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今治城と木山音頭によいやな節

2021年09月03日 16:02

498 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 23:46:09.20 ID:Sn0YtVyX
今治城と木山音頭によいやな節

悪い話スレに投下した今治城築城の逸話シリーズその3(ラスト)

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦功により、宇和島七万石より二十万三千石に加増された藤堂高虎が築いた今治城。
慶長七年(1602年)に築城開始となったこの城は多くの人の努力と(たまに悪知恵)幾多の犠牲により僅か2年後の
慶長九年(1604年)に完成した。

築城奉行の藤堂家新参・渡辺勘兵衛と共に普請奉行として活躍したのが地元今治の無足人・木山六之丞である。

木山が現場監督として、作業員たちの士気を鼓舞するために歌わせたのが今治に今も盆踊りなどとして残る木山音頭であった。

    木山音頭と申するものは 手拍子 足拍子 太鼓の拍子
    伊予の今治 みすかの城を 築き上げたる その名も高い
    木山六之丞はなぜ色黒い 笠がこまいか 横日がさすか
    笠はこまない 横日もささぬ 色の黒いは こりゃ生まれつき(以下略)

この歌が示す通り、木山六之丞は肌が色黒な人物で自らの風体をネタに周りを笑わせることができる
快活な人物だったようである。

木山六之丞(個人的)イメージ図
https://i.imgur.com/ZOHfdEz.jpg
現場で音頭取って踊る木山六之丞のイメージgif
https://i.imgur.com/VUvK5HM.gif

これでは普請奉行というより不審奉行といった体であるが、とにもかくにも彼の作った作業歌によって鼓舞された
今治城の築城現場は笑顔の絶えないアットホームな職場として機能し、施工期間を大幅に短縮できた(かどうかは知らん)。

だが、彼が今治築城の際に作った作業歌は木山音頭(八木節系)ともう一つ、よいやな節(追分節系)があるとされ、
各種作業や休憩時などに歌われたのだという。

今治城が完成したのちの木山の行方は諸説ある。藤堂高虎がのちに転封で伊賀上野へと移った際の家臣団にも
この時、今治に残った藤堂高吉の家臣団の中にもその名は見えないため、近年までは悪い話の方に書いた
石屋の頭領・小田治衛門の10名の部下たちの様に殺害されたのではないかと考えられていたという。

下記参考サイトの今治おもしろ百科の方では高虎の転封に伴い城勤めを辞めて朝倉村の古谷で寺子屋を開いて
元和元年(1615年)に亡くなったとされている。

また、下記参考サイトの最下段のリンク先では、
『愛媛の民謡』という本の中には
「慶長13年(1608年)、本山六之丞が藤堂高虎とともに伊勢の安濃津に移り、築城の際に広めたよいやな節が伊勢音頭の母体になった
と、今治地方では伝えられている。」と記載されているとのことである。

藤堂高虎についていったのかついていってないのかどっちやねん?とツッコみたくなるが、いずれにせよ
彼の作った作業歌 は今治築城の苦楽を共にした民や武士たちによって後世に受け継がれ、現代の今治市においても
市民から愛され歌い踊り続けられているのである。

参考サイト
今治おもしろ百科 家臣・木山六之丞(似顔絵が雑スギィ!)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/doinaka/hyakka/takatora/0078.html
レファレンス協同データベース 今治築城音頭(木山音頭)について知りたい。
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000101169
6 木山音頭(八木節系)・よいやな節(追分節系)
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/20/view/2944
7 地方色豊かな音楽を、郷土文化として定着させよう
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/20/view/2945

木山音頭
https://www.youtube.com/watch?v=wT4oNkhGXPw

499 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 23:51:43.94 ID:Sn0YtVyX
余談として
日本の城一覧で見る|日本の名城の観光ガイド日本全国に存在する城を一覧で紹介!日本の城の観光ガイド
https://www.kyosei-tairyu.jp/nihonn-shiro/meijou/imabarijou.html

こちらによると今治城築城の際に石垣用の石を持ってきたら米と交換するというお触れを出したのは
木山六之丞であったとされている。

今治城の石集め
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13147.html


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今治城の石集め

2021年09月01日 15:14

997 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/31(火) 23:04:19.68 ID:f6XXyc02
今治城の石集め

関ヶ原の合戦の戦功で宇和島8万石に今治12万石を加増された藤堂高虎であったが、
従弟の藤堂良勝を板島丸串城(宇和島城の旧名)の城代に任じ、自身は今治へ居を移すと
慶長7年(1602年)より渡辺勘兵衛を築城奉行、現地の武士である木山六之丞を普請奉行
として今治城の築城を開始した。

この時、最も苦労したのが石垣づくりのための石材集めとその搬入であったという。
これに対し藤堂高虎は一計を思いつく。

「石を持ってくれば米と交換する」

こうお触れを出したことで、人々は船や生竹で編んだ筏に沢山の大石を積んであちこちから築城現場へと
持ち込んだ。高虎はある程度の石が集まったのを見計らうと

「石はもういらね。捨てるのも構わぬが海中へ捨てられては船の航行に邪魔となるから捨てるな。さもなくば持ち帰れ。」

こう命じた。船頭たちは持って帰るに持って帰れず、仕方なく海岸に石を積み上げ放棄して各々帰っていった。

さて、船頭たちが居なくなったのを見計らった今治築城班はさっそく捨てられた石を城づくりに活用し、彼らの努力と
石を運んできた船頭たちの献身もあって今治城は着工からわずか2年で完成を見たという。

さて、この逸話であるが福島正則が慶長7年(1603)年から築城を開始した海に面する今治城と似た構造の広島の小方城(亀居城)
にも全く同じ逸話がある。
自分が3年ほど前に投稿したので藤堂高虎にも全く同じ逸話があったので驚いたのだが、隣国の大名で徳川寄りでもあるし、
ひょっとしたらこの今治城の成功体験を藤堂高虎公が福島正則公とシェアしたのかもしれない?

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11124.html
大竹市歴史研究会(亀居城)
http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/

参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話96)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu