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太平寺の戦いと木沢長政の滅亡

2020年05月23日 16:47

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 22:20:10.11 ID:umYPRi/P
畠山長経横死の後、かの家の執事である遊佐河内守長教は忠義を尽し、紀州より左衛門督稙長(長経弟)を
迎え取り、高屋の城に再住せしめ、堅固に守護して奉仕していたが、ただいかにもして、故長経を毒殺した
逆臣共を謀って討ち亡ぼさんと思慮をめぐらし、色々に工夫して、先ず逆徒の斎藤山城守を謀り寄せ、高屋城の
追手、不動坂と言う所にて忽ちに誅伐した。

これを聞いて残る逆臣である木沢左京亮(長政)、杉原石見守等は、次は自分たちであると察し、謀反を顕し
尼上ノ嶽に城を構え、一揆の土民を相語らい、高屋城を攻めんとした。その他、塩川伯耆守(政年)、若狭の
武田、粟屋なども皆これに一味し、河内へ集まり当国の落合上畠という所まで出張した所に、遊佐長教
近国の三好孫次郎範長(長慶)を頼って加勢を乞うた。範長は同心して、同新五郎政長等を相語らい、
落合表へ助け来て、天文十一年(1542)三月十七日、当所にて合戦した。

敵将の木沢、杉原は三千の人数を備えて待ち懸かる所に、遊佐方の阿州の住人、誉田山城守の子、三宝院という
法師武者が一陣に進み、落合川を渡り越えた。これに続いて味方の総勢ヒタヒタと川を渡り合戦と成った。
そして悉く切り捲って、木沢右近、粟屋父子を初めとして百余人を討ち取ると、残徒は悉く敗軍して四角八方へ
逃げ散った所を、遊佐三好両家の者共、競い立って追い駆け、悉く討ち取った。
中でも河内国住人・文字牛之助という者が、敵将木沢左京亮を討ち取って、終にその頸を得た。

この木沢左京亮長政という人は、気位の高い人物で、度々大軍を促し武功は勝れていたのだが、無双の悪人であり、
先年、大物の戦場にて俄に故常桓禅門(細川高国)に叛き裏切り、又三好の故海雲(三好元長)を讒死せしめ、
その後、主君の畠山故総州(畠山義堯)を殺して、今度も故畠山長経を毒殺した。これ稀代の悪人と言うべきである。

杉原石見守はこの戦場を落ち延び、多年流浪していたが、遥かな後、三好家へ降り、手を摺ってかの家僕と
成り果てた。

續應仁後記

太平寺の戦いと木沢長政の滅亡について



79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 22:54:00.20 ID:uq3FTHUO
遊佐長教が忠義を尽くしって書かれると????感が

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 09:00:47.65 ID:pvlENMfI
>>79
傀儡君主を貰うためには忠義くらい尽くすだろうさ
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一向宗、土一揆と山科本願寺の戦い

2020年05月18日 17:10

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 13:04:30.64 ID:wxwEStN2
天文元年(1532)、摂州では一向宗、土一揆等が右京太夫(細川)晴元の味方をして、三好海雲(元長)を
討ったが、幾程無く、一揆らと晴元の家人たちは不和となり、同年八月四日、晴元随一の味方である
木沢左京亮長政に向かって、一揆の奴原は喧嘩を仕出し、切って掛かった。この時、移動中のことで
木沢方は思いもよらず、木沢の者達は散々に切りたてられた。その恥辱を雪がんと、その日、木沢勢は
泉州堺の東にある浅香の道場を初めとして、近郷の一向寺を悉く放火した。これより和泉、河内、摂津、大和
四ヶ国の一揆等が蜂起し、翌五日、晴元の住居のある堺の庄へ押し寄せた。

これに対して、木沢長政自身が多勢を率いて切って出て。一揆の奴原を悉く追い立て、切りまくって(切マクツテ)
先敗の恥を雪ぎたりとて、大いにこれを悦んだ。その時の一揆の大将は戦場を逃げ落ちて、和州吉野の川西という
所に隠れ居たりと言い伝わった。流石土民の軍、立て掛かる時は強いが、逃げる距離は非常に長い。
同日、摂州の一揆等は池田城へ取り掛かり攻め戦ったが、攻略できず扱いと成って引き退いた。

