山村の策略

2017年06月27日 18:40

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 17:54:58.72 ID:1VN7Msjq
信濃木曾義昌の家臣に、知村、山村という者があった。木曾義昌没落の後、両人ともに流浪していたのを、
徳川家康が関東において堪忍分を与えていた。

関ヶ原の役の折、家康は木曽路の通行の安全を確保するようにと命じ、ここに知村、山村の両名を、
先遣隊として遣わした。

そこで、鳥井峠の”こなたならい”という場所から、山村は福島(木曽福島)方面に手のものを遣わし、
説得することによって大方は徳川方へと属した。しかし未だ完全に徳川方となった状況ではなかったが、

「先ずは木曽福島が別状無く徳川に随身した旨を注進仕る」

そういって飛脚を馳せて、『木曽福島は相違なくこちらに従った」と家康へ言上した。

この時、知村はこれを危ぶんだ
「まだ木曽福島に実際に足を踏み入れておらず、この先どうなるかもわからない。なのにこのように、
逸りすぎて注進を行うのはいかがだろうか。」

しかし山村はこう言った
「勿論、この先どうなるかわからない。だが、我等が今まで接触した者たちの反応がこれほど様子の良い
状況である以上、別状はないだろう。それに、木曽福島を従えることが出来なければ、我等は再び
家康公に対面など出来ない。このような時分は急ぎ注進すべきなのだ。」

これに知村も止め得ず、注進に連署した。

果たして木曽福島に入ると、かつての木曾義昌の居城であった木曽福島城も難なく抑えることが出来た。
この時、木曽福島の者共の人質は、西軍の石川備前守(貞通)の催促により尾張国犬山城に入れ置かれていたが、
「木曽福島城が取られた以上、所々の人質共をここで殺すのも詮無きこと。」と、皆これを開放したという。

山村の策略が完全に当たったわけで、これは才の逞しさによるのであろう。

(士談)



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 17:57:52.98 ID:Ova7GEms
結構、綱渡り染みたことをする人多いんだな
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