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願わくばこの旨を台聴に達し

2022年01月21日 17:03

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/21(金) 16:27:07.07 ID:i+8pRNNV
関白豊臣秀次が二十八歳の時、文禄四年七月十五日、高野山の青巌寺に於いて御切腹された。
これにより秀次の柄臣寵臣も所々にて自殺する中に、木村常陸介(重茲)は検使である松田勝右衛門に
向かって言った

「今度関白が聚楽を出て伏見に赴かれることに決まった時、私は秀次公に
『太閤(秀吉)に御対面さえあれば、至親の御仲ですから、讒間の事も明らかになるでしょう。
しかし対面もされず、中途に於いて僻地遠島に追放されるか、甲斐なく御身を白刃に割らせられるか、
必ずこの二つのどちらかになるでしょう。
ですので、太閤の使者を斬って棄て、諸大名の妻子で聚楽に在る者達を人質とし、罪が無いという事を
糺させ給えば、和となっても固く定まり、また戦となっても勇を遺します。であるのにどうして、
巣穴を離れて猟人の箭鏃にかかろうとなさるのですか!』

そう、二度にわたって諌め申し上げたが、秀次公は『私がどうして太閤に敵するだろうか』と、
終に御承引無かった。然れば、関白に於いて太閤に対する異心が全く無かった事を推測されるべし。
願わくばこの旨を台聴に達して頂ければ、その恩は泉下に至っても忘れない。」

このように言ったのを、松田は折を見て太閤に語った。太閤はその志を愍んで、妻子に米百石を
賜った。妻子たちは京都誓願寺の近所に居住していた。

志士清談



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彼らを謀ったのである

2019年11月29日 16:55

628 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 14:29:18.61 ID:tnZCnaZ3
豊臣秀吉の小田原征伐に於いて、先に武州の石築、筑井の両城の攻め手として向かっていた
浅野左京大夫幸長、木村常陸介重茲、同伊勢守定重父子、赤座久兵衛直保、以下この方面が落ち着いた
ため人馬を暫く休めていた所、忍城が未だ落ちていないという事が笠懸山の本陣に聞こえ、秀吉より
急ぎ忍城攻めの加勢に向かうようにとの下知が有り、そこで直ぐに忍城へと向かった。

ここに、同国大里郡の久下城主、市田太郎という者があった。彼は武蔵七党の一員であり、また
重代の国侍であったが、僅かの分限であったので成田家の旗下に属し、当時は成田氏長の妹婿であった。
である以上、事ある砌は氏長より、忍城の留守居である成田近江守の助勢に駆けつけるよう定められ、
普段は久下を守っていた。この度は成田氏長、泰親兄弟が小田原に籠もったため、久下は小領であり、
また非常に僻地でも有ったので、そこは放置して忍城に籠もることを申し合わせ、本丸に入って
共に籠城した。

その頃、忍城では『小田原城内にて成田氏長が二心を起こし、上方勢に内通した。」との話が
聞こえてきた。そのため留守居の者達も両端を持す態度を取るように成り、市田太郎の姉は、北条方の
福島伊賀入道(賢成ヵ)の妻であったので心定まっているとして、市田並びに成田近江守を共に
持田口へ出して外郭の警護に当たらせた。

ところがこの処置に成田近江守は憤り、密かに浅野幸長の陣へ使いを立てて内応する旨を伝えた。
この事について、幸長の家老たちは石田三成に相談した所、三成は
「わが陣へも敵方より返忠の約を成す者があり、既に条件などを議定している。なので明日にでも
総攻めをすれば、簡単に城を乗っ取る事が出来ること疑いない。」
との返事であった。故に浅野家中はこれを事実と心得、軍勢の準備をした。

ところが、実は石田治部少輔は以前より忍城攻めのため在陣しているというのに未だ功を顕すことが
出来ておらず、加勢の手によって城を攻略されてしまえば面目が立たないと思い、浅野家を欺き、
彼らが功を立てることが無いように彼らを謀ったのである。

