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葛西・大崎一揆勃発

2016年01月25日 15:16

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 01:40:42.53 ID:GtrZCsB2
天正18年8月、豊臣秀吉は奥州会津・白河・二本松において90万石を蒲生氏郷に
与え、葛西・大崎を木村伊勢守(吉清)に与えた。伊勢守は登米にいて、嫡子の
弥一右衛門(清久)は古川におり、家来各々へ知行を分け渡した。

その中で岩手山を領する某という者は、自領内の農人の子を召し抱えて、小姓に
使っていて、いつも自分の髪などを結ばせた。

その某は前述の小姓の親に非分の事を言い掛けて苦しめていた。その親を、死罪に
すると決まった時、その小姓はいつものように主人の仰せにより、髪を結び掛けたが、
やがてその髪を取って某を引き倒すやいなや、一刀で某を刺殺した。

この事は誰言うとなく領内一円に知られ、たちまち百姓一揆が起こり、その日のうちに、
木村父子の家来を30余人打ち殺した。

これより一揆はますます大勢になり、国中が騒動に及んだので、伊勢守は古川へ
行って弥一右衛門と一所になろうと乗り出し、弥一右衛門は登米へ行って父と一所に
なろうと乗り出した。2人は途中で出会い、それから父子は佐沼の城へ籠ったが、
終いには家を亡ぼした。

――『明良洪範』



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葛西大崎一揆の勃発

2013年03月24日 19:03

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 21:08:53.77 ID:ha2uYD4z
天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置は完了し、蒲生氏郷は会津に、木村伊勢守(吉清)、
並びにその息子弥一右衛門(清久)は大崎に下り下折壁という場所にあった。
ところがこの年の10月中旬の頃、不意に一揆が蜂起して大混乱となった。

この一揆の根源は、秀吉によって定められた新しい領主やその家臣たちが、下は姦淫法に越え、
どうかすれば現地の者の妻であっても犯すというような事件が多く発生し、また上も政道
正しからず、民間の租税を著しく引き上げ民を虐げた。このため人々は旧主を懐かしみ、現在の
領主達に遺恨をいだき、かつての地頭などを語らい友や同士を集めて、反逆をなしたのである。
その発端はこのようなものであった。

木村伊勢守が秀吉の命によって大崎に下った後、岩出山の城は萩田三右衛門尉と言う者に、数多の
武士を付けて警護させていた。

時にこの萩田三右衛門尉には未だ妻がなく、奥州仕置以前の岩出山城主・氏家吉継の旧臣で今も
岩出山に有る者に娘が有り、これを内々に求めたのだが、この者はなかなか同心しようとしなかった。
が、彼に弟が有り、これが強く意見したため、かの娘は萩田に嫁ぐこととなった。

ところがこの萩田三右衛門尉と言う男は酒乱であり、そう言う時にこの妻を打擲した。
この噂をかの父が伝え聞き、大変な怒りを覚えたが、彼女が嫁ぐことを進めた弟が一旦それを宥め、
娘の側近くに仕える女を呼び出し、「重ねてあの男が酔って暴力に及ぶことがあれば、包み隠さず
報告するように」と言い含め、内々に調べた所、その後も萩田は何度も妻に暴力を振るったことが解った。

ここにこの岩出山の兄弟は許せぬと思い、「この上は、あの萩田三右衛門尉と刺し違えて、
この鬱憤を晴らしてくれよう!」と決意した。その上で氏家氏の旧家臣らと密かに連絡を取り、
これこれの計画に同意してくれるよう頼んだ所、皆仔細も聞かず了解した。

さて、その頃岩出山城中では屋作のため、茅を大量に地毛より運び入れていた。
氏家の旧臣達はその中に具足・太刀・刀などを結び入れて、密かに城中に運んだ。
この事を警護の武士たちは全く気が付かず、叛徒たちは思うままに支度をしたのである。

ある日、岩出山の兄弟は一味のものを引き連れて不意に城中に乱入。かの憎き萩田三右衛門尉を
たちまちに刺殺した。
城中の者達は慌て騒ぎ、訳も解らず叛徒たちに斬って懸ったが、叛徒たちは大勢であり、
逆に取り籠めて散々に斬り捨て、その後、それまで用意しておいた兵具を茅の中から取り出し
旗を上げて城門を固めここに立て籠った。

この反乱の報告は、登米城にあった木村親子の元に方方から告げられた。彼らが対処方針を
協議していると、今度は登米と間近の古川でも一揆が勃発したとの知らせが入り、

「では先ず古川を先に平定し、それから他に対処しよう」と決定し、軍勢を発進させた。

ところがこの進軍の最中、飛脚により急報が入る

「殿が出立された後、登米でも一揆が蜂起し、登米城は攻め落とされました!!」
「古川の城も一気によって攻め落とされました!!」

瞬く間に孤軍となった木村親子は、未だ健在な成合平左衛門尉の居城・佐治城に立て籠るより他
無かったのである。
(会津四家合考)

葛西大崎一揆蜂起についての経緯である