しかし五畿内の一揆は日を逐って広大に蔓延り、その勢が重ねて堺の庄へ攻め来たらば細川晴元の滅亡も近い、
取り扱い給わるべしとて、晴元は急ぎ、その舅である江州の六角左京大夫定頼へ頼み遣わした。
定頼は同心して、家臣の長原太郎左衛門、進藤山城守、馬淵源左衛門、横山、といった者達を、宗門の本寺、
山科の本願寺に遣わして色々取り扱いを協議したが、本願寺上人(証如)は「今更檀徒に背き難し」と
定頼、晴元の旨を承服せず、その取り扱いも手切れと成った。

長原太郎左衛門は為す方無く、急度思案して、常々一向宗門と仲の悪い、日蓮宗の寺檀に頼んだ。
洛中の二十一ヶ寺と呼ばれる日蓮宗の大寺は皆、この義に同心して、日蓮宗門の檀徒を催た。
この日蓮宗徒等も常に信心深く、本寺の下知とさえ云えば身命をも惜しまぬ、最も頑ななる宗門である故、
本寺二十一ヶ寺のこの催に同心して、洛中洛外の有りとあらゆる日蓮宗の諸檀徒等は悉く蜂起し、一揆と成って
数万の人数が徒党し、先ず直に山科へ押し寄せ、本願寺を攻めると、寺中にも敵の攻撃に備える者達があり、
随分防ぎ戦ったのだが、多勢に無勢であり叶い難く、遂に攻め落とされ、この時八月二十四日、山科本願寺は
忽ちに焼き払われて、金銀珠玉にて飾り立てられた近国無双の大伽藍も、ただ一堆の赤土と成った。
寺中の輩は、上人を始めとして、蜘蛛の子を散らすように諸方へ逃げ散り没落した。
これに日蓮宗の一揆等は大いに悦び帰陣した。

續應仁後記

山科本願寺の戦いについて



67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 16:15:13.65 ID:vknL+GhC
一揆には一揆ぶつけんだよって考えがなかなか凄いな

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 16:26:42.35 ID:QgrAJf6x
夷を以て夷を制す

三好元長の滅亡

2020年05月14日 17:20

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 01:04:19.56 ID:xkIpefxS
享禄五年(1532)、細川晴元の要請による一向門徒一揆の輩は、畠山義堯を討つと、その勢いで
三好元長入道海雲を討ち取らんと堺へ向かった。

六月十九日の夜、元長は妻子を近づけこのように申した
「敵は今にも攻め寄せ、多勢が路を遮るため、落ち行くことは難しい。私はこの寺にて腹を切って死ぬ。
其の方は如何にもして、嫡子千熊を伴い急ぎ阿州へ落ち行きて、ここの有様を讃州持隆へ申し上げ、千熊を
預け奉って家の運を待ち給え。」

と暇乞いをした。妻女は名残を惜しみつつ「同じ枕にて死に遂げん」と涙を流して申されたが、供の侍が
押し分け妻女も千熊も疾く疾くと追い立て、小舟に乗せて漕ぎ出し、阿波国へ落ちていった。
海上遥かに隔たった頃、夜はほのぼのと明けた。この千熊丸、成長の後は四国五畿内、おしなべて天下に
威を振るった三好修理太夫長慶と云われた人である。

去るほどに、明ければ六月二十日、和泉、河内、摂津三ヶ国の一揆十万余人、馳集まって三好元長の陣所、
堺の津南ノ庄へ取り掛かり、鬨の声を上げて攻めかかった。三好山城守(一秀)、塩田若狭守等は随分
防ぎ戦って、一先ずは一揆を追い散らしたが、寄せ手は限り無い大勢が、幾重とも無く取り囲んで、入れ替わり
入れ替わり、息をも継がせず攻めかかった。また元長の陣所である南ノ庄の者たちも、一揆勢に説得されm
俄に心変わりし所々より敵を引き入れたため、もはや何処を防ぎ留めるという事も出来なかった。

三好元長は、「軍には取り合わず、敵を防ぐに及ばず」と、日頃信仰している日蓮宗の顕本寺に立て籠もり、
「これこそ閑所なり。思いのままに腹切るべし」と云っている所へ、ここにも敵は寄せてきて、四面を
取り巻いた。そのころ、阿波の御所である足利義維は河内国四条の道場に居られたのだが、これも顕本寺に
入られており、一揆等はこれも取り込めた。

