13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 01:40:42.53 ID:GtrZCsB2
天正18年8月、豊臣秀吉は奥州会津・白河・二本松において90万石を蒲生氏郷に
与え、葛西・大崎を木村伊勢守(吉清)に与えた。伊勢守は登米にいて、嫡子の
弥一右衛門(清久)は古川におり、家来各々へ知行を分け渡した。
その中で岩手山を領する某という者は、自領内の農人の子を召し抱えて、小姓に
使っていて、いつも自分の髪などを結ばせた。
その某は前述の小姓の親に非分の事を言い掛けて苦しめていた。その親を、死罪に
すると決まった時、その小姓はいつものように主人の仰せにより、髪を結び掛けたが、
やがてその髪を取って某を引き倒すやいなや、一刀で某を刺殺した。
この事は誰言うとなく領内一円に知られ、たちまち百姓一揆が起こり、その日のうちに、
木村父子の家来を30余人打ち殺した。
これより一揆はますます大勢になり、国中が騒動に及んだので、伊勢守は古川へ
行って弥一右衛門と一所になろうと乗り出し、弥一右衛門は登米へ行って父と一所に
なろうと乗り出した。2人は途中で出会い、それから父子は佐沼の城へ籠ったが、
終いには家を亡ぼした。
――『明良洪範』
天正18年8月、豊臣秀吉は奥州会津・白河・二本松において90万石を蒲生氏郷に
与え、葛西・大崎を木村伊勢守(吉清)に与えた。伊勢守は登米にいて、嫡子の
弥一右衛門(清久)は古川におり、家来各々へ知行を分け渡した。
その中で岩手山を領する某という者は、自領内の農人の子を召し抱えて、小姓に
使っていて、いつも自分の髪などを結ばせた。
その某は前述の小姓の親に非分の事を言い掛けて苦しめていた。その親を、死罪に
すると決まった時、その小姓はいつものように主人の仰せにより、髪を結び掛けたが、
やがてその髪を取って某を引き倒すやいなや、一刀で某を刺殺した。
この事は誰言うとなく領内一円に知られ、たちまち百姓一揆が起こり、その日のうちに、
木村父子の家来を30余人打ち殺した。
これより一揆はますます大勢になり、国中が騒動に及んだので、伊勢守は古川へ
行って弥一右衛門と一所になろうと乗り出し、弥一右衛門は登米へ行って父と一所に
なろうと乗り出した。2人は途中で出会い、それから父子は佐沼の城へ籠ったが、
終いには家を亡ぼした。
――『明良洪範』
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