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徳川家康の腫れ物と本多重次

2023年01月08日 15:31

535 名前:530[sage] 投稿日:2023/01/07(土) 21:13:34.02 ID:RAPuE3SW
続武家閑談」から徳川家康の腫れ物と本多重次

権現様が腫れ物をわずらいになられた節、膿を出そうとはまぐりの貝殻でほられたが、かえって痛みが増した。
「外科を召し出せ」と命じられたところ、すぐさま本多作左衛門が長閑と申す唐人医者の薬を紹介した。
そこでその薬を取り寄せてつけてみたが、ひどくしみる薬であったためとりやめた。
しかし作左衛門は「その薬を塗られた上に灸をすえられますよう」と権現様に訴えたため、権現様は渋々その通りにされた。
灸をすえた直後はそれまでよりもひどい痛みであったが、しばらくすると腫れ物が内から破れて痛みも無くなった。
権現様は作左衛門に「おまえのおかげで命が助かった。
おまえは片眼で跛の醜男であるが、わしの意見にも逆らってでも、わしのために強く諫言するとは忠義なことである」
と感心なさったそうだ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-498.html
本多作左衛門と家康の腫れ物・いい話
こちらは同じ逸話だけど、内容はけっこう異なる



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本多飛騨守成重は、作左衛門重次の息である

2022年04月10日 16:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/10(日) 14:40:35.76 ID:HpImF3ZA
或る本によると、本多飛騨守成重は、作左衛門重次の息である。童名仙千代。成人して丹下と称した。

父重次が故あって上総国小原荘に籠居した時、成重も出仕を止められた。
関ヶ原御陣の時、御後に陣し、慶長十八年越前国丸岡の城を給わり、(松平)忠直朝臣に属した。

大阪夏の陣、五月七日に、一晩に合戦を始め、真田の陣を打ち破り、自ら敵二騎を斬って落とし、
大勢の敵を追い崩し、彼の部隊は首二百七十三を討ち取り、大手の城門を破って左の脇より大阪城に乗り込み、
ここかしこに火をかけ、首二十八を斬った。
手の者共で討たれたのは五人、疵を被ったのは七人であった。

元和九年、忠直朝臣配流の後に、再び将軍家に召され、慶安四年十二月に卒した。時に六十二歳であったという。

(新東鑑)

有名な本多重次の手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙」こと本多成重について。



【雑談】本多作左衛門について

2021年05月23日 17:33

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 19:19:57.14 ID:ZunKXDsZ
ところで。
このスレも結構スレ番が進んでるから
「太閤以下大名諸将列座の面前で鬼作左が家康公を面罵した話」なんてのは既出かな?

755 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/22(土) 22:12:26.33 ID:Y1tEqeiq
>>753
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9574.html?sp

これかな?

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 22:33:12.86 ID:RIuNtALQ
>>755
そう。これ、これ。
この話、好きなんだよなあ。
海千山千の筈の狸がどんな情けないツラをして諸将に言い訳(愚痴?)したのかとか、
或いは二人だけの時に悪口雑言罵詈讒謗を浴びせられた狸が黙っちゃうところとか、
想像すると微笑ましい。

なお、
この話は単体で嗤うに止めておきたい。
これとは別に作左の一徹な忠義っぷりの話も伝わっているが、
それと併せてこんな作左を長年そばに置いて処罰も解雇もしない君臣のあり方とか狸の懐の深さとか、
そこまで考えちゃうと単なる「いい話」になっちゃうんで注意されたい。

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/23(日) 08:53:56.70 ID:LB7x6Tpm
>>756
本多作左衛門と家康の腫れ物・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-498.html?sp
本多作左衛門と「人煎り釜」・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-470.html?sp

これらを見ると、口喧しながらも主人を思う兄貴か親父みたいな家臣なんだなぁと思う。実際歳の差もそんな感じだし。

本多作左衛門と鉄火・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-463.html?sp
かと思えば、主人の命で苛烈な火起請にも耐える。
最後は秀吉の面子のためにか蟄居させられるけど、本多重次は立派な武士だと思うよ。


今の時代に居たら近付きたくはないけど。

にしても、尾張のアニキは火起請(ケジメ)が好きだなぁ…

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/23(日) 18:12:15.58 ID:fuE1wE8z
>>756
おべっか使う部下よりはこういう人のほうが頼もしいんじゃないかな