三好元長は当寺の本堂に端座して、腹十文字に掻っ切り、腸を繰り出して天井へ投げつけ、臨終正念に
死去した。その腸の跡は、近年まで顕本寺本堂の天井に残っていたと聞いている。
三好山城守一秀も、お伴申さんと続けて腹を切って死ぬと、塩田若狭守、同子供二人、加地丹波守父子、
その他都合二十余人、尋常に居並んで腹を切って死んだ。御所侍の上杉等も八人自害した。
この日、三好方死亡の者上下七十余人。一揆の寄手等も三十余人討たれた。
阿波御所(足利義維)も既に御腹を召されようとした所を、晴元方より使者が来て御刀を奪い参らせ、
人数多警護し奉って元の如く四条の道場へ送り入れ奉った。誠に危うきことであった。

さても細川晴元は、言う甲斐もない者共の讒言を信じて、老臣である三好元長を殺した事は、一家の衰運、
このような事が何事があろうか。例えて世の諺に言うならば、天竺に有ると聞く銘々鳥という鳥、胴は
一つで喙は二つ有り、二つの喙が互いに餌物を争い、一方がもう一方の喙を喰い伏せれば、残る喙も胴も
一度に倒れ死す。今晴元のやったことは、この鳥に異ならず、遠からず滅亡するであろうと、心有る人は
言い合った。

續應仁後記

三好元長の滅亡について



晴元の心の中、頼もしからぬ愚かさよ

2020年05月12日 23:31

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 22:14:15.02 ID:ZHTYZdfR
享禄4年(1531)、三好筑前守元長は無二の忠功にて一戦に勝利し、常桓禅門(細川高国)を滅ぼした(大物崩れ)。
これによって細川右京太夫晴元は一家(細川京兆家)を一統し、文武の政事を執り行い、乱世も漸く年を経て
静謐に成りゆくかと諸人安堵を成す所に、如何なる天魔の所業であろうか、晴元は未だ若輩にて、佞奸の者を
相近づけ。讒者の実否を糺さなかった故に、また兵乱の世と成ってしまったのだ。

それがどういう事かと言えば、今度降人と成って細川家へと来た木沢左京亮長政は、稀代の悪人にて、種々に
諂い取り入って、晴元の元で出頭し、その他の出頭人である三好神五郎、可竹斎などと相議して、
三好元長に野心が有ると晴元に讒言し、種々の秘計を廻らせたため、晴元は愚にして。それを真と心得、
元長を疑い憎んだ。しかしながら讃岐守之持(阿波守護。息子の細川持隆の間違い。以下持隆とする)は元長の
忠義を感じ、色々と晴元へ言い開き、この年の間は未だ勘気も無かった。

この事だけではなく、木沢長政は今は晴元の元で出頭して、細川家に於いて時めく故に、己の元の主人である
畠山上総介義英(これも息子の畠山義堯との間違い。以下義堯とする)を物の数とも思わず、毎時
無礼を尽くせし程に、義堯はこれを憤って遂に人数を率い陣立てして長政の居城、摂州飯森の要害(飯盛城)を
攻めんとした。元長の一族である三好遠江守(三好一秀か)等は、義堯に頼まれ寄せ手に加わった。
木沢は出陣したが一戦に打ち負け、引き返して飯盛城に立て籠もり晴元へ後詰(救援)を要請した。

晴元はこの時泉州堺に在ったが、一議にも及ばず長政に同心して、この時享禄四年の秋八月二十日、
多勢を率いて自身飯盛城への後詰めのために、摂州中島、三宝寺まで出勢して畠山と一戦し、百余人を
討ち取った。畠山義堯は軍に打ち負け飯盛城も攻めずして散々に引き退いたため、晴元はその跡を追って
三宝寺から富田庄まで攻め上った所に、細川持隆がまた様々に諫言して晴元の軍を留めた。このため
晴元は段々に承知して、富田庄より堺へ帰陣した。

畠山義堯は晴元の姉聟であるといい、然らば近き縁親であり、一方の大将である。そのような人を、
新参で降将である木沢長政に思い替えて、彼を贔屓にし義堯を討とうとした事は、謂れなき邪行である。
「晴元の心の中、頼もしからぬ愚かさよ。」と人々は皆彼から心を放した。

續應仁後記



山科本願寺陥落

2018年03月31日 20:16

証如   
644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 21:38:25.49 ID:RkTmXovu
享禄五年八月、改元があり天文となった。
この年、一揆が起こり、細川晴元の衆と本願寺門徒たちとの関係が悪化し、
同年八月四日、晴元衆及び木澤左京亮長政方へ、一揆方より街道にて喧嘩が仕掛けられ
合戦に及ぼうとした。

