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日置の夜合戦

2018年07月02日 18:38

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 17:32:24.99 ID:+lDXEXb7
蒲生氏郷が羽柴秀吉より勢州松島を拝領した頃は、伊勢に限らず諸国未だ静謐成らなず、
小牧・長久手の戦いが始まっていた。

氏郷は松島に入部すると、先ず領地の仕置を優先し日置へ押し寄せようという気持ちは全く無かったにも
関わらず、織田信雄の家臣である木造左衛門佐(長政)の支配する日置方面からは、氏郷の領内へ夜な夜な
人数が出て苅田などを行った。
氏郷はこれを聞くと「哀れ足長にも出てきたか。討ち果たしてやろう。」と、方々に物聞(見張り)を
置き、苅田をする者たちが侵入してくれば鉄砲を撃ち、これを合図に松島より出撃しこれを討つ決まりとし、
これにより度々侵入者を撃退した。この時、氏郷は早馬を以って真っ先に乗り懸かった。
これを見た木造長政は、謀略によって氏郷を討ち取ろうと工夫を考えた。

9月15日の夜、木造長政勢は氏郷の領分である会原という場所に侵入した。この時、木造の家中において
物頭をし、発言権を持つほどの兵は残らずこの会原周辺のよき場所に伏兵として起き、氏郷が駆けてくれば
即座に討ち取れる準備をさせ、あとはいつものように苅田をさせた。

これに蒲生の見張りが気づき鉄砲を撃って知らせ、この音を聞き松島より蒲生氏郷が駆けつけた。
その夜は月が冴えて、まるで日中のような明るさであったが、氏郷はそこに真っ先に駆けつけ、
その後に早馬を持つ兵たち7,8人が続いた。彼らが入ってくると伏兵たちが一斉に起き上がり、
氏郷たちを包囲し攻めた。この時は流石に危うく見えたが、氏郷は馬の達者でありその騎馬も逸物で、
四角八面に懸け破り、突き倒しては駆け回り、乗り散らし乗り返し、その戦いにおいて蒲生方の
外池長吉、黒川ノ西、田中新平などと言った者たちは散々に戦い討ち死にした。
小姓の姿であった外池孫左衛門という者は氏郷の矢面に立ち塞がり防戦した。
この時、氏郷の銀の鯰尾兜に銃弾3つが当たり、鎧にも傷数ヶ所があったが、その身には薄手すら
負っていなかった。

このようなうちに、氏郷勢が追々駆けつけ、騎馬のもの7,80騎となると、氏郷は敵の少ない所へ
そのまま馬を乗り入れ東西南北に懸け破り蹴散らし、敗北した者は手下に討ち取らせ自身は追い打ちをかけ
日置の城下まで追い詰め、木造家中にて物頭を勤める屈強の兵30余人、その他甲冑をつけた者36,
雑兵数多を討ち取り勝鬨を作り、日置の城下から10町ばかり引き取った場所に陣を取った。
これにより、木造長政は在城を諦め、翌日詫び言をし命を助けることで城より退去した。

世間において「日置の夜合戦」と呼ばれるのがこれである。

(蒲生氏鄕記)

敵の計略どおり単騎突撃してまんまと罠にハマったけれども特に何ということもない氏郷であった。



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:20:12.31 ID:rLUgrkrt
連邦のモビルスーツか

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:33:58.80 ID:rorhF+dI
え-、なにそのチート…

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:39:34.50 ID:AoEQtwek
秀吉「氏郷が活躍するのは珍しいことではないから」

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/03(火) 11:07:03.37 ID:MtOOE3S3
>>47
花の慶次かな?漫画のキャラみたいな活躍で草
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木造長政の警護

2018年02月23日 19:35

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/23(金) 19:23:08.02 ID:800FetQ9
福島正則が病死した時、その葬礼の場には、一町四方に木の柵を結い、四方に門を立て、
この警護には木造大膳(長政)、本多対馬両人の人数が当たった。
二町は木造の人数が受け持ち、彼の人数は長柄鑓をひしと立ち並べ、その次に控える
木造手前の侍たちは鑓を段々に飾り、その様子は殊の外見事であると、人々は褒め称えた。

残る二町は本多対馬の担当であったが、ここには長柄もなく、それぞれが自分の持ち鑓を装備し、
そのため長いもの短いものがバラバラであり、大変見苦しいと人々は悪しく申した。

日頃より木造大膳は、要らざる所に大気が過ぎ、そのため経済的に苦しく、御用の役には立たない、
などと謗られていたのだが、このことがあって以降、そういった悪口は止んだという、

(福島太夫殿御事)

