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屍暴戦場唯是天

2021年03月28日 16:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/28(日) 13:37:51.94 ID:6RBK85DI
天正元年、織田信長との江北の戦に朝倉が敗れると(刀根坂の戦い)、信長の兵、撤退する朝倉軍を
追撃すること急であった。
朝倉の侍大将である山崎長門守(吉家)、託美越前守は柳ヶ瀬にて踏みとどまり支えると、
これに励まされて返し合わせて、討ち死する者も多かった。
山崎も大軍の中に駆け入って討たれた。

託美越前守はは矢立の硯を取り出し、師を一首書いて落ち行く者に頼んで、故郷に届けさせた。

 萬恨千悲有驀然、唯識今夜入黄泉、故園更莫灑愁涙、屍暴戦場唯是天
(萬恨千悲は急に起こるものだ、私はただ、今夜黄泉へ入ることを知っている、
 故郷の人々よ、嘆き涙を流さないでほしい、屍を戦場に曝すのも、ただこれは天の定めた運命だからである)

かくて散々に戦って討ち死にした。その間に朝倉義景は逃れ、越府(一乗谷)へ引き取った。

常山紀談



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金ヶ崎の戦いについての京での様子

2020年11月12日 18:45

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/12(木) 16:04:36.47 ID:7iTRDrjx
永禄十三年(元亀元年)四月二十日
早朝、弾正忠(織田)信長の出陣を見物する。一条から東に、坂本に下った。三万ばかりの軍勢であった。
両三日以内に若狭へ罷り越すという。
三好左京大夫(義継)はこれを送り、松永山城守(久秀)は共に下った。摂津の池田筑後守(勝正)は
三千ばかりの人数でこれに従った。
公家より、飛鳥井中将、日野等もこれに従った。今日は鰐まで行くのだという。
貴賤男女僧俗が見物をした。

二十三日
今日改元これ有り(永禄→元亀)。方々より借用の遣いがあった。
高辻よりは石帯、持明院・同、四辻相公羽林袍太刀、坊城沓、勧修寺辯大帷、等である

二十七日
一昨日、越前国に於いて合戦があったという。信長衆千人余り討ち死にしたという。
不確実な注進であり、詳しいことはわからない。

二十八日
禁裏に於いて御三間五常楽急百返、八幡御法楽があった。信長のための御祈祷であろうか。
十六反であり、次に太平楽急二反があった。

二十九日
越前の事について、毎日様々な沙汰が有るため、弾正忠宿舎へ行き、留守の衆である島田但馬守、
佐藤三河入道、猪子外記入道、鷹師衆等と雑談した。福角、森伝兵衛(可隆・森可成長男)、毛利河内守(秀頼)
等の討ち死には必死だという。

信長より自筆の書状が届き、金之崎(金ヶ崎)の城を開城させるため、作事、番匠、鍛冶、をか引き等
七十人ばかりを下すよう言ってきたという。

近江に六角が出兵し、方々を放火したという。そして北郡の浅井(長政)はこれと申し合わせ、信長に別心
したという。これによって越前から美濃への通路は封鎖されたという。ただし越前から若狭の西路は
往還できるという。

武家(義昭)の奉公衆である松井七郎は越前に於いて負傷したという。

弾正忠信長が、亥の刻(午後十時頃)帰陣したという。

言継卿記

金ヶ崎の戦いについての京での様子。浅井の寝返りが、朝倉ではなく六角と連動したものと捉えられていたのですね。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/12(木) 17:30:38.36 ID:3GjHpviy
京極の臣下→独立→朝倉に攻められる→六角に半臣従→信長と同名結んで独立→なかば信長の臣下で、信長政権的には名目上京極の臣下→朝倉・六角と同名結んで独立→滅亡という具合だから、
浅井のどこが義理堅い大名なのかを小一時間…

志賀の陣の様相

2020年11月07日 17:41

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 17:17:59.84 ID:y38pgAVu
我等は当面の難破を逃れ、少しく静穏であることを得たが、それから一ヶ月を経ずに突然、更に激烈な
暴風が起こった。
即ち、信長が都に来た時、彼のために亡ぼされた二人の王(朝倉義景浅井長政)が急遽軍隊を集め、
その国に帰るに先立って、これを殺さんと図ったのである。

信長は既に軍兵を帰らして、当地にはただ一万三千人を留めていたが、彼はこの事を聞くと、即夜出発し、
翌日(九月二十四日)未明、当地より4レグワにして、坂本と称し、コーチンより少し小さな町に於いて
彼等を待ち受けた。

敵は六万にして、皆甚だ良き金の武具を着し、甚だ高き山に上った。同所には五百の僧院より成る、比叡の山の
大学が在った。
彼等の軍隊は山中に、信長は山麓に在って、既に一ヶ月を経過した。
寒気、風雪、霰雹甚だしく、風も又寒冷であり、ただ寒気の為に死す者、双方甚だ多かった。

敵は都の周囲、多数の村落を焼き、市内の混乱、不安甚だしく、一ヶ月以上、最後の審判の様相を呈していた。
何故ならば、勝利が何れに帰すべきか知ることを得ず、信長が敗戦すれば、直ぐにこの市(京都)は焼かれ、
的に蹂躙されるために、市民は、或いは山上に穴を掘り、或いは街路に逆茂木を設け、また家財を隠匿し、
或いは妻子を市外に出した。

