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「武家閑談」から庵原朝昌について

2023年03月10日 19:41

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 18:25:14.10 ID:BoWZ+Eku
「武家閑談」から庵原朝昌について

ある老人の昔話によれば、庵原助右衛門(庵原朝昌)は駿河の庵原氏であった。
兄の庵原弥平次は武者修行で小田原へ来て、金窪(神流川の戦いの前哨戦)の競り合いで北条氏邦に従っていたが、一騎で突出し土手に乗り上げて討ち死にした。
小田原衆は弥平次を捨て殺しにした。
助右衛門は駿河でこれを知り、小田原に対して遺恨を持った。
小田原の陣ではたびたび手柄があり、戸田勝隆のところで大いに働いた後、井伊直孝に仕えて大将となった。
大坂の陣の五月六日河内若江合戦の時、井伊先手の川手主水が早々に討ち死にしたため、殿軍を助右衛門が指揮した。
大坂勢を切り崩しているところに、木村長門守(木村重成)が白母衣に金の竹刀の白熊の印をつけ、踏みとどまっていたのを、助右衛門自身で十文字槍を持ち、長門と槍合わせをした。
両者の間には二間ばかりの水路で隔てられていた。
助右衛門が横手で槍を長門の母衣へ突っ込むと、長門は直槍で助右衛門の立っている岸を突き、倒れまいとした。
助右衛門が槍を強く引くと長門は横に倒れ、沼に落ちた。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 18:27:57.91 ID:BoWZ+Eku
助右衛門の郎党たちも沼に飛び込んで長門の首を取ったところに、安藤長三郎(安藤重勝、安藤直次の甥?)が走ってきてその首を奪った。
助右衛門は「若い御仁が殊勝なことだ。
木村長門守と名乗っていたが、長門守には恨みもないし、首になった以上は木村の名が残ることもないだろう。
大坂城も今日明日には落城するであろうし、貴殿もこれほどの首を得る機会もないだろう。その方へ与えよう」
と長三郎に長門の首を与えた。
長三郎が喜んで首を持って行こうとするのを助右衛門は呼び止め、
「この母衣絹で包んで持参されよ。
大御所様の御吟味は厳しく、母衣武者なのに母衣がなければ怪しまれるだろう」
と母衣・脇差まで与えた。
助右衛門の郎党たちは、せめて白熊のついた金の竹刀だけは残しておこうとしたため、今も助右衛門のところにあるという。
さて長門の首実検をしたところ、大御所様は大変御喜びになり、城に長三郎を召して、天下に名高い五代青江という御腰物を下されたという。
助右衛門の家来たちは悔やんだが、助右衛門は
「手前の手柄は直孝殿がよく御存知であるから、悔やまぬでよい」と言ったという。
長門の首を見た人の話によれば、四方白鍬形の兜であり、鍬形の角元は菊唐草模様だったという。
井伊家の家老、木股土佐(木俣守勝)も大剛の兵であり、その子の左京のちに清右衛門(木俣守安。右京のちに清左衛門)も大坂の陣で手柄を挙げた。
土佐の後家を庵原助右衛門が娶り、主税が誕生した。
よって木俣左京と庵原主税は同母異種の兄弟である。

二人の母親は新野親矩の娘だそうだ(姉妹という説も)。
新野親矩は飯尾連龍(お田鶴の方の夫)を攻めている時に討ち死にしたともいうから、直虎の大河に続いて出番があるかも。



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木村重成の首実検

2022年03月11日 16:33

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/11(金) 11:22:45.21 ID:syA2p2iq
大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いの後、大御所(徳川家康)の元に井伊直孝より、
大阪方の木村長門守(重成)、山口左馬介、内藤新十郎等の首がもたらされ献上された。
大御所は移動中であったが、平岡の一里ほど前にて御駕籠を止められ、それらの首を上覧された。

この時、木村重成の首からは甚だ香が薫じており、大御所の仰せに
「若輩なる長門守がかかる行跡、稀代の勇士、不憫の次第である。」
と宣われた。

記(難波戦記)に、この時大御所の近臣達は木村のことを評し、
「長門守は所労(病気)であったとの聞こえがあるが。今日も死を決意していなかったのだろうか、
月代を剃っていない」と、口々に申したのを、家康公は聞き召され

「月代には因るべからず。既に忍の緒を真結びにして、両端を切って捨てている。これは再びこの兜を
脱がないという心底であり、討死と極めていたという事である。汝らが申し分、無検議である。」
と仰せられたという。