629 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 14:29:48.02 ID:tnZCnaZ3
こうして翌日、木村常陸介兄弟が下忍口に押し寄せ、持盾械盾を並べてその陰より大筒小筒を
激しく打ち掛け攻め懸った。これを見て城方は、坂巻靱負尉が合図の鐘を鳴らした所、近辺の持口より
援兵が出た。寄せ手は頻りに競い進んで深泥を踏み越え塀へ乗ろうとした所を、城兵が矢弾を
夥しく放ったために多くが討たれた。

浅野幸長は長野口に陣していたが、西南の方から鬨の声や鉄砲の音が聞こえてくると
「すわ、搦手にては戦いが始まったようだ、者共進め!」と長野口へ押し寄せ、堀を越え柵を破って
城門の際まで攻め懸ったため、城兵たちも「これは持ち堪える事はできない。」と思い、ここを捨てて
大手の行田口へ引き取りはじめると、幸長の家人である浅野平右衛門、沖小平太が真っ先に進み、
この撤退に付け入ろうと追いかけた。

城兵の柴崎和泉守、三田加賀守、同次郎兵衛、吉田和泉守、同新四郎、鎌田次郎左衛門、秋山宗右衛門、
成澤庄五郎らがこれを支え防ぎ戦っている間に、雑兵たちは尽く行田口に逃げ入った。
浅野、大谷、松浦、鈴木の軍勢が既に大手の橋前まで詰め寄せたが、この八騎が橋詰にて踏み堪え、
槍衾を作って防いだため、寄せ手も更には進みかねた。

この時城中より、今村佐渡守、福島勘解由、坂本将監、島田出羽守以下三十余人が城門を開いて
突いて出、先の八騎の武者と一体となり、ここで敵も味方も勇戦し、寄せ手の浅野平右衛門が
討死し、沖小平太も福島勘解由に討たれ、大谷家の家人である飯沼主水正は今村佐渡守に組討され、
同じく家人の高田喜太郎も島田出羽守に付き伏せられた。これによって寄せ手が怯んだ様子に、
城方は「良き頃合いである。」と城に引き上げたが、城方も成澤庄五郎、秋山宗右衛門が討死し、
鎌田次郎左衛門は食い止められ橋の上で鑓を合わせていたが、彼は覚えの者であったので、鑓で
戦いながら「城門を早く閉ざせ!」と叫んだ。そこで城兵が木戸を閉めている間に、鎌田はそこで
討死した。彼の死を惜しまぬものは居なかった。

寄せ手は城門を破ろうと、寄り集まって押し掛けたが、最初の合図の鐘を聞いて佐間口を固めていた
正木丹波守以下五十余人が町家を廻って寄せ手の弓手に向けて鉄砲を撃ちかけ「裏切りが出たぞ!」
と叫んで真っ直ぐに打って掛かった。寄せ手は敵の規模を知らず多勢であると思いこみ、とうと崩れて
引き退いた。これを見て城兵はまた木戸を開いて切って出て、正木の人数と一つになり散々に戦い、
寄せ手はたまりかねて長野口方面へと引き上げた。

この時、長束正家および結城勢は佐間口を受け持っていたのだが、行田口、下忍口にて合戦が始まったと
聞いたため、「我々も攻め口を乗っ取ろう。」と押し寄せたが、この口を守る正木丹波守は行田に
救援に行っており無勢であったものの、福島主水正、櫻井又右衛門、内田孫六郎らが鉄砲を使って
ここをよく支えた。長束の家人である家所帯刀が先導して、有坂宮内丞、一宮善兵衛などという勇士
たちが続々と城門に取り付き後よりも大勢が続いた。すわこの口は破られると見えた時、正木丹波守が
行田口の敵を追い払って自分の持ち口に取って返る所を寄せ手が見て、「敵には後詰めが有るぞ!」と
心得、色めいて撤退した。この時城兵はまた打って出て追い打ちをかけたため、寄せ手は多く討たれたが、
城兵の被害は微小であった。総じてこの一日の戦いで、寄せ手の死傷者は数百人、城兵の討ち死には
五十五人、手負いは四十余人であったという。

石田治部少輔、並びに佐竹宇都宮勢は終始軍勢を出さず、徒に黙殺していただけであった。

このようであったので、市田成田の内応のことについても失敗し、寄せ手の面々はまた、城を遠巻きに
するのみであった。

(関八州古戦録)