而も、市を出れば直ぐに盗賊に襲われ、又は敵に殺された。
夜警、叫喚、警鐘、突撃、等、実に憐れなることばかりであった。

(一五七〇年十二月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)

いわゆる志賀の陣の様子について。



光秀は寺跡ばかりに心を入れたる

2020年06月23日 17:15

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:37:15.71 ID:7CjeOt33
朝倉義景明智光秀に問うて曰く

「昔は要害のために山に城を築いたが、近年は鉄砲が出来た事で、何れの場所が居城に然るべしと考えるか。
詳しく語り聞かすべし。」

これに光秀は
「御意の通り、高所に登り大銃を撃ちかけます故、要害から二十余町も外の山は問題は有りませんが、
ただし兵法に『国を治め家を安んじ、人を得る也』と申します。また軍歌に『人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方怨は大敵』とあることも考えれば、あながち城郭に頼り切るべきではありません。

但し、当国の事について思案を廻らせると、平城にては北庄、山城であれば長泉寺が、然るべき城地であると
考えます。」

義景が重ねて問うた
「加賀に於いてはどのような場所があるか」

「加賀に於いては、小松寺の辺りが、大形の地であると考えます。」

「また上方に於いてはいかなる勝地があるか」

「京都近辺には見及びません。さりながら殿の御縁者である摂津大阪の本願寺の寺内こそ、無双の境地と
考えます。」

そう答えると、義景はこれを聞いて
「光秀は寺跡ばかりに心を入れたる者なり」
と言って笑ったという。

名将言行録



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:43:48.93 ID:migwR6XE
名将言行録はほんとにアレだな…
作者自身が作ったような逸話が平気で載る。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:44:29.64 ID:gfEb8r5a
そもそも作者が「巷の俗説や怪しい話もあえて載せた」と断ってるしこの手の逸話集には珍しく出典も入れてる

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:53:41.79 ID:zixBkBM0
あえて載せたと言って断ってるものを鵜呑みにしてた読み手さんサイドの問題か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 18:02:25.81 ID:zm69SwQt
開山した空海や最澄、蓮如なんかは築城に秀でた兵法者って事でいいのかな?

草履を横さまに御つけ有しとそ

2019年02月14日 19:41

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 20:47:39.56 ID:hVOYUadj
姉川の合戦は東照宮(徳川家康)の勝事なり。信長が朝倉義景と対陣の時、東照宮は先陣を乞うた。信長
は叱って曰く、

「田舎者にどうして良い働きができるか!(田舎者何とて能せん)」

しかし東照宮はしきりに乞いなさり、信長はこれを許した。東照宮は即時に川を渡って敵を破りなさった。
この時、信長の前を去る時に、草履を横様に御付けになられたという(草履を横さまに御つけ有しとそ)。

――『老人雑話』

よこ‐さま【横様/横▽方】
[名・形動]《「よこざま」とも》
1 横の方向。横向き。また、そのさま。「―に倒れる」
2 道理に合わないこと。また、そのさま。非道。「―な要求」


朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え

2018年12月05日 16:18

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 14:57:37.13 ID:8cGYkPYR
去るほどに、栄える者は必ず衰え、生まれる者は必ず滅するの理の通り、朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え、
近年(朝倉義景の時代)多くの一族や被官が、或いは病死し或いは討ち死にし、家運の危うさは言うまでもなかった。

先ず右兵衛尉景高の嫡子次男が、一年の内に二人ながら死去し、その後景高も死去して末子孫三郎一人残命した。

九郎左衛門景紀の嫡男四郎左衛門景ミツは、加賀へ出陣した折、大将であった景高と相論して自害し、
その舎弟中務大輔景恒も死去したが、父景紀も程なく卒去した。

堀江左衛門三郎景忠は、朝倉義景の勘気をこうむって能登国に立忍び、伊勢左衛門太郎景茂は、
過酒して不慮に酔死したため、国の防衛も薄く心もとない状況になり、人々は只薄氷を踏む心地であった。

その外、玄蕃助景連、同次郎左衛門景高、前波藤右衛門景定、小林備中守、窪出九郎右衛門、黒坂備中守といった、
千騎二千騎の軍勢を引廻すほとの者共も悉く死亡して、その後に義景は少数の、若輩の佞人たちだけに世を任したため、
功のある者には恩賞無く、罪の有る者は誅伐されず、彼らは奢りを極め欲を縦にし、己を強くし君を弱めて、終に
国の禍を招いたのだ。
(朝倉始末記)

老巧の者たちが多く死んだ事が朝倉の衰運を引き寄せた、と言う朝倉始末記の記事。



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 15:38:02.15 ID:GC/GK0DC
救世主の登場まであともう少し

今世武道に正しき将なし

2018年08月11日 18:30

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 15:23:21.09 ID:ZG86LWeA
天文21年(1552)2月26日、細川二郎氏綱とその弟・藤賢が摂津より上洛し、
三好長慶が供奉、翌日に将軍・義藤公(足利義輝)に謁見した。