或る本に、木村は討死の前日風呂に入り髪を洗い、頭に伽羅を留め、江口の曲舞なる、紅花の春の朝と謳い、
余念なく小鼓を打ったが、今日大御所は首実検をなされ涙を流され

「この若者は討死を決意し、髪に香を留めながら、月代を剃らなかったのだ。」
(此若者討死を極め、髪に香を留め乍ら、月代を剃らざりし)

と仰せに成られた。この時、重成の髪を梳き香を焼いた女は、江戸に於いて木原意運という外科医の伯母で
あり、常にこの事を語っていたという。

或る記に、長門守木村重成の墓は、河内国若江郡西郡村に有り、山口重政の墓と隣り合っているという。
木村の父は常陸介、母は豊臣秀頼公の乳母であった。
重成、時に二十五歳であったという。

新東鑑

木村重成の首実検について



若者、不心得なり。鑓にて突けよ。

2022年03月09日 16:56

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/08(火) 23:15:03.98 ID:IBiCeP5d
ある説に、大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いにおいて木村重成は多く疵を被り、
太刀を杖について、腰掛けて休息していたところに、井伊家家臣である安藤長三郎(重勝・この時十七歳))が
駆け来た。
彼は木村が疲れている様子を見て、持っていた鑓をからりと投げ捨て、太刀を抜いて迫ろうとした。
この時、木村が申した

「若者、不心得なり。鑓にて突けよ。」

そう言った所、安藤はすかさず、鑓を持って懸かった所、木村は少しも動ぜずして討たれたという。
(或る本に、首の取りようは、先ず鑓を以て右の脇壺を突き、次に刀を以て脇の下を突いて、俯せ
引き倒すものであるという)

新東鑑

木村重成の最後について



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/08(火) 23:51:48.72 ID:JiUCPh2t
秀頼の乳母兄弟だから木村重成このときで23前後か、若者と言ってる人も若いよね

最初に片桐が申していた所

2022年01月20日 19:06

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/20(木) 15:07:22.97 ID:sapmit/h
一本に、(慶長十九年)十二月十六日、大阪冬の陣において大御所(家康)の下知として、備前島
菅沼織部正の寄せ口より、大銃百挺を揃え城中に打ち入れた。その他玉造口の寄場よりも、大阪城の
千畳敷を目当てに大銃を発した所、即ち淀殿の屋形の内三の間に女中多く集まって居たのだが、
そこに弾落ちて茶箪笥を打ち砕いた。女中各々肝を消し、淀殿の御居間も震え動いた。

淀殿は流石に女性であったので、その砌より御心弱くなられ、御和談の為なら江戸にも御下向あるべしと
仰せに成られたため、これを織田有楽、大野修理(治長)承り、秀頼公に段々と諌めたのであるが、
御承引無かった。この上は出頭の近臣に諫言致させるのが然るべしと、その人選をしたが、渡辺内蔵助(糺)は、
去る鴨野合戦以来不首尾であり、また薄田隼人正は日頃の広言に似合わぬと、城中の沙汰悪しきにより、
木村長門守(重成)宜しかるべしと、この趣を申したが、重成は承諾しなかった。

「今、各々の宣う所は、最初に片桐(且元)が申していた所です。只今に至って左様の儀、
この重成には申し上げることは出来ません。各々両所が股肱の臣として、左様に惑われる事に、
御運の末を嘆き入り奉る。」

との旨を述べると、両人も汗顔赤面して、重ねての言葉もなかった。

その後淀殿より色々仰せ進められたため、ようやく秀頼公も、御和談の評議を行ったという。

新東鑑



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/20(木) 18:43:36.01 ID:M79NcYgQ
女に口出しさせたのと、大野の無能がな・・

大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

藤堂家の大阪夏の陣

2020年01月08日 16:51

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 02:03:41.49 ID:EdAeePYM
明夏陣、大阪より京都を焼き払うという風聞が有り、大阪から京都への通路を防衛するため、
和泉様(藤堂高虎)は諸勢にさきがけて四月四日に淀に御着陣され、同二十五日まで淀に御在陣。
その間、淀城の御普請を仰せ付けになった。