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/23(日) 18:19:34.08 ID:0+04Hpa9
>>758
一見勇ましいけど現代的に置き換えて
本社の社長が来てる時にこんな事ぶちまけていく奴が居たら
幾ら本人が忠義心で言ってたとしてもいい加減にしろよおまえ…ってなると思うわ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/23(日) 21:58:25.48 ID:xDcC9ypJ
>>758
黒田長政「せやな」

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/23(日) 23:07:01.83 ID:e/DfGyyz
主君の正室の母親が見舞いという名目で来てるのに
宿舎の周りに薪積み上げるって
徳川の対外心象最悪にするのみならず
秀康の立場は悪くなるし、
後に秀忠人質に出す時同じことされても文句言えないわけで……

重次本人は”忠義”とやらを示せて気分がいいかもしれないが、
秀吉他との関係に細心の注意を払ってるであろう家康は堪ったもんじゃないと思うぞ

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/23(日) 23:46:46.89 ID:0+04Hpa9
あの蛮行ってまかり間違って大政所と旭姫に何かあったら
秀吉からの討伐令を受けて滅亡してたよな
結果的に何事も無かったから気骨の臣みたいに扱われるけど
ちょっとした情報伝達不備で何かあったら、と考えると…
これで徳川が滅亡してたら戦国1の不忠者扱いされてたかもな

763 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/24(月) 06:22:57.71 ID:ESwCAApa
徳川が最終的に勝ったからこそ大っぴらにできる話だよなあ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/24(月) 12:53:53.72 ID:1JkSQVpl
>>762
野戦で負けてるのに秀吉が勝てると思ってるのか?
お前はゲームでもして脳内夢想してろよ

765 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/24(月) 15:45:44.51 ID:rRGfJaZw
>>764
横槍すまんが、作佐が秀吉実母と妹のサツガイする前提条件として、京に登った家康のサツガイがある訳だけど、家康と上洛に付き従った武将が居ない上にこの時の秀吉の勢力図や動員能力差を考えたら死兵となった三河武士や同盟国北条の支援で簡単には徳川滅亡とまではいかないまでも、ほぼ滅亡に近い状況にはなると思うよ。

まぁ臣従に来てる大大名御一行様をヌッコロとか、それこそゲームでなきゃやらんと思うけどな。

765 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/24(月) 15:45:44.51 ID:rRGfJaZw
>>764
横槍すまんが、作佐が秀吉実母と妹のサツガイする前提条件として、京に登った家康のサツガイがある訳だけど、家康と上洛に付き従った武将が居ない上にこの時の秀吉の勢力図や動員能力差を考えたら死兵となった三河武士や同盟国北条の支援で簡単には徳川滅亡とまではいかないまでも、ほぼ滅亡に近い状況にはなると思うよ。

まぁ臣従に来てる大大名御一行様をヌッコロとか、それこそゲームでなきゃやらんと思うけどな。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/24(月) 21:10:15.64 ID:hsD/pFrc
これやね
https://i.imgur.com/WnKtVWh.jpg

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/24(月) 23:07:05.69 ID:WMP/L4pl
>>766
今川の城代が入ってたときは作左さん何してたの?って話になるな
つまりは江戸時代になって必要以上に顕彰された三河武士すごい噺

掛川開城

2018年12月28日 18:21

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 01:16:16.37 ID:pBe2OoRD
(掛川城の戦いの時)

掛川城中では朝比奈備中守泰能(泰朝)・小倉内蔵助資久らがとりどりに評議し、

「これまでは今川旧好の輩が馳せ集まり堅固に当城を持ち固めたが、今は遠江一円が徳川殿に帰服し、当城は兵糧が
次第に尽きて飢えに臨んでいる。これでは長く籠城は叶い難し。氏真は小田原に避けなさって北条を頼まれ、開運の
時節を計られるのがしかるべし」

と評議は一決した。しかしながら、氏真は疑念深く未だ決定しないので、小倉内蔵助は諸々に諫言した。折しも奥平
美濃守貞能も神君(徳川家康)を諫めて「氏真を許して御和睦なさり、早く遠江を平均なさるべし」と申すと、神君
はもとより御同意であった。

その時、今川方は朝比奈弥太郎泰勝(原注:子孫は今水府(水戸藩)に仕える)を使者として石川家成・酒井正親の
方まで和睦を申し請うて来た。(原注:『東遷基業』)奥平貞能は久野宗能・浅原主殿助と和睦を相計り、4月8日
に主殿助が御使者として城中に入り、小倉内蔵助と対面して仰せの旨を伝えて仰せ送られたことには、