正則から恥をかくほど叱られた木造長政さんですが、その正則の葬式にはこうして男を見せたというお話



福島正則、散々に叱りつけ

2018年02月22日 18:34

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 18:29:27.56 ID:7/fd5rz0
福島正則が安芸に入部して、広島城の普請のおり、正則は石垣の据え方が悪いと、近江坂本より雇った
穴太衆たちを叱りつけ、さらに石垣の普請を担当する、丹波、石見、久之丞といった者たちにも
「お前たち一人ひとりの首を切ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)と、散々に叱りつけた。

さらに気が治まらなかったのか、元織田秀信の家老であった木造大膳(長政)の持ち場へ行くと
「木造殿は岐阜中納言(秀信)をしたいままにあしらっていたというが、それは間違いだったようだ!」
そう罵り、散々に叱りつけ、それは朋輩たちに対しても恥ずかしくなるほどの叱り方で、木造大膳は
面目無く無念に思い、そのまま宿舎へ帰り

「只今このように主人より叱られた事、不覚である。もはや男として立つことも出来ない。
二万石の所領と軍役の人数をみな返納し、船にて上方へ退く所存である!」

そう言って支度を始めたところ、石見、丹波、久之丞その他組頭の衆がやってきて様々に異見し、
そうしてどうにか、留まることになったという。

(福島太夫殿御事)



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 18:45:54.29 ID:cwMgupbs
市松はほんと人間としての器が小さいな

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 19:11:38.00 ID:8gtNielT
さては、一杯引っかけてたな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/23(金) 14:28:14.95 ID:g1a5qSNi
のちの台風で石垣崩れたんでしょ、正則の一喝が無かったら天守崩落してたな

彼に使われる者、一人として強兵でない者はおらず

2017年12月20日 18:57

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 06:07:04.23 ID:QZLUeOTl
福島正則が士を愛した話はすこぶる多い。家老の木造大膳(長政)が
病気の時、正則は毎日行水して裃を身に着け、天照大神へ祈願をかけ、

「大膳をいま五年御助けおき下されば、代々神楽を献上します」という
願書を納めて、数十日精進したのだといわれている。

その愛情の深さは、この一事でも知ることができよう。また正則の兵の
強さもつまるところ彼が士心を得た故である。

彼に使われる者は一人として強兵でない者はおらず、一人として忠臣
でない者はいないというのは、当時すでに世に認められたところである。
この一事は他の諸将で決して及ぶ者がいなかったという。

かの伊奈図書(昭綱)の首所望も、思うにこの心より出たのであろう。

――『福島正則伝』


鑓を合わせなかった事

2014年10月31日 18:51

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/30(木) 21:50:34.54 ID:gQOwjDV4
関ヶ原の役、岐阜城攻めの際、岐阜中納言織田秀信の重臣である木造左衛門(長政)は勇戦し、
手勢10人ばかりで引き退いていたのを、東軍側よりただ一人、鑓を引っ提げ駆け来て声をかけた者があった

「私は福島正則の与力、川村伝右衛門である!返せ!返せ!」

そう挑発してくるのを、木造は顧みもせず静かに引いていたが、川村がしきりに呼びかけるため
木造も遂に怒り、馬を止め「憎き奴め!首を討ち落としてくれる!」と引き返そうとするのを、
家臣たちが強いて諫め、遂に城中に引き入り門戸を固めたため、川村も是非無く引き返した。

その後岐阜落城して木造は牢人したが、軍功の誉れ高い人物であったので諸家から招かれ、
その中の福島正則に、一万石で客分として抱えられた。

ある時、福島正則と木造左衛門が対談していた時、木造がふと問うた
「御家士の中に、川村伝右衛門という勇士はおられるでしょうか?」
正則はしばらく考え
「直参の侍にはそういう名前は無い。与力共の中にはいるだろうか?」
そう近習に申し付け調べさせたところ、早速この川村伝右衛門を呼び出した。

正則は川村を近くに招き、木造に「この者が川村伝右衛門である」と紹介した。
木造は川村に尋ねた
「いつぞやの岐阜での合戦において、私が引き上げていた時にただ一騎にて『返せ!返せ!』と
声をかけられたのは貴殿でしょうか?」

「いかにも、それは拙者です。さてはその時、引き退いていた大将は貴殿でしたか。」

それより互いに、その時の甲冑の毛色などを語り合った。
そうして木造は川村に言った

「あの時の貴殿の勇気、馬上に槍を取ってただ一人、衆に離れて進まれし有り様、その
天晴なる武者振りに、誠に一騎当千と見えました。
あの時貴殿と鑓を合わせなかった事は残念に思いましたが、合わせなかった故に、今対面することが
出来ました。」

川村はニッコリと笑って
「仰せのごとく、あの時鑓を合わせていたら、今対面することは出来なかったでしょう。」

その後、話も済んで川村が退出しようとするとき、正則は「しばし待て」と言いながら、筆を執って
川村に二千石の墨付を与え、さらに与力20騎を預けた。これに川村は感涙を押えながら退出した。