これによりその日、晴元衆は堺の東、浅香の道場という本願寺門徒の寺とその近郷に放火した。
門徒衆は激怒し、大和、河内、和泉、摂津にて一揆を語らい、一斉に蜂起し、明けて五日には
堺に押し寄せ晴元を攻めた。
しかしこれに木澤長政は「何ほどの事があるか!」と、自身で斬って出て

「狼藉なり雑人ばら!一人も逃すまじ!」

そう防戦し、散々に蹴散らしたため、一揆勢は打ち負け、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに
逃げ散った。
直接に戦った相手に打ち勝って、木澤は気分良く帰っていった。
しかしあちらこちらで一揆は蜂起し、晴元は窮地に陥った。

同日、摂津に一揆が起こり池田の城へ攻めかかったが、これを落とすことが出来ず講話して
帰陣した。

このような中、近江の六角定頼は晴元の舅であったので、彼に味方し門徒の本拠である
山科本願寺へ押し寄せ攻めかかった。長原太郎左衛門、進藤山城守、馬渕源左衛門、横山と
いった者たちが先陣にて進み、一方の門徒たちも、諸檀那と共に、命を弥陀の名号にかけ、
ここを先途と防ぎ戦った。

このような時に、常に本願寺門徒と関係の悪かった法華衆廿一箇寺、並びに諸檀那が合同で
決起し、本圀寺、本能寺、妙願寺以下残らず軍勢を催し寄せ手に加わり、山科本願寺へ
新手を入れ替え入れ替え切り込んだ。

こうして、同八月二十四日、山科本願寺は遂に陥落し、一宇も残らず焼き払われた。
この寺は久しく門徒の渇仰していた場所であったから、財宝も山のごとく満々とあったが、
富貴の下に久しく居ることは出来ず、いまや一時の煙と成って燃え上がった。
そして寺に有った僧尼も尽く討たれた、真に無残な事どもであった。

上人(本願寺証如)は命からがら落ち延びた。
(足利季世記)

山科本願寺陥落について


晴元は、浅謀である

2018年03月29日 16:46

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 14:47:11.06 ID:578kb+n9
大物崩れによる細川高国滅亡により、京兆家の家督は細川晴元に一統し、もはや混乱はないと
諸人喜びの思いでいたが、天魔の所業であろうか、晴元の出頭衆である可竹斎(三好宗三)、
三好神五郎、木澤左京亮(長政)と、三好筑前守元長との間が不快となり、出頭衆は
晴元に元長のことを様々に讒言したが、細川讃岐守殿(持隆)は、三好を無二の忠臣であると
考えており、晴元へ色々と仰せわけられ、御勘気を許されていた。

このような中、木沢長政は晴元に属し、旧主である畠山総州(義堯)に背き、事々に
無礼の事多かったため、畠山義堯は無念に思い、木澤の居城である飯盛を攻めた。
これに三好元長も、三好遠江守を派遣し合力した。

木澤は追い詰められ、腹を切ろうとしたが、晴元に注進が届き、晴元は三好宗三などと評定して、
この年の八月二十日、飯盛山救援のために軍勢を摂津国中島三宝寺まで進めた。
そして即座に畠山衆を攻め、畠山勢は攻め破られ散々となり、三好遠江守の軍勢も百人ばかり
討たれた。

しかし、この畠山義堯細川晴元の姉聟であり、三好は数代忠功の旧臣なのだ。
このような人々から、新参の出頭人である木澤に思い替えた晴元の心のほどは、浅謀であると
言えるだろう。

(足利季世記)


畠山長経は余りにも物荒い大将で

2012年04月06日 21:32

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/06(金) 15:00:18.29 ID:u+TG/TkE
天文10年(1541)8月、その頃河内高屋城にあった畠山長経は余りにも物荒い大将であり、家老達の言うことも
全く聞き入れようとしなかった。
そのため家中の者たちは毒を酒に入れて長経に進め、これを殺したという。

え?長経が言うことを聞こうとしたなかった家老って誰かって?

木沢長政・遊佐長教「私達ですが、何か?」

質の悪い連中に担がれた殿様の悲劇である。
(足利李世記)



558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/06(金) 15:26:17.67 ID:oYjeHFnB
この時代の近畿はカオスやな

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/06(金) 16:00:47.96 ID:u5iQrIXN
カオスじゃなかったところってどれくらいあるかな?