「家康が幼年より今川義元の扶助を得ていた旧好は、今においてもどうして忘れることだろうか。家康に氏真を敵と
する心はない。如何せん氏真は讒佞を信じて私を仇とし、矛盾に及ばれたのでやむを得ず合戦に及んだが、まったく
もって本意ではない。只今のような状況では、遠江をも駿河と同じく武田信玄に奪われることだろう。速やかに駿河
を私に避けて渡されたならば、私はまた北条父子と相計って氏真を駿河へ還住させ申す」

内蔵助は大いに喜んで氏真を諫め、内蔵助が氏真の使者として双方誓詞を取り交わし御和睦は整ったので、内蔵助は
また小田原へ赴き、北条父子へこの由を告げた。よって北条からは北条助五郎氏規を氏真の迎えに掛川へ遣わした。

氏真は5月6日に掛川を出て掛塚の浦より船で小田原へ赴けば、神君からも松平紀伊守家忠をもって送らしめられて、
海路を守護させなされば、つつがなく伊豆戸倉に着岸した。今川・北条の者どもも「徳川殿は情けある大将かな」と
感心した。

これより掛川城は酒井左衛門尉(忠次)・石川伯耆守(数正)・本多作左衛門(重次)が受け取り守衛したが、同月
22日に神君が掛川に入りなさって軍士を饗応せられ、当城を石川日向守家成に賜った。

これより以前、(三河が)一円に御手に属した時、三河の国人を二組に分け、酒井左衛門尉とこの家成の両人に属せ
られて両人を左右の旗頭と定められたが、家成が当城を賜った後は旗頭を甥の伯耆守数正に譲って、自身は大久保・
大須賀・松井と同じく遊軍となり、本多広孝・本多忠勝・鳥居元忠・榊原康政らは御旗本を警衛した。

(原注:今川と御和睦の事は『武徳大成記』には今川より朝比奈泰勝が使者として申し越したとあり、『東遷基業』
も同じである。『家忠日記』には徳川家より御使者を小倉資久へ遣わされたとある。本文は両書を合わせ意を迎えて
綴ったものである)

この頃に石川に属したのは、西三河の松平源次郎直乗・松平宮内忠直・内藤弥次右衛門家長・平岩七之助親吉・鈴木
喜三郎重時・鈴木越中守重慶。(原注:『東遷基業』では、石川の組に酒井正親・鳥井平蔵・松平三蔵・松平信一を
加える。いずれが是であるかはわからない。よって両説を備える)

一方で酒井に属するは、東三河の松平右京亮親盛・松平内膳家清・松平源七郎康忠・松平玄蕃頭清宗・松平又七郎
家信・松平弥九郎景忠・設楽甚三郎貞通・菅沼新八郎定盈・西郷新太郎家員・松平丹波守康長・奥平美濃守貞能・
牧野新次郎康成。

この輩に加え、また石川伯耆守の弟・半三郎は猛勇の士であったため、先に攻め落とされた堀川を下され、その地に
土着して土人を主宰せしめなさる。よって気賀の徒は屏息して大いに恐れ、この後に一揆を起こす者はいなかった。
(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


教え方というものがある

2017年12月25日 16:31

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 09:42:05.44 ID:kXd3M8g5
三河において、壁書の条々を定められた時。百姓どもはこれを一向に用いなかった。
「如何したものか。」各々が対策を話し合った時、作左衛門重次はこのように言った

「土民はいろはですら、しっかりと知らない所に、硬い文言に古い言葉使いで高札を
立てたのだから、何を言われているのか解らないのだ。
教え方というものがある。私に任せられよ。」

そしていかにもまめに、いろはにて『何々のこと』と書き、『これを背くと作左が叱る』と
書き加えて出した。これ以降、国中の者達は法令を背かなくなったという。

(武野燭談)



537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 10:12:44.36 ID:fy+bl4gg
内容についてはこちらを参照
作左三カ条(まとめの7735)

別バージョン
本多作左衛門重次、しかる・いい話(まとめの59)