権現様(徳川家康)、台徳院様(徳川秀忠)が京伏見へ着座成されたため、淀を四月二十六日に
御陣替えになり、五月五日に千塚に御着陣になった。

五月六日、八尾表に、木村長門守(重成)、長宗我部(盛親)の人数、約一万二千が打ち出た。
和泉様の左備は長宗我部の隊と戦い、終日の働きの末、ついに長宗我部は敗軍し大阪へと追い込めた。
この戦いで藤堂仁右衛門、藤堂勘解由、桑名彌次兵衛、山岡兵部、その他、侍数多討ち死にした、
右備は長宗我部の先手の者に木村長門守人数が加わった部隊と戦い、この戦いで首級数多討ち取った。
我が方においても、藤堂新七、藤堂玄蕃、その他、侍多く討ち死にした。
その夜はその場所、八尾に陣所を据えられた。

六日の合戦で御家中の物頭、その他侍数多討ち死にし、終日の戦のため人馬は疲れ切っていたので、
翌七日の御先手は、新手の人持ち衆へ仰せ付けられるようにと、両上様(家康、秀忠)に和泉様より
六日の晩にお理を仰せ上げられたため、七日は越前宰相(松平忠直)、加賀筑前殿(前田利常)を御先手に
仰せ付けられた。

七日には、敵味方ともに人数を打ち立て互いに鉄砲を撃たせていた。そのような中、台徳院様が御供四、五騎を
召し連れ和泉様の御陣所へ御成になり、戦の御手立てに関する御談合をなされ、御本陣へと帰られた。
その後、惣懸り(総攻撃)という事となり、御家中衆も殊の外稼ぎ、首数数多討ち取った。

両日の首数、都合三千七百七十三を討ち取った。

(藤堂家覺書)

藤堂家の大阪夏の陣について



その用意をしている内に、和睦となった

2020年01月06日 17:21

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:32:00.28 ID:Np6vwiTb
慶長十九年、大阪陣の刻、和泉様(藤堂高虎)は先手をお受け取りに成り、諸勢の動向に御かまいなく
河内の国府へ十月二十六日に御討ち出られ、それより次第次第に陣替えがあり、和泉様の仕寄場は
天王寺口で、これに対する城中黒川の持口は大野主馬(治房)、矢倉は木村長門守(重成)の持口であった。

この場所は大阪城惣構の近くで、築山を築き井楼を上げ、火矢、鉄砲、石火矢を油断なく昼夜撃たせた。
このため木村長門守の持口である矢倉は打ち破られ、大阪城の人々がそこから出入りする事は出来なくなった。
また、金掘を入れ、堀きわまで掘りつけた。その上竹束も堀きわまで七間(13メートル弱)まで付け寄せた。

極月(十二月)二十日の夜、堀の中に設置されていた柵を引き取るようにと和泉様が仰せ付けられ、
その用意をしている内に、和睦となった。

(藤堂家覺書)

藤堂家の覚書にある大阪冬の陣の記録。大阪城惣構の中への突撃準備が整うまさに直前に和睦がなされたと
ありますね。



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:55:38.58 ID:10v8Qglc
お話なんかじゃ攻めあぐねての和睦ってテイストにされやすいけど
実際はもう落城のボーダーラインぎりぎりね

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 00:23:26.10 ID:vGqvWph/
真田丸に仕掛けて大敗北した後は、にらみ合い &大砲撃ちまくりというのが通説だけど、
当然、ただにらんでいるだけじゃないわな。

「黒し!者共このように撃て!」

2019年09月18日 17:37

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/18(水) 10:46:21.92 ID:OZO6sRfU
大阪冬の陣の時、木村長門守重成が、信貴野(鴫野)堤にて戦した。
後藤又兵衛基次は重成と関係がよく、それ故に自分の人衆は陣所に残しおき、馬廻り10人ばかりにて
重成の備へ来た。

この時重成勢の足軽は敵に打ちひしがれ、堤の陰に伏して頭も出せない状況であった。これを見た基次は
自分の鉄砲を取ると、堤の上に駆け上がり、立ったまま2発射撃して

「黒(きたな)し!者共このように撃て!」

と辱めた。この勢によって、足軽達も堤の上に登って一斉に射撃したため、今度は敵が却って
打ちひしがれ、堤の陰に隠れた。

基次は左の小指を負傷しており、重成はこれを見て「手を負われたか」と問うと、基次はそれを
鼻紙でおし巻き「(戦場で負傷するのは)我が吉例である」と言った。

重成はそんな基次に対し、しきりに自分の陣所に帰るようにすすめた。その心を察するに、重成は
若武者であり、この度の戦いが、ひとえに基次の指示によると人に言われることを気にする気色である。
これもまた器量であろう。これは重成の従者が後に語ったことである。