忍城攻めで三成が浅野幸長を陥れたお話。

前編
忍城の戦い
続き
忍城開城顛末


630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 17:14:26.33 ID:hQb+dwiO
大谷や長束まで巻き込むユニークスキル

631 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/29(金) 19:38:34.49 ID:6I18+3aO
>>629
フレンドリーファィアで有名な某政○家が頭に浮かんだ。
しかし政敵ならいざ知らず、主人の一門格になんちゅう事すんねん。
結局それが後に自分に返ってくる訳だけどさぁ…

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 13:00:24.75 ID:6Y7LonhJ
三成「亡き太閤殿下から御恩を受けた連中が揃って東軍にいるのか全く理解できん」

信の勇士の理

2017年12月09日 16:05

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 09:23:29.50 ID:eSWp/XYE
天正18年、小田原の役における山中城攻めの際、木村常陸介(重茲)の家臣である鳥居源八という
勇士、先に立って城に取り付き名乗りを上げた。
そこへ、羽柴藤五郎(長谷川秀一)家臣、磯平三郎が続き来て、鳥居に言った

「源八よ、汝は既に”頸取り源八”と世に呼ばれている名高き勇者であるが、真実の武功を
知らぬな。田舎育ちの働き故に、ここでも名乗るべきではない所で名乗っている。
こういった場所では、諸人茫然として心もついていかず、気後れしているものであるのに、
ここで名乗っては、諸人はこのお陰で心付いて、我先にと進む。故に思いのままの一人高名が
出来なくなってしまうのだ。
物の訳を知らぬ故に、流石の頸取り源八もこのような時に名乗ってしまう事よ。」

これを聞いて源八は嘲笑って言った
「平三郎は心がけもある武士であると聞いていたが、さては信の勇士の理を知らぬと見た。
このように、諸人茫然たる時分は、一人声高に名乗って、人に気力を付け大勢に力を与え、
多くの人を用に足る者に成す事こそ、武士の義というものだ。
何事ぞ、我一人功名してそれを宜と言うのは。そんなものは甚だしい小技であり、言葉にする
価値すら無い。」

そう蔑んだという。

(士談)



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 11:59:31.12 ID:HwqEYabs
こういうのって戦の最中にやりあってんのかな
敵味方もどっちの口撃が勝つのか見守ってたりして

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 12:56:49.36 ID:4iPqjqA6
二人とも弓鉄砲で倒されてたら笑う

これ故に先立って戦死を遂げる

2017年04月15日 18:56

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/14(金) 21:38:46.57 ID:6vo126Lp
木村常陸介(重茲)の家臣に、岡田藤十郎という者があった。

16歳の時、秀吉の小田原役における八王子城攻めにおいて、頸取源八という者が頸を引き下げて
出てきて、「一番首なり!」と高らかに宣言した。
ここに岡田が来て
「源八ははや頸を得たのか。さては面白くもないことだが。」
そう言いながら城の方へ行き、そこで朱具足の者と突き合い、難なく突き倒して頸を取ろうとした、
が、考えを変えそのまま先に行き、また他の敵と突き合ってその頸を得て帰った。

「初めの頸を何故棄てたのか?」そう問われると岡田は
「兜の下を見ると法師武者であった。だから棄てたのだ。」と言った。(高齢の武者だったから、
という意味であろう。)
常識はずれの勇士である。

この岡田藤十郎、朝鮮征伐の年、18歳にて高麗に渡り、優れた働き多かった。
しかし木村常陸介の定めた軍法を破って先に出ること度重なったため、常陸介は大いに怒り
「重ねて左様なことあらば、具足を剥いで陣を払え!」と言い付けた。

岡田はこの事を本意無く思い、その翌日、白き羽織をこしらえ、墨にて紋を書き出し、
唐人の陣の方へ一番に進んだ。

この節、長谷川藤五郎(秀一)などが、敵陣への大物見に出ていたのだが、その先の松の木の
ある所に白羽織の者が見えた。敵か味方かと観察したが解らない。しかし日本軍の方に向くこと無く
敵方へ一文字に進む。