そういえば昔「さ」「く」「ざ」「が」「し」「か」「る」「ぞ」
をみんなが一文字ずつ書いて完成
してたな

『徳は善政に在り。善政は民を養うに在り』

2017年02月07日 15:26

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 20:41:30.36 ID:lRnEA01U
三州柏崎の百姓が、公事の不正を言い立てて訴訟に及んだが、終に負けとなった。
この時の町奉行は本多作左衛門重次であったが、この百姓「判決は依怙贔屓である」と、
方々にて悪口を吐き、あまつさえ落書などして誹謗した。

本多作左衛門はこれを聞いて、重ねてその公事人を呼び出し再審査を行ったが、
それでも判決は変わらず、今度は不正を言い立てたこの百姓を斬って捨てた。

その後、酒井河内守重忠が同じような公事を沙汰した。
公事の不正を言い立てて負けた百姓が散々悪口しているということを酒井は聞くと、
彼は地下人達を呼びつけ、どうしてそういう判決に至ったかを順々に説明し、敗訴した側にも
どこに非があったのかを言い聞かせ、得心するように理を解いた上で、悪口した百姓も
そのまま差し許した。

徳川家康はこの二つの裁判について、両人にその道理を尋ねた。
本多作左衛門は
「上を侵す者をそのまま差し置いては締まり無く、悪事も募りますから、毅然として申し付けました。」
と答えた。

一方酒井重忠
「こんな事で人を殺していたら、今後の奉行は必ず威を振るい、驕りが出てしまうでしょう。」
と答えた。

両人それぞれの政道であり、家康はこの事について、物を知る者に尋ねた。彼が申し上げるに
「上に逆らう者を刑罰するのは、定まった決まりですが、殺さずに治まることであれば、
殺すべきではありません。人を殺すというのは、やむを得ぬ上に行うものです。
尚書にも『徳は善政に在り。善政は民を養うに在り』と見えます。」

これを聞いて家康は、酒井重忠を一層大切に思ったとのことである。

(武野燭談)



595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 22:44:49.94 ID:tjUQOI5Q
>>592
>それでも判決は変わらず、今度は不正を言い立てたこの百姓を斬って捨てた。

さくざがしかる(物理)

どんなことを言われているか、どうか想像して下さい

2015年11月03日 17:53

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/02(月) 18:53:30.73 ID:rCRkRMqS
天正十八年三月二十日、小田原征伐のため東下した豊臣秀吉は、徳川家康の居城である駿府城へと入った。
この時、家康は長久保の陣より参って対面した。
秀吉の家来が数多並ぶ中、本多作左衛門重次が家康の後ろから現れ、立ちはだかって
大声で怒鳴った

「やあ殿よ殿、あっぱれ不思議をなされることよ!
国をも保とうとする人が、我が城を明け渡してしかも人に貸すことがあるか!?
そのような気では、人に貸せと言われれば、北の方をもお貸しなさることでしょう!」

そう罵って帰っていった。
家康は唖然とする人々のほうを向いて

「今の老人の言うことをお聞きに成られたでしょうが、あの老人は本多作左衛門重次といって、
この家康の累代の家人であり、私が幼い頃より仕えている者です。

彼は若い頃から弓矢打物を取っては人にも知られた者ですが、今では、ご覧になったように
歳もいたく寄りまして、私も不憫に思っているのですが、天性わがままな根性の持ち主にて、
他人を虫けらとも思わず、多くの人々が聞く所でも、あのように私を、事がましく言い立てるのです。
ましてや私が彼とただ二人でうち向かった時、どんなことを言われているか!どうか想像して下さい。

普段ならそれでも構わないのですが、どうしたわけか今日もあのような奇怪な振る舞いを
してしまうとは。これを人々がどのように思われるか、大変恥ずかしい事です。」

これに、その場の人々は
「本多作左衛門の事、久しく聞き及んではいたが、実際に見たのは今が初めてだ。誠に聞きしに勝るものかな。
あのような家臣がいるというのは、実に奥ゆかしいことだ。」
そのように感じ入ったという。

(藩翰譜)



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 08:46:08.44 ID:glgRbPNv
>>926
ちょっと悪い話じゃないのこれ
家康が恥かいちゃったんだろ

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 09:03:10.43 ID:zW7lJDMw
>>927
どう考えてもいい話だろ

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 09:44:46.42 ID:+0I1cAWu
調子こいてる太閤に主の代わりにガツンと言ってやったぜ
と捉えるか
天下一統の志を棄てて従順に振る舞う主に対する強烈な嫌味
と捉えるか

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 09:46:58.28 ID:tLSsGUMD
奥ゆかしいって悪い意味なのかい?

