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「武家閑談」から越前少将忠直御事

2023年02月06日 19:59

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/04(土) 23:44:31.35 ID:HC5xTxLS
武家閑談」から越前少将忠直御事

松平忠直公は大坂城落城のとき、一番合戦で三千七百五十の首級をとられた。
家中の本多伊豆守富正の手は百七十三の首をとり、落合美作守の手は四十八の首をとった。
詮議の時、本多伊豆守は「首数は家中第一である」と自讚した。
そこへ落合美作守が近づき「わが手の首数は手前より多い」と相論した。
伊豆守は「われは百七十三、その方は四十八、どこが首数が多いのか」と言うと
落合「貴殿は七万五千石の身上で首数が百七十三、われは一万石の身上で四十八、計算してみたまえ、我の首数は貴殿の首数よりも多い」
御使者の諸星金右衛門はもとは武州松山浪人で、居眠りして柱に寄りかかっていたが、これを聞きくわっと眼を見開き
「美作の言うことがもっとも至極である」と言った。
伊豆守は閉口したがこの遺恨のため、美作を讒言し美作はその年浪人した。
美作はのちに紀伊大納言頼宣卿に召し出され、三百人扶持の役高で落合卜安といった。
これは江戸で浪人をしていた青木八郎左衛門から聞いた話だ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1544.html
こちらの話では讒言のために浪人、までは書いてなかったので



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片桐、勘気を免す

2022年04月03日 17:02

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 13:25:58.33 ID:PZfYpEcu
或る記(難波戦記)に、越前・松平忠直の家臣、片桐丹波守は先に忠直の勘気を受けていたのだが、
大坂夏の陣に際し、この陣に忍んで供をし先手に居た。
この姿を本多伊豆守(富正)が見て、忠直朝臣の前に来て言った

片桐丹波守の事ですが、今、忍んで御供仕り、御先手に加わって居ます。その気色は、今日を最期と
存じ極めた様子に見えます。
御勘気されたまま討ち死にを遂げてしまえば、冥土、黄泉の障りともなり、不憫な事に思います。
それを哀れに思い、御勘気を御免あらば、二世の思い出となると考えます。」

そう、涙を流して訴えると、少将(忠直)は「勘気を免すので、早々に召し出すべし。」と申された。

これにより使番の深澤長左衛門が乗り切って先へ通り、丹波守に斯くと申し渡すと、そのまま旗本へ来て、
馬より降りて兜を脱いで畏まり、しきりに落涙していた。
この姿を忠直朝臣が見られ、「片桐、勘気を免す」と申されると、片桐は頭を地に付け、一礼して
立ち上がったが、「今になって許すとは聞こえないことだ」(只今になり許すとは聞えざる事)と
思っているような気色でその場を退き、馬に乗って駆け出した。

しかし先手の鑓が始まると同時に、兜付きの高名(兜を付けた武者を討ち取ること)して、持参したという。

新東鑑

大坂夏の陣での越前家の一コマ



『当代記』より、越前騒動

2020年09月08日 18:06

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/08(火) 01:11:02.18 ID:wsCVZqJm
越前国の故三河守(結城)秀康が、去る慶長十二年に逝去した砌、家中の年寄七人が金子を隠取したと云われた。

そしてこの事、去年幕府より公事が申し付けられた折、この七人の内の岡部伊予と云う者、江戸へ下って
この事を言上する旨を相催し、美濃国大垣まで下ったところで、「これほどの事が上聞に達するのは如何か」と
当三河守(松平忠直)并びに家中の年寄達が人を遣わし、大垣にて追いつき、かの伊予を呼び帰した。

然れども当年(慶長十七年)、この公事が無事に落着すると、かの伊予は江戸に下り、また牧主殿(牧野主殿助)
と云う者も、あの七人の一人であったが、岡部と同道して江戸に下ると申していたが、どうしたわけか
高野山に直に登ったという。

十月十九日、かの七人の内の久世但馬という者が、屋敷を攻められ生害した。彼の息子は加賀国に有ったが、
この時駆けつけて、但馬と共に死んだ。また但馬の聟も駆けつけて同じく死し、その他、但馬の屋敷に於いて、
侍分百五十人が死んだ。中間小者は、悉く十八日の晩に逃げ出したという。
この時、久世但馬の屋敷を攻めたのは本多伊豆守(富正)であった。これも先の七人の一人であった。

これについて松平忠直は、先ず当座は宥し、忠直より人質を遣わし、本多伊豆の居城である府中に
かの人質を置き、伊豆は北の庄に参り登城した。
伊豆の人数の内、能き者共がこの時二十八人討ち死にした。手負いは四十人余りであったという。
その他寄手は、多賀屋(多賀谷泰経)の者共を始め、総じて二百ばかり討ち死にしたという。

同二十日、弓木左衛門(七人の一人である)が生害した。この屋敷に於いても寄手は三十人ばかり死んだ。
この弓木は、故秀康の時、知行方専一の用人であった。

同日、上田隼人(これも七人の一人)は寄手に理を云い送り、その身ばかり腹を切り、被官たちは屋敷から出した。
そのため寄手は心安く屋敷の中に入ったが、そこには隼人家臣の侍五、六人が留まり居て、寄手と戦い、
これによって寄手も討ち死にした。

今村掃部、□□(不明)兵庫、右の理を言上すべく、二十五、六日ころに北の庄を立ち東国へと下った。

当代記

当代記より、越前騒動(久世騒動)についての記事