この松のある所は、敵陣に近すぎてなかなか近寄ることも出来ない場所であったが、彼は松の木の
脇まで行き、そこで敵の猛攻撃を請けて速やかに討ち死にした。

「あれは何者か?」
長谷川が尋ねると、「木村常陸介内、岡田藤十郎である」と解った。
彼の死を惜しまない者は居なかった。

岡田は書き置きをしていた。しかし前夜はその素振りも見せず、朋輩たちと語り合い、そして翌日討ち死にした。
その書き置きにはこう書かれていた

『常陸介殿は、具足を剥いで陣を払えと言われた。人の国に参り、この陣を払われては、
私は一体どこで戦場を務められるだろうか。これ故に先立って戦死を遂げる。』

そう残した筆のすさみに、人々は惜しみあった。
この藤十郎、16,7の頃より勇士の兆し現れ、只人ではないと世間で言われていた。

(士談)


鳥井源八郎、先登の意味を語る

2015年10月13日 18:30

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/12(月) 20:43:51.75 ID:wJaxz/3Y
鳥井源八郎、先登の意味を語る

豊臣勢が北条方の山中城を攻めた際、木村常陸守(重茲)の配下鳥井源八郎が先駆けの末に城に一番に取り付き、名乗りをあげた。
(長谷川秀一の配下)磯野平三郎もこれに続いたが、鳥井に向かって
 「お前は首取り源八なんて大層な名前で呼ばれているが、田舎育ちのせいで武功の稼ぎ方が分かってないな。せっかく味方が怯んでついてこない中、
名乗りをあげては我も我もと皆が続いて武功を一人占めできなくなるではないか!
  物の道理もわからんのか」と笑っていた。

 「平三郎殿は一廉の人物だと聞いていたがそうでもないようだ。他の者が後れをとっているのなら猶更声高に名乗りを挙げ、皆の心を奮い立たせるべきだ。
  人の役に立つことこそ武士の本懐で、一人高名を追い求めるのは小事というものだ」
と鳥井が答えると、磯野は返す言葉がなかったそうな。





木村重茲「大名の槍を見よ!」

2013年08月14日 19:55

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 01:12:28.13 ID:pwo2pOdD
木村常陸介重茲は越前の城主であったが、ある時、伏見へと参勤する途上、先駆の部将が過って
自分の槍を松の枝に触れさせ、このため穂鞘が抜けて槍身が現れた。

人々これを見ると、なんとそれは錆が点々とし、久しく研いでいない物のようであった。

木村重茲はこれを見ると大いに怒り、その部将を呼びつけ怒鳴りつけた

「今は戦国の世上であるのだから、常に刀槍に心を用いなければならない!
一旦事起これば直ちにこれを持って敵陣へと迫らなければならないのだぞ!
それなのに汝の槍身はこの様に錆び腐っておる!これはもののふの大恥辱ではないか!!」

そうして、従者に自分の槍を持ってこさせ、この部将に指し示して高らかに言った

「汝、大名の槍を見よ!このようにして初めて戦場に役に立つことを得るのだ!!!」

と、穂鞘を外す!が!…何という事であろう、その刀身、盡く腐食し、一面赤鉄のような有様であった。

重茲はこれに大いに恥じ、暫くしてから言葉の様子を改め

「だ、大名の槍であっても、尚このように錆びやすいのだ!いわんやお前たちの槍などは、
一層注意して常に鋭利にしておかねばならないのだぞ!」

そう言い捨てると騎馬を早め、急いで伏見に入った。
しかしこれにより、部下の兵士たちは互いに、この時の重茲の様子を真似て「大名の槍を見よ!」
と言い合い、一時の物笑いとなったという。
(古雄逸談)




153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 01:27:12.74 ID:nsGe281h
コントすか

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 01:29:27.46 ID:uARZlxcL
なんという波平

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 01:32:28.18 ID:fC7SP62V
ところで、其れがしの槍をどう思う?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 06:48:36.78 ID:9HkHpjir
ほほえましい

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 07:26:13.23 ID:o1/fyvwZ
>>155
すごく   使った形跡がありません

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 11:33:04.12 ID:sFUGCDfe
>>157
くそっwこんなんでw