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/06(金) 18:48:36.18 ID:VNxRcHen
史料がろくに残ってないところかな

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/06(金) 18:57:22.91 ID:nZd5sPYw
能登の畠山さんとこの遊佐さんも・・・

多聞院日記より、天正大地震が起こって

2012年03月29日 21:30

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 22:53:29.34 ID:8QLVghF6
多聞院日記、天正13年(1585)7月5日記事より

『今日の未の刻、大地震が起こった。どうやら火神が動いたようである。
7月の地震は大兵乱の予兆だとされる。また、火神が動くのは中央に怪異が起こるとされ、
天子が亡くなり臣下が滅び、天下人民の多くが死ぬ、とされる大物怪である。

昔、木沢長政は信貴山に城を造り、久しく当国(大和)の闕所を知行していたが、
天文11年(1542)3月17日、不意に滅んでしまった。
その年は正月二十日巳の刻に大地震があった。

それ以来、地震は度々あったがあれほどの大地震は無かったのに、今日の地震は
あの時以来の、地上が滅びるかと思うほどの大地震であった。

今、秀吉は天下に号令し、その権力は昔に聞いたこともないほどである。
しかしそんな彼にも盛者必衰の時が至るのであろうか。沈思沈思。』


巨大な被害をもたらした天正大地震(ちなみにこれで、あの帰雲城が山崩れにより埋没した)に際し、
秀吉の政権の未来に暗雲を感じた、多聞院日記の記事である。





475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 23:38:22.63 ID:v9Q4YQIt
今回の地震で驕りに驕った東電が滅亡してほしい

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/28(水) 23:59:02.07 ID:1eu+jZPU
>>474
その11年後には慶長伏見地震が…

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 00:01:16.23 ID:WtWAhTqS
>>475
「反乱が怖い。天下普請(電気代値上げ)で各大名や百姓を消耗させて防ごう!」

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 01:11:43.81 ID:NKUa9wP3
その結果東電に徳政令(公的資金注入)と

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 08:17:30.60 ID:nlZg1RHl
>>474
未来に暗雲を感じる間も無くお亡くなりになってしまった内ヶ島さん…

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/29(木) 11:12:10.01 ID:saK180lJ
>>474
多聞院日記は出納と愚痴と怨み節で構成されているんじゃないかと
たまに思えてくる

畠山尚順挙兵秘話

2011年09月10日 22:26

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 19:37:01.06 ID:+aqI29u/
明応のころ、堺に菜屋という豪商があった。主人が朝鮮へ渡海して商売するほどの家だったが、その留守の間に
女房は間男と密通を重ねていた。

ある雪の夜、菜屋の女房を訪ねて来た男があった。間男が来たと思った女房は、使用人に言って自分の部屋まで
案内させると、みずから部屋の戸を開け、男の手を取った。部屋から漏れる明かりに照らし出されたその顔は、
間男のものでは無かった。

「わしは、そなたの亭主と懇意の者だ。ご亭主が帰って来たら、全て話してやろうか?」
「そ、そんな・・・金なら出します、どうか主人には!!」
しかし行商人姿の見知らぬ男は、女房の願いに承知せず、女房の部屋に上がり込んだ。


その後、主人が朝鮮から帰って来るとの報が入り、女房は家中の大掃除をさせた。自分でも主人の部屋の掃除など
していたが、そのうち菜屋の家宝である名笛が無くなっているのに気づいた。使用人たちにその事を聞くと、
「ああ、いつかの雪の夜に来た旦那様の知人とか言う男が、持って帰りました。」

女房は男を捜して会い、笛を返してくれるように頼んだ。
「何を言う。この笛を証拠に、そなたの密通のこと、詳細にご亭主に伝えてくれるわ。」

困った末に女房は、実父で同じく堺の豪商である臙脂屋(べにや)に相談した。娘の不始末が菜屋に知れたら、
最悪、娘の命に関わるばかりか、自分の堺衆への聞こえも悪い。やむを得ず、臙脂屋は男に会った。
「金でも物でも好きなだけ差し上げます。どうか、娘をお許しくだされ。」

「そうか。実はわしは今でこそ、このような行商人の姿をしているが、畠山政長公にお仕えしていた者だ。
政長公の遺児を奉じ、再起を図っておるが、金穀が不足しておる。臙脂屋どのの、お力を借りたい。」