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 09:52:00.43 ID:IPdjQDCL
そもそも北の方、て作左が焼き殺そうとした秀吉の妹の朝日姫じゃん
て思ったら二ヶ月前に死んでた

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/05(木) 02:05:24.88 ID:Bra8mrhk
>>926
何かの小説では、
「殿!城内からサルのにおいがしますぞ!ああくさやくさや」
みたいなことを言ってたと思うんだが、原文ではそんなこと言ってないのか

作左三カ条

2013年07月20日 19:56

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 17:50:47.38 ID:HtKZ9df0
東照公が三州をお手に入れられた時、これまで今川領地の村々は
先代の事などで争い治まりかねない所もあった。

これによって本多作左衛門がやってきて制札を見た所、法度の箇条
が多くて内容も難しかったので、

一、人を殺すものは命が無いぞ
一、火をつけると火あぶりになるぞ
一、狼藉をすれば作左しかるぞ

と言う三カ条にして仮名文字へと書き改めた。
その後はよく治まったと言う

(古老物語)

作左が叱るの別バージョン




737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 18:09:53.27 ID:7Rhnmpwc
劉邦「法三章のみ」

違うのは傷害が火付けになってるとこか

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/20(土) 21:34:39.98 ID:x8GhauMr
>>735
わかりやすくていいな
法の抜け穴を探すまでもない簡潔さ

或本に、本多飛騨守成重は

2013年07月05日 20:01

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 18:24:48.86 ID:6IvEpCWo
或本に、本多飛騨守成重は作左衛門重次の子息なり。童名は仙千代丸(おせん)、
成人して丹下と称す。

父重次が訳あって上総国小原の荘に籠居した時、成重も出仕を止められた。

関ヶ原御陣の時には御後に陣を構え、慶長18年に越前国の丸岡の城を賜って
忠直朝臣に属せられる。

5月7日に、一番に合戦を始め、真田の陣を打ち破り、自ら敵2騎を切って落とし、
大勢の敵を追い崩し、首273を討ち取り、大手の城門を破って左の脇より
城に乗り込み、あちこちに火をかけて首28を切った。

手勢の者たちは討たれた者5人、傷を被る者7人であった。

元和9年、忠直朝臣が配流の後に再び将軍家に召され、慶安4卯年12月に卒す。
時に62歳なりと云々。

――『新東鑑』

実際の没年は正保4年で76歳。





三河三奉行

2013年05月01日 19:51

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 14:16:35.37 ID:ZEPS/1lc
永禄八年(1565)
三河一向宗問題も落ち着き、
東三河の今川氏の吉田城を攻め落としたことで、
徳川氏悲願の三河統一を果たしたときのこと。
家康公は民政にあたらすために、
岡崎に三奉行をおくことにした。
その三人というのが、
高力清長、本多重次、天野康景
この三人はそれぞれの気質から、
『仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野』
とそれぞれに異名がついていたのである




162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 15:05:54.48 ID:hDelicPc
「何方偏無し」か

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 22:14:44.51 ID:bwMuGTIT
前々から疑問だったんだけど、
天野康景の「どちへんなし」っていうのは、公正無私っていう解釈でおkなのかな?

>>158
帰参した善助さんがどれくらいの知行を貰ったのかが気になるw

164 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2013/05/01(水) 22:56:49.69 ID:AQh68GHL
「どっちつかず」とも取れる。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 22:59:08.37 ID:u3rwnvl2
仏でも鬼でもない
つまり外面如菩薩内面如夜叉

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 16:30:16.37 ID:adGYcaG/
葵徳川三代で津川家康が女官縛り上げながら興奮し能を舞うw

両人取り取りの政道である

2012年11月06日 19:59

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 19:33:52.32 ID:gMarZj1v
三河柏崎の百姓たちが、とある紛争における判決の非公事(敗訴)を不当だと言い立てて裁判で争ったが、
しかし負けてしまった。
この時の町奉行は、あの本多作左衛門重次であった。

百姓たちは敗訴に納得せず、勝訴した側への作左衛門の依怙贔屓であるとして方々で悪口を吐き、
あまつさえ落書までしてこの裁判を誹謗した。

本多作左衛門はこれを聞いて、再びその裁判における公事人(裁判関係者)を呼び出し、
再吟味を行ったが、やはり同じ判決となった。

そこで作左衛門、今度は非公事を言い立てた百姓たちを、全員斬って捨てた。


それから暫くして酒井河内守重忠が、これとほぼ同じような訴訟の奉行となった。
非公事を言い立て敗訴した百姓たちが散々悪口を言っている、とのことを重忠は聞いて、
再び裁判関係者を全員呼び出した。

