘が我々を襲い、我が船は小さかったため、そのうち二艘のみが我々に迫った。

船には何の防御も無かったため、彼ら海賊が我々が携えてきたもの、すなわち冬の衣服を悉く奪うのを
妨げることは出来なかった。この時陸地はなお雪を以て覆われ、寒気は厳冬の如きであり、私の病は
全く寒気によって発したため、この時十分に衣服を着していたのだが、このため彼らは私を襲い、
一人目は第一の衣を奪い、二人目は第二の衣を、三人目は襦袢を奪い、四人目は私に下着を残すことを
欲さなかった。

私が肉体を露わにした後は誰も私に近づかず、彼らが、我ら一同を裸体にした後は、その他の衣服は
少しもなかった為に、船の道具、すなわち櫂碇、網碇、その他網具、および筵に至るまで悉く奪い、
少しの水も残さなかった。我々の一人が、我らに慈悲を垂れ櫂二本にても残すよう請うたが、
彼らは激しくこれを打ち、「そのような事を言うなら悉く首を斬るぞ」と暴言を発し、船には一物も
残すこと無く去っていった。

我らは陸より、少なくとも1レグワ4分の1の所に捨てられ、どうすることも出来なかった。我々は皆
寒気のため死に瀕し、陸に着くための櫂も無かった。さらに、我らが主は更に多くの功徳を与えるため、
聖週において自ら苦しまれたのと同じように我らを苦しませようとし給い、西風が陸地より吹付け、
我らは全く陸に着く望みを失った。風は非常に強く吹き、浪の高くなるに従い我々は益々陸地より
遠ざかった。

我らは皆寒気のため死にそうであった。主デウスが翌朝太陽を与えられることを期待したが、夜が明け始めると
悉く雲に覆われる日となり、また非常な暴風となり、さらにこの辺りは潮の流れが急であるため甚だ
波も高く、我らの船は波のため益々遠くへ流され、又しばしば転覆しそうに成った。

完全に夜が明けると、船底に海賊も取ることを欲しなかった破れ筵三枚を発見し、くじを引いてこれを
分け、私と一人の水夫が一枚を得、これをもってわずかに肩のみを覆い、他は完全に露出していた。
日本のイルマン一人は他の三人とともに一枚を取って、これを以て頭を覆った。寒気に耐える事を得た
水夫たちは辛抱して、最後の一枚を帆となし、その夜離れ去った約5レグワの陸地に至ろうとした。

有馬の地から2レグワの山湾の中央に至ると忽ち暴風が起き、海は喜望峰におけるが如くに荒れ、波浪が
船を撃つごとに「最期来たり、我らの命は終わるべし」と思われた。

午後に至り、我等の主キリストは寒気のため半死の状態に陥り、体はずぶ濡れの我々を導き二つの島の隙間を
通過せしめた。もしこの二島のうちどちらかに船が着いていれば、我々は悉く死んだであろう。

我々はこの隙間を通り砂地に乗り上げたが、既に多数の漁師が我らを待ち受けており、その家に誘い、
彼らのうち最も裕福な一人は私、並びに同伴者数名を歓待し、その貧しき衣服を諸人へ与え、盛んに
火を炊きまた速やかに米を煮て我らに与えたため、大いに慰めを受けた。しかしながら皆寒気に打たれ、
ほとんど半死の状態であった。

(1570年10月15日(元亀元年九月十六日)付、イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

宣教師が船での移動中海賊に遭難して文字通り身ぐるみはらされたお話。なんとか生き残ったので運のいい話



816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/23(火) 13:42:05.34 ID:AxCKhtpu
一人目は第一の衣を奪い、二人目は第二の衣を、三人目は襦袢を奪い、四人目は私に下着を残すことを
欲さなかった。

私が肉体を露わにした後は誰も私に近づかず、


アポクリン汗腺!!!

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 14:24:03.16 ID:xzggI1Wy
身ぐるみ剥がれる時すら聖書風なのがさすが

豊後の王の勝利

2019年04月21日 16:22

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 09:14:51.28 ID:WjCbBoTL
この頃豊後の王が戦争に勝利を得たという報告が我らに達した。大内輝弘王が毛利占領下の山口に渡り、
(永禄十二年九月、大内輝弘の乱)、その地に軍備がないのを発見し、その大部分の占領を始めた。
この報が暴君(毛利元就)の軍隊に達すと、毛利軍は一晩の間に、大友方に悟られること無く九州の戦線より
撤退した。豊後の王(大友宗麟)の部将たちはこれを知り、大兵を集めたため、1ヶ月の間に城十ヶ所を
陥落させ、これによって戦争の目的であった二ヶ国(豊前、筑前)の主となった。

領内が安全と成った後、戦争中最も強かった肥前国の領主(龍造寺隆信)らから受けた危害に対して報復を
せんと決し、軍隊を同地方に差し向けた。ドン・ベルトラメウ(大村純忠)は、豊後の王が自分の領地と
接した龍造寺を滅ぼそうと来て、これを滅ぼした後自分にその刃を向けるのではないかと恐れ、しかし
大友に抵抗する力は有していなかったため、パードレ・コスモ・デ・トルレスに依頼して豊後の王と親交を
結ばんと決し、「王(宗麟)がもしこれを許諾するのならば、自分も大友の肥前攻めに兵を出して協力する」
と申し出た。

豊後の王は今日まで我々(宣教師)に対し何事も拒絶したことはなく、パードレ・コスモ・デ・トルレスが
今回請うた事も悉く許容したため、ドン・ベルトラメウは大いに満足し、その兄弟である有馬の王(有馬義貞
も又、豊後の王と親交を結び、パードレ・コスモに大いに感謝した。
ただしこのようになったのは、彼らが暴君(毛利)のために利益を計った事があったためである。

(1570年10月12日(元亀元年九月十三日)付、イルマン・ミゲル・バズ書簡)



有馬と龍造寺合戦の次第

2018年03月12日 17:08

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/12(月) 14:22:15.76 ID:2vy575Ch
有馬家と龍造寺家が合戦をするようになった次第は、有馬義貞と龍造寺隆信両家の境である、
牛津川と申す所に、龍造寺隆信領分より有馬義貞の領分へ踊りを掛け参り、その人数の内
一両人ほどが、水がほしいと百姓の家に押し入り、水を汲んでいた所、その家の亭主に

「何者なれば案内も申さず、濡れ草鞋にて座敷に踏み上がり狼藉な事をするのか!?」

そう散々に悪口を申したことで喧嘩となり、村中の者達が掛け合い踊りに参った者たちを
数多討ち果たした。

その事が龍造寺に聞こえ、隆信は有馬領分へ攻め入った。有馬義貞領分のうち、杵島郡須古の城代は
平井小左衛門という者であったが、ここには隆信より小川一祐という者を大将として、
永禄11年2月6日に城攻めに取り掛かった所、城中より人数を出し、龍造寺勢を須古の百町無田へ
追い込め、大将小川一祐を始め雑兵たち尽く討ち取った、
そこで須古の城より落書を立てた。当時龍造寺隆信の城下は中坂と言っていたため

 中坂は 花のみやことききつるに 少しの風に一祐もなし

永禄12年2月7日、龍造寺隆信は大軍で須古城へ取り掛かり、須古は落城した。
またこの時、先の須古の落書への返歌を立てた

 いたはしや そうこひたひにかね付けて へたはら響く須古のかたがた

(有馬晴信記)