3月11日、細川氏綱は右京大夫に任じられ管領に補任された。弟の藤賢は右馬頭に
任じられる。時に三好長慶、天下の権を執る。

この時、三好の家人・松永弾正忠久秀は、長慶の長男・義長(義興)の乳母と嫁して
諸事を沙汰した。その奢りは甚だし。長慶はこの松永を京都に留めて万事を下知した。

松永は西岡の凡下の者であったが方々に移り変わり、終いに三好に仕えるに至って
内縁に懸かることはこの如し。

6月10日、越前国主・朝倉左近将監延景が上洛し、将軍家(義輝)に謁見した。
延景は偏諱を賜って義景と号した。

義景は実は近江佐々木の管領・佐々木氏綱朝臣(六角氏綱)の二男で、朝倉弾正忠
孝景がこれを養子とした。

7月8日、朝倉義景は帰国、この時に左衛門督に任じられ従四下に叙された。義景は
近江に滞留し、浅井下野守久政の館・小谷の城において軍事を評論した。

(久政曰く)「今の世に武道に正しき将なし。運に乗じて一旦の功ありといえども、
後代、武の亀鑑に備わるべき者なし」

義景曰く「我が武は子孫の繁栄をもたらすとしても、私自身は非道(正道ではない)
なので身を立てることはないであろう」

(今世武道に正しき将なし。運に乗じて一旦功ありといふども、後代亀鑑に備ふべき者
なしと、義景曰、夫れ吾が武は子孫の繁栄を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。)

――『浅井日記』


此輪の内になしと知れ君

2018年01月02日 20:59

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 21:34:22.11 ID:DaFU5Q93
越前への織田信長の侵攻により、朝倉義景が一乗谷を棄てて大野に退く時、義景は
福岡石見守に二人の子を預けた。そして
「一人は女であるが、髪を下ろし、後々比丘尼として出家させよ。もう一人の喝食は
大阪(本願寺)との契約であるので、大阪に遣わすように。」

しかし福岡は
「私が二人の女子を預かり申すこと如何でしょうか?私はただお供つかまつり、
死ぬことを一途に決めているのです。」
と反論したが、たって命じられたため力なく、彼は急ぎ二人の女児を連れて宿所は帰り、
妻女にも告げず、一首の歌を書き付けて涙とともに出立した

『今日出て 廻りあはずば小車の 此輪の内になしと知れ君』

二人の息女を馬に乗せ、中間二三人計りにて豊原寺を目指して進んだが、野伏たちが
集まり押し留めた。
福原は目的をありのままに伝えた。
野伏たちは聞いてきた「殿は何者か?」
「私は福岡である。」

これを聞くや野伏たち
「ならば通せない!先年鳴鹿の村と公事(裁判)の時、そなたは彼らの奏者をして、
我が村は負けとなった。今参り会った事こそ幸いである、その時の返報申さん!」
たちまち村々より軍勢が出てきた。福岡は今は叶わぬと思い、下人に持たせた薙刀を取って
大いに戦い、討ち死にした。

その後、二人の息女は方々流浪し、喝食は後に本願寺門跡の妻と成ったという。

(士談)



428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 11:55:26.17 ID:jyp6Z660
娘たちには手を出さなかったんか
殺して身ぐるみ剥ぐのかと思ったわ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 18:49:33.17 ID:isK3qbhd
だなぁ。女はそうそう殺さない気が。

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 19:04:58.13 ID:isK3qbhd
一揆衆根切りのときは女子供も殺すけど、基本は奴隷として売り飛ばす

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 19:14:46.22 ID:jyp6Z660
娘だったかどうかは覚えてないけど姉小路のところは殺されてたはず
殺した連中だったかが、寺に着物とかを納めてる

「朝倉義景ノ勇将 鰐淵将監吉広書状」

2017年11月03日 21:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/03(金) 11:07:35.51 ID:lnNhTAaJ
他の人にはどうということもないのだろうけれど、某さんの記した一言が妙に心に残るので書きます。

越前の戦国大名朝倉氏の最後の当主朝倉義景の家臣に鰐淵将監吉広という者がいた。
鰐淵氏は元々、西国の生まれであるといい、いつの頃か越前に根を下ろし朝倉氏に仕えるようになった。
吉広の代には譜代の臣といってよい家柄となっており、その証拠に「吉」の字を入れた名乗りとなっている。
(他には山崎吉家、前波吉継、河合吉統など)
事実、義景には信頼されていて、加賀一向一揆勢の侵攻に備えて整備された九頭竜川沿いの軍用道路に吉広を
配置した他、お膝元の一乗谷にも居を構えさせ、近辺に置いて謀に加えさせていた。「朝倉始末記」などにも
加賀攻めの一員として「鰐淵将監」の名前がしばしば登場する。要地を守り、主君近くに控え謀議に参加し、
戦の最前線に立つ、まさに義景の重臣と言ってよい存在である。

そんな吉広だが、その為人がはっきりしない。滅亡した大名の家臣ということだからか、その人がどう考え、
生きたか、を知る逸話が残っていないのである。だが、唯一残された書状から吉広の人物が朧気ながら推察
できるかもしれない。