そこで忠重は全員に対して、その判決に至った理由を順を追って説明し、非公事を言い立てた
者達にも、その理を言い聞かせ、得心するように理由を説明した上で、悪口をした百姓も
そのままにさし赦した。


この両裁判のことを聞いた徳川家康は、本多、酒井を呼び出し両人がどうしてそのような
処分をしたのか理由を聞いた。

本多作左衛門は
「上を犯すものをそのまま差し置いていては、秩序の締りが無くなり悪事が募るものです。
ですので毅然としてそう申し付けました。」
と答えた。

酒井河内守重忠は
「この様な裁判で人を殺してしまえば、以後奉行人は必ず事あるごとに威を振るい、
驕りが出てしまうものです。」
と答えた。

まさしく両人取り取りの政道である。

(武野燭談)






221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 20:07:50.02 ID:4R9zL7AU
似た状況って言っても、具体的にはそれぞれ別のことだし、
本多作左と酒井重忠のどちらが正しということはないんだろうな。
それにしても百姓が好きな事を言って、一度はその言い分を聞いてもらえるって社会は、なかなか良い社会だな。


225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 22:03:40.58 ID:sIbB3lqJ

>>220
ものすごくざっくり見れば作左と兼続やってること一緒なんだな
やっぱそっちのタイプの人間だな


227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 04:40:04.06 ID:TerQt6Ow
隣にいる人がテンション高いと逆に冷静になるってパターンでは

しかし徳川水軍の場合、本気で戦う時がたまに見られる

2012年01月27日 21:58

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 10:51:49.06 ID:pSDdBLVJ
東海道の水軍(織田・徳川・武田)は基本的に伊勢水軍系列なので、身内同士の戦いとなる
当然ながら、仲間内で本気にはならないので小競り合いが殆どであった

しかし徳川水軍の場合、本気で戦う時がたまに見られる
その時の指揮官は常に「本多重次」であった




896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 11:08:35.88 ID:HD992qgQ
さすが三河武士
全く空気を読まない

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 11:10:24.14 ID:PoJZ4VvT
煙たがられてたんだろうなw

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 15:10:02.55 ID:uIaqvim+
ほんま作左さんは…

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 15:23:33.34 ID:ehS28Uyg
困ったことに梶原景宗のような本職をもフルボッコにしてしまってもいるしな

向井正綱や旧今川→武田水軍の面々が優れていたとも言えるのだろうけど

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 17:16:23.76 ID:KWt9lrMn
あれは数があったからではなかったか

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/28(土) 16:38:23.41 ID:L7pgtpy6
北条家傘下の三浦半島の海賊衆は相模湾から江戸湾にかけてへばりついてて、
里見と親しい木更津水軍の連中と争ってたからね

大政所女房衆、鬼に会う

2011年03月11日 00:03

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 00:20:39.08 ID:NjN3kGqd
天正14年(1586)、豊臣秀吉徳川家康を上洛させるため、実母大政所を、家康に嫁いだ秀吉の妹朝日姫への
見舞いという名目で三河岡崎へと送ったこと、これは有名である。

さて、大政所の滞在する屋敷の側に、薪が山のように積まれさらに次々と運ばれていることに、大政所の
女房たちが気がついた。「あれはなんでしょう?」「一体何事でしょうかね?」
この段階では彼女たちにもあまり危機感はなかったようだが、気になるので端女に命じ、薪を積んでいる
下人の一人に接触させ酒など飲ませて心安くなり薪のことを聞き出させた。するとこの下人言うには

「いやいや、確かなことは私は何にも知りませんよ?ですが話に聞いたところでは、関白様が都で
我が国の殿様の命を奪われるか、もしくは抑留するような事になれば、今度京都より下られた、こちらのお屋敷に
いらっしゃるお方を、尽く焼き殺すための薪だとか言われて、本多様の下知であるからと、毎日山や林から
切り出しているのです。

