一体誰が詠んだ歌?

2016年06月25日 14:07

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/24(金) 18:26:00.32 ID:AODPDf4a
一体誰が詠んだ歌?

数年前に新聞にも載ったから北陸地方の人は知ってると思うお話しです。


越前と若狭の国境近くにある国吉城。その城主粟屋勝久は若狭武田家の重臣であったが、
主家の内紛に乗じて同じく武田家重臣の逸見氏と結んで叛乱を起こす。独力で鎮圧できない
と見た武田家では、縁戚である朝倉義景に助力を要請した。朝倉軍は永禄6年(1563年)から
元亀4年(1573年)まで足かけ10年にわたり国吉城に籠る勝久を攻撃したが、遂に落城させる
ことはできず、勝久と国吉城の名を世に知らしめる結果となってしまった。

その3回目の籠城戦の時のこと。永禄8年(1565年)8月、朝倉勢は若狭に侵入し、中山という
所に付城を築き国吉城下を荒らしまわった。この頃になると、朝倉方では直接城を攻める
よりは収穫期を狙って侵攻し、略奪を繰り返すことで相手の力を徐々に削ぐという戦法に
変えてきたようである。領内を荒らされた勝久は、逆に相手の付城を襲い奪われた穀物を
奪い返すことを計画、夜討ちを仕掛けて見事これを成功させる。付城に残された兵糧や武器
を国吉城に運ぶとき、次のように書かれた一枚の短冊が見つかった。

「武士の 鎧の袖を 片敷きて 枕に近き 初雁の声 9月2日 朝倉太郎左衛門

敵の主将朝倉太郎左衛門の詠んだ歌だった。勝久も歌の嗜みがあったので「朝倉殿も武勇
ばかりでなく歌道にも通じておったか…」としばし瞑想したという。



と、籠城戦を記した『国吉籠城記』に書かれ、福井県ではこの歌は朝倉氏の詠んだ歌と
思われていたのでした。ところが、時代はくだって平成21年(2009年)、若狭国吉城歴史
資料館の職員さんが富山県の魚津城跡を訪れた際、城跡に建てられた碑に朝倉氏が詠んだ
とされる歌と全く同じ歌が刻まれているのを発見。傍らの説明文には天正元年(1573年)、
上杉謙信が魚津城に陣した際に詠んだ歌と記されておりました。この職員さんが更に
調べたところ、謙信が信濃に出陣した際に戦勝祈願のため詠んだ歌にもほぼ同内容の歌
(「武士の 鎧の袖を かきたして 枕に近き 初雁の声」 ―長野市豊野町川谷日影に
伝わる民話「陣場山」より)があることが判明。同じ北陸でありながら福井・富山両県
とも、更には長野県も加え、一つの歌にそれぞれ異なる伝承があることを知らなかった
ということがわかりました。発見した職員さんに感謝敬礼!


さて、この歌の作者は一体誰が詠んだのでしょうか?残念ながら現段階では誰かわからず
もやもやしますので悪い話に投稿します。個人的には朝倉太郎左衛門が誰かということにも
興味あります。



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 18:36:41.16 ID:Ks3dfeuz
>>767
無名だから気づかれてないだけで全国に同じようなことありそうだなぁ。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 18:49:17.75 ID:6TIcVgos
季語を変えるだけで割と応用が利きそうな歌だし何らかのテンプレが存在したとか
紛争地域の武士にはよくありそうなシチュだから、みんな詩想が似ていたとかかね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 02:07:24.24 ID:t+feyNi7
>>767
朝倉太郎左衛門は宗滴だけど没した後だし、
養子の景紀は九郎左衛門なんだし、
その息子で長男の景みつの可能性が「太郎」だから
高いと言えるけど前年に切腹しちゃってるし、


と考えると消去法で景恒かなと思う。
太郎左衛門と名乗ったかどうか確実じゃないけど。
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