元亀2年(1571年)と推察されている9月5日の日付が記されたこの書状、天台座主庁務に宛てたものであり、
護符を授かった御礼方々、北近江の戦況を報告した内容となっている。この年8月半ばより、織田軍の攻勢に
合った浅井長政救援のため、朝倉軍は北近江に出陣した。義景の本軍は敦賀に留まり各浦から船を徴発する
など準備に追われていたが吉広は先駈けとして小谷城に入城したらしい。そこで織田方との戦闘が起こり、
損害が出た味方は山上に籠もり睨み合っている最中で、そんな折に護符が届いて誠にありがたい、必ずこちら
から打って出て勝利する、と述べている。吉広の書状の日付から一週間後の9月12日、護符を授けた当の延暦寺は
焼き討ちされ、多くの僧俗が殺害された。延暦寺の燃え上がる炎は琵琶湖対岸の小谷城からも見えた筈で、
吉広が蒙った精神的打撃はいかばかりであったろうか。

話を書状に戻して。
この書状には誰が墨したのであろうか、次のような貼紙がされている。

「朝倉義景ノ勇将鰐淵将監吉広書状」

勇将。名将ではない。勇将である。
吉広は主家の滅亡を喰い止めることはできなかった。滅んだ国の重臣。確かに名将とは言えないだろう。
だが、確かに勇将ではあったのだ。

天正元年(1573年)8月、退却途中を織田軍に追撃され、大混乱に陥った朝倉軍のうち、主君義景を越前に
落ち延びさせるため、その場に踏みとどまった玉砕した朝倉の精鋭三千、戦死者を伝える諸記録の中に
我々は「鰐淵将監吉広」の名前を見出すことができる。

勇将「鰐淵将監吉広」、その最期の働きが評価されたのか、子孫は福井藩士の身分を得ることができたという。
雪に閉ざされる前に、一乗谷の鰐淵将監館跡、浄法寺の鰐淵将監館跡に行って手を合わせて拝んでみようかな。


380 名前:379[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 08:52:13.49 ID:SaI54eoM

正確には、将監の息子は父親と一緒に討死。
将監の孫は丸岡城主青山宗勝(関ヶ原の戦いで西軍につき改易)に仕え、
将監の曾孫が福井藩士となりました。




このような肴を以って酒宴に及ぶ事ができた。誠に大慶

2016年03月06日 11:41

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 00:31:56.39 ID:wMKdL7YO
天正元年の12月下旬頃より、織田信長配下の大名小名は遠近を限らず一人残らず岐阜に集まり、
正月元旦の出仕のための準備をした。

そして元旦、儀式厳重にして信長も打ち祝い、酒も出て既に三献に及ぶ時、

「珍しき肴が有る。今一献あるべき」

そう言って黒漆の箱を出してきた。人々、何であろうかと怪しみ見るところ、
柴田勝家が呑んでいる時、自ら箱を開けると、そこには金箔で覆った頸3つがあった。
それぞれには札が付けられており、朝倉左京大夫義景、浅井下野守、子息備前守長政、
彼ら3人の頸であった。

万座の人々これを見て大いに喜んだ
「この御肴にては、下戸も上戸もおしなべてただ食べよ!」
そう言うがまま各々歌い舞い、酒宴はしばらく止むことはなかった。

信長は言った
「皆々がいずれも数年苦労をいたし、勲功重畳するによって、このような肴を以って酒宴に及ぶ
事ができた。誠に大慶、これに過ぎたことはない。」

そうして刀脇差しなど数多出して下された。

(甫庵信長記)

有名な逸話ですが、ドラマなんかじゃ信長の行為に家臣たちドン引き、ってパターンが多いのに、
こちらでは信長のサプライズ披露に一同大盛り上がりで大フィーバーなのですね。



416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 06:31:32.92 ID:S+0nU0Jf
>>415
まぁ、敵の髑髏みてビビる様じゃ、戦国武将やってられないでしょうけど

…最大の問題は、小瀬甫庵が今で言う山田風太郎って事なんですよねぇ…

桶狭間の奇襲も、長篠の三段撃ちも、橋の下の秀吉も、話の出所はみーんな小瀬甫庵…

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 08:14:43.45 ID:9f1O8Ufp
正月祝いのドクロについては、信長公記でも一座は沸いたとあって
「ドン引きした」なんてのはそれこそ戦後の小説の類からなんだよなあ

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 09:15:24.03 ID:llBUOtPS
当時の庶民だって、晒し首を見るのは娯楽の一つだったんでしょ。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:18:45.51 ID:M2FNLIul
滝川一益が諫言した逸話もあるでお

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:19:29.42 ID:3rdYTjdp
佐々成政な

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 15:19:51.03 ID:ndK+URkg
まぁウソなんですけどね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:06:10.63 ID:Od0Q5EBR
これか。佐々成政、信長への諫言・いい話 
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2132.html

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:30:50.14 ID:1HlgnIZB
>>418
今より死体見る機会多かったからそんなでもなかったのかもね
裁判傍聴するような感じかね

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 17:47:53.08 ID:ogl0BerH
節なら首実検で慣れてるだろうし、髑髏なら腐乱生首よりマシだしいいかーって感じじゃね?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 18:59:08.59 ID:XNriMdrd
ああ、武士か。何かと思った。

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 21:51:32.57 ID:+PZ9S6Yh
戦国時代の武士なんて道端に死体が転がってたら
とりあえず試し切りする連中だぞ
鎌倉時代の武士よりは優しいけど、現代人よりはずっと鬼畜だよ

英林塚の鳴動

2016年02月19日 14:49

175 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 01:32:13.30 ID:nyJqeplz
英林塚の鳴動