(武将感状記)



大坂との御誓詞の御取り替え

2019年07月20日 16:05

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 19:24:59.07 ID:jR8ot1a1
大坂と御和睦が調った折に御誓詞の御取り替えがあり、大坂方より木村長門守(重成)と
郡主馬(宗保)が御血判拝領の御使者にやって来た。

その折に両人は御次の間におり、顔を出すまでで退いたそうで御威光に恐れたのだという。
こちらからは板倉内膳正(重昌)が遣わされた。

(原注:世上では両人が御前を憚らなかったと申すが、その折に村越茂助道半(吉勝。道
伴)が御前に詰めておられて見申されたという。木村は色白い大男で羽織袴だった。郡は
60歳程の小男で、黒羽二重の袖無し羽織を着用していたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



大阪方の人々

2018年06月22日 10:32

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 09:17:50.00 ID:+Vch1/Y2
豊臣秀頼公は、大阪冬の陣のおりには御歳23であった。世の中に無いほどのお太りであった。
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。

(長澤聞書)

大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 10:47:30.98 ID:K53k58Oq
何でそんなに太っちゃったんだろう・・・

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 12:11:36.59 ID:tpZc7hd2
蒲鉾が大好きだったんだよね

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 16:21:57.96 ID:L0H/Woxq
北の将軍様もお太りになってるよな

御感状お望みのことは

2017年05月01日 10:40

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 00:27:19.55 ID:L1hYyx9y
ある人が語ったことだが、大阪の陣の折、大野主馬の部隊が夜討ちをして戦功のあった時、
主馬は自身の首尾よろしき段を、秀頼に木村長門守(重成)に取りなしをしてもらい、自身に
感状が頂けるようにと要望した。

長門守はその時は良いように会釈したが、後で主馬を密かに呼んで言った

「先程の御感状ご所望の事、言われるまでもなく今回の武功は上様もよくご存じですから、
下されること相違ないでしょう。

ただし、私が思うに、あなたの御身分の上に感状を頂いて、一体誰にそれを披露するおつもりなのでしょうか?
匹夫独身の者は、重ねてまた、他の主人に仕える時、自らの名誉としてこれを差出します。

しかしあなたは、現在上様の為に、あなたご自身もご兄弟も、股肱羽翼の補佐をされています。
そのような人が功成り名を遂げられる事について、一体誰がそれを争うというのでしょうか。

あなたについては、御感状お望みのことは、ご遠慮すべきだと思います。」

この言葉を聞くと主馬は大いに恥じ、重ねて云うべき言葉もなかったという。

これが実際にあった話なのかどうかは解らないが、その考え方自体は尤もというべきであろう。

(士談)



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 08:06:31.51 ID:E0sFo8f5
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8076.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2962.html
出典は違うのが何度か出てたようだ

髪に伽羅を

2017年03月13日 09:34

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/13(月) 07:24:37.86 ID:ZXvx5ar4
 秀頼公の乳母子木村長門守(重成)は忠義の士で、二十三歳で忠死をとげた。
かねて討死を心掛けていたので、髪に伽羅をとめていた。
安藤長三郎がその首を挙げまして、家康公が御覧になられました。
空焼きの匂いをかがれて、
「いつの間にかような心付きをしたのか。殊勝な若造だ。」
と上意があったとのことだ。

『武士としては』


紺地に六文銭の旗の陣

2016年05月18日 17:05

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 06:44:03.98 ID:uLvmKNEo
大阪冬の陣、東方の寄手である真田伊豆守信之家臣の矢澤但馬、吐田筑後、榊原石見の三人は
元より武功の者であったので、敵が矢鉄砲を激しく撃ちこむのも恐れず、一番に仕寄りを付けた事は、
両将軍(家康・秀忠)からも賞賛された。

この時、伊豆守の手勢が仕寄りを付けるにおいて非常に勇敢であったのを、大阪方の木村長門守重成も
大いに感じ入り、或る夕刻、真田左衛門佐が出郭より本城に帰った時、重成は彼に対し、
東を指差して言った