この本多様というのがまた、極めて気の短い方で、『殿のお帰りが遅い!遅すぎる!』と待ちかね、
今朝には火をつけよう、晩には焼きたてようと仰っているのを、同じく留守居の井伊様や大久保様が
『いやいやいや!しばししばし、もうちょっと待ちましょう!』と今迄はどうにかお止めになっているのだそうです。
それにしても痛わしいこと。美しき京都の上臈衆が灰や土になってしまうなんて、なんと無残なことだろう。」

端女からこれを聞いて女房たちは、一瞬で恐慌を起こした!あまりにも思いもよらぬことだったからである。

「ああ、何ということでしょう!そういえばその本多という男、毎日ここに参って、恐ろしい声で
『家康の命によりここに付けられました。御用の事があればなんでも仰ってください。』
などと言っていたが…、そうだ思い出した!於義丸殿(のちの結城秀康)が人質として初めて参られたときに、
そのお共に仙千代丸という子どもがあったのを、関白殿下(秀吉)がご覧になって『あれは家康の家臣の、
三奉行とか言ううちの一人、鬼作左衛門という者の子じゃ』と仰せになっていた!

あの時は『鬼も子を生むのですね』『鬼の子とはどの様な者でしょう?』などと騒いで、物ごしに覗いたりした
ものでしたが…、あれがその親の鬼!本多作左衛門!!なるほど鬼なら、このような事するでしょう!

そういえばあの男、ここに来る度に『家康が帰国の途についたという御沙汰は聞いておりませんでしょうか?』と、
一昨日も言った、今朝も、昨日も言った!彼の待ち遠しさが限界を超えてしまったら!!」

女房たちは直ぐに大政所の所へ行き、「本多という男がこう言うことを企んでいます!どうか関白殿下に頼んで
家康殿を一刻も早く帰国させてください!」と泣いて訴え出た。大政所も大いに驚き「このような有様になっています」と
緊急に秀吉に伝えさせ、その甲斐あったか、程なく家康は帰国となり、大政所も帰京した。


さてさて、黙っていられないのが大政所の女房たちである。
彼女らは帰京するとすぐさま秀吉の前に出て涙を流しながら訴えた!

「あんなところにお母上様を下されるとは、なんと情けない事をされたのでしょう!
鬼本多という者が、かくかくしかじか、こんな事をしたのですよ!
いくらかつて争ったとは言え、今は御妹君たる朝日の姫様を参らせたまったのですから、家康殿にとっても
大政所様はお母上であると言うのに、いかに鬼だからと言って自分の主君も知らぬ間に、あんな事をして
良いものではありません!それに大政所様や私たちをあんな辛い目に合わせたのですから、
どうか、どうか徳川殿に仰って、あの本多と言う者にいかなりとも罪を与え、大政所様のお恨みを
お晴らし遊ばせてくださいませ!」

と、これを聞いた秀吉はいかにも愉快そうに笑い出し

「家康という男は、良い家臣をたくさん持っているものだ。わしも、そう言う家臣が欲しいものだな。」

とだけ言って、座を立って行ってしまったという。

有名な本多作左衛門重次の逸話、被害者(?)大政所女房の側の視点からのおはなし。




183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 00:23:19.82 ID:Z6B+vZPZ
女の言葉ってくどくて面白いなww
戦国時代の話にしては、事実の羅列でなく感情を伝えてくれる珍しい文章だw

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 00:34:20.99 ID:CQa5WnPi
一筆啓上 火の用心 殿殺したら 母燃やせ

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 00:35:41.06 ID:hlcASQoP
さくざはやっぱりいいなあ

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 01:12:01.83 ID:50sZjgfi
作左の乱行はいつものことだけど秀吉はさすがに大人っつーか、鷹揚としたもんだな

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 01:26:25.59 ID:nSdZJihR
最後に悲哀を感じるな。
作左の行動原理は、累代の家臣はこうあるべしという伝統と経験だろう。
秀吉には持ちようどころか、顔色を伺う連中ばかりだ。

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 03:29:21.94 ID:vrFzomZj
>>187
石田さんが必死にメモってるよ

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 05:21:22.33 ID:atpdVHqr
でもこの後蟄居処分なんだよね

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 05:44:11.43 ID:09N9qrQX
「家康という男は、良い家臣をたくさん持っているものだ。わしも、そう言う家臣が欲しいものだな。」