越前朝倉氏が栄華を誇った夢の跡である一乗谷朝倉氏遺跡。代々の当主の住居であった
朝倉氏館跡の南東の高台に一つの塚がある。人呼んで「英林塚」、戦国大名朝倉氏の祖で
ある朝倉孝景の墓である。英林塚とは孝景の戒名「一乗寺殿英林宗雄居士」に由来する。

この塚は、昔から越前国に災いが起きる前触れに不気味に鳴動するという言い伝えがあった。
あたかも雷鳴、あるいは大砲の轟くような音がしたという。
現在では、「夜、塚の近くに行くと、『おぉ~…』って男の叫ぶ声が聞こえるんですぅ」なんて言う
怪談話も登場している。言い伝えが進化・変化を遂げたものだろう。

ところが、朝倉義景治世下の永禄12年(1569年)に記されたとされる『朝倉家伝記』では、
まるで上田秋成の「吉備津の釜」(雨月物語)じゃないが、「英林塚が鳴動したら国家安泰!」
と現代まで残る言い伝えとまるっきり逆のことが書かれている。御家が滅びるとこんなことになるのか。

時代により吉凶がまるで逆となってしまう英林孝景さんのお墓の悪いお話。


(きっと、義景さん切腹、ヒャッハー大暴れ、一揆皆殺しの頃、毎日鳴ってたんだよ、それで…)




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 08:53:39.29 ID:7LoAwQos
>>175
そういや初代孝景と義景の墓はちゃんとあるのに、中3代の墓ってどこにあるのか知らんなあ。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 12:06:46.75 ID:tq5yGm1d
名前が同じ人の墓は1つで間に合わせているとか

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 15:58:41.47 ID:wkcWwOeQ
助けて!えーりん!

ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐は

2014年04月16日 18:54

996 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/04/16(水) 17:13:05.69 ID:3O1NE2n/
敗軍の大将が、士卒からはぐれて、どれほど落ちぶれていても生捕るべきではない。
何故ならば大将が生捕りになるのは、その人のためにならない。
第二には生捕ったと言うよりは、首を取ったと言うほうが聞こえが良い。
稲葉良通の家来、稲葉土佐朝倉義景の首を取って天下に名を知られた。しかし田中吉政の家来、田中伝兵衛は
石田三成を生捕ったが稲葉土佐ほど名を高めなかった。
ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐朝倉義景の首を朝倉景鏡から受け取ったらしい。

武功雑記より。本当なら朝倉景鏡稲葉土佐の、ちょっとどころでは無い悪い話。




997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 17:58:07.62 ID:yt/GKHlU
西尾久作「くたびれた所を討ち取ったけど手柄にならなかったお。」

元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

2014年01月21日 19:03

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:40:41.34 ID:CDx03HwY
元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

元亀三年(1572年)七月、織田信長は北近江小谷城の浅井長政を本格的に攻めるため、
最前線の砦を固め、諸国の軍勢を動員し、まず浅井方に属する琵琶湖の浦々を放火した。

これを受けて浅井長政は越前の朝倉義景へ急使を遣わし越前勢の出陣を求めた。義景は
これを了承、七月中旬に一族の景鏡が先陣として兵五千を率いて小谷城に着陣、続いて
一万ほどの越前勢が先手として到着、七月二十日に信長が横山城に現れると、いよいよ
総大将義景の登場である。一族衆及び直臣からなる本体を率いて、二十八日に柳ヶ瀬に
押し寄せ、八月三日には小谷城最高峰である大嶽に陣を構えた。朝倉家総力を挙げての
出陣である。織田方も浅井・朝倉方も連日鬨の声をあげ、いまにも大合戦が起こるかの
ようであった。朝倉勢の中には決死の覚悟を示すため、小さな墓石を楯にして只一騎で
押し進み、信長を射倒そうとする者も現れた。越前勢の士気は決して低くは無かった。


だが、その兵を指揮する部将たちが既に調略されてしまっていたのだ。


八月八日、義景の奉行人を務める前波吉継とその子が前線へと進み出た。
前波は義景に無礼を働いてしまい、義景から未だ赦しがなかったため、一手柄立てて
赦免してもらうのだろうと皆が考えていたのだが、、、、

あれよあれよという間に敵方の虎御前山城に入っていってしまった。
白昼堂々衆人環視の中の寝返りである。朝倉陣中に衝撃が走った。


裏切りは止まらない。前波の寝返りの四、五日後、今度は「あの」富田長繁が毛屋猪介・
増井甚内らとともに織田方へ走った。朝倉軍首脳部は動揺を隠せない。次は誰か?
皆、疑心暗鬼となった。

九月に入り、第三の裏切りが生じる。外様衆の池田景久が内通しようとしたのである。
だが、今回は池田の家臣が内通を義景に訴え出たため未遂に終わった。激怒した義景は
越前本国にいた池田の二人の息子を呼び寄せ、父親と共に斬首、綱紀粛正を図った。

しかし、一度灯された疑念は簡単に消せるものではない。加えて寝返り先陣の前波は
義景奉行人であるだけに朝倉軍の内情をよく知っている。下手にこちらから動けば
手酷い反撃を受けるのではないか?こうして越前勢は行動の自由を奪われた。

(つづく)