「あそこの、紺地に六文銭の旗の陣が最初に仕寄りをつけました。あれはあなたの一族でしょうか?
もしくは他門でしょうか?彼らは実に、城攻めの妙を得た者達です。」

真田答えた
「あれは兄伊豆守の陣です。ただいま軍兵に先立って下知している二人の若武者、
一人は河内守(信吉)といって16歳、もう一人は内記(信政)といって14歳。どちらも私の
甥であります。亡父昌幸の余風があって、彼らも健気に働いているようです。」

重成はこれを聞くと
「その兄弟は、普段は何色の鎧をつけているのでしょうか?今から軍兵たちに、二人には鉄砲を用いないよう
申し付けたい。」

「それは情ある言葉です。しかし彼らは若年であると言っても、他の軍勢に先立って仕寄りを掛けるなど、
味方にとってはなかなかの剛敵です。
ご存知でしょうが、忠義のためなら親疎も言い出さないのが武士の習いですから、私の一族だからといって
弓鉄砲での攻撃を避けるというのは考えもできません。彼らもまた、私を見れば必ず攻撃して
来るでしょう。であれば、誰にかぎらず秀頼公の敵と見れば、席を去らずに討ち果たすべきです。
これが武士たる者の本意です。」
そう語ったという。

(慶元記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 11:21:19.48 ID:IT3tWaKI
一族が敵方にいる以上、周りの他の軍より率先して働かないとダメだし
兄一家も大変だな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 21:39:16.08 ID:7o1opGdq
黒田基樹「真田信之」p172によれば
「真武内伝」に
木村重成の持口を信吉・信政が陣頭に立って攻めているのを見た木村が信繁に
「あの六文銭はあなたの一族か?」と尋ねたところ
信繁「むろん、兄信之の子で私にとっては甥にあたる」
と返答し、木村が
「若年にして奇特な戦いである、あの2人には矢、鉄砲を放たぬようにしよう」
という話が載っているが、信繁は真田丸を守っていたため、残念ながら全くの創作である

としてたけど、真田丸から城に帰ってからの話なら問題ないような
(しかしたしかに木村重成より若いとはいえ、木村重成が「若年ながらたいしたもの」
と言うのには違和感)

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:09:52.91 ID:RsDfDWju
>>734
信吉が1595年(文禄4年)生まれで大阪の陣の頃には二十歳前後、信政はその2つ下だから、別にいいんじゃね?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:58:53.72 ID:8V1YisfJ
>>732
結局最後の最後まで兄一家は弟に振り回されて終わっているんだよなあ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 04:38:18.20 ID:otyaGBAD
>>732
源為義 為朝 平忠正「そうか?」

二人ともあきれ果てた

2016年04月04日 17:43

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/03(日) 15:18:51.96 ID:s1yGAbCK
大坂城の女中が集まる三の間に大砲の弾が撃ち込まれ茶箪笥を打砕き、淀殿の居間まで悲鳴が聞こえるようになるにつけ、
淀殿の口も和らぎ、織田有楽斎、大野修理へ「何卒和談を取り付けたい、秀頼の為なら自分が江戸へ下向してもいい」と言ったが、
秀頼が承知せず、この上は近臣の出頭の者に諫言させようと相談した。

渡辺内蔵助は鴫野の一戦以後秀頼の前を損し、
薄田隼人も博労淵の出曲輪を取られ、日頃の力量自慢ほどではないと城中のひとに取沙汰されているのを恥じて万事控えめになっている。
木村重成は後藤又兵衛が今福の戦いを秀頼に報告し、以前の倍も信頼を受けている、木村から言ってもらうのがいいだろう、と
有楽斎、大野が木村を招いて、和談の上淀殿を江戸へ差し出すことを秀頼へ提言するように言ったが、これを聞いた木村は
「今の話は片桐が最初に話したことと少しも違いはなく、今さらそのような申し上げはできない。
各々に幾度でも言うが、このような次第になったのは畢竟秀頼さまのご運の末と嘆くほかない」
と言うので、二人ともあきれ果てた。
その後後藤から強く申し付けたことで秀頼も得心し、和議の相談が進むようになった。
この話は難波戦記等にはないが、牧尾是休斎が語ったことである。

落穂集から抜粋

木村重成がいかにも若いな~って感じだ



木村重成の首

2015年03月29日 15:36

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 18:45:15.56 ID:r6orwAxz
大阪夏の陣、井伊直孝の部隊の先鋒であった庵原助右衛門は木村長門守重成の部隊と戦い、
乱軍と成って重成が馬を乗り放ちにし鑓を持って進んできたのを、庵原は二間(訳3.6メートル)ほどの
足元の沼を隔てて鑓を合わせた。

