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取った頸に証拠

2017年09月03日 11:30

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/03(日) 10:19:34.20 ID:KQR2AFta
井伊直政の家臣に浅井奈(朝比奈?)左太夫という者があり、度々武功を顕した人物であった。
それ故に直政も、彼を高く評価していた。

奥州九戸の陣において、井伊家重臣である木俣土佐(守勝)の家来の何右衛門という者が、良き敵を討った。
ところが、そこに左太夫が来て頸を奪った。
何右衛門はあらかじめ、この頸の左の耳から右の耳の脇まで脇座して貫き、印をつけていた。
左太夫はこれを知らず頸を奪い去った。

その日の内に、頸は直政の実検に入り、直政は「いつもながらの武功である」と左太夫に声をかけていた所、
末座に控えていた何右衛門が、木綿の雨羽織を脱いで4つに折って出て、この頸にかぶせ、左太夫に向かって
言った

「私の高名の頸を、ここまで持参していただき、かたじけない。」

左太夫はこれを叱りつけ、退かせようとした
「せがれ(若僧)、推算なり!」

しかし何右衛門
「この頸は私が取ったものを、左太夫がここまで奪い来たのです。」

「せがれめが有りもしない事を言う!その場へも来ていないのに!」

「御辺が取ったというのなら、定めて証拠があることでしょう。」

「私の取った頸に証拠などあるものか!」

ここで何右衛門
「されば、それがしは取った頸に証拠がある故に頸に物を着せたのです。」
そして、頸の証拠として脇差で貫いたことを説明し、羽織を取ると、まさしくその通りであった。

これを聞いた何右衛門の主である木俣土佐はしかし、「汝のような者が、あの歴々の働きの場へ行くのも
慮外である!」と、何右衛門を叱責し退出させた。
そしてその夜、左太夫は井伊家の陣より駆け落ちをした。

しかしながら、この左太夫はこれで廃るような人物ではなく。その後結城秀康に召し出され千石の扶持を
与えられた。直政の元にいたときも、千石であったそうである。

(士談)


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「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」

2012年08月25日 20:53

221 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:37:17.04 ID:wjcuKhHe
1599年正月、藤堂高虎が伏見の家康邸に急行して大坂の不穏な動きを告げに来た。
有馬の猿楽興行に招かれて不在の家康に代わり井伊直政が応対に出た。
話を聞くと直ちに有馬邸の家康に告げ、家康もすぐに邸に帰ったが別に驚いた様子も無かった。
それから3日後に大坂から使者がやって来て家康逆心の気配有るを譴責した。

京大坂の空気は一気に戦争状態となった。
その頃、伏見の闇に家康生害の噂が流れた。
これは大坂より問責された家康が自刃したと事情を知らない人々が早合点した単なる流言だが
これには流石の家康も驚き訳を聞こうと世情に通じる直政を呼び付けたが
いつも傍近くに居る筈の直政は外に出ていないという。
小半刻し早馬で直政が帰館した。
「この物騒な最中に、何処へ行っておったのじゃ」家康が咎める。
「殿が御生害したなどととんでもない噂をわめく者がおりますゆえ外聞に出ておりました。
殿ほどの御方に腹切らすなど思いもよらぬ事ですが左様であれば大坂より敵勢が辻々に押し寄せると存じ
御館は勿論、心もとなき所は実見して参りましたが、何処も堅固にて拙者がわけを話したら騒がしいのも収まりました」
これを聞くと家康もようやく安堵し労を称賛し寝についた。

もともと家康の伏見の館は防備が心許なかった。
心配した家臣らが京極高次の大津城に移るとか何とか安全な道を構ずるべきだと進言したが
敵を恐れて逃げ落ちたと言われたら名折れもいいとこで
平威を天下に奮う事ができなくなる。そんな外聞もあってか家康は取り合わなかった。
直政は江戸より加勢の呼び寄せを進言したがこれも斥けられた。
しかし上方の足並みがいかに不揃いであるとはいえ、押し寄せてきたら相手が数の上で絶対的に優勢である。
家康に心を寄せる諸大名は多いがそれも形勢次第でどうなるか分からない。
家康は窮地に有る、と外界を知る直政はよく理解していた。
直政は家康の言に反してひそかに江戸へ援軍の手配をした。

222 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 23:39:34.02 ID:wjcuKhHe
そうこうしている間にも戦気は募るばかりでもし今大坂方と戦となれば寡勢の徳川方は全員玉砕の憂き目を見るかもしれない。
死を決した直政は配下の木俣守勝に最後の事を諮った。
「この上は主君の切腹の介錯をし自分も殉死する。お前は決死の合戦をし討死せよ」
すると守勝は笑みさえ浮かべ「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」と応じ
更に一膝進めてこう言った。
「大殿より大坂方へこう仰せに遣わせませ。家康伏見にあれば、おのおの気遣いされるようだから近々関東へ下ることにした。
その用意の為、5,6日中に向島へ移転する。その際に太閤殿下の向島の御茶屋を拝借したいと申すのでございます。
加賀大納言や五奉行の面々は大殿が伏見におわすのを最も嫌いますゆえこの申し出を了承致しましょう。
向島に御移りありて柵を付給はば、大坂より取りかかるとも急にはなり申さず」
「成る程、そうすればその内に関東の味方が馳せ参じるというわけじゃな
しかし柵をふるには材木が要る。その備えや兵糧や薪その他の配慮は如何に」
「材木は手の者に調べさせ備えは十分です。兵糧なども20日は持ち堪えられます」
20日も日が稼げれば必ず加勢が来る。1万もあれば上方が10万の兵で押し寄せようとも負けるに及ばず。
さすが齢の功じゃと感心し、早速に家康に言上し、家康は諸手をあげて同意した。
予見通り大坂方は向島移転を一議もなく認め、3月下旬に向島へ移った。
このとき直政は豊後橋を警衛して移動を安全ならしめた。