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:46:13.67 ID:CDx03HwY
対陣して二ヶ月半経った十月半ば。朝倉出雲守の家臣、竹内三郎と上村内蔵助が相談し
「大軍を催しても睨み合うばかりでつまらぬ。ここは一つ自分たちが働いて現状を打破
しようではないか」ということになった。その夜、二人は風雨に紛れ敵陣に忍び込むと
小屋に火を放った。風にあおられたためか、大火事となり織田方の陣屋七百が焼け落ちた。
混乱に乗じて二人は脱出、夜討ちをかけられたと思った織田方は大騒ぎとなった。
織田勢が鬨の声をあげると、それに反応し浅井・朝倉方も鬨の声をあげる。いよいよ
本格的な夜戦となるかと思われたが、それで終わってしまった。やはり疑心暗鬼に
縛られていたのであろう。敵方混乱を見ながら兵力投入に至らず、夜は明けてしまった。
得意顔で帰還した二人にも、さして褒美は出なかった。上官に連絡せず、独断で行った
ことが評価に値しないと看做されたのだろうか。

陣所を焼かれた織田方では小屋を作り直すことをせず、横山城と虎御前山城の間に
連絡路を造り、その道の小谷城側に高さ一丈(およそ3m)の塀を築き、兵の移動が
見えないようにした。同じ頃、信長自身は美濃に帰国、大将が退いたら追撃しようと
考えていた越前勢だったが、塀のため退陣のことも分からず、ただ妙な物音がすると
思っていただけであった。

十一月に入り、目障りな塀を取り壊そうと行動を開始した浅井・朝倉方だったが、
留守居役の木下藤吉郎、寝返り組の前波・富田らに防がれてしまい失敗に終わる。
その後、一月の間、なおも様子を見ていた義景だったが、降雪により本国との連絡が
途絶することを恐れ、十二月三日(現在の一月半ばにあたる)、遂に越前へ兵を返す
こととなった。


小谷城を守るという目的は一応果たしたものの、寝返りは相次ぐわ、雌雄を決する戦は
できないわ(もっとも義景はそんなもの望んでいなかっただろうが)、結果的に味方の
士気を萎えさせ、疲労を蓄積しただけの長陣だった。

更に帰国後は武田信玄から信長包囲網の足並みを乱したと責められ、踏んだり蹴ったりの
義景さん、この後は滅亡への道をひた走るのであった('A`)('A`)('A`)。





353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:15:29.32 ID:pwuJT5WU
義昭に尽くすでもなく
信長に味方するでもなく
まともに戦うでもなく
滅んでいった義景さん

凡人の鑑

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:31:47.39 ID:TQpS+d1D
親近感が湧くな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:36:50.88 ID:GFeUwr/2
凡人からしたら、自ら戦場に出た上に小谷城を守ったんだから、
むしろ何で褒めてくれないの?って思っちゃいそう。

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:20:12.64 ID:MVuGoiUp
義景「戦らしい戦もしていないのに将兵が減った
   解せぬ」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:26:10.91 ID:k52j1PeO
越前へのお帰りにはきっつい追撃が待ってるというおまけ付き

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 20:21:25.94 ID:P5Kl50oq
決戦もせずに、とみんな責めるけどそれはそれでいいんだよ。
大局的に見りゃ敵を足止めにして他の戦線で有利な状況を作り出したからね。

問題はぼろぼろ寝返りを出した統率力の無さか。
でもこれは義景個人の力量のせいでなく、朝倉家の構造的欠陥に起因すると思うんだが…。


それにしても、あの辺りの冬の厳しさを知っている自者からしたら
半年間よく頑張ったと思うよ。
信玄の責めるのもわかるが、状況考えりゃ酷だと思う。

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 06:37:35.59 ID:y85MqroD
>>352
朝倉軍の総大将は景健か景鏡なイメージ
余が珍しく出陣したらこれだよ!

元亀4年(1572)2月 浅井長政書状

2012年06月10日 21:02

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 16:11:17.85 ID:YCk9mbPc
武田信玄の上洛戦により信長包囲網が活発化する中の、元亀4年(1572)2月の浅井長政書状

『(上欠)書状を拝見したところ、懇ろな言葉をいただき恐悦に思っています。
去年12月22日の御合戦(三方原合戦)の次第を承り、耳目に驚愕を覚えました。
三河のことは、これも又信玄様の思い通りに掌握されたとのこと、その事は追々聞いております。
実に珍重であります。
日をおかず尾張・美濃に進軍なされること、偏にお待ちしております。

公方様(足利義昭)も立場を明確にされ、御内書を作られ信玄様に送られました。
こちらの方面でもその後威光を以って、(近江)滋賀郡全体が我が手に属しました。
朝倉義景は緊急に出陣することに決まりました。

申し上げている内容について、我々の方では油断はありません。
織田方から甚だ多くの調略などが行われるでしょうが、猶以て別して我らとご入魂頂ければ、恐悦に存じます。
詳しいことは使者に申し含めました。信玄様に直接申し伝えます。恐惶謹言。

元亀四年二月廿二日              長政(花押)

武田左衛門大夫殿(穴山信君)人々御中


(土屋文書)