大義名分を得た臙脂屋は、喜んで莫大な金穀を男に与えた。畠山尚順が紀伊で挙兵したのは、間もなくの事だった。
(応仁後記より)

菜屋の関係者によると男は「木沢」と名乗ったという。
畠山でKIZAWAというと、「あのお方」のパパとか親戚であらうか・・・




842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 21:05:02.14 ID:GZBZ0WZW
ああ、戦国5大長政の内の1人か

木沢さんの優しさ

2011年05月12日 00:00

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 12:32:12.97 ID:brVDimk9
木沢長政、13代将軍 足利義晴を警護』 
人物叢書の三好長慶が出典

大物崩れで活躍し細川京兆家を継いだ細川晴元の片腕となり
河内畠山総州家の家臣で河内・大和半国を牛耳る木沢長政さん。

彼の心の優しさは天にまで登る勢いなのは纏めにもある様に皆さんもご存じ
阿波守護代の三好元長と主君畠山義堯を一向宗・法華宗を使って成仏させ
その元長の嫡男、三好千熊丸の命を助けるように懇願した木沢さんの懐は河内国の広さを感じさせる。

その時期、三好政長という数寄者が無法の限りを尽くしており木沢さんは頭の痛い日々が続いていた。
そして木沢さんの縁者である塩川氏(大物崩れで死んだ細川高国方に属していた為)
に三好政長・池田信正・三好千熊丸が攻撃をかけたので木沢長政さんは、伊丹氏・三宅氏と共に足利将軍義晴公に
『流石にそれはやりすぎとちゃいまんやろか・・・』と訴えたが義晴公は華麗にスルーした。
摂津勢力図
晴元側:三好・池田・原田・茨木・波多野(木沢)
高国側:三宅・伊丹・塩川・瓦林・能勢(木沢)   FREE:木沢長政

つまり木沢さんは細川家臣でありながら敵方を庇ってしまったのである…

そして木沢さんが三宅・伊丹と組んで塩川氏の一庫城を後詰して政長・千熊丸軍を敗走させる事に成功する
これは千熊丸、後の三好長慶が野戦で唯一の敗退記録として記録され
長慶に唯一土を付けた木沢さんにとって誇らしい事この上ない。

その1541年の十一月十一日である、そんな木沢さんが足利将軍義晴公を警護するために上洛を果たしたのだが
そんな心やさしい木沢さんに対し足利義晴公の動きは残酷な物だった・・・
管領・細川晴元は29日に京都の岩倉に逃走
足利義晴公は30日、銀閣寺に逃走後、比叡山を越え近江の坂本に、木沢さんに全力で
お断りの姿勢を示したのである…。
その後伊丹・三宅・能勢は晴元側に河内では遊佐が反旗を翻し木沢包囲網が敷かれ、
戦国の謀君、木沢さんは最後を迎える。

不利な状況ながらも諦めない木沢さんの優しさがちょっとだけ滲み出ているホロリとくる話





567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 15:27:39.75 ID:brwS1LwW
べた褒めワロタ

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 19:41:16.68 ID:i/cJFJUp
>>566
> その元長の嫡男、三好千熊丸の命を助けるように懇願した木沢さんの懐は河内国の広さを感じさせる。

爆笑したwあんたそれ三好政長と対立してたから敵の敵である千熊丸を助けただけじゃないかw

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 20:21:01.45 ID:XSdc+v6L
>>568
わざと書いてるんだろ。なんたって河内の広さを対象にしてるんだから
しかし凝ろうとしたのはいいが文章として読み辛すぎるよ

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 20:28:00.18 ID:UT5FDcNb
前提知識無いと分かんないよね、キツイい方すると凝り過ぎて滑ってる。

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 22:33:34.96 ID:gmj0RpyU
お前らあんまりハードル上げないでん

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 22:40:19.81 ID:UT5FDcNb
いや、普通に書いてくれればいいんだってばw


574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 22:56:15.57 ID:XSdc+v6L
あとは無理やりいい話にしたてあげなくても良いのでは、と思います

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 01:05:46.07 ID:R4jsuRax
別にいいんでないのん。俺は凝ってれば凝ってるだけ楽しいぞ

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 21:44:01.38 ID:GUiT12rZ
>>570
>>571
すいません、文体もっと勉強します(´・ω・)
確かに畿内好きにしか解らない記号と皮肉を入れすぎてマニアックで解りにくかったかも。