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権左衛門の従者を打捨てに仕るのは

2019年09月15日 15:06

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/15(日) 12:35:05.53 ID:v9elAh5k
木村又蔵は、元々加藤清正の徒の者であったが、清正が熊本に於いて城廻りをする時の供に、
これに扈従する時期臣たちの中に、その者たちの内の者共(陪臣)がみだりに入って来ないための
押さえとして、又蔵にその役を命じた。

しかし又蔵は、清正に従う小身者の草履取り中元などが自然に入ってくるのを、見ぬ体にしていた。

ある時、新美権左衛門という出頭人配下の若党が、直臣の者たちの中に入ろうとしたのを又蔵が
咎めた所、この物は主人の出頭を傘に着て、常々何事にも驕っており、又蔵に対して口答えをした。
これに又蔵は即座に斬って捨て、それから清正の元へ行き、直にこの時に様子を申し上げた。

清正はこれを聞いて
「なんともこの者は丈夫なる者である。今どき世の常なるものは、主人の前に能く出頭する
者に対しては権勢に恐れて、その者が法度を背いても知らぬふりをして見逃し、逆に時に合わない者、
小身なる者などの草履取り鑓持たちの不作法を見つけ出して、主人にも聞かせ、又は法度の違反として
訴えるなどするのが、世の中の常である。

然るに権左衛門の従者を打捨てに仕るのは、きっと役に立つべき者である。」

そう仰せに成り、知行百石をその後程なく下され、馬廻りに組み入れられた。

(續撰清正記)



196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 11:53:09.68 ID:C4HOaIOB
さすが清正
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木村又蔵の切腹

2011年11月23日 22:00

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/23(水) 17:36:01.23 ID:/FGAwNcC
文緑二年、大坂で豊臣秀頼が誕生した時、父の秀吉は秀頼の為にも天下に優れた武士を
守役としてつけてやりたいと思っていた。
その時に加藤清正の家臣である木村又蔵という武士が大変な勇士であったことを思いだし、
秀頼の守役とすべく清正に申し付けた。清正は早速この名誉な命令を又蔵に伝えた。
すると又蔵は「秀頼公のお側には女どもばかりで、私のような武骨者が仕えるべき所ではありませんし、
私も勇気がなくなって役立たずになるだけです。御勘弁を。」と言った。
清正も尤もではあるが、しかし秀吉公の命令なのだから断るにしても一旦は参上すべきだと説得したが、又蔵は
「忠臣は二君に仕えず、私は死んだ母とそう約束しました、ここで秀頼公に仕えれば、あの世で母に
会わせる顔がありません。」
と言ってその日の夜に切腹して果ててしまった。清正は深く悲しみ、この事を秀吉に言上すると秀吉もまた、
我が一生の誤りであったと涙を流して後悔したそうだ。




755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:33:33.13 ID:kfbI/W7F
>>731
木村又蔵もいろんな逸話があるのね。