『                浅井備前守
                     長政
(越中)勝興寺 御同宿中

前回お便りをしたところ、懇ろなる返報に恐悦に思っています。
そちらの方面の状況を承り、満足に思っています。

及ばずながら申し上げます。今は堅固な備えを構築することに専念すべきです。
輝虎(上杉謙信)との講和をお望みになっているようですが、武田信玄にご相談なくそのような行動をするのは、
全くあなた方にとって勿体のない話です。敵の計略に乗せられる可能性もあります。
我々は示し合わせ同盟をし、互いに同心を誓った、別格の関係なのです。
この事は常々、御門主様(本願寺顕如)の御意も得ています。

また、今月13日に公方様(足利義昭)も立場を鮮明にされ、朝倉義景、そして私に御内書を下されました。
そのためこれをあなた方にもご披見していただきたいと思います。

当国(近江)の滋賀郡も、全体が我が方に属しました。
東国では遠江・三河は申すに及ばず、東美濃の加治田、津保、鉈尾の三ヶ所の城が、揃って武田信玄
属し、甲州勢の先発隊は東美濃に乱入しました。
朝倉義景は我が方面への早々の出兵を決定しました。

申し上げた内容は、着々と進行しております。
諸方面の態勢をこのまま進めていけば、我らの目的が達成されるのは確実です。
どうか活動を停滞させることなく、積極的に策動していくことが肝要です。なお、度々ですが御備えの方は
宜しきように整備してください。

追ってまた申し入れます。恐惶謹言

(元亀四年)二月廿六日               長政(花押)


(勝興寺文書)

浅井長政が信長包囲網間の連絡調整に尽力しているのが、よく解る書状である




882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 16:18:02.29 ID:CX7wcsOz
9月には滅んだんだっけ浅井

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 22:36:12.04 ID:oGF3ZDbo
浅井タン・・・(*´д`)/ヽァ/ヽァ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 22:41:55.71 ID:qglBnDHt
信玄の病死まで、あと一年と少し・・・

886 名前:sage[] 投稿日:2012/06/10(日) 23:22:45.80 ID:z6kcZuJ3
信長包囲網の調整役か。
どんな心境だったんだろうね。

朝倉義景と足利義昭、そして見事な駿馬 

2011年08月18日 23:01

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 11:40:59.31 ID:JZ+QGsBL
永禄10年(1567年)11月、足利義昭は越前朝倉氏の本拠地一乗谷へ下向した。

朝倉家の当主義景は、義昭の懇望する上洛には難色を示したものの、妻を通じて
親戚にもあたる(義輝の室と義景の継室が姉妹)義昭を粗略には扱わず、国を
あげて歓待した。翌年4月には未だ元服を済ませていなかった義昭の元服式を、
自らが加冠を務めて執り行い盛大な宴を催した。そして元服の一月後、代々の
足利将軍が三管四職の館に御成りする際の形式に則り、義昭の自邸への御成りを
実現した。この行事のためにわざわざ京都より公家の二条晴良も下向、義昭に従う
御伴の衆の数百余人、塗輿に乗った義昭は朝倉家臣が厳重に警固する中、義景の館
に入った。

三献の儀が執り行われ、義景より太刀・弓・鎧など様々な武具が義昭に献上される。
そして、庭に見事な鴾毛の馬がこれも献上品として引き出されてきた。

「おおっ!」

さすがは衰えたとはいえ武門の棟梁足利家の血を引く者である。義昭は立ち上がって
馬をよく見ようとする。座敷に控えていた御伴衆も皆、庭に下りて馬を眺め讃嘆の
声をあげる。彼らも都を追われた落魄の身とはいえ、やはり武士である。

この時、義景は座敷にはおらず、かといって庭までは下りず、縁の下に置いてある
石の上に立っていたという。


見事な駿馬  立ち上がって眺める将軍(候補)  讃嘆の声をあげる庭の御伴衆
そして  将軍(候補)と御伴衆の中間で満足げに佇む管領(代理)  時は五月

なんとも絵になる構図ではないか!

-------------------------------

義景「いやあ、うちの庭じめじめしててさあ、足汚れるの嫌だったの
    だからどーしよーかなーと思ったけど庭に下りるのやめちゃったあ」


朝倉義景亭御成記」にはここまで書いてござりまする…
なんか執筆者の悪意感じられるのですけれども…





457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 18:41:47.84 ID:bRnA5TpI
>>452
なんでこの人はいつもやることが中途半端なんだ

信長と聖徳太子

2011年06月24日 23:03

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 22:50:39.33 ID:70Z4hefz
>>325 
夢の話ならまだあるぞ


信長と聖徳太子

三河の僧侶・可心が10年前(天正元年)に見た夢を法隆寺の学侶・栄甚経由で多聞院栄俊が聞いた話と
して紹介されている。

内容は「可心の夢の中に聖徳太子が出てきて『天下を治められそうなのは朝倉義景武田信玄織田信長
の3人である。しかし、義景には才能がなく、信玄には慈悲の心がないから、信長しかいない。私(聖徳太子)
が源頼朝に遣わした太刀が熱田神宮にある。それを早く信長に遣わすように。」と言ったところ、可心は聖徳太
子のお告げ通りに熱田神宮から太刀を信長のもとに持参した。太刀を見た信長は「ワシも確かにその夢を見た
とてもめでたいことである。」と大いに喜び、栄甚の寺の再興を約束したという。
(多聞院日記 天正10年3月10日条)

ちなみに以上の夢想譚は織豊時代の王権論についての学術論文で紹介されている。




サイン変えました('A`)

2010年12月05日 00:00

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 17:08:04 ID:szztXoxH
サイン変えました('A`)