木造はさすが岐阜中納言の重臣ほどあって、川村をそれとは言わず昇進させたのだ。
人々はそう語り、皆感じ入った。

川村伝右衛門は福島家が滅びた後、細川越中守に三千石にて抱えられた。
この話は川村伝右衛門の分家である、松平丹後守家臣の川村某が語ったものである。

(明良洪範)




143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 01:27:43.44 ID:AwJxo9Wc
主君そっちのけで話し合ってる横でわくわくしてたんだろうなあ、このときの福島さん

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 01:35:55.07 ID:u6nUfvni
市松っつぁんは幸せ者だな、本当に愛すべきなんとやらた

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 02:09:00.23 ID:ddUVnLPA
酒の絡まない市松はほんといい奴だな

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 08:56:53.92 ID:Is14By4n
木造さん勢州軍記だと市松に2万石で召し抱えられてるね

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 17:40:02.46 ID:7QuXCc0r
これ市松さん直参の侍の名前全員分覚えてるってことだよな
市松さんすげー

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/04(火) 12:42:11.32 ID:Z0TOaDRV
福島の家での与力のは直参ではなく陪臣になるのですか?

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/04(火) 13:06:27.35 ID:d8QMzJsm
その直参じゃなくて、直参=御目見クラス。じゃね。江戸時代の用語的に。

福島正則家来、草野介惣

2013年05月31日 19:50

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 05:00:42.50 ID:fFrzY2w+
太夫殿(福島正則)の家来に、草野介惣という者があり、彼は太夫殿と同じ在所の者であって、
切米の扶持(所領がなくサラリーとして米が支給される)にて使っていた。
その後、太夫殿が安芸備後両国を拝領したときに、5人扶持30石を取らせた。

ある時、この草野介惣が太夫殿に目安を上げた。その内容は

『さて、最近になって御家に参った木造大膳(長政)殿には、莫大にも2万石が下されるそうです。
ところがこの介惣は伊予の頃からお仕えしているというのに、僅かの切米を頂いているだけです。
このため人は皆わたしの事を笑い、大変迷惑しております。』

これを読んだ太夫殿は殊の外ご機嫌で、大笑いされた。
その後噺の衆(御伽衆)と物語されている時に言われたことには

「あの介惣という奴は大の横着者でな、知行などくれてやれば百姓を痛めつけて年貢を取り倒すであろう。
だから小知すら取らせないのだ。

介惣の奴の顔に傷があるだろう?あれを皆は合戦で鑓を受けた傷だと思っているが、違うのだ。
あれは介惣の親がつき竿を持った時にな、間違えて介惣を突いてしまった痕なのだよ。

そんな介惣に、この間私は酒奉行を申し付けたのだが、あいつがまた殊の外に上戸でな、
酒蔵の酒を盗んで飲んでしまった。仕方がないからすぐに油奉行にさせたよ。」

と、笑いながら仰った。

しかしそうではあったが、介惣を10人扶持35石に加増してやったそうである。
(福島太夫殿御事)





743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 15:48:58.41 ID:qnPe9ukK
そのまま酒蔵の番をさせていた方が節酒になったのに・・・。

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 16:49:41.15 ID:bo2AiXbo
ついでに日本号も渡さずにすんだのに
宇喜多さんは仕送りなくなるけど

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 17:00:39.30 ID:bEx+Teev
福島家臣ってみんな扶持かと思ってたわ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 09:55:04.17 ID:S1DxjHp+
>>742
ソウスケじゃなくてスケソウってなんか言い難いなw

福島正則、石垣普請に激怒

2013年05月29日 19:52

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 05:11:58.06 ID:zYX3/DBl
福島正則が広島に入部し、新たに広島城の普請を行なっていた時のこと。
石垣の据え様が大変悪いと激怒し、坂本などから雇った穴太衆の者達を叱りつけ、また

「おのれら一人ひとりの首を斬ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)

と、丹波殿、石見殿、久之丞殿といった重臣の人々も散々に叱った。
そうして木造大膳(長政)(元織田秀信家老。関ヶ原後福島正則家臣に)の丁場に行き、
木造に

「木造殿は岐阜の中納言(秀信)の所で、したいままに応対されていたというのは、間違いだった
ようですな!」

と、散々に叱り、朋輩衆にも恥ずかしく思うほど叱りつけた。
これには木造大膳は面目なく、また無念に思い、そのまま宿舎に帰り

「今までこれほどまでに、主君から叱られた覚えはない!もはや男が立たない!
2万石の役儀と人数は残らずお返しする。私はここから船で上方に上る!」

と言って直ぐに支度を始めたが、先の丹波殿、石見殿、久之丞殿、その他普請の
組頭の衆が皆やって来て様々に意見したので、終には福島家に留まることになったそうである。
(福島太夫殿御事)