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「続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」

2023年02月10日 19:30

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/10(金) 18:32:27.56 ID:9CUTqSK9
>>634の続き
続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」

伊賀の歴々侍の中にも以前から伊賀を出て今川や権現様に仕えていた者がいた。
服部半蔵正成は度々の武功があり鬼半蔵と呼ばれ、同市郎右衛門(服部保英、正成の長兄の息子)は姉川にて奮戦し、同源兵衛(服部保正、正成の兄)は三方ヶ原で討ち死に、同中保正(服部中こと服部保正、源兵衛とは別人)は度々の勲功があり恩録が厚かった。
右の二百人の伊賀者は服部半蔵組となった。
服部半蔵は俗姓の家柄であるとはいえ今川義元の頃から夜討ち朝駆けの働きで高名を得、御家人の中でも武勇を知られていた。
そのため伊賀者の頭となってからは二百人の伊賀者は自然に家来のようになってしまった。
伊賀者は無念ながらも命に従い、その年(1582年)伊豆韮山の押さえとして天神殿という掻き揚げ城に籠った。
九月八日、敵が大勢籠っている伊豆の佐野小屋という砦の偵察を松平周防守康親に命じられ、伊賀士二人が忍び入り砦を監視するための「忍びかま」という越道をつくりことごとく内情を探った。
同十五日に命に従い伊賀の者どもは夜更けに砦を乗っ取った。
こうして信玄・勝頼親子二代が陥せなかった北条の砦を陥とし伊賀衆は高名を得た。
同年、甲斐のえくさ(江草、獅子吼城)という砦を伊賀衆は攻め取り、翌年未年(1583年)には服部中は岩城殿(岩殿城)、服部半蔵は谷村城を伊賀衆二百人を従えて八月から十二月まで守った。

伊賀者由緒書」を参考にしているようだ



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男子の勇とするは、ただ戦場の働きにあり

2022年06月16日 16:45

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/16(木) 13:29:46.32 ID:kiWIXeCy
徳川家康の家人である平松金次郎は、性質は驍勇であったが、外貌は実に温和であった。
ある時、彼の友人が平松の悪口を言った事があったが、平松は一言もそれに答えなかった。
そのため人々は皆、彼が柔弱であると思った。
その後、平松は朱柄の鑓を拵えたが、これを聞いた人々は皆大いに笑った。これは、白柄の鑓を以て
敵と鉾を交え、鑓に血の付くこと度々に及んだ後でなければ、朱柄の鑓を持たないというのが武夫の法であると
されていたからである。

然るに長久手合戦の時、平松は衆を離れて一人進み、一番鑓を合わせたが、その後に続く者は無かった。
これによって家康公より、新地二百石を賜った。
この時、平松金次郎は衆人の中に出て言った

「男子の勇とするは、ただ戦場の働きにあり。喧嘩を好むは下僕の業である。
私は今度の合戦に、年来出したことのない勇を顕した。そして私の後ろにそれを継ぐ者は無かった。
人は各々、能があり不能がある。私は喧嘩については誠に拙い。しかし敵と相合う時は、人より勝れている!」

これに対して答える者は、更に無かった。

然るに、羽柴秀次公は、平松が徳川家に対して不平を述べていることを聞き召され、一万石を以て招いた。
平松はこれを領掌し、徳川家を出奔した。家康公は坂部権右衛門を召され、「平松を追うて殺すべし。」と
命ぜられた。坂部は承り、直ぐに進んで金次郎を討とうとしたが、平松は却って権右衛門を殺して退いた。

この時、服部半蔵が掛川の城番を代わるため向かっていた道にてこの事を聞きつけ、そのまま鉄砲衆を引き連れ、
平松金次郎が籠もっていた村里を固めた。金次郎は遁れることが出来ないと悟ると、終に切腹したという。

新東鑑