永禄8年、京で将軍足利義輝が三好・松永勢に襲われて落命する。いわゆる「永禄の変」である。
義輝の弟で奈良・興福寺一乗院門跡の覚慶は、近臣の活躍により奈良を脱出し、伊賀次いで近江へ
逃れ還俗して義秋と名乗る。この一連の動きに尽力したのが、義輝の相婿にあたる朝倉義景である。

その後、若狭から越前へ移った義秋は、義景の加冠で元服、名も義昭と改める。義景は義昭を盛大に
もてなしたが、義昭の悲願である朝倉氏の武力により上洛、そして征夷大将軍へ任官、という構想
には同調しなかった。

朝倉家の当時の状況を見れば無理もない。
外様の有力家臣である堀江景忠が本願寺に通じて謀反を起こし、鎮圧まで義昭は一乗谷へ迎えられず
敦賀に留まったままであった。義昭の斡旋により本願寺とは和睦したものの気を許せる状態ではない。
義景の代になってからは上杉謙信と連合して、それまでより積極的に加賀一向一揆を攻めていたので
ある。

一族内では大野郡司の景鏡(義景の従兄弟)と敦賀郡司の景紀(義景の叔父)が対立していた。両者は
数年前の加賀攻めの折、景紀の息子景?(景みつ)が景鏡と大将争いをして敗れて自害して以来、険悪な関係に
あったが、義昭の敦賀滞留がそれに火を点けてしまった。敦賀滞留の折、義昭は景紀の次男景恒を
中務大輔に任官して重んじたが、景鏡がその後巻き返し、義昭が一乗谷へ移る際にその出迎えを務め、
式部大輔に任官される。一乗谷での饗宴の際、景鏡と景紀は席順を争って、片方が出席すれば、もう
一方は欠席する有様であった。

三好・松永に同調する勢力との差もあり、京都制圧の自信は持てなかった。むしろこのまま駒である
義昭を手中に置いて、周辺勢力との外交交渉に使おうとしたのだろう。越前公方の設立を考えたのかも
知れない。

そうこうするうちに、義景の嫡男阿君丸が死亡する。真相は不明だが京都から毒が調達され毒殺された
ともいい、義昭周辺が下手人との噂も立ったという。

一乗谷滞在9ヶ月にして、義昭は織田信長の元へ去る。義景は反対したが止めることは出来なかった。

「最後まで義景を見捨てない」言い残して義昭は去った。


大事な跡継ぎを喪い、一族の結束は更に乱れ、あまり当てに出来ない本願寺との和議だけが残った。

この直後、義景はおのれの花押を変更している。「足利様」と称される武家様の花押を家督相続後
20年にわたって使用してきたが、全く別の公家様の花押に変えたのである。

「新しい花押に変えたのでよろしく願いたい」

薩摩島津氏に宛てた書状で義景はわざわざこう断りを入れている。義景の心境や如何に…




870 名前:869[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 17:09:28 ID:szztXoxH
文字化けした('A`)

「景?」は「景みつ」ね

orz

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 18:32:09 ID:nilzV520
薩摩の島津に書状なんて送ってるんだね。
内容はなんだろ

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 19:22:56 ID:olN5UzYT
義景「いちどあそびにきてください。」

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 21:30:29 ID:AfsV1lOK
>>872
酷えw
鉄砲の取引なんじゃない?


875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 11:58:06 ID:SH1J2ONJ
>>874
朝倉の琉球貿易に島津が協力してくれる事に感謝する内容の書状
の事じゃないか?

義景「今度俺、信長倒したら、薩摩にあそびにいくんだ」
義久「…と言う書状が届いて以降返事がありません、この間何故か信長に日向鷹をかつあげされました」

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 12:29:52 ID:eM2psqAH
>>875
信長「はくだみにした杯やるから日向鷹くれよ」

義景の悪い話「東郷はどこじゃ?」

2010年10月26日 00:01

29 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/25(月) 00:34:00 ID:qIr7TxZi
義景の悪い話

朝倉義景は、信長に破れて落ち延びるとき、
一人の農民に「東郷はどこじゃ?」と、聞いた。
農民「あちらの山路を進めば東郷でございます」
その路を進み辿り着いたのは、越前大野だった…。
居城とは全く違う方向に進んでいたのだ。
側に居た、一族の景鏡は(ここまでか…)と思い
義景を裏切り彼を討った。

東郷は朝倉氏の居城の側にある土地だが、
幾つもの山を超えた山深い盆地、則ち大野にもあったのだ。





920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:31:22 ID:gJIEWtTw
>>918
これは既出ではないな
が、どちらかといえば悪い話スレの逸話だ
まぁいいけど

嗚呼勘違い…としか言いようがないw

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 08:31:59 ID:B+2QoeZX
項羽と劉邦に似た話あったな


30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:37:48 ID:YXF2yT/l
自分の領地の地理も把握してなかった義景の悪い話だな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:38:27 ID:4iVBkwFC
地名にまつわる地元の逸話なのかな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:19:10 ID:ZErkdQpE
>>29
大野に東郷なんて地名今は無いけどなあ。

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:21:55 ID:gJIEWtTw
字が住所上は省略されてるんじゃね?

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:23:42 ID:5UyBIRCc
稲郷ならある。読みが一緒だからなw