木村常陸介は元来奸智の深い者であったので

2012年12月07日 19:52

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 20:43:26.97 ID:2PduHpom
木村常陸介は豊臣秀吉より関白秀次に附けられた。元来奸智の深い者
であったので秀次の気に応じ段々と大身になっていった。ところが後には
秀次謀叛の一味となって諸々の悪逆をなし、ついには秀吉を殺害しようと
伏見城へ潜入した。

しかし叶い難く空しく帰ろうという時に残念だからと、証拠に秀吉の
秘蔵していた水指の蓋を盗み取り持ち帰った。そのような人だったので、
毎夜秀次の寝所で密談しているのを人に怪しまれることを恐れ、女乗物で
城中に出入りした。

これらのことが露見したために秀次は生害、常陸介とその子志摩はともに
京都寺町正行寺で切腹した。

――『良将言行録』





前田利家『陰にて御笑ひなされ候』

2011年01月06日 00:00

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 21:22:26 ID:bdiAfRl+
ではそんな利家さん関係で

前田利家豊臣秀吉の関東征伐の時、秀吉の機嫌を甚だ損ね(秀吉に無断で
無血開城したことが原因らしい)、大変立場が悪くなった。

こうなると利家が日ごろ出入りを許し目をかけていた者たちも一気に敵となり
利家を非難しはじめ、秀吉の前であからさまに利家の悪口をいうものも多かった。
利家の軍勢は1万を超えていたのに

「前田殿のご人数は4,5千といったところだそうです」

などと過小に伝えたりもされたそうだ。(つまり軍役をきちんと果たしていない、ということか)

木村常陸介重茲などは利家と兄弟のように親しくしていたのに、そんな彼でさえ
八王子城攻めの頃は利家のことを秀吉に悪し様に報告していたそうだ。
こんな中でも蒲生氏郷浅野長政などは秀吉に向かって利家を弁護したと言う。


さて、そんな利家が秀吉との関係を修復し、再び重用されるようになると、
利家の京伏見の屋敷には、利家と関係を結びたい人々により門前市をなすという活況となった。
このころ利家は、前に自分に対して悪し様に言った連中を陰で笑っていたそうである。

(ホントにそう書いてある。『前廉支へ口を仕候衆を、陰にて御笑ひなされ候』(村井勘十郎覚書))

利家さんの生涯に何度かあったうち、最後の方の浮沈のお話。




120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 21:24:21 ID:KCzVLr07
ありなんありなん

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 22:32:45 ID:dquYRhtL
日本一の藩の祖のわりに大物という気が全くしない犬千代さんだけど
幕末まで大藩を保った前田家はもっと評価されていいと思う。
内ゲバ起こして潰れた家もごろごろあるわけだし。

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 23:20:38 ID:1TsHjgBe
関ヶ原と幕末は何をしてたんだ…って感じだけどなw
逆に、そう家だからこそ100万石を保てたんだろうけど~

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 00:46:00 ID:TNPjoUr9
幕末の加賀藩だってこんな活躍してるんだぞ
・現在の東大赤門を建てる
・禁門の変で負ける
・アップルジャムをつくる


124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 01:53:53 ID:FeY8/ESH
>>121
母親を徳川の人質に送ったり、鼻毛伸ばしてバカ殿装ったりいろいろ苦労してます

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 07:56:17 ID:ocM7vvGm
前田家の家訓は「絶対服従」だからな

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 08:18:57 ID:OwE9n3On
前田家の家訓「一番よりもナンバー2」

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 08:45:11 ID:U+fECar9
>>122
幕末は勤王派の跡継ぎと重臣を粛清して、佐幕派で藩内を統一したと思ったら、第二次長州征伐で幕軍が負けて、
勤王派に鞍替えしなきゃと大慌て。
藩内政治に右往左往している間にいろいろ乗り遅れた。
対外的には何もしてないけど、藩内は大流血してる。

木村重茲の娘

2010年11月21日 00:00

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 17:36:11 ID:IuyHqysh
木村常陸守重茲には、その年13歳になる娘がいた。
彼女は木村自慢の娘で、木村の主君、豊臣秀次からも成長すれば側に置くよう
所望があった、とも噂されるほど、輝くように美しい少女であったと言う。


