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内藤昌豊の討死

2018年10月28日 17:57

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 13:41:07.22 ID:NONzLHXT
(長篠の戦いの時)

山県昌景の進軍を契機に続々進軍した武田勢であったが、いずれも織田・徳川両勢に柵内から鉄砲を
撃ち掛けられ多くの死傷者を出し苦戦した。勝頼本陣中軍の先手・内藤修理昌豊の1千余騎は先駆け

し、逍遙軒信綱(武田信廉)らも続いたが皆鉄砲に当たって引き退いた。この勢いに乗じ柵外に出た
佐久間信盛と滝川一益だったが、佐久間は手勢を立て直した馬場信房によって柵内に追いやられた。

白地に黒い山道の旗を押し立てる内藤はその後へ引き返し、滝川の3千余騎の勢の中へ突いて入り、
滝川勢は散々に突き立てられて、柵内へ逃げ入った。この様子を御覧になった信長卿は柴田修理亮

(勝家)・丹羽五郎左衛門(長秀)・木下藤吉郎(羽柴秀吉)に命じられ、この3人が千5百余騎で
森長村の方から横に打って掛かった。内藤はこれを見て馬の鼻を立て直し、白地に胴赤の旗と御幣の
馬印を真っ先に進めて打って掛かった。

(中略。山県昌景が柴田らを撃退するも討死)

勝頼も歯噛みをなして命じ、勢を進めて掛かったが激しい戦闘となり、典厩(武田信豊)・逍遙軒を
始めとして原隼人(昌胤)・小幡上総・小山田兵衛・望月甚八郎・安中左近・甘利三郎五郎らが諸軍
を進めて打って掛かった。こちらでは織田方において佐々内蔵助(成政)が、「内藤修理の備は浮き
立って見えます。一攻めに攻めては如何でしょう?」と申した。信長卿は「もっともだ」と許し給う。

(中略。その時、早くも徳川勢と武田勢が激突し互いに死傷者を出す。武田信豊が切り立てられ引き
退くと、信長は総攻撃を命じて武田勢総敗軍となり勝頼は敗走、武田諸将討死)

内藤は「今や討死の時至れり」と残兵百余人を選りすぐって半途より引き返し、徳川家御本陣目掛け
打って掛かった。これは御大将(家康)と直の勝負を決せんとする心と察した本多平八郎忠勝が

蜻蛉切の槍を振るって内藤と御本陣を懸け隔てて戦えば、榊原小平太康政・大須賀五郎左衛門康高も
中を破られまいと弓鉄砲の足軽を先に立て、射立て撃ち立て決戦した。内藤は手勢を皆討たれ自身も

鎧に立つ矢は蓑毛の如く。「流石は信玄の家で随一の勇士」と呼ばれた内藤が死狂い獅子奮迅の怒り
をなせば近寄り難く見えたところに、流れ矢1つが飛んで来た。内藤はこれに当たり馬からたまらず

落ちたものの、また起き上がって槍を押っ取り敵を突こうとするところを、朝比奈弥太郎泰勝が槍を
付けてその首を取った。泰勝はこの高名により徳川家の御家来に召し加えられたという。

(原注:泰勝は今川氏真の臣で、氏真より御見舞いの使者に来たり御陣にいたともいい、または元は
今川の家人で、この頃は小田原の北条家に仕えており、北条氏政から御見舞いの使者に来たともいう。
また氏真もこの時、信長とともにここに来た事が手記に見えているともいう)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



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