庵原はその十文字鑓を重成の母衣に突き込み、前に引き倒そうとした。
重成は自身の鑓を庵原が立っている岸に突き立て、引き倒されまいと争った。
しかし庵原が強く引くと、重成は遂に沼にうつ伏せに引き倒された。
その時、庵原の家来たちが飛びかかり重成を取り押さえて首を取った。

と、ここに安藤長三郎が走りきて庵原に声をかけた
「私は未だ首一つも取っていません。その首を頂けないでしょうか!?」

庵原はこれを聞いて
「若者にしては奇特な心掛けである。ではこの首は進上いたそう。
この敵、木村長門守と名乗ったが、長門ではないかもしれず、たとえ本物の長門の首であっても、
私はこの首一つにて名を揚げるつもりもない。

大阪も、今日明日で落着しよう。であれば貴殿も、これほどの首を再び取り当たることは
無いだろう。急ぎ大御所の御実検に供えられよ。」

安藤は大いに喜び、首を持って行こうとしたが、ここで庵原は彼を呼び返して
「大御所は至って御吟味の強き大将である。母衣武者の首を取って母衣を首に添えない時は
御非難を受けるぞ!この母衣絹、太刀、脇差まで共々持って行くべし」
そう言って皆取り束ねて渡したが、庵原の家来たちは「せめてこれだけはこの方に残したい」と、
白熊( 白熊(はぐま)の毛で作った払子)のついた金の捻り竹の指物は、押さえて渡さなかった。
この一品は、後に庵原の家の什物となったという。

安藤長三郎は重成の首を本陣に持って行き家康の実検に備えると、正しく長門守の首であり、
若き者の天晴な功名であると、戦い終わった後、安藤を伏見城に召して五代青江の刀を与えたという。

(刀剣談)



黒一点と白一点

2014年08月09日 18:55

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 01:44:38.52 ID:Q0m9MiZp
黒一点と白一点

大坂夏の陣八尾若江の戦いは大乱戦となり徳川方の阿部正次が
「味方は長期の遠征故、肌は黒く焼け物具も汚れておる、大坂方は肌色も白く物具も綺麗なままだ、それを目印に討ち取れ」
と馬に乗り触れ回ったほどだ。

そんな乱戦の中、戦死した木村重成の家臣青木七左衛門長屋平太夫の二人は運悪く敵である徳川方の部隊の中に紛れ込んでしまった。
数多ある他の部隊ならば、なんとかやり過ごし脱出の機会を窺う事も出来ただろうが、更に運の悪い事に二人が紛れ込んだ徳川方の部隊
とは、よりにもよってあの井伊直政直孝の部隊であった。
全身を赤で固めた部隊の中に黒母衣と白母衣が一点ずつ…たちまち赤い槍衾に囲まれた二人は生け捕りにされた。

覚悟を決めた両名は家康の前に引き出されると、まずは長屋平太夫
「今福にて一番槍を合わせたり」
と名乗れば、続いて青木も
「今日、西郡にて一番首を取たり」
と名乗った。
すると、この二人の剛の者の境遇をあわれと思った家康は二人を許し美濃にそれぞれ500石の禄を与え召抱えた。

(常山紀談)




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 01:59:29.15 ID:hrpJQAeq
>>475
赤牛の方じゃね

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 02:06:08.60 ID:Q0m9MiZp
>>476
誤記したンゴ…

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 08:54:24.12 ID:yB2evRQ/
>ンゴ…

こんなところでもか…

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 11:20:47.68 ID:323CKrqB
誤記し丹後

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 12:03:57.38 ID:At0gwloN
丹波の赤鬼『呼ばれたと思ったら丹後だった』

首帖の故実

2014年04月22日 18:48

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 01:14:47.62 ID:IZdYzDZT
大坂の役の時、木村重成の兵士松浦弥右衛門と堀田図書勝嘉の従士浅部清兵衛
共に敵を斬って首を得た。

豊臣秀頼の右筆である白井甚右衛門はその日、首帖(首帳)の役だった。
松浦は早く首を持って来て白井に一番と書かせた。ところが、白井は
「首一つ松浦弥右衛門」と書いて一番とは書かなかった。

松浦は怒ったが白井は聞き入れない。そこに今度は浅部が首を持って来た。
白井がこれを正したところ、浅部は松浦よりも先に首を取ったけれど、
その場所が遠かったので遅参したということがわかった。