笑いながら内心ブチ切れてるから
やっぱ将になるには、感情を表に出すようじゃ駄目なんだよな・・

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 06:13:40.06 ID:dMxCO+7l
この件は秀吉はもちろん家康もぶちきれたという説もあるしなぁ。
めんどくさい云々じゃなく、ただの馬鹿だもの、この作左の行動って。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 06:30:05.39 ID:5UwazSvW
でも作左が蟄居したのって大政所が秀吉の元へ帰ってずっと後、
徳川の関東移封後だから処分にしてはだいぶルーズなんだよね。
小田原の役で戦功挙げたりしてるし。蟄居の体で隠居したって感じ。

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 10:56:49.50 ID:mauyQIj2
>>191
だって、一歩間違えたら徳川家そのものが地上から消滅していただろうからね。
この頃の秀吉なら実際に可能だったろうし、
道義的にも徳川に味方する大名はいないだろうし。

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 12:45:00.81 ID:yMicKBbw
天下人が出した人質、しかも実の親を焼き殺した

殲滅戦されても文句言えんわな。

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 12:50:39.29 ID:50sZjgfi
家康とのあそこまで屈辱的な和睦は絶対に避けられなかったのかな
確かに徳川・北条・長宗我部と四面が敵、毛利もどう転ぶかわからない危うい状況だったけど
政治的には織田家の実質的継承を果たし、京を押さえてるんだから朝廷を動かせばもう少し有利に戦えたと思うんだが

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 13:11:50.02 ID:iS7fQI7P
家康に土つけられるまで秀吉は本能寺以来、負け無し状態だったからね。


197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 13:30:32.69 ID:hYow5ZL2
神子田「あんな馬鹿げた策採用するからw」

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 13:35:58.59 ID:Z6B+vZPZ
勝って実を得るためであれば屈辱でも何でも耐えてみせるのは秀吉のすごいところだろ。
同じことは家康にも言えるけど

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 13:41:00.92 ID:mauyQIj2
>>195
徳川が一番御しやすくてメリットがあると考えたんでしょ。
おそらく三河者の面倒くさい性格を把握した上で
自分ならその気になれば徳川家を敵対出来ないようにさせる自信があったんだと思う。

ただ最初は武力で簡単に蹂躙できると踏んでたんだろう。
戦までの流れ、戦の後の流れ全て秀吉の思惑通りに進みすぎてるもの。

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 15:23:00.84 ID:5RMlYVLU
中入りが成功していたらどうなっていただろう。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 15:24:34.52 ID:eXMhb0ul
公の天下を取るは、大坂に在らずして関原に在り。関原に在らずして小牧に在り

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雑談・何この無駄な連携力w

2011年01月31日 00:00

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/29(土) 23:28:37 ID:hMx5wnvo


570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/29(土) 23:30:55 ID:hMx5wnvo
誤爆失礼

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/30(日) 00:16:12 ID:xRSqDpq0


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/30(日) 00:30:31 ID:toLUb0vv


573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/30(日) 00:44:52 ID:A16Wvp5r


574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/30(日) 00:51:06 ID:fxVtuhGE


575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/30(日) 00:54:28 ID:N9F3f4Xw


576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/30(日) 00:54:56 ID:4Emvb3Sd


577 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/30(日) 01:32:27 ID:hXY1ZQQc


578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/30(日) 02:27:14 ID:09VHSzYN
何この無駄な連携力w

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/30(日) 02:34:28 ID:0D/7hF+i
>>569-577
おい、おまえら!



大好きだ

本多作左衛門重次、しかる・いい話

2008年10月16日 00:48

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/09(水) 22:56:07 ID:7CyMyOiZ
三河時代の徳川家。
とある法令が守られず、当時徳川の名物と言われた三奉行、仏の高力清長、鬼の本多作左衛門重次、
どちへんなしの天野康景が会議を開いた。

高力「法令が厳しすぎて守れないのだ。もっと守りやすい法令に改めるべき」
天野「いや、むしろ罰則を厳しくして、法令を徹底させるべきだ」
じっと聞いていた作左衛門、触れ書きの板を持ってこさせおもむろにこう書いた

「まもらねば、さくざがしかる」

これを城下に掲示したとたん、法令は遵守されるようになった。




452 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/07/10(木) 18:21:55 ID:ZVTe9j0Q
>>445
サクザはその辺の民衆にも読みやすいように
法令の発表の際にはわかりやすい文体で平仮名で書いてたんだよな
甲が乙に~とかはやらなかったんだよな
単なる鬼ではない
隻眼片足で秀吉のおかん焼き殺そうとしたけどな