向島を要害とみたて思い切った伏見脱出を試みた家康の戦略眼は諸侯を瞠目させるに十分だった。
次の天下は徳川とみた諸侯が家康の意を得ようと懸命になりその結果、家康の威光はますます高まった。
徳川陣営実力者の筆頭で家康への窓口として最も近く信頼出来る直政の邸門はこの時期たいへんな混雑をきわめた。

『井伊軍志』より
この箇所の出典は「東照宮御実紀付録」、「慶長記」、「藤堂記」、「東日記」など




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:10:56.72 ID:riIWYfpE
徳川家は誰かが激情に駆られると必ず冷めた態度の人が現れるな
全員で玉砕とか、全員逃げ腰、という事態が起らないのが強みかもしれない
幕末もそれで乗り切って?今でも徳川家続いてるとこがあるかも

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:15:51.06 ID:gUyDuL4R
一瞬
徳川家続いてる

徳川家継の誤字かと思った

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 00:43:01.85 ID:kpws6XBr
>>223
激情に駆られるのは家康のいつもの病気だから家臣は慣れっこだったのもある

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 02:24:11.21 ID:Zv/dTIwS
>>220
付いて来たるは石が三つ也

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 20:09:03.68 ID:8RDBaAqD
>>221-222
なんかいろいろと深いな
徳川の天下取りには欠かせない通過点だったんだな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 20:42:51.64 ID:BP1oUpaS
木俣守勝ですら直政に仕えるのをやめようと思った
なんてwikipediaには書いてあるけど、それについての話ってありませんかね。
wikipediaの記述が本当かどうかわかりませんけども。

『村雨の壷』

2010年09月05日 00:00

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 18:43:49 ID:+6CNS/t6
関が原の戦後、佐和山18万石を与えられた井伊直政は、家臣の木俣守勝の戦功をねぎらい茶席に招いた。

「まずは、一服してくれ。かの大戦での働き、まことに苦労だった。ついては加増とは別に、ここにある茶器のうち
どれでも一つ好きなものをくれてやろう。さあ、選ぶが良い。」

「どれを選んでもよろしいのですな?」「うむ、武士に二言は無い!」
「左様ですか。では、あの壷をくだされ。」「あっ・・・」

守勝が選んだ壷こそ、名物茶壷・銘『村雨』。もとは足利将軍家の所蔵品で、そこから秀吉、家康の手に渡り、
家康から直政に下賜された、呂宋壷の逸物であり、直政愛用の品だった。
直政は三河の一武辺者だった守勝の審美眼を甘く見て、雑器と一緒に茶席に供したのだが、どっこい守勝は
徳川家を出奔して明智光秀に仕え、近畿を往来して『眼』を鍛えた時期があったのだ。

「い、今のやっぱ無し、ナシ!他のヤツなら、どれでもあげるから!」
「おや、殿?武士に二言はござるまい?」「ぐぐぐ・・・」

こうして『村雨の壷』は彦根藩家老・木俣家の所蔵となったが、秘蔵の逸物を奪われた直政の未練が涙雨と
なるのか、「茶席でこの壷のフタを開けると、その銘の通り村雨が降る。」という逸話がささやかれた。

「このデモクラシーの時代に、そんなバカな話があるか!よし、確かめてやる。」

時代は下って大正のころ、『村雨の壷』の逸話を聞いた旧彦根藩士の子孫・花木斧九郎と松宮重三郎は、
八月のある日、現木俣家当主・守一男爵に請うて彦根城下での茶会に招かれ、かの壷を拝見した。

『村雨の壷』は高さ十三寸、直径八寸余り、釉薬が雨の降りかかる如く流れており、これが銘の由来だろうか。
二人は恐る恐るフタを開けた後、外に出て見たが、そこには雲一つ無い青空が広がっていた。
「しょせん伝説・逸話とは、こんなものか!」
茶席をあとにして、二人が笑いながら彦根城の堀端を歩いていると、たちまち黒雲が立ち上り、豪雨となった。
堀端のこと、雨避けとなりそうな建物も木陰も無く、二人はそのまま雨にさらされた。

「なるほど、恐ろしい壷もあったもんだ。逸話もバカに出来ん。」
ズブ濡れの大正ハイカラ紳士二人、そう言って顔を見合わせ、震え上がったそうな。




764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 19:36:50 ID:PbyXJQHQ
これ守勝からしたらカモネギキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!だろな。

最初から銘器にゃ気付いてただろうし。