その証拠は明らかだったので白井は浅部を一番と書いて松浦を二番と書き、
松浦に向かって「ニの首を待って一の首を記すことは首帖の故実です」と言った。

――『武将感状記』





大野治房と感状

2013年12月01日 19:16

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 23:03:56.92 ID:mad9NJaP
大野治房と感状

大阪冬の陣において大野治房の部下である塙直之蜂須賀至鎮の陣を夜襲して功名があった。
治房は感状を欲し木村重成に口添えしてもらおうと重成を訪ねた。

治房「(後藤又兵衛に教えてもらった策で)夜襲が大成功したんだけど感状が出るよう周旋してくれない?」

重成「秀頼様にもよく聞こえた功名ならば、感状は間違いなくいただけるでしょう。ですが
   貴殿は感状をいただいて誰に披露するおつもりですか?」
  「一本槍の武士ならば他国の主君に奉公するときの眉目にすべきでしょうが、大野兄弟は大阪の老臣ですので
   君主と存亡を共にすべき人です。何の為の感状ですか?」

これを聞いて治房は恥じて言葉を無くしたという。

(武人百話)





「鉄砲はこうやって撃つんだよ!!」

2013年03月03日 19:01

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 00:24:44.72 ID:SOYj+wSV
大阪冬の陣、今福の戦いでのことである。

今福・鴫野での幕府方・佐竹義宣勢の攻勢を、大阪方・木村重成勢はなんとか食い止めたものの、
戦況は膠着し、木村勢は再び押され始めた。

これを大阪城から見ていた豊臣秀頼は驚き、側にあった後藤基次に、早急に木村の救援に行くよう命ずる。
後藤は畏まり、その場から直に陣屋の組衆に、直ぐに蒲生堤へ来るよう使いを出し、自身は具足を
持ってこさせ馳せて天満橋近辺に至ると、そこには既に大野修理勢が武装して乗り付けていた。
後藤もその陣屋において武装を固め、今福堤に駆けつけた。

到着すると後藤は木村重成に対面し、
「今朝からの御働きですが、そろそろその気力も尽きる頃と思います。ここは私が
入れ替わりましょう。」
と申し述べる。しかし木村は

「この重成にとって今日が初陣です。その上、特に只今こそ勝負肝要の時と見えます!
こんな時にそれと替わろうとするなど、後藤殿には大人気ないではありませんか!
かつ、今人数を入れ替えれば備が崩れる危険性もあります。

そもそも貴殿は老巧の武将であり、私は初陣です。であるので、今しばらくこのまま御覧になっていて
頂きたい!」

この木村の気迫に後藤も感服し、「申されるものかな。ならば私は後陣に詰めよう」と言って
下がろうとしたが、その時四方を見ると、堤の下では木村重成の足軽たちが、敵の射撃を受けて
堤の陰に伏し隠れたまま、頭も出せないような有様であった。

すると後藤は馬から降り、従者に持たせた鉄砲を鉄砲を取って、体を堤の上に伸び上げ、
立ったまま2発射撃し叫んだ

「土の上に這いつくばって黒くなっている者共!鉄砲はこうやって撃つんだよ!!」

この恥ずかしめにカッとした足軽たちは、競って堤の上に登って一斉に撃ち立てれば、
敵のほうが逆に堤の陰に伏せ隠れた。

この時、後藤は左の小指に少し負傷しているのを木村重成が見つけ、「手傷を負われましたね」
と問うと、後藤は鼻紙を出して負傷箇所を巻いて

「合戦で小傷を負うのは、私の吉例ですよ。」

そう、笑って答えた。

「それはともかく、後藤殿は陣所に帰ってください!」木村はそうしきりに進めた。

これは木村重成が若武者であり、後で陣を後藤基次に取り替わられたと人に言われてはならないと
偏に考えたためだ。という。
(慶元記)




603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 04:43:51.73 ID:M6d0l7GH
>鉄砲を鉄砲を取って、体を堤の上に伸び上げ、
>立ったまま2発射撃し叫んだ

両手でガンマン風に射撃を行う又兵衛さんが頭に浮かんだ。

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 17:31:13.82 ID:4zA/UW2P
木村重成って堀久のイメージしかない
生まれてくるの遅すぎたね

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 17:34:37.01 ID:U8qpeY/a
名人Qちゃんと橙を一緒にするなよ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 17:35:40.04 ID:JtyqrRGR
>>615
橙は薄田兼相や

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 18:20:42.91 ID:jbCCpV3U
Qちゃんの肖像画は修正液で上から適当に書き直したみたいな顔しかないの?