文禄4年(1595)。秀次事件があった。

関白豊臣秀次は切腹。秀次の家臣、関係者も次々と粛清を受ける。
秀次重臣木村重茲も、連座により切腹した。

さてこの時、木村重茲の母、妻、そして娘は越前にあった。
彼女らは重茲が死ぬ前密かに遣わした野村静六という少年の報により、
秀次事件と重茲の切腹を知る。

野村はそれを伝えると、
「賤しき者の手に掛かり御一門の名誉を汚す前にどうぞ、ご決断を。
私は先に行っております。」

と言うや腹を十文字に斬って果てた。

木村の妻、これを見て守刀を取り出し自害。
木村の母はかねてより親しい僧侶を呼び、金品を与えて後の一門の弔いを頼むと、
また、自害。

木村の娘だけは乳母が殺すことをためらい、密かに連れ出し、逃げた。


娘は乳母と共に山の中に逃げ込んだが、もとより蝶よ花よと大切に育てられた娘である。
険しい山道に足からは血が滲み、岩山に踏み迷い、獣の声に怯え、そんな道を夜もすがら歩くうちに
すっかり疲れ果て、
「こんな苦しい思いをするなら、母上たちと共に死んだほうが良かった。」
そう思い、どこか深い淵に身を投げて、母上たちの後を追おうと、乳母から離れ
川を求めて谷伝いに降りて行った。

その頃、ようやくに夜が明けた。

娘は、夜明け前から山田に出て作業をした百姓が帰るところに出会した。
彼女は叫んだ

「私は道に迷った者です!どうか吾が家までの道を教えてくれませんか!?」

百姓は「お安いことです、どうぞ私の後を付いてきてください」と快く言い、
娘は喜んで、転げるように百姓の後を追った。
こうして娘は、元の家に帰りついた。


家には、京より秀吉の派遣した捜索の者達がいた。


娘はその場で捕縛、京都に連行された。
そして罪人として三条河原において磔にされ、その遺骸を、朽ちるまで晒された。


木村重茲の、13歳の娘に起こった悲劇についての話である。




682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 18:23:19 ID:zLTlMaBn
ちょっとじゃない

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 19:49:24 ID:lV4E1B+r
嫌な・・・事件だったね

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 20:23:02 ID:gGUGe0kL
武家の娘なら覚悟もあろうに潔く自害しなかったばかりに恥をさらしたのか
しかしあたら若い娘をしかも美少女…
俺が百姓なら手をつないで逃げるところだ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 21:03:09 ID:3l/Lfd24
秀次事件絡みは本当に陰惨だ

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 21:09:40 ID:JEgarUI+
信長秀吉家康と三英雄はみんな酷いこともしているけど、秀次連座の件は戦じゃないぶん一番嫌な事件だなあ

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 23:22:15 ID:6VRm9Ws0
仙千代丸 百丸 お十丸 土丸 御姫(以上秀次の子)

一の台御局 小上臈 お妻御前 お亀の前 お和子の前 山口将監娘 おチャの前 お佐子の前 お万の前

おなめの前 お阿子の前 お伊満の前 阿世智の前 小少将 左衛門後殿 右衛門後殿 妙心尼 お宮の前

お菊の前 お喝食の前 お松の前 お伊佐の前 お古保の前 お仮名の前 お竹の前 お愛の前 お藤の前

お牧の前 お国の前 お紋 東 お三 津保見 お知保



「葉隠」より三条河原の受刑者一覧 刑場のお触書等から書き写したと思われ

駒姫や木村の娘はどれに当たるのだろうか・・・

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 23:57:36 ID:4hPLnlUB
「お伊満の前」だそうだ。>駒姫
瑞泉寺の墓には「於伊萬ノ前」とあるそうだから、ひょっとして「駒」と書いて「いま」と読んでいたのだろうか。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 01:23:28 ID:M4yaFFC1
つか秀吉の血縁はほとんどろくな死に方してないなあ

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 04:20:42 ID:yXt9f80q
>>689
日秀の三人息子は秀勝は陣没、秀次はアレで、秀保も秀次と同時期に変死
だからなぁ。