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 18:39:22.34 ID:4zA/UW2P
きっとおばあちゃんが書き直したんだよ

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 18:41:09.12 ID:48+26OS0
どこのスペイン人のババアだよw


「三ヶ条の要求」と豊臣秀頼

2011年12月26日 22:02

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 18:02:11.44 ID:LdVEqifJ
慶長19年(1614)9月18日、方広寺鐘銘事件などで緊張した徳川・豊臣家の問題を駿府の家康と協議した
片桐且元は帰阪。秀頼に家康からの要求、

『秀頼が人質として江戸に下る、もしくは淀殿が人質として江戸に下る、もしくは国替えを受け入れる』

という三ヶ条を伝えた。

これを聞いた豊臣秀頼は、片桐且元を、休息を取れと私邸へ帰らせ。その上で、当時大阪にあった
織田常真(信雄)のもとに、大野治長、木村長門守、渡辺内蔵助を遣わして、この件に対して相談をさせた。

三人は信雄にこう主張する

「市正(且元)は今度の使いにおいて、いくら家康公の御指図だといっても、先ずは一応も二応もお断りを
申し上げ、その上ではじめて家康側の申し出を聞き届け帰国しこれを秀頼公に申し上げるべきなのに、
彼は秀頼公を差し置いて、この三ヶ条へ異見が無いと家康に申し入れ、自分一人の判断で、まるで自分が
家康の使いであるかにように、秀頼公に申し上げた。
これは我が君を見下げるような行為であり、その不正は軽くない!

この上は最早市正を踏み殺し、我々の方針をはっきりさせるべきと考える!」

信雄はこれを聞いて仰天した

「今、両御所を敵に受けて盾をつくなど、考えも出来ない事だ!
今回のことは全て、市正に任せて然るべきである!」

三人は秀頼に元に帰り、両者の意見を申し上げた。
しかし秀頼はこれを聞くと、いずれの意見を取るべきか解らず、ただ悩んだままであった。

大野ら三人はこの秀頼の姿を見て、「秀頼公には知らせず密かに且元を城に呼び出し、そこで
刺殺して方針をはっきりさせよう!」と示し合わせた。

しかしその動きをを察知した信雄がこれを且元に知らせ、且元は大阪城を退去。
これが大阪冬の陣勃発の直接の理由となる。

和平派もそうだが主戦派も、秀頼本人の意志を重視してはいない、片桐且元大阪退去に至るまでの、顛末である。
(秀頼事記)






499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:39:58.07 ID:Gb1JJCFD
何かで読んだのか戦国もののドラマか忘れたけど
且元はその時淀殿を江戸に送ることを承知しておいて
江戸屋敷の造営で一年二年と引き延ばしその後は淀殿病気といいさらに一年二年引き延ばし
家康が死んだ後挙兵すれば少しは勝ち味が見えてくると献策したとか言う話があったな
多分史実じゃないとは思うけど

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:42:56.60 ID:W9TthKzI
葵徳川だね

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:50:58.98 ID:gHUua3Pj
実際家康相手にそんな小細工無理だとは思う

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 23:47:39.70 ID:HTcBDCI7
>>498

これじゃ、まるで開戦にいたるまでの先帝陛下のお立場ではないか?

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 00:05:13.68 ID:AGDGBLr/
こう見ると信雄さんは現実派だなぁと思うけど
やはり残り二人からは「このヘタレが!」って思われたんだろうな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:15:30.85 ID:zgeD+M20
福島正則「だから!遅すぎたと言っているんだッ!!」

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:54:59.49 ID:3dub6oDn
信雄が優秀だったってのもあながち間違いじゃないよな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 09:04:44.29 ID:2Phlz4nt
お坊ちゃまだった若い頃は失策しまくりだったけど、
もう世間慣れしてるお爺さんだから保身感覚が身に付いてるよな

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 10:15:59.08 ID:quNlbzpG
若いころから保身感覚抜群の連中がいたりするから見劣りしたりするんだよな

森家の連中とか池田家の連中とか…

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 11:45:49.54 ID:rWPzNMBy
>>507 信雄様のおかげで早くに親父や兄がなくなったもので、若くして保